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黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 7

32


――これは、――


誰もが絶望する状況さえも否定し、


希望の炎を胸に燃やし続けて闇の奥へと歩み続ける


とある少女の不屈の軌跡……


****************************************


 ほんのわずか目を離しただけだったが、ドニーはカイナとメルルの姿を見失っていた。

 林は狭く、すぐ山の斜面にぶつかったが、左右を見回してもふたりの姿がない。


 「おい、お嬢ちゃん。どこへ行った?」


 脚にからみつきそうな雑草をレトの剣で切り払いながら、ドニーはメルルを呼んだ。すると、すぐに「ドニーさん、こっちです」とメルルの声が返ってきた。


 声がしたのは左手側だ。ドニーがそこへ向かうと、斜面に大きな空洞が空いているのを見つけた。ドニーがそこをのぞくと、ひんやりとした風が頬を撫でていく。


……風穴ふうけつか?


 ドニーは奥に目をこらすと、奥からメルルが顔をのぞかせた。手には魔法で灯した炎が燃えている。


 「足もと気をつけてください。入口あたりは苔むしてて滑りやすいです」


 「ここは……洞窟なのか?」


 メルルは首を振る。「わかりません。下っているのは間違いないので、このまま進めば崖下まで降りられるようですが」


 ドニーも短く呪文を唱えると、片手に小さな炎を燃え上がらせた。炎の明かりをたよりに洞窟のなかへ踏み込む。


 「指輪の力は使わないんですか?」


 ドニーが炎を灯している姿を見てメルルが尋ねた。ドニーは小さく肩をすくめる。「『暗視眼ナイトビジョン』は使ったら簡単に解除できない。短い洞窟を通るだけなら炎の明かりで充分だ」


 メルルの言うとおり洞窟の入り口は苔で滑りやすくなっていたが、少し進むと固い地面を踏む感触に変わった。

 気が急いているのか、メルルはどんどん先へ進んでいく。洞窟はぐにゃぐにゃと曲がりくねっているので、メルルの姿が見えなくなってしまった。ただ、洞窟の奥に炎の赤い明かりが見えるので、メルルがどのあたりを進んでいるのかは簡単にわかった。

 風は絶え間なく吹き続けている。この様子だと、空気の問題はないだろう。ドニーは手に灯す魔法の炎の燃える感触に違和感を覚えた。


……火勢が強くなっている。魔法の炎の威力が上がっているのか?


 ドニーは洞窟内の空気を思いきり吸ってみた。


 「なるほど。ここは魔素が濃いんだ。風に含まれる魔素も濃厚だ」


 ドニーは納得すると先へ進んだ。かなり大きく曲がったところを抜けると、ようやくメルルの背中が見えた。メルルはドニーと同じように炎を片手でかかげて、洞窟を下っているところだった。


……たしかにこの洞窟は下っているようだな。あのカイナって子が言っていた『秘密の道』はこれのことか……


 ところどころ急なところはあるが、それで滑落事故になりそうなほど危険な箇所はない。大人たちが降りるのは無理だと主張する谷底へ、カイナが気軽に足を運べるわけだ。ドニーは洞窟のあちこちに明かりを向けながら思った。洞窟は絶えず吹き抜ける風のおかげか、じめじめした感覚はない。それでいて適度な湿度に保たれているようだ。


 「ここはどうやって見つけたの?」


 メルルは少し先を歩くカイナに声をかけた。カイナは暗い洞窟をものともしないしっかりした足取りで迷うことなく進んでいく。もう、このあたりの地形は完全に把握しているようだ。


 「ええっと、ポッチとかくれんぼしてたとき」

 カイナは振り返ることなく答えた。


 「いつもポッチくんと遊んでいるの?」


 「としが一緒なの、ポッチだけだから。少し前はもう少し同い年の友だちはいたんだけど……」

 そこから先は言われなくてもわかる。メルルは慌てて首を振った。

 「そ、そっか! ポッチくんと仲良しなんだね!」


 「……そうなのかな」

 カイナはぽつりとつぶやいた。これまでにない暗い声だ。メルルは首をかしげた。「カイナちゃん?」


 「ポッチ、最近わたしと遊んでくれないんだ。

 いつも大きな板切れとか探してきて、西の山に行っちゃうんだ。大人たちは西の山に行っちゃいけないって言うんだけど。ポッチは言うこと聞かないんだ。たぶん、ガンズおじちゃんのとこに行ってるんだと思うんだけど……」

 ガンズおじちゃん……。さっき、山道でカイナが言いかけていた元『まどしちゅう』のことか。

 「カイナちゃんはガンズおじちゃんのところに行ったことがないの?」

 メルルは確かめるつもりで尋ねた。カイナは小さく首を振る。

 「行ったことない。『連れてって』ってポッチに言ったんだけど、ポッチは『絶対ダメだ』って言って。何の遊びを始めたのか知らないんだけど、わたしを入れてくれないんだ。ガンズおじちゃんのところには一度しか行ったことがなくて、道はもう覚えてないから、あとで行くこともできないし……」

 カイナの声は寂しそうだった。おそらく、『討伐戦争』では同い年の友だちを失い、ただひとり残ったポッチという少年も、カイナを避けるようになった。あの村に子どもの姿がほとんど見られなかったから、カイナの寂しさも増しただろう。


 「話が盛り上がっているところ悪いが……」

 メルルの背後からドニーの声が飛んできた。「あとどれぐらいで出口なんだ?」


 「んー、わかんない」カイナの答えはある意味、明快だった。

 「でも、そんなにかかんないよ。今朝だって、お日さん昇ってから谷底へ行って、花摘んで帰ってすぐマッタおばさんとこ行ったんだもん」

 夜明けから谷底までを往復したと考えれば、片道1時間というところか。ドニーは頭のなかで計算した。ただ、降りることだけを考えればもう少し早く着くだろう。問題は帰りだ。ドニーはレトの生存は信じていなかったので、自分が遺体を背負って帰ることになると考えていた。カイナの説明が正しければ、1時間以上レトを背負って来た道を戻らなければならない。


……うーん、勢いでついてきたけど、それはめんどくさいなぁ……

 ドニーは少し後悔しながら洞窟内の観察を続けていた。洞窟は思っていた以上に広く、大人ひとり背負っても充分余裕のある広さだった。この洞窟を歩くのに、身をかがめたり、身体を真横に向けたりしなければならないような、天井の低いところや狭いところはなかった。面倒ではあるが、レトを運ぶのに大きな支障はないようだ。少なくとも今のところは。


 ドニーが口を挟んだせいか、それきりメルルはカイナと会話することがなくなった。カイナも誰かに声をかけるわけでなく、黙々と歩いている。少女の無言が先を急いでいるのだと感じさせた。


 それからも多少は歩きづらいところはあったものの、それほど困難を感じることもなく洞窟を降ることができた。どれほど歩いただろうか。いつの間にかドニーの耳に風の音に混じって『ざばざば』と水の流れる音も聞こえてきた。川の流れる音だ。谷底に近づいているのだと感じた。


 「出口が見えた。もうすぐだよ!」

 カイナが明るい声をあげた。3人が歩く先に、ぽっかりと丸い穴が見える。穴は明るく、カイナの言うとおり出口だと思われた。川の流れる音もそちらから聞こえてくる。


 「あれ、ここ……」

 メルルが驚いた声をあげて立ち止まった。

 ドニーはメルルの横に並ぶと、メルルが見つめているものに視線をやった。「ほう、これは……」


 メルルがかかげている炎が洞窟の壁を照らしているが、その光をきらきらと反射するものがあったのだ。それは黒いガラスのようなもので、水晶の結晶のような形をしていた。それが洞窟のあちらこちらに頭をのぞかせていたのだ。


 「黒水晶がこんなに!」メルルは少し呆然とした表情だ。

 「いや、違うな」ドニーは冷静な声で否定した。「お嬢ちゃん、こっちを見て見な」


 ドニーはすぐかたわらの壁を指さした。メルルがそこに目をやると、そこにも黒い水晶のようなものが生えている。ドニーは炎をかかげている手とは逆の手を伸ばした。そちらはレトの剣が握られている。


 ドニーは剣先で黒い塊をつついてみた。黒い塊は「パリン」とガラスが壊れるような音を立てて細かく弾けた。あとには何も残っていない。


 「魔素の結晶だよ」

 ドニーが説明した。

 「魔素の結晶?」


 「魔素って目に見えない空気みたいなものだから、結晶ができるなんて知らないだろうけど、魔素の濃いところでは、これみたいに結晶化することがある。でも、これはまったく安定化していないので、少し触れただけで粉々になってしまう。もし、魔素の結晶体を自由に持ち運びできたら、人間は魔素の薄いところでも大魔法を行使できるようになったろうな」

 「ガラスのように硬くできないんですか」

 メルルは残念そうにつぶやいた。


 「そもそも結晶化自体が珍しいんだ。君だってただの空気が結晶化するなんて普通思わないだろ? 魔素は空気みたいなものなんだから」

 「残念です」


 「お姉ちゃーん、置いてっちゃうよー」

 カイナが出口のあたりで大きく手を挙げている。メルルの表情が引き締まった。


 「行きましょう、ドニーさん」

 「そうだな」


 ふたりはカイナに続いて洞窟を出た。



33


 メルルは洞窟を出るなり立ち止まった。

 目の前を巨大な壁が迫っていたのだ。いや、正確にははるか高い絶壁が眼前に広がっているだけだったのだが、あまりの大きさに迫っているように感じられたのだ。


 3人が出たのは間違いなく谷底だった。少し先に川が流れているのが見えている。あまり大きな川ではない。しかし、この川は増水などを繰り返し、長い年月をかけてこの土地を切り裂いたのだ。2百メルテを超えるほどの深い谷を造った川なのだ。


 川の両岸には大小さまざまな岩が転がっていた。熊ほど巨大なものや一抱えできるほどのものなどだ。形はたいていが丸く、ごつごつしたものは見当たらない。洞窟を出たあたりは地面だったが、数歩進めば細かい丸石で覆われたものに変わった。


 「ここでお花摘んでるの」

 カイナは崖の下あたりを指さした。そこは小さな茂みになっていて、そこからいくつかの黄色い花が顔をのぞかせている。食堂で見たものと同じ黄スイセンだ。


 「思ったより簡単に降りられたな」ドニーはあたりを見渡した。「こんな道だったら、ほかの魔物も簡単に登っていきそうなものだが……」


 「カイナちゃん。ここはさっきの崖の真下になるの? だいぶ離れているの?」

 メルルは不安そうな表情でカイナに尋ねる。メルルは一番大きな岩の上であたりを見ていた。


 「んー、だいぶ村寄りだと思う。だから、お兄ちゃんが落ちたのはたぶん、こっち」

 カイナはぴょんと立っている岩から飛び降りると、小さく跳ねながら川下へと進みだした。岩混じりの砂利道なので、そうするしかないのだ。メルルとドニーもカイナと同じように岩の上を跳ねながら川下へ進んだ。


 しばらく進むと、カイナは急に足を止めた。メルルはカイナに追いついて隣に並んだ。

 「どうしたの?」

 メルルはカイナに問いかけたが、カイナが見つめているものに気づいて、メルルも立ちすくんだ。


 ふたりの目の前にはひときわ大きな岩が転がっていたが、その岩は真っ赤な血で覆われていたのだ。細かい肉片がこびりついているのが見える。しかし、何か形のわかるものはそこには見当たらない。


 「おい、どうした……?って、こりゃひどいな……」

 ドニーも追いついてふたりに声をかけたが、ふたりを立ち止まらせた光景を目にして顔をしかめた。


 ドニーは大きな岩に近い、別の岩によじ登った。その岩のほうが血に覆われた岩よりも高い位置にあったのだ。ドニーは上から岩の様子を観察した。

 「どうも、ここに落ちたようだな。すごいな。あまりに高いところから落ちると、生き物って木っ端みじんになってしまうんだ。まるで原型をとどめていない……」

 ドニーは天を仰いだ。レトたちが落ちたのは、はるか高いところだ。どのぐらいの高さなのか結局わからなかったが、『卵を思いきり地面に叩きつけたようなものか』とドニーは考えた。


 ドニーはふたたび岩の上を見下ろした。岩の上はただ血に染まっているだけで、どれがレトの肉体で、どれがライラプスのものか区別がつかない。ただ、この状態であれば、レトが屍霊化グールかして村を襲う心配はないだろう。ドニーはそう判断した。


 「お嬢ちゃん。残念だが引き返そう。こんな状態じゃ火葬もしてあげられない。レトの旦那はやっぱり助からなかったんだ」

 ドニーはメルルに話しかけたが、メルルに反応はない。メルルは両目を閉じ、じっと何かを考えているか、あるいは耳を澄ませているようだった。


 「お嬢ちゃん?」

 ドニーが心配顔で繰り返すと、メルルはパッと目を開いた。「あっちだ!」


 メルルは小さく声をあげると、血に染まった岩の脇を抜け、さらに川下へと走り出す。

 ドニーは驚いて目を見開いた。「どうしたんだ、いったい」


 「聞こえないんですか?」メルルは振り返らずに答えた。「アルキオネちゃんが呼んでいます!」


 メルルに指摘されて、ドニーはカラスの鳴いている声に気がついた。カラスの声はメルルが向かっている方向から聞こえる。


 「まさか、あのカラスが?」


 ドニーが駆けだすと、カイナもあとについて走り出した。


 耳を澄ませてみれば、カラスがどこかで「かぁ、かぁ」と鳴いている声が聞こえる。その声がアルキオネのものなのか、別のカラスのものなのか区別はつかない。しかし、メルルは確信を持った様子で崖の膨らんだところを回り込んだ。


 崖を回り込むと、ひとつの岩の上に誰かが仰向けで倒れているのが見えた。そのかたわらにカラスが1羽、大きく翼を広げて「かぁ、かぁ」と鳴いている。そのカラスはメルルの姿を認めると、「カァ!」とひときわ大きく鳴くと飛びあがって、翼をばたばたと羽ばたかせた。まるで「ここだ、ここだ」と言っているようだ。


 メルルが大急ぎで倒れている人物のそばへ駆け寄ると、その人物はレトで間違いなかった。レトは穏やかな表情で眠っているように見える。しかし、背中あたりから血が流れていた。レトの左腕を覆う白銀の鎧も、今は血に染まって朱色だった。


 「レトさん……」

 メルルはレトの横にひざまずくと、息の有無、心臓が動いているか次々と確認を始めた。


 ドニーは不安定な岩の上を走るのに苦労しながら、ようやくメルルのそばへたどり着いた。メルルの肩越しにレトの姿を見つけて目を丸くする。


 「お、おい……、レトの旦那じゃないか。どういうことだ? 五体そろっている!」


 「静かにしてください。回復呪文を唱えます」

 メルルは厳しい口調でドニーを黙らせると、両手をレトにかざして呪文を唱えだした。


 「回復魔法ヒーリングか。オレも手伝う」

 ドニーは真剣な表情に変わると、レトを挟むようにメルルと向かい合わせにひざまずき、同じように両手をかざす。


 「お兄ちゃん、助かるの?」

 カイナはおそるおそるメルルに尋ねる。さっきまで優しそうだったメルルに怖いものを感じているのだ。


 「大丈夫。助けます」メルルは両手をかざした姿勢のまま答えた。


 「カイナのお嬢ちゃん。ひとつ頼まれてくれないか」

 ドニーも両手をかざしたままカイナに話しかけた。

 「オレたちはレトの旦那の治療で手が離せない。村へ戻って、誰か大人をここに寄越してほしいんだ。数人はほしい。それと担架の用意もだ。レトの旦那をこんな岩の上に寝かせたまんまにしてられない。どこか安心して横になれる場所できちんと治療してやらなくちゃいけないんだ。

 君たちの秘密の道を大人たちにバラすことになって申し訳ないと思う。でも、これはひとの命がかかってるんだ。どうかわかってほしい」


 「い、いいよ。お兄ちゃんに助かってほしいもん」

 カイナは首を振りながら言った。ドニーはカイナに笑顔を向ける。「じゃ、頼んだ」


 カイナはくるりと向きを変えて駆け出した。カイナの姿はすぐに見えなくなった。


 「お嬢ちゃん、どうだ? レトの旦那の容体がわかるか?」

 カイナを見送ると、ドニーはメルルに尋ねた。メルルは暗い表情で首を振った。

 「正確にはわかりません。ですが、まずは出血を止めることを優先にしています!」


 「『造血』の魔法は使えないのか?」


 「私は回復術師じゃありません。私ができるのは、この回復魔法ヒーリングだけです」

 「オレと同じか。回復魔法の重ね掛けは有効だが、レトの旦那に効いているかわからないぞ。緊急性の高いところをふたりで魔法を集中させないか?」


 「たしかに、それが一番いい方法だと思います。でも、どこを?」


 「背中も気になるが、左腕からの出血がひどい。この鎧を外して左腕の具合をたしかめよう」

 ドニーはそう言いながら、すでにレトの左肩に手をかけている。


 「その鎧、外せますか?」

 メルルは不安そうな声をもらす。ドニーは額に汗を流しながらも、「大丈夫だ。魔法で外せないようにしているが、思ったより簡単な仕掛けで着脱できるものだ」と安心させるように答えた。


 ドニーはレトの肩を押さえながら、ゆっくりと鎧を外しにかかる。傷が深刻なものであれば、腕が千切れるかもしれない。ドニーは慎重に鎧を取り外した。


 レトは肩から腕にかけて血で真っ赤だった。皮膚のあちこちが破れて、そこから血が噴き出している。

……思ったとおり、左腕は重傷だったな……

 ドニーは心の内でつぶやきながらレトの腕全体を眺めた。


 「な、何だと……」


 ドニーの口から驚きの声が漏れる。メルルもドニーと同じものを見つめて蒼ざめていた。


 レトの左手は腕ほど損傷は見られなかった。しかし、彼らが驚いたのはその手があまりに『人間離れ』していたからだった。


 通常の人間の倍以上はある大きさで、肌の色は赤黒く、爪は獣のように鋭く尖り、太い血管が全体を覆うように浮き上がっていた。血管はどく、どく、と力強く脈打ち、まるでそれだけが別種の生き物であるかのようだ。魔物や魔族を見慣れていないふたりでも、これが人間以外の種によるものだということは明らかだった。


 「なんてことだ……」

 つぶやくドニーの声はうめき声に近かった。


 「旦那の手は魔族の手だったのか!」



34


 「魔族の手……」

 メルルは呆然とつぶやいた。信じられないという表情だ。


 ドニーはレトの腕に巻かれているものにも気づいた。「これは……アミュレットか」

 細い銀製の鎖に、赤く輝く宝石がぶら下がっている。


 「アミュレット? 首飾りのように見えますが」


 「首飾りだよ。それを腕に直接巻き付けてるんだ。腕輪に仕立て直す暇がなかったようだな」


 「このアミュレットを取り外したらどうなるんでしょうか?」


 「わからない。ただ、わざわざアミュレットをこの左手首に巻き付けてるんだ。これはあくまで推測だが、レトの旦那は何らかの呪いをかけられている。その呪いを封じるために、このアミュレットが使われてるんだ」


 「呪いを封じる……。レトさんは呪われていたんですか……」


 「お嬢ちゃん、崖の上でさっき、レトの旦那は『勇者の団』にいたって言ってたな」


 メルルはうなずいた。「ええ」


 「そのときに呪いを受けたとか言ってなかったのか? レトの旦那は」


 メルルは首を横に振った。「いいえ。そもそも、レトさんは『討伐戦争』でどこの誰と戦っていたのか詳しく話してくれませんでした。ただ、多くの魔族と戦った、としか……」


 ドニーは片手をレトの左手にかざす。すると、ふたりの手の間にバチバチと稲妻が走り、ドニーは慌てて手を引っ込めた。


 「とんでもねぇ魔力だ。しかも術式が表示されない。だが、間違いない。これは術式による変異だ。さっき触ってみてわかったが、この変異は今も進行しつつある」


 「術式……。本当に呪いなのですか?」


 今度はドニーが首を横に振る。

 「正直わからん。今までいろんな呪いを目にしたが、こんなのは初めてだ。術式の解析に手を付けられないほど強力なのは。だが、相手を確実に変異させようとする強い何かを感じる。レトの旦那にかけられたのが何かの魔族に変えちまう魔法だというなら、そりゃ呪いだと考えていいだろうな」


 「レトさんが魔族に……」


 「こんなゴツい手なんか見たことないね。一番特徴が似ているのはオーガってところだが、いや、まさか……、そんなはずはないよな……」

 「何です?」


 「いや、あとで話そう。それより治療だ。お嬢ちゃん、左腕に回復魔法の重ね掛けをするぞ」

 ドニーに言われてメルルは自分が魔法を使っていないことに気づいた。いつの間にか、かざしている両手から魔法の光が消えている。


 「あ、いけない! ドニーさん、お願いします!」

 メルルは両手の位置を直すと、呪文を唱え直した。


 それから、どれぐらい時間が経ったか。


 ふたりはレトを挟んで、無言で座り込んでいた。

 魔法の甲斐あって、レトの出血は止められた。血に染まった鎧は川の水で洗い、メルルが浄化の魔法で清めてからレトの左腕に戻された。

 表面的にはレトの治療を終えたが、レトは意識を取り戻さない。呼吸は落ち着いており、眠っているように思える。初め、アルキオネはふたりのそばでぎゃあぎゃあ喚いていたが、レトの治療が終わったと理解したのか、今はレトの隣でおとなしくしている。


 「たぶん、左腕で着地したんだ……」

 唐突にドニーが口を開いた。

 「着地までにどれだけ魔法を重ね掛けして強化したのかわからないがな。おそらく『衝撃波インパクト』で勢いを殺したりしたんだろうが、あの高さだからな。完全に相殺できなかったんだ。とはいえ、あのライラプスのようにぺっちゃんこにならなかったんだ。たいしたもんだよ、レトの旦那は」


 「でも本当に無茶です、レトさんは」メルルの頬には涙が光っていた。

 「あのやり方以外にカイナちゃんを助けられなかったとしても、です……」


 「同意見だ、オレも……」

 ドニーは呆れた顔つきでレトを見下ろした。

 「このひとは人助けに自分の安全を計算に入れてないみたいだ」


 「レトさんは自分を大切にしないひとなんです」メルルはつぶやいた。

 「今までも自分が一番危険な役割を引き受けたり、悪者に見られる役を買って出たり……。自分がそのことで損をしようと気にしないんです。私、今までもそういうところ心配してたんですが……」


 「めんどくさいひとだな、レトの旦那は」

 ドニーが苦笑を浮かべると、メルルも苦笑を浮かべた。「そうですね。そう思います」


 崖の影からがやがや騒ぐ声が聞こえると、まずカイナが姿を現し、続いて鎧を身に着けた男たちが姿を現した。クルトとレイ、それにホプトとネッドの姿も見える。ホプトとネッドは担架を抱えていた。


 「無事なのか?」

 メルルのたちのそばに寄ったクルトの第一声はこれだった。なんとも間が抜けている。ドニーは心の内で苦笑いを浮かべた。


 「今できる治療はすませました。でも、レトさんの意識は戻りません。戻らないんです……」

 メルルは苦しそうな顔でレトを見つめた。回復魔法しか使っていないが、メルルは自分の魔力を使い切っていた。それはドニーも同様で、ふたりは立ち上がる元気も失っていた。


 「そうか。頭を打ってるかもしれんしな」

 クルトはさらに見当外れのことを口にした。彼もライラプスが落ちた現場を見ている。もし、レトが頭を打ったのであれば、今こうして通常の形を維持できるはずがないと考えついていないのだ。

 ただ、レトが意識を取り戻さない状況を考えれば、クルトの見立てもあながち見当外れでもないかもしれない。

 「城へ運ぼう。頭を揺らさないよう慎重にな」

 クルトはついてきた部下たちに指示を出した。


 帰りは、レトを運ぶのはホプトとネッドが担当した。もともとドニーがレトを運ぶつもりだったが、魔力切れで歩くのも億劫な身体では困難だった。体力のある兵士に来てもらって本当によかった。ドニーは心からそう思った。頭部にダメージを与えないようにあの洞窟を通って運搬するという、いかにも体力の有無が問われることを自分ができるとはまったく思えないのだ。


 レトは長い時間をかけて城へ運び込まれた。その間、一度も目を覚まさなかった。メルルはかなり心配したが、医者は隣り村にしかいない。医者を呼びに行くのはかなり時間がかかる。簡単に呼べるものではない。

 それに……、レトの『左手』をほかの誰かに見られてしまう……。


 城には、回復魔法が使えるガッデスがいる。彼は医者のいないこの城で、回復役を担っていた。ガッデスは回復の協力を申し出てくれたが、メルルは自分たちで対応できるからと、礼を言いながらも断った。レトの左手のことさえなければ、回復魔法の協力どころか、医者の手配を頼みたいところだ。


 「こればっかりはレトの旦那の『運』を信じるしかないかな」

 ドニーは心配顔のメルルの頭に手を置いて言った。

 「あんなところから落ちたのに、五体そろって生き延びた『運』をな」


 ドニーはそう言ったが、本当だろうか。メルルは疑問だった。レトは『運』が強いとメルルが思った記憶はない。むしろ、厄介ごとに巻き込まれて苦労している場面ばかりが思い出される。


――不運に恵まれた男。――


 レトのことを表現するのであれば、これが一番しっくりするほどだ。

 その夜は、メルルはレトにつきっきりだった。メルルひとりだけではない。アルキオネもベッドわきに備えられたテーブルに陣取って、レトをじっと見つめ続けていた。


 夜半前にはフロレッタがロッタをともなって部屋を訪ねてきた。

 フロレッタも心配顔でレトの容体をいろいろ尋ねたが、メルルにたいしたことは答えられなかった。フロレッタはメルルに何度も頭を下げ、レトのことを頼んで部屋を出て行った。


 夜半を過ぎたころ、今度はドニーが部屋を訪ねてきた。

 「寝ずの番でもするつもりかい?」

 部屋に入るなり、ドニーはそう言った。メルルは答えなかったがそうするつもりだった。

 ドニーは近くの椅子を手にレトのベッドまで寄ると、その椅子にどっかと座った。

 「お嬢ちゃん、あまり根を詰めるなよ。若いときは睡眠をたっぷり取っておくもんだ」

 「ドニーさんだって若いじゃありませんか。たしかまだ20代でしたよね?」

 「26だ」ドニーは短く答えた。

 「だが、そんなことはどうでもいい。レトの旦那の様子を見る係は交代でしないか? お嬢ちゃんは先に休みなよ。交代の時間が来たら起こしてやるからさ」

 ドニーはそう言いながら片隅に据えられた長椅子を指さした。あそこで休めということだろう。


 「どうして、そこまでしてくれるんですか? ドニーさんには何の得もありませんよ」

 メルルは自分でも意地悪だなと思いつつもそんな言葉を吐き出していた。


 「損得じゃないね、たしかに。純粋にレトの旦那を心配しての話だ。それだけじゃダメかい?」

 それを聞いてメルルは自分の顔が熱くなるのを感じた。自分の態度が恥ずかしくなっていたのだ。

 「別に……、いいですけど……」

 メルルは自分の椅子に座った。ふたりはそのまま会話することなく時間だけが過ぎていった。


 「そろそろお嬢ちゃんは休んだらどうだい?」


 ドニーの声に、メルルはハッとして目を開いた。ほんのわずかだが眠りかけていたようだ。

 「い、いいです、私は。ど、ドニーさんこそ休んでください」


 「オレはまだ眠くない。でも、お嬢ちゃんは『おねむ』な感じじゃないか」

 図星だがメルルは折れなかった。

 「いいえ! ドニーさんこそ休んでください」


 「いや、君たちふたりとも部屋に戻って休んでくれ」


 ベッドから声が聞こえ、ふたりはそちらに顔を向けた。

 レトが仰向けのまま天井を見つめている。意識を取り戻したのだ。


 「レトさん!」

 メルルは小さく叫んだ。



35


 「かぁああ」

 アルキオネはすばやくレトの胸に飛び乗ると、レトに向かってくちばしを開いてみせた。

 「やぁアルキオネ。おはよう」


 「おはようの時間じゃないですよ、もう……」

 メルルは涙があふれそうになるのをこらえながら文句を言った。


 「たしかに、今は夜のようだね」

 レトは目だけを窓に向けてつぶやいた。「ところで、今は何時かな?」


 「午前2時を過ぎたあたりだ」ドニーが答えた。


 「午前2時……」レトは口のなかでつぶやいた。「そうか、僕は12時間も意識を失っていたのか」


 「何か、長く意識を失っていた的なことを言ってるけど」

 ドニーはレトのそばまで歩み寄りながら言った。

 「むしろ、永遠に意識が戻らないのが当たり前の状況だったんだぜ」


 「そうか。まぁそうだな。今回はちょっと下手な落ち方をした」

 レトはドニーの言葉に素直な答えを返している。皮肉を言ったつもりのドニーは、つまらなそうな顔になった。


 「そんなことより、レトさん! 意識ははっきりしていますか? 頭痛とか、どこか痛むところとかないですか?」

 メルルはドニーを押しのけると矢継ぎ早に質問をぶつける。レトは苦笑した。

 「いっぺんに質問するなよ。こっちは起きぬけなんだ。でも、まぁそうだな。調子は悪くないよ。左腕がけっこう痛むくらいかな」


 「骨は折れていなかったが左腕全体から血を噴き出していたぜ」

 ドニーが説明した。

 「で、お嬢ちゃんとふたりで回復魔法ヒーリングをかけまくって何とか傷を治したんだ」

 「そうか、ありが……。左腕全体から血……。ドニー。君は僕の鎧を外したのかい?」


 「そうだ」ドニーはうなずいた。


 「僕の左手を見たのか?」


 「そうだ」ドニーはふたたびうなずく。


 レトは身体を起こそうとした。メルルは慌ててレトの身体に手をかける。

 「身体を起こさないでください、レトさん!

 傷は治しましたが、完全じゃないんです。

 少なくとも今日一日は絶対安静にしてください!」


 レトはすぐに身体を横たえようとしなかった。じっとメルルの目を見つめる。「君も見たのか?」

 「はい……」メルルはレトの正視にたえられず目をそらした。


 レトはその様子を無言で見つめていたが、ゆっくりと身体を横たえた。「そうか、ふたりとも見たのか」


 「ごめんなさい……」メルルは小声で謝る。


 「何を謝る? そうしなければ僕の治療はできなかったんだろ。僕に君たちを叱る理由はない。でも、このことはあまり知られたくないんだ。君たち以外でこの手を見たのは?」


 「オレたちふたりだけだ。レトの旦那」

 「医者も見ていない?」

 「この城に医者はいない。ガッデスさんからは隣り村の医者に診察をお願いする協力を申し出てくれたが、丁重にお断りした」

 「そうか、ありがとう」


 短いやり取りで満足したのか、レトは横になったまま安心したように目をつむる。しかし、ふたたび目を開けた。「どうしたの? まだ休まないの?」

 ふたりが動こうとしないのを気にしたらしい。


 「……レトさん……」

 メルルは言いにくそうに口を開いた。

 「本当は、こんな状態のときに尋ねることではないとわかってるんですが……」


 レトは、ふうと小さくため息をついた。「この左手が気になるか……」

 メルルは頭を下げた。「ごめんなさい」

 「だから、謝らなくていいんだって。仲間である君にも秘密にしたのは悪いと思っている。でも、秘密を知ることで、君に責任が生じるのは避けたかった」


 「責任……?」


 「僕を殺す責任だ」


 「レトの旦那……」絶句するメルルの隣でドニーが声をあげた。「やはり、その手は……」


 「君は何の手なのかわかったのか、ドニー」


 ドニーはレト、そしてメルルと、順にふたりの顔を見つめた。ふたりの視線が自分に集中していることがわかると、ドニーは小さく咳払いをした。


 「もちろん、確信はない。初めて見るからね。でも、その手の形状は……」

 そこでドニーは一息入れた。「伝承で形容されているデーモン族のそれとかなり近い」


 「デーモン族……?」メルルは目を見張った。かつて存在した、この世界最強の魔族?


 「さすがだね、ドニー」レトは視線を天井に向けてつぶやいた。


 「教えてくれないか、レトの旦那。本当に、その左手はデーモン族の手なのか?」


 「そうだ」


 「そんな……。どうして、レトさんの左手がそんな姿に……」

 メルルは途中まで言いかけたが、そこで調子を変えた。「……『討伐戦争』……」


 レトは横になったままうなずくしぐさを見せた。

 「僕は『討伐戦争』で『勇者の団』の一員として戦っていた。

 最終決戦となったユグドラシル城での戦いでも、僕は最前線で戦った。

 最前線……。つまり、魔候アルタイルと直接戦ったんだ……」


 「魔候アルタイル?」

 これまで驚く表情を見せなかったドニーも、この言葉には驚きを隠せなかった。

 「まさか、その左手は……」


 「正確にはこれは呪いじゃない。ただ、詳細を教えるわけにいかない。あの戦いにはいろいろ事情が込み入っててね、僕たち元『勇者の団』団員は世間に言えない話があるんだよ。まぁ、この手のこともそのひとつだね」


 「呪いじゃないって言うが、それは術式によるものだろ?」


 「そうだ」レトはシーツから鎧に覆われた左腕を持ち上げた。

 「これは、人間をデーモン族に変異させる術式だ。この術式は今も生きていて、封印のアミュレットのおかげで変異の進行を止められている。もっとも、完全に止められているわけでもないようで、ほんのわずかだけど変異は進んでいる。この2年で前腕の半分まで変異してしまった。このまま進行すると、10年足らずで左腕すべてがデーモン族に置き換わる見込みだ」


 「やっぱり呪いじゃないか」ドニーは顔をしかめた。「化け物に変異する魔法が呪いでなくて何が呪いだよ」


 「そうかもしれない。でも、僕にとって『呪い』の定義がひとと違うかもしれない」


 メルルは首をかしげた。「呪いの定義?」


 「魔法が実在する世界では呪いは術式によるものと簡単に定義づけできそうだけど、もし、この世に魔法が存在しなくても呪いは存在すると思っているんだ」

 「ちょっと哲学的なことを言いだしてるね」ドニーはしかめ面のままつっこんだ。

 レトはちょっと笑顔を見せた。「まともに学校へ行ったことないんだ。哲学なんて高尚なこと考えていないよ」

 レトは真顔に戻ると、メルルたちに視線を向けた。

 「呪いそのものを分解して考えると、呪いには苦痛、怨嗟といった要素がすぐ思いつくけど、根本にあるのは『呪縛』なんだ。

 誰かを特定の状況に縛り付ける。それが呪いの本質だと思う。そこに苦痛とか伴うのはあくまで付随的なものだ。呪いに苦痛は絶対必要なものでもないんだ。

 そんなことを考えるのは、僕が剣を覚え、『勇者の団』に入団した経緯に関係がある。

 僕は少年時代、同い年の幼なじみを魔獣に殺された。僕の目の前で」


 メルルは少し背筋が伸びた。そのことは以前、ほかの者から聞いたことがあったのだ。


 「僕は苦しんだ。僕だけが助かったことに。逃げることしかできず、友だちを見殺しにしてしまったことに。

 だから、僕は剣を覚えることにした。ひとりでも魔獣と渡り合える力を手に入れるために。自分の目の前で魔獣に殺される者を出したくないために。

 僕はレンガを焼く職人の子として生まれた。通常であれば、そのままレンガを焼く技術を覚えて跡を継いだだろう。でも、あのときから、僕にそんな人生の選択はあり得なかった。戦い、守る。それ以外の生き方は考えられなくなったんだ」


 「それがレトの旦那にとっての呪縛。呪いだってことか……」


 「この左手はその呪縛の延長にあるんだ」

 レトは鎧に包まれた左手を目の前で握ったり、開いたりしながらつぶやいた。

 「あの戦いで、僕の左手はこんな姿になった。でも、すべてが悪い方向に進んだわけでもないんだ。

 なにせ、この左手は通常の人間より3倍以上の力が出せるし、大量の魔力を貯めることもできる。実は、僕自身に魔力はない。いくら魔法を覚えても、行使できるのは魔素に満ちた場所、たとえば『ミュルクヴィズの森』のようなところ限定でね、魔素の力を借りてようやく人並みの魔法が使える。それが、左手が変異する前の僕だったんだ。

 この左手がなければ、僕は魔法が使えない、どこにでもいる剣士なんだ。

 それに、肉体は変異していないが、耐久力も高まっている。今回の大ケガも、おそらく常人の何倍ものスピードで回復するよ。ひょっとしたら、明日には普通に歩けるようになっているかもしれないね」

 「いや、さすがにそれはないだろ。回復呪文がなけりゃ、旦那は失血死するところだったんだぜ。旦那の身体は常人のそれだよ」ドニーがツッコみ気味に否定した。


 メルルはこれまで、レトが呪文を唱えずに魔法が使えた理由を、その技量が高いせいだと思っていた。

 しかし、それが魔族の手によるものだとすれば、いくつか生じていた疑問もすべて理解できる。

 レトは土属性の人間だ。もともとの職業から見れば、その属性はらしいと思える。しかし、レトが使用する魔法に土属性のものが見られない。その一方で上級者にしか扱えない無属性魔法などを得意としている。逆に、どの属性の者でも多少は使えるはずの聖属性の魔法、『回復魔法ヒーリング』が使用できない。それは、レトの左手が対極の魔属性であるからだろう。呪文を唱えずに魔法が行使できるのも、魔族の力によるものであれば当然のことだ。


 「王国からはこの左手を治す約束をしてもらっている。引き換えに、僕は王国のために探偵として働いているというわけだ。この左手の力も使ってね。

 ただし、左手を治す前に、僕が魔族に変異してしまったら、僕は討伐対象として殺される。監視がつかない形で自由に行動できるのは、ルチウス王太子殿下の厚意によるものだ。その取り計らいがなかったら、牢獄に閉じ込められるか、すでに殺されていただろう」


 「王太子殿下はご存知なのですね? レトさんの秘密を」

 メルルは緊張した表情で尋ねた。レトの秘密は個人的なものだけでなく、王国のものでもあることがわかったのだ。


 「むしろ、一番知っている」

 レトは苦笑しながら言った。もし、ルチウス王太子が『仮面の剣士ルッチ』として、ちょくちょく探偵事務所に現れているなどとメルルが知ったら、彼女はどんな顔をするのだろう?


 「そうか。だから、秘密を知れば、レトの旦那を殺す責任が生まれるってわけか」

 ドニーは納得したようだった。

 「今では絶滅したとされる伝説級のモンスター、デーモン族に変異するかもしれない人間を野放しにするなんて、世間が知れば大ごとだ。もし、レトの旦那が完全にデーモン族になって暴れ出したら、その被害は『討伐戦争』の犠牲者並みになるかもしれないんだ。

 それを秘密にするなんてことは、万が一のときの責任が生じる……。当たり前の話だな」

 そこでドニーは腕を組んだ。

 「しかし、王太子殿下はバカなのか器がでかすぎるのか見当つかないな。

 施政者であれば、レトの旦那をそのままになんてしやしないだろ。レトの旦那は生きているだけで『リスク』なんだぜ」


 「ドニーさん、そんな言い方って……」

 メルルがたしなめようとすると、レトは「そのとおりだ」と言ってメルルをさえぎった。


 「だからこそ、僕は少なくとも左手の問題が解決するまでは、どんな理由であれ王国側の人間として働く。呪縛の延長というのは、そういうことだ」

 「たとえ、王国の犬と言われても」

 「王国の犬に徹するだけさ」


 そこで、3人の間に無言の時間が流れた。それぞれ心の内で考えることは異なるものの、どこか発言できないと感じているのは同じだった。



36


 長い沈黙を破ったのはレトだった。

 「ところで、君たちは僕の秘密を知ったわけだけど、どうする? 僕を殺すかい?」


 「殺すなんて、そんな!」

 メルルはいい返そうとしたが、ドニーが手を挙げて遮った。

 「聞かなかったというわけにいかないかな。少なくともオレは」

 「ドニーさん……」メルルは暗い目でドニーを見つめる。

 「今のオレはレトの旦那が必要だ。殺すなんてとんでもないね。でも、その、万が一の事態が起きたとき、オレが伝説級のモンスターと戦えるわけないじゃない。そのときには逃げさせてほしいね。オレに卑怯者をさせてもらえないかな」


 「たしかに、君に責任を負わせられないね。でも今だったら、僕を殺すのは簡単じゃないかな。だいぶ回復している感覚はあるけど、それでも剣をとって戦えるほどじゃない」


 「よく言うよ、レトの旦那。そんなこと言っても、あんた自身に死ぬ気がまるでないじゃないか。あんたの目は死を覚悟した目じゃないぜ。最期まで戦おうとする戦士の目だ。戦争どころか魔物狩りすら経験してないオレが敵うわけないじゃないか」


 ドニーは親指の先をベッドのわきに向けた。

 「それに、レトの旦那を殺そうとしたら、そちらさんが黙っちゃいないようだ」


 ドニーが指した先にはアルキオネの姿があった。アルキオネはサイドテーブルの上に立っていた。無言だが、すぐにでも飛びかかれるよう少し翼を広げかけている。首の位置を低くしている姿勢は、今にも獲物にとびかかる獣を連想させた。


 「アルキオネ……。やれやれ」

 レトは頭を深く沈めてため息をついた。


 「さっき、レトの旦那は『剣をとって』と言ってたな。返すよ。崖の上に放り投げていたからな。オレが拾っておいた。鞘はレトの旦那の腰から勝手に取っていたけどな」

 ドニーはそう言いながら床から剣を拾い上げた。レトが使っている剣だ。ドニーは鞘の部分を握って、レトの胸の上にそっと置いた。一瞬、アルキオネが翼を広げて威嚇したが、レトが片手を挙げて制した。


 「まぁ、ここまで秘密を話してくれたんだ。この剣についても聞いていいか? この剣は魔族が打った剣だよな?」


 「いい鑑定スキルを持っているね。そうだよ。これは魔国で造られた剣だ」


 「市場に出せば数百万はするシロモノだぜ。こんな剣をあっさりと放り投げるなんてよくできるな」

 「あのときは仕方がなかった。ライラプスと対峙したとき、やつは僕の背後にいた女の子ばかりを狙っていた。僕の動き次第で彼女が殺されるかどうかが決まる状況だった。

 とは言え、魔獣の動きを完全に読むなんてできない。そこで、僕は大まかに3つの対応策を立てた。正確には、僕が魔法攻撃を仕掛けたあとのライラプスの行動を3つに絞って考えたんだ」

 「魔法攻撃って、『衝撃波インパクト』の魔法を放ったときのことか?」

 「そう。あの攻撃に対して、

 ひとつ目。ライラプスが標的を僕に変更して飛び掛かった場合。

 ふたつ目。僕の脇を抜けて女の子を襲おうとした場合。

 みっつ目。そのいずれでもない場合。以上の3つだ。

 もし、標的を僕に変更して襲ってきたら、わざわざ攻める必要がない。その場で待ち構えて、ありがたく急所の首を斬るつもりだった。こちらの牽制に乗らず、女の子に襲いかかった場合なら、ライラプスが通るコースは絞られる。そうなるように位置関係を調整していたから。反射的に剣をつき出せば勝手に刺さると思っていた。もし、こちらの魔法攻撃で逃げ出すならよし、まったく別の者に標的を変えて襲っていったら、背後からもう一度『衝撃波インパクト』を見舞って、動きを封じて仕留めるつもりだった。

 結果は『それでも女の子を狙う』だったから、ふたつ目の策で対応したわけだけど」

 「ちょ、ちょっと待て。あの一瞬で、そんなことを考えて魔法を放っていたのか?」

 「そうだよ」

 ドニーは呆れた表情でレトの顔を見つめた。あまりに流れるような動きだったので、ドニーの目にはカイナを囮に、ライラプスを誘って攻撃したように見えていた。レトは非情な戦いをするやつだと思っていた。真意を聞いてみればまったく違う。レトはほんの一瞬の間にいくつもの対応策を組み立てて行動していたのだ。時間をかければ同じことは考えられるだろう。だが、レトはあの切迫した状況で、一瞬のうちに考えをまとめていたのである。


……こりゃ、王太子が手駒として欲しがるわけだ。魔族化のリスクを負ってでもレトの旦那を味方に引き入れたのは、そういう資質からか。


 「その説明だと、カイナちゃんが落ちそうになったのは計算外だったわけだ。それがあの変な姿勢でカイナちゃんをかばった行動になるのか」


 「さっき説明したけど、僕の左手は常人の3倍以上の握力がある。空いた左手であの子の腕をつかんだら握りつぶす危険があった。それで右手から剣を放し、その手であの子をつかんで投げたんだ」

 「カイナちゃんは助かったが、レトの旦那は空中に飛び出す形になってしまった。あれは落ちても助かる目算が立っていたのか?」

 「うーん、そう言われるとそうだと言い切れない。たしかに高いところから飛び降りたことはある。今回もその時と同じように『衝撃波インパクト』で落下の勢いを殺そうとしたんだけど、以前と倍以上の高さから落ちた経験がなくてね、勢いを完全に相殺できなかった。岩に激突したとき、死んだかなと思ったよ」


……人間の身体能力には限界がある。あの状況であの子を救う方法は正直なかった。それも一瞬の判断であの子を助ける奇跡を見せた。しかも、左手を使えば相手にケガさせることも配慮したうえで。でたらめなぐらい高い判断能力だ。でも……。

 ドニーが口を開きかけると、

 「レトさんは自分のことになると全然後回しじゃないですか!」

 メルルがドニーの言いたいことを代わりに叫んだ。メルルの目から涙があふれている。


 「そうやって、自分のことになると無頓着で。いつもは計算高く、周りの思惑も翻弄して、自分が有利になるよう立ち回ることもできるじゃないですか。それなのに、他人が不幸になりそうだったり、身の危険が絡んだりすると、まるで考えなしになって……。どんだけ心配させるつもりですか!」


 「僕だって自分の命を大事に思っている」

 レトは小声で反論した。

 「今は死ねない。死ぬわけにいかない。そう思って生きている。僕には生きなければならない理由がある」

 「それは自分のためですか?」メルルは冷たい声をレトにぶつけた。

 その声の冷たさに、レトは反射的にメルルの顔に視線を向けた。

 メルルはあふれる涙を拭おうともせず、まっすぐな瞳をレトに向けている。その表情は怒っているようであり、同時に悲しんでいるようにも見えた。

 「今の言い方、まるで誰かのために生きているように聞こえます。レトさんは生きる理由まで他人優先なのですか?」

 レトは思わずかたわらのアルキオネに視線を向けた。

 アルキオネもまたレトを見つめていた。静かに、何の感情も見せずに。もっともカラスの表情や感情を読み取れるはずもないのだが。


 「僕はたぶん、わがままな人間だ」

 レトは天井に視線を戻しながら言った。

 「僕は、僕にかかわるすべての者も僕のための存在なんだと思っている。

 そんな僕が他人のために身体を張るのは自分のためでもあるわけだ。結局、僕は自分大事の人間だよ。僕に他助の精神は薄いね」


 メルルは一瞬表情を強張らせてうつむいた。涙がポタポタ絨毯の上に落ちる。やがて顔をあげたメルルの顔は冷静だが、目には怒りの表情が浮かんでいた。


 「そうですか、わかりました。じゃ、私たちは自分の部屋で休むことにします。レトさんは今日一日は絶対にベッドから出ないでくださいね。そうやって自分を『大事に』してください!」

 そう言い放って勢いよく立ち上がる。


 メルルは身体の向きを変えるとスタスタと歩いて部屋から出て行ってしまった。ドニーは途中から呆気にとられて、それまでの光景を見ているだけだったが、メルルが扉を閉める「バタン」という音で我に返った。


 ドニーも慌てて立ち上がると、「じゃ、レトの旦那。オレも出て行くわ。ほんと、身体を労わってくれよ」と言い残し、部屋から飛び出していった。


 レトは無言で天井を見つめていたが、「僕にはその態度で充分だ……」とつぶやいて目を閉じた。



37


 メルルは自分にあてがわれた部屋へ戻ると、フラフラした足取りでベッドに向かった。ベッドに着くと、どたんとうつ伏せに倒れこんだ。帽子がずれて頭のわきに落ちると、うつぶせのまま帽子を拾い、頭を覆い隠すようにして被った。


 「やっ……ちゃっ……た……」


 さっきは感情がぐちゃぐちゃになって何が言いたいのかわからなくなっていた。だから、あんな、本当は思ってもいない、言いたくもない言葉を吐きつけてしまった。


 メルルは帽子を頭に押さえつけた格好のまま両足をバタバタさせる。「もう、私って、私って……!」


……なんてバカなんだろう!


……ああ、嫌だ、嫌だ、こんな自分。自己嫌悪で押しつぶされそうだ。いや、いっそ押しつぶしてくれたほうがスッキリする……。


 とん、とん、とん、とん……。


 メルルは自分のことで悶々としていたので、扉からノックの音がしているのに初め気がつかなかった。


 とん、とん、とん、とん……。


 ノックの音は続いている。こんな時間にノックするのが誰なのか見当はつく。自分がまだ寝ていないと知っている人物……。


 「どうぞ、ドニーさん。カギはかかってません」


 「不用心だな、でも入るぞ」

 思っていたとおり、扉からドニーが顔をのぞかせた。


 「何ですか?」メルルは帽子で頭を覆った格好のまま尋ねる。


 「お嬢ちゃんが心配になってな。

 まぁ、予想通りというか、ほんと、『やっちゃった』感たっぷりだな」


 メルルはむくりと身体を起こした。そして、むすっとした表情をくるりと向ける。


 「うわぁ」メルルの顔を見たドニーが引き気味の声をあげた。


 「私の心配ですか、ドニーさんが?」

 メルルはむすっとした顔のまま尋ねた。あまりにそっけない態度に、ドニーも面白くないという表情に変わる。「なんだ、心配しちゃいけないか?」


 「だって、私の心配しても、ドニーさんに何の得もありませんよ」


 「言ってくれるねぇ」

 ドニーはメルルのベッドに歩み寄ると、ベッドの端を指さした。「ここ、座っても?」


 メルルは少し身体をずらして場所を空けた。「どうぞ」


 ドニーはベッドの端に腰を下ろすと、改めてメルルの顔を見つめた。

 「さっきの言葉。本心じゃないんだろ?」


 「さっきの言葉……」


――『そうですか、わかりました。じゃ、私たちは自分の部屋で休むことにします。レトさんは今日一日は絶対にベッドから出ないでくださいね。そうやって自分を『大事に』してください!』――


 「本心ですけど、本心じゃないです……」

 メルルの答えにドニーは苦笑いする。「複雑だねぇ」


 「レトさんに身体を大事にしてほしいのは本当です。でも、私が言いたかったのは……、私が言いたかったのは……」

 何だったんだろう?

 「お嬢ちゃんがレトの旦那を大事に思っている、じゃないの?」


 ドニーの指摘に、メルルは呆気に取られてドニーの顔を見つめた。ドニーの言葉が頭の奥まで浸み込んでくると、メルルは顔を真っ赤にさせた。


 「な、な、ちが、違います! 私はレトさんのことは!」

 「あれ、てっきり好きなひとだと思ったんだがな」

 「誤解です! 私はレトさんのことは尊敬してますし、嫌いなひとじゃありません。だからといって、そんな……好きとか……」

 そこから先は言葉にならない。帽子を顔までずりおろして隠してしまう。


 「まぁ、いいか。オレもそんなことを話しに来たわけじゃないしな」


 「そんなこと……」メルルはむっとした表情で帽子をずり上げた。ほんと、このひとはこっちをおちょくるひとだ!


 「ちょっと気になることがあってな。あのライラプスのことだ」

 ドニーの顔はまじめなものだった。少し機嫌を損ねていたメルルも、ドニーの表情を見て真顔になった。「ライラプスがどうしたのですか?」


 「ライラプスの性質について知識はあるか?」


 メルルはゆっくりうなずいた。そのことはクルトやドノヴァンから聞いて、ある程度は知っている。


 「ライラプスは獰猛な魔獣で、獲物を見つけたらすぐ襲いかかってくる。その一方で、行動は慎重で、人里に近づくことは珍しい。今回襲ってきたのは、その珍しい出来事に相当する。わかるか?」

 メルルはうなずいた。「村人も珍しがっていました」


 「心配なのは、それが今回の呪いと関係あるかどうかなんだ」


 「呪いと……ですか?」


 「呪いの魔法は巨大な負のエネルギーだ。今もこの城の中心で負のエネルギーを放っている。それが、魔の世界に棲む魔獣を惹きつけているんじゃないかってな」

 「呪いのエネルギーが魔獣を呼び寄せている……」メルルの顔が蒼ざめた。


 「もちろん、現時点ではオレひとりだけが疑っている話だ。確証はない」

 「でも、その可能性はあるんですね?」


 「呪いについていろいろ勉強しちゃいるが、伝承、伝説の類も多くてね。学術的に信頼のおける情報が意外と少ないのが、呪いの研究を遅らせている原因だね。呪いのエネルギーが強いところに魔獣が現れたという話は伝わっている。しかし、いずれも伝承の部類でね、呪いと魔獣出現の頻度に因果関係があるのか証明されてはいないんだ。質問の答えだが、可能性の有無はもちろん、その割合だってわからない」


 「でも、ドニーさんは可能性があると思っている」


 「良くないことは重なりがちって思わないかい?

 負の因果律が発生すると、それが別の負の因果律と結びついてしまう。不幸の連鎖ってやつ」

 「そう言われるとあるかもって思えてきます」

 漠然とではあるが、メルルにも思い当たる話だ。メルルは完全ではないにしてもドニーの考えに納得した。


 「そうであるなら、どうするんですか、ドニーさんは」


 「魔法陣を構築する材料はそろったし、儀式の準備を急ぐことにする。

 一方で、お嬢ちゃんは呪術師の捜索、妨害者の特定を急いでほしいんだ」


 メルルは姿勢を正した。「どうして、さっきレトさんの部屋でその話をしなかったんですか?」


 「レトの旦那の様子を見て話すつもりだった。

 もし、旦那のケガの具合が悪くなければと思っていたんだが、あれは思った以上にダメージが残っている。もし、急がなければならないなんて話を聞いたら、たぶん、レトの旦那はケガを押してでも捜査を始めるだろう。そんなことすれば、ケガが悪化するかもしれない。回復魔法ヒーリングはたっぷりかけてやったが、最終的には本人の治癒力次第だしな。あの状態で無理はさせられない……って、どうした?」

 ドニーは話をやめてメルルの顔を見つめた。メルルはきょとんとした表情でドニーを見つめていたのだ。

 「どうしたって……。ずいぶん、レトさんのこと気遣ってくれてるなって……。それが意外で」

 「意外って、お嬢ちゃん、キミなぁ……」

 ドニーは文句を言いかけたが、それはやめた。

 「たしかに、オレはたいていが損得勘定で物事を考えている。でもな、オレだって人間なんだよ。なんでも自分本位で考えたり行動したりするわけじゃないよ」

 「ご、ごめんなさい……」

 「ま、いいさ。おおむね、それで合ってるから。例外が少しあるだけさ」

 「今回の件は例外なのですか?」

 メルルの問いに、ドニーはすぐ答えなかった。天井を見上げて何か物思いにふける様子を見せたが、すぐに口を開いた。


 「レトの旦那は簡単にしか説明しなかったがな、オレが疑われた事件は、オレにとっては深刻だった。誰も騙したつもりはないし、あの件は本当にまっとうな解呪案件だった。ただ、儀式を終えて呪いから解放された依頼者が、急にオレを詐欺で訴えたんだ。誰の入れ知恵なのかわからない。ただ金を払いたくない一心でゴネてただけかもしれない。

 ただ、相手はとある名家のお偉いさんで、凶悪な呪いに悩まされていた。呪いがあまりに強力なので、解呪の際、呪いが自分に返ってくることを恐れて誰も依頼を引き受けたがらなかった。金はいくらでも積むと言うからオレが引き受けたんだ。

 それなのに、無事呪いから解放された途端、オレを訴えやがった。オレは捕らえられ、尋問を受けた。最初、尋問してきたのは領内の治安維持部隊の軍曹さ。魔法の知識すら持っていない、まったくの素人だ。こっちがいくらまっとうだと説明しても、初めからペテン師だと決めつけていたから聞く耳なんてまるでない。

 尋問なんて、そんな公平性のあるもんじゃない。実際は自白の強要だった。

 まいったね。心底まいった。

 なにせ、一週間責められっぱなしだったから。楽になるには『自白』するしかなかった。自白って言っても、やっていないのに何て自白すればいいかわからない。でも、やつら、わざわざオレが自白した内容の調書を用意して、それにサインしろって言うんだ。やつらの筋書きに乗っかればオレは尋問という名の拷問から解放されて罪人になれるというわけさ」

 「……ひどい話です」

 「ああ、ひどい。最低の話さ。そこへレトの旦那が事件の調査にやってきた。自分は被害者だと訴える人物がコリントの大物だったので、王都から特別に派遣されたのさ。もし、レトの旦那があの軍曹と同じ種類の人間だったら、オレの人生は完全に終わっていた。

 だが、レトの旦那は違った。オレの話を最後まで聞いて、その裏付けを全部取ってくれたんだ。それで、オレの潔白が認められてオレは自由になることができた。まさにレトの旦那のおかげさ」

 「レトさんは権威だの権力だの、それに忖度そんたくするようなひとじゃないですからね」

 「本当にそうだ。あの件だって、レトの旦那は相手にかなり恨まれたはずだがな。まるで気にする様子はなかった」

 「その件でも自分の安全は考慮しなかったわけですね」

 「ああ。でも、そのおかげでオレは救われた。レトの旦那が女の子を救い出すのを見たとき、うかつにもそのことまで考えられなかった。ただ助かった。ああ良かった。それだけだ。まぁ、これまでもレトの旦那のことは尊敬していたし、感謝もしていたんだがな。レトの旦那がどういう人物なのか。そこまでは思い至らなかった。

 さっき、お嬢ちゃんがレトの旦那と話しているのを見て、レトの旦那がどんな人間なのか初めて理解した。理解した瞬間に、ライラプスの例外的な行動と呪いの関係性について話せなくなった」

 「そうでしたか……」

 「お嬢ちゃんに負担をかけるのは悪いと思っている。だが、これは単なる解呪の儀式ではすまない恐れがあるんだ。しかも、あまり時間はかけられない。

 半分引っ掛けるような形で巻き込んだオレが言ってもなんだが、お嬢ちゃんにしか頼れないんだ。頼む。改めてオレに協力してくれ」

 ドニーそう言って頭を下げた。


 メルルはしばらく帽子のつばを握ったまま黙っていたが、ドニーに顔を向けた。

 「私はもともと依頼を受けて来た身です。自分のするべきことは、やり遂げるつもりです」

 「ありがとう、お嬢ちゃん」

 ドニーは安心したような笑みを受けべたが、メルルの顔は真剣な表情のままだ。


 「確認したいんですが、時間的猶予はどれぐらいありそうですか?」


 その質問に、ドニーも真顔になって天井を見上げた。

 「うーん、それについちゃ自信のある答えはないが、数日あるかどうかってところじゃないか。つまり、数日以内にフロレッタ様の呪いを解かないと、ライラプスたちがいけにえを求めて城を襲うかもしれない」


 「いけにえ……」


 「呪われた者は魔の世界の供物も同然だからな。魔の領域で生きる獣どもにすれば、たいへんなご馳走だろうよ」

 「怖いこと言わないでください」

 「事実を言っただけさ」


 「事実であれば……、急がなきゃいけませんね」


 メルルは考え込みながらつぶやくと、ドニーはうなずいた。

 「そう、レトの旦那抜きでね」


 「わかってます。そうするつもりです」


 「急いでくれと言ったのはこっちなんだが、実際どうするつもりだ?」


 「夜が明けたら、村へ行きます。今度は私ひとりで」

 「村へ行ってどうする?」


 「ポッチくんという男の子を探すつもりです」


 「……ポッチ……。ああ、カイナちゃんが言っていた幼なじみか」


 メルルはうなずいた。

 「その子は西の山にすむ『まどしちゅう』さんの家を知っているみたいです。『まどしちゅう』……。ドニーさんが『魔導士長』のことじゃないかって指摘していましたよね?」


 「ああ、たしかに言った。思い出したよ。なるほどね。『魔導士長』であれば、魔法全般に通じている。もちろん、『呪い』についてもね」


 「ちなみに『魔導士長』ってどんな役職なんですか?」


 ドニーは呆れた表情を浮かべた。

 「なんだ。字面から想像しただけか。

 『魔導士長』ってのは、王国お抱えの魔導士たちを束ねる最高位の役職だ。昨日、話題にしたザバダックが前の魔導士長だ。現在の魔導士長は誰だったかな……。なんか実力のなさそうなのがその座についたって聞いていたが……。まぁそれはどうでもいいか。

 とにかく、魔法を扱う人間たちの上に立って、あれこれ指図のできる、えらーい立場だってことだ」


 「そんな話を聞くと、『まどしちゅう』は違うことを指す言葉かもしれませんね」

 メルルは不安そうな顔になった。「そんな立場だったひとが、辺境の山奥で暮らしているなんて思えませんよね」


 「たしかにそうだな。だが、ほかに手掛かりはないんだ。蜘蛛の糸ほど細いものでも、それをつかんで手繰るしかないよな」

 「そうですね……」


 「ま、方針は決まったし、あとは行動あるのみだ」

 ドニーはそう言いながら立ち上がった。


 「ドニーさんは大丈夫ですか? 昨日から今まで妨害者に何もされていませんか?」

 メルルが心配そうに尋ねると、ドニーはにっこりと笑ってみせた。

 「オレは大丈夫さ。何をされたら一番困るか、わかっているからな。策はちゃんと講じている」

 「策?」

 「誰にも秘密にしている策だがな。

 でも、お嬢ちゃんにオレの策は意味がないか。お嬢ちゃんだけはナゾにならないからな」

 「そのおっしゃり方がナゾです……」

 メルルは苦笑いするしかなかった。ドニーはその顔を愉快そうに見つめる。

 「ま、オレはオレなりにいろいろ考えてるってことさ。でも、そうだな……。せいぜい後ろからグサリと刺されないように気をつけるさ」


 ドニーは手をひらひらと振ると、扉に向かって歩き出した。ノブに手をかけると、

 「お嬢ちゃん、オレが出て行ったらちゃんと戸締りするんだぜ。いくら自分に魅力が足りないからって不用心は禁物だ」

 ドニーはもう一度手をひらひら振りながら部屋から出て行った。


 「もうっ!」

 メルルは帽子を扉に向けて投げつけた。

 「いつも最後に余計なんだから!」



38


 夜が明けてまもないころ――。


 メルルは例のじゃりじゃり音をさせる坂道を下って村へ向かうところだった。ドニーに話したとおり、ポッチと会うべく行動を開始したのだ。ただ、ポッチの行動が読めず、家を訪ねても入れ違いで出会えない可能性があったし、なによりもポッチの家がどこかを知らない。訪ね歩くだけで時間もかかる。だったら、『早朝から村で捜索開始だ!』が、メルルがそうした理由だった。


 しかし、メルルのどこか非常識に思える行動は、この村では遅かったのかもしれない。

 メルルが坂を下りきって、村へ入ってすぐ、メルルは村の男たちが馬車に乗り込んで出かけようとしている場面に出くわしたのだ。


……こんな時間から、もう出かけるひとたちがいる!


 メルルは馬車へ駆け寄ると、荷台に手をかけた。馬車は2頭立ての大きなもので、幌のついていないものだった。荷台はかなり大きく、おそらく切り倒した樹木を乗せるためだと思われた。その荷台に5、6人の男たちが乗っていて、今にも出かけそうな様子だ。


 「なんだい、お嬢ちゃん。おれたちに何か用か?」

 荷台の一番はしに乗っていた男がメルルに声をかけた。男は寒い時期にふさわしく、何かの獣の毛皮を羽織っていた。しかし、そこからのぞく腕が裸なので、毛皮の下は逆にかなり軽装のようだ。


 「あの、皆さん、お出かけですか?」

 急いで駆け寄ったので、メルルは息を切らせながら尋ねた。男たちは互いの顔を無言で見合わせていたが、すぐに笑い出した。

 「なんだ、お嬢ちゃん。おもしろいことを言うよな。おれたちは木こりだぞ。朝から仕事に向かわなくてどこへ行こうってんだ?」

 木こりは早朝から仕事に出かけるのが当然だといわんばかりだが、メルルにはそれを当たり前と思っていなかったので困惑した笑みを浮かべた。「そ、そうですね……」


 「おい、この子、あれだよ」

 離れたところから声が聞こえ、そちらに目をやるとどこか見覚えのある男が声をあげていた。

 「あれって?」ほかのひとりが聞き返す。

 「昨日、カイナを襲ったライラプスを退治した男の……、その連れだぜ」

 「おお、こいつが?」別の男が大きな声をあげて振り返る。


 思いがけず、男たちの視線を集めてしまい、メルルは狼狽してしまった。

 「あの、その、はい……、そうです……」


 「そうか、あいつの仲間か!」

 近くの男がメルルの肩を力強く叩いた。「ありがとうな、お嬢ちゃん! カイナに代わって礼を言うぜ!」


 メルルは一瞬息が詰まったが、すぐ呼吸を整えると、「い、いえ、どうも、です」とだけ返した。


 「あのときのお嬢ちゃんがこんな時間、おれたちに何の用だ? 悪いが、おれたちは仲間と待ち合わせしてるだけだ。もう出かけるところなんだが」

 少し場が和んできたが、男のひとりが冷静な声で尋ねる。メルルが現れたことに違和感はぬぐえない様子だ。


 メルルはそれを聞くと、気を取り直して背筋を伸ばした。

 「そうですね、すみません。少しお尋ねしたいことがありまして」

 「何だい、言ってみな」

 「私はポッチくんを探しているのです。ポッチくんのおうちがどこか教えてもらえませんか?」

 「ポッチだぁ?」

 「お嬢ちゃん、あの子に何の用だ?」

 メルルの問いに、男たちは口々に声をあげる。

 「別に何かしようというわけではありません。

 私はポッチくんしか知らない道を教えてもらおうと思っているだけなんです」

 「ポッチしか知らない……?」

 ひとりが首をかしげると、別のひとりがその肩をつついた。

 「ほら、あれだよ。西の山に住んでいるという……」

 「ああ、あの世捨て爺さんのことか」

 男はそれで納得したようにうなずいた。「たしかに、あの爺さんの居場所はポッチに聞くしかねぇな」


――世捨て爺さん。


 それがカイナの言う、元『まどしちゅう』のことだろう。メルルはうなずいた。「そうです」


 「また変なことを聞きたがるよな、お嬢ちゃん。あの爺さんが何かしたのか?」


 メルルは首を振った。「今はまだわかりません。まずは会って話を聞きたいと思っています」


 「だってよ」

 メルルの目の前にいた男は仲間たちを振り返る。ひとりの男が身体をメルルに向けて少し傾けた。

 「ポッチなら、レギストの家にいる。レギストの家はこの道沿いに少し進んだ崖側にある。家の隣にクスノキが一本立っていて、その足もとに鶏小屋があるのが目印だ。行けばすぐわかるさ」


 「おい、そのレギストがやってきたぞ」


 メルルが礼を言おうとしたら、ほかの男が村の奥を指さした。朝霧にまぎれて、ひとりの男が大きな斧を担いで歩いてくる。メルルはその斧に見覚えがあった。霧のなかから姿を現したのは思ったとおり、昨日メルルたちに詰め寄った、大斧だいふを持った男だった。


 「ん、その子は……」

 レギストはメルルの姿にいち早く気づいて眉をあげた。


 「おう、レギスト。この子、お前のとこにいるポッチに用があるってよ」

 仲間のひとりが、メルルが尋ねるより先に教えた。


 「ポッチだって? あいつがどうかしたのか?」

 レギストは顔をしかめてメルルの前に立つ。あのときも思っていたが、かなりの大男だ。この男の前では、メルルはまるでほんの子どもほどにしか見えない。


 「この子、ポッチから例の爺さんの居場所を聞き出したいらしいんだ」

 別の男が代わりに聞いてくれる。どうも木こりの男たちは思った以上に世話焼きらしい。


 「爺さん……。西の山のか……」

 レギストは、むっとした表情を浮かべた。その顔は「気に入らない」とはっきり告げていた。

 「西の山はライラプスのような魔獣が出ないと聞いているが、それでも道が険しくて不便なところだ。あんたは何だってあそこに行こうとする?」

 「その方が、ひょっとすると魔法使いではないかと思われるからです」

 メルルはそれだけを答えた。メルルは黒い三角帽子に黒いローブで身を包んでいる。世間でおなじみの魔法使いの格好だ。周囲の男たちはそれだけでメルルが西の山に住む老人に会いたい理由を勝手に解釈した。メルルがそう仕向けたわけでもあるが。

 「そうかい。しかし、あんたも物好きだな。あの爺さんはだいぶ前に村へやってきたが、ここの暮らしが合わなくて娘と一緒に西の山に移っちまったんだ。それ以来、おれたちは顔も見たことがないぜ。せいぜい、好奇心旺盛なガキが、冒険のつもりで会いに行く程度だ。今日も西の山へ出かけるつもりらしい。止めたんだが耳を貸さねぇ。ただ、今日、用事を片付けたら、もう西の山には行かないって言うから、あんまりきつく言うのはやめて家を出たところなんだがな」


 ポッチが出かけていなくなる? メルルはすぐ家に向かわなくてはと焦った。


 「ところで、お嬢ちゃん。あの剣士の具合はどうだい? カイナを助けてもらってケガしちまったのに、おれたちは礼も言わずじまいで……。気にはしてるんだが、あの城には行きづらいっていうか、その、な……」


 レギストは言いづらそうにしている。領主と領民との間に確執らしいものがあることはメルルも知っている。メルルはぴょこんとお辞儀した。

 「お気遣いありがとうございます。レトさんは大丈夫です。ゆっくり休めばすぐ回復しますので、どうぞ、ご心配なく」

 「そ、そうか、よかった。悪いが、お嬢ちゃんから、あの剣士によろしく伝えてくれ……」

 「わかりました。では、私、ポッチくんに会いに行きます。失礼します」

 メルルは顔をあげて早口で言うと、お辞儀もそこそこに駆け出した。


 「おうおう、朝っぱらから元気だねぇ」

 背中から誰かの声が聞こえてくる。メルルはその声にかまわず、全力で走った。


 特徴は教えてもらったものの、目当ての家が見つかるかメルルは少し不安だった。しかし、ほどなく教えられた特徴の家を見つけた。


――隣にクスノキが一本立っていて、その足もとに鶏小屋がある家――


 周りに鶏小屋を置いている家はない。思ったよりも簡単だった。


 メルルは鶏小屋を横目で見ながら、家の扉を叩いた。小屋のなかでは数羽の鶏が忙しそうに首を上下に振りながら地面をつついている。


 「誰だい?」しわがれた声が聞こえ、メルルはそっと扉を開いた。

 家のなかをそっとのぞくと、レギストの妻らしい女性が桶を持ったまま立っていた。何かの家事の途中なのだろう。レギストと同じ年齢ぐらいの40代あたりかと思うが、さっき聞こえた声はもっととしを取った老婆のそれを連想させた。

 「メルルと申します」

 メルルは小さく会釈した。

 「はぁ、あんた、城を訪ねてきた冒険者さんの連れだね」

 女性はしゃがれ声で返した。さっき聞こえた声はやはりこの女性からだった。家は居間と寝室がひとつになった狭く小さなもので、その場にいるのがこの女性ひとりだけだから答えは明白ではあったのだが。

 「実は、ポッチくんを訪ねてきたのですが……」

 メルルは部屋を見渡しながら言った。ここにいるのは目の前の女性ひとりで、少年の姿はない。


 「ポッチに用かい? あの子、何かやらかしたかい?」

 女性が不安そうな表情を見せたので、メルルは慌てて両手を振った。

 「いえ、いえ、違います! 私はポッチくんに道を教えてもらおうと……」


 「ポッチに道を? おかしなことを言うね。このあたりのことを教えてほしけりゃ、村にいる誰でもいいじゃないか」

 「西の山に住むという人物のところなんです」

 それを聞いて、女性は顔をしかめた。「あのひとか……」

 女性はくるりと向きを変えると、部屋の片隅に歩いていった。そこには小さなかまどが据えられて、薪が小さな炎をあげている。そのかまどは調理だけでなく、部屋の暖房も兼ねているのだろう。女性はかまどの前に桶を置くと、メルルに振り返った。


 「悪いね。ポッチならもう出かけちまった。うちのひとから金づちを借りてね。釘も入り用だけど足りないから、近所で分けてもらうってね。あの子のことだから日が暮れるまでには戻ってくると思うから、そのころに出直してくれるかい?」

 女性はのんきなことを返してくるが、もちろん、出直している時間はない。

 「私、ポッチくんを探してみます。どちらに釘をもらいに行ったか心当たりはございませんか?」

 「さてね、わからないよ」

 「では、あとひとつ。西の山に入るには、道はいくつもあるのですか? 一番近い道を教えてください」

 こうなれば道の入り口でポッチを待ち構えるか、西の山へ探しに行くしかない。メルルは時間との勝負だと思った。

 「西の山の道……。あんた本気なんだね。西の山に行くには、このまま城とは反対側に村を出て、すぐ先の裂け目を渡った山側さ。獣道みたいに細いから目立たないけど、山に入るなら、そこが一番『まとも』な道さ」

 「ありがとうございます」

 女性はまだ何か言いたそうな感じだったが、メルルはぴょこんとお辞儀すると、家から飛び出した。ここに来るまで、メルルは誰とも行き会わなかった。ポッチはすでに釘を手に入れて、その山の道に向かっている可能性が高い。メルルは先を急いだ。


 村を出てすぐに、女性が『裂け目』と表現した場所に着いた。崖から山側に地面が裂けたように大きな亀裂が生じていた。交通ができるように誰かが板を渡して橋にしていた。板は鉄製の枠で補強され、頑丈そうだった。

 メルルは橋を駆け抜け、山側に目をこらす。

 女性に教えてもらった『細い道』はなかなか見つからない。目立たないと聞いてはいたが、見落として行き過ぎてしまったのではないか……。メルルが不安を感じ出したころ、樹々の奥に何か動くのが見えた。


 メルルは自分に急ブレーキをかけて立ち止まると、林の奥に目をこらした。

 メルルが見たのは小さな影だった。それは小さな人間の形をしている。メルルは確信した。ポッチだ。


 「ポッチくん!」

 メルルは声をあげようとした。



39


 さっきから走りっぱなしだったせいだ。

 メルルの声は先ほどの女性のようにしわがれて、まともな声にならなかった。影の主にも声が届かなかったようで、少年の影は樹々の陰に隠れて見えなくなった。

 「ポッチくん」

 メルルはもう一度声をあげようとしたがうまく発声できない。メルルは呼びかけるのを諦めて後を追うことにした。


 影が消えた場所まで行くと、当然だがそこにはすでに誰もいない。あたりに目をこらすと、少し上った先の茂みが風とは違う揺れ方をしている。メルルは「あそこだ」と見当をつけて歩き出した。


 それからしばらくの間、メルルは姿なき少年との無言の追いかけっこを続けた。姿が見えないのに声はかけづらい。警戒されて完全に気配を消されては追いかけようがなくなる。今はまだ、少年はメルルの追跡に気づいていない。あたりを警戒することなく茂みをかき分けながら目的地に向かって進んでいる。メルルはずっと茂みの動きを頼りに少年を追い続けていたのだ。少年を尾行しているようで後ろめたい部分はあるが、メルルは少年の行き先が村人の言う『世捨て爺さん』のところだと信じていた。決して見失うまいと、メルルは目と耳に集中した。


 山に入ると樹々の生え方は複雑に入り乱れ、完全に『森』と化していた。

 樹々は互いがぶつかりそうなほど身を寄せ合い、競うように枝葉を伸ばしている。そのせいで、樹々の根元を歩くメルルの周囲はかなり暗い。

 メルルは少し怖さと心細さを感じながら歩き続けた。ポッチは自分の背の高さほどもある茂みをものともしない力強さで進んでいる。足の速さも変わらない。子どもにしては山に慣れているようだ。

 しかし、それはメルルも同様だ。彼女も辺境の山育ちで、こんな道なき道を進むのには慣れている。とは言ってもポッチほど速く歩けるわけでないので、遅れまいと追うのに必死だった。


 茂みの動きを見失うまいと前方に集中していたが、メルルはかたわらの樹の胴体がぼうっと小さな明かりを放っているのに気づいて足を止めた。

 なんだろうと見てみると、それは小さなプレートだった。樹の胴体にプレートが取り付けられているのだ。プレートには小さな魔法陣が描かれており、それが青白い光を放っているのだとわかった。


 「これって、まさか……」


――結界の魔法陣? 村で見つけたものと同じ……。


 メルルはそのプレートの近くまで歩み寄って、改めてプレートを調べてみた。


 「やっぱりそうだ。これは……」


 プレートに描かれていたのは、魔獣の類が入り込めないようにする結界の魔法陣だった。


……すごい。王都周辺もこんな魔法陣が展開されているけど、あれは魔法使いがいつも巡回して魔力を注いであげなきゃいけないのに、この魔法陣は周囲から魔素を吸収して魔力に変えている。こうすれば、魔法使いが魔力をあげなくても、この結界はずっと働くんだ。


 魔法陣の力は、術者の魔力を供給されることで機能する。そうでない場合は魔法陣が描かれている場所に込められた魔力を消費する。いずれも魔力が切れた段階で魔法陣の効果は切れる。

 メルルが見つけた魔法陣はそうならないように自動で魔力を吸収する仕組みが組み込まれているのだ。


……これは、周囲に魔素が満ちているからこそできる仕掛けだ。でも、わかっていても魔素を吸収して魔力に変換する術式なんて複雑で難しいのに……。こんなに簡単な術式で実行できるんだ。


 メルルは小さな魔法陣に触れていた。魔法陣の青白い光はメルルの顔を照らしている。その顔は少し見惚れているようだ。


……こんな魔法陣を描けるひとなんて……。間違いない。あの『世捨て爺さん』は元『魔導士長』だ。そうでなきゃ、こんな魔法陣を作れるはずがない。王国最高ランクの魔力や魔法の知識を持つものだけがその地位につけるとされる『魔導士長』。こんな魔法陣が造れるならそんな立場だったとしてもおかしくない!


 考えにふけっていたメルルのわきを、強い風がざぁっと吹き抜けていった。あたりの樹々や茂みがざわざわと騒ぎ出す。メルルは我に返った。「しまった!」


 慌てて前方に目をやる。さきほどの風でそこら中のしげみがざわつき、そして静かになっていった。これまで追っていた人影が茂みを揺らしている様子は見られない。


 「いけない、見失っちゃった!」


 メルルは茂みをかき分け先へ進んだが、すぐに立ち止まった。あたりに神経を集中させたが、もう少年の気配を感じ取れない。完全に見失ってしまった。


 途方にくれかけたが、メルルの目は別のものを見つけていた。樹の胴に取り付けられた別のプレートだ。急いでそのプレートに駆け寄る。

 プレートに描かれた魔法陣を眺めながら、メルルの表情は冷静なものへ変わっていった。


 「これ、使えるかも……」


 メルルは少し駆け出すと、すぐに別のプレートを見つけ出した。すぐに離れると次のプレート。メルルは次々と魔法陣のプレートを見つけ出した。


……やっぱりそうだ。この結界は、道に沿ったものもあるんだ。結界はそれほど強いものじゃないから、村までの道へはこれらの魔法陣で守ってたんだ。ということは……。


 「この魔法陣をたどっていけば、『まどしちゅう』さんの家にたどり着ける!」


 メルルの声は確信に満ちていた。



40


 あれからポッチの姿はまったく見つけられない。

 しかし、メルルの胸に不安はない。魔法陣のプレートを探して道を進むという方針に切り替えてから、彼女はどんどん先へ進めるようになったからだ。

 森のなかが薄暗いことが結果的によかった。魔法陣が放つ、かすかな青い光は、森のなかを照らす街灯のようなものだった。メルルはその明かりに沿って迷うことなく先へ進んだ。


 メルルはやがて、ぽっかりと広がったところへ出た。森が切れたのだ。すっかり高く昇った太陽が、寒い森のなかを歩いていたメルルを暖めた。


 「見つけた」


 メルルの目の前に、古ぼけた、小さな小屋が建っていた。

 小屋が建っているのは丘の上あたりらしい。丘の上だけ、樹々が生えておらず、草も生えていなかった。もし、森のなかで小屋を建てるとするなら、メルルもここだと考えるだろう。


 小屋はメルルの下宿している部屋ぐらいの大きさだ。細い煙突が屋根から突き出しているので、家事のできるところなのだろう。少し奇妙なのは、その小屋の窓には木の板が張られていて、室内がのぞけなくなっている点だ。メルルは不安な気持ちがよぎった。もう引き払って、そこに誰も住んでいないのではないか……。そう思ったのだ。


 メルルは不安を振り払うように、しっかりと地面を踏みしめながら丘を登った。小屋の扉の前に立つと、深く息を吸い込む。メルルは目を閉じて小屋の様子を感じ取ろうとした。


……誰かいる……!


 メルルの耳には誰かが歩く音を聞き取っていた。この小屋には誰かいるのだ。

 メルルは深くうなずくと、小屋の扉を叩いた。


 とんとん。「すみません、ちょっとよろしいでしょうか」


 返事はない。足音も聞こえなくなった。


 とんとん。「突然お邪魔してすみません。お話しをうかがえればとやってまいりました」


 反応なし。しかし、扉に近づくような、床をこすらせながら歩く足音が聞こえる。

 扉の取っ手に手を伸ばしかけたメルルは、あることに気づいて手が止まった。

……変だ。この扉は外からかんぬきがかけてある。でも……、これは……。

 かんぬきを通すかすがいに小さな石が詰められて、かんぬきが動けないようにしてある。まるで、小屋のなかのものを閉じ込めるためのように……。


 メルルはかんぬきに手をかけ、石を取り除こうとした。そのとき……。


 「ダメ! 扉を開けちゃ!」


 背後から少年らしい叫び声が聞こえた。振り返ると、見失っていた少年が多くの木切れを抱えてこっちに向かって走ってくる。


 「お姉ちゃん、そこから離れて!」


 メルルが目をぱちくりとさせていると、突然、扉から一本の腕が眼の前に現れた。何者かが扉を突き破ったのだ。


 メルルが思わず飛び下がると、次の瞬間には扉が粉々に砕け、そこから両手を前につきだした人影が現れた。


 顔は青白さの混じった土気色で、両目は白くどんよりと濁っていた。しかし、その目は狂暴な光を宿して殺気に満ちている。腕の皮膚はところどころ破けているものの、そこから血は流れておらず、どこか膿んでいるような跡になっている。メルルは目の前にあるのが何であるか瞬間的にわかった。


 「屍霊グール!」


 メルルはポケットに手を突っ込むと、小さなステッキを取り出した。


 屍霊はぎょろりとメルルを睨むと、口から何か言葉にもならないうめき声をあげる。


 「危ない、逃げて!」ポッチがふたたび叫び声をあげた。


 メルルはとっさにしゃがんだ。屍霊が拳を振り回し、メルルの上空を通過した。拳は小屋に突き刺さり、「めりめり」と嫌な音を立てた。

 メルルは丘の上をごろごろ転がるとすぐ立ち上がり、ステッキを握ったまま身構える。


 「何してるの? 早く逃げて!」

 ポッチはその場で大声をあげる。メルルは屍霊に意識を集中させながら、横目でポッチに視線を送った。

 「キミこそ早く逃げて。この屍霊は私がなんとかするから」


……火属性魔法の最高火力で一気に焼き尽くす!


 「……お姉ちゃん、殺しちゃうの? おじいちゃんを殺しちゃうの?」

 ポッチの声は泣き声に変わっている。メルルはハッと目を見開いた。


 メルルの目の前にいるのは老人の姿をしていた。生きていたら60歳から70歳の間ぐらいだろう。頭部の半分は禿げあがり、耳の周りに残った髪は完全に白髪になっている。

 しかし、顔は死んでふくれあがったせいか年相応の皺がなく、生前の人相をわからなくさせていた。

 それでも、メルルにはそれが『世捨て爺さん』――元『まどしちゅう』であることがわかった。ポッチが通っていた訪問先の人物……。


 屍霊はまるで苛々したように壁に刺さった腕を引き抜こうとしている。口からは「うーうー」と獣のような唸り声が漏れていた。早く対応しないと、屍霊は身体が自由になって、再びこちらを襲うだろう。いや、標的を少年に変えることだってありうる。


 「ポッチ……くん、だよね?

 悪いけど、このひとはもうキミが知っているひとじゃない。屍霊なの。

 このままにすると、村に下りてひとを襲うかもしれないんだ。

 屍霊はもう死んでるから、首をはねるか、焼いて灰にするか、聖魔法で浄化するしかないの。

 私は屍霊を浄化できる魔法は使えない。首をはねる技術もない。できるのは炎系の魔法で灰にするしかないの!」


 「でも、炎の魔法って、地獄の力なんでしょ? おじいちゃんを地獄に送っちゃうの?」


 ポッチの問いにメルルは顔をしかめた。メルルがよく使う『火炎剛球インフェルノ』という魔法は『地獄の炎』という意味が含まれる。たしかに『地獄』は含まれるが本当に地獄から召喚した魔法ではない。しかし……。


……もし、私が『火炎剛球インフェルノ』で屍霊を焼き尽くしたら、あの子の心に深い傷を負わせてしまうかもしれない……。


 メルルは焦りながらも必死でほかに方法がないか思考を巡らせた。――ある! あるにはあるが、それは……。


 「ポッチくん。炎系の魔法には聖属性を含んだ魔法もあるの。それならおじいちゃんを地獄じゃなく天国に送ってあげられる。その魔法ならどう?」


 少年は戸惑いの表情を浮かべた。「おじいちゃんを天国へ……?」


 「でも、その魔法、発動するのに時間がかかるの。

 お願い、私に時間を稼がせて!」


 メルルは屍霊から距離を取って、呪文を唱え始める。壁から腕を引き抜き、身体が自由になった屍霊は、メルル、そして丘のふもとで立ち尽くしているポッチに目をやった。


 ポッチはそれを見ると我に返ったようになった。自分の手もとを見て、板と金づちだけ手にすると、コンコンと金づちで木切れを叩く。

 「こ、こっち、こっちだよ!」


 屍霊はポッチの動きに反応して、そちらへ歩き出した。ポッチはそれを見ると、真剣な表情で板を叩き続ける。


 コン、コン、コン、コン、コン、コン!


 屍霊はポッチのすぐそばまでやってきた。ポッチは自分をつかもうとする両手をかいくぐって屍霊の背後に回ると、「こっち!」と言いながら板を叩く。


 屍霊は「グルル」とオオカミのような唸り声をあげながら向きを変え、ポッチに向かって執拗に追ってくる。屍霊の足が遅いのが幸いで、子どもの足でどうにか逃げられる。


……ポッチくん、ありがとう!


 メルルは呪文を唱えながら、ポッチに感謝していた。ポッチは屍霊の攻撃をかわしながらも、決して森のなかへ逃げ出そうとしなかった。屍霊をまくなら森が一番安全なのにだ。ポッチはメルルの言葉を信じて、メルルの周囲から離れないように逃げ回っているのだ。


 メルルのステッキの先端が白く光り輝く。準備はまもなくできる。そろそろポッチを呼ぼうとメルルは振り返り、そして、顔色を変えた。


 屍霊の身体に変化が起きていた。黒い霧状のものが屍霊の周りに集まって、それらは屍霊のなかに吸い込まれるように消えていったのだ。


……あれは悪霊? それじゃ、あの屍霊は……


 「いけない! 強化型に変異する!」


 メルルはポッチに向かって大声をあげた。

 「ポッチくん、急いでこっちまで逃げて! 私はここを離れられないから!」


 ポッチもまた、メルルと同じように屍霊の異変を驚いた表情で見つめていた。屍霊の肉体はやせ衰えた老人のそれではなく、筋肉がふくれあがり、体格もみるみる巨大化していく。


 「お、じい……ちゃ……ん……」ポッチは唇をわななかせながらつぶやく。


 瞬間、ポッチの身体は軽々と宙を舞い、丘の斜面に叩きつけられた。変異した屍霊が目にも止まらないような速さでポッチを殴り飛ばしたのだ。ポッチは数度丘の上ではずんで、そのまま動かなくなった。


 「ポッチくん!」メルルは叫んだ。


 屍霊は自分の身体の調子をたしかめるように腕をぐるぐる回している。やがて、ギラギラする目を倒れているポッチに向けた。口が裂けるほど大きく開き、どす黒い舌が唇を舐めまわす。


……ポッチくんを喰い殺すつもりだ!


 メルルはステッキの先端を屍霊に向けた。屍霊はすでにポッチに向かって駆けだしている。


――偶然だけど間合いにポッチくんがいる! 間に合え!


 メルルはさっとステッキをかかげ、高らかに呪文を唱えた。

 「我、汝に願うは聖なる慈しみ。浄化の炎をもって、けがれたる罪びとの業を清めたまえ。聖なる力に与えるかりそめの名は……」


 メルルはステッキを振り下ろした。「聖天炎柱ホーリー・フレイム!」


 屍霊の手がまさにポッチの身体に触れようとする瞬間、屍霊の身体は青白い炎に包まれた。炎は円柱形の姿で天高く昇っていく。倒れていたポッチは薄眼を開けて、その炎の柱を見つめていた。「おじい……ちゃん……」


 屍霊は天を仰いで立ち尽くした姿勢で炎に包まれていた。やがて全身が崩れ出すと、みるみる炎のなかで消え去っていく。


 「ポッチくん、大丈夫?」

 メルルはポッチに駆け寄ると身体を抱き起こした。ポッチは炎から目を離さずに、「大丈夫だよ、平気」と答えた。


 屍霊の身体が完全に消え去ると、青白い炎の柱も空に向かって消えていった。


 「清浄の炎が、おじいちゃんを天国まで連れてってくれるんだよ」

 メルルはそう教えてやった。しかし、これは本当だとは言い難い。ただ、そう言われているだけで、誰も天国と地獄の存在を確かめられたわけではないから。ただ、このときばかりは、メルルはそれが本当であればと願っていた。


 ポッチは炎が消え去ってからもそのままの姿勢で空を見つめていた。やがて、ぽつりと、「お姉ちゃん、ありがとう」とつぶやいた。

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