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黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 6

28


――これは、――


みずからに課した使命を果たせず、


誰からもその苦悩を理解されないまま世を去った、


とある男の魂の彷徨、あるいはその軌跡……


****************************************


 「そうか……。セルネドも落とされたか……」

 白髪の男は肘掛椅子に身体を深く沈めながらつぶやいた。顔にしわがあまり見られないので実年齢は若いはずだが、白髪のおかげで老齢近くに見える。


 「魔候軍の勢いはすさまじく、アルデミオンもいずれ攻撃されるかと囁かれております」

 小さな鼻眼鏡をかけた、老いた執事がやや腰をかがめながら報告する。執事はガッデスだった。

 そして、ガッデスから報告を受けていたのはレドメイン領主フィリップ・レドメインである。


 魔国マイグランから魔候アルタイルが軍を率いてギデオンフェル王国へ侵攻した。わずかひと月足らずで国境代わりである魔の森『ミュルクヴィズ』に近い城塞都市が3つも陥落した。敵軍の数は1万とも10万とも言われ、正確な情報は届いていない。しかし、いずれであっても魔候軍の勢いがこれまでの魔族の侵攻に比べても強いのは間違いがない。


 「アルデミオンもいずれ、か……」

 フィリップは自らの身体をさらに椅子に沈みこませてつぶやいた。表情はやや虚ろだ。


 「我が領の予算では、これ以上の兵士の増強は図れません。

 もし、敵が攻めてくることがあれば、籠城の一手しかございません」

 「わかっている、ガッデス」

 フィリップは右手でさえぎるように振った。


……わかっている。わかっているのだ。しかし……。


 代々引き継がれてきたこの領地をフィリップが継いだのは、彼がようやく30代に届いたころのことだった。王都の別邸で生まれ育ったフィリップにとって、自分の領地がこれほど小さく、狭いものだとは思いもしなかった。城下にあるのが『街』ではなく、百世帯あまりしか暮らしていない『村』だとわかったときは、さらに困惑したものだった。父は、いや、これまでの先祖は、こんなに小さい領地を切り盛りしていたのかと愕然とした。


 実際、経済状況は思わしくなかった。それは跡を継ぐ前から知っていたことだったが、こうして直接治めることになると、その困難さはひりひりと皮膚からも伝わってきた。


 村の住人たちとの関係も微妙なものだった。

 村の者たちにとって、王都暮らししか経験していない新しい領主に信頼感を抱いていなかった。『こんなのに、ここの何がわかる? 何ができる?』。口に出さずとも、彼らがそう感じているのはフィリップにとって明らかだった。


 フィリップが継いでから10年あまり経った今も、その関係性に変化は見られない。特に大きな失策、失政はなかったが、逆に目を見張るほどの成果もなかった。


――現状維持――。


 それがフィリップにできた最大の『成果』だったのだ。


 初めてこの領地にやってきたとき、フィリップは城下の村を『防衛機能が無いに等しい』と考えていた。自分が住まう城は、かつての『解放戦争』では重要な軍事要塞であったため難攻不落と言われている。しかし、その足もとの村は敵の侵攻に遭えば、ただ蹂躙されるしかないのだ。これは、この村が『解放戦争』以降に生まれたからだ。それからの千年あまり、この村はほとんど外敵らしい外敵に襲われたことがなかった。魔の森に近いといえ、それとは深い谷で隔てられており、さらに辺境であるという地政学的な理由で魔族からも重要視されていなかったせいだろう。せいぜい近隣の森などを徘徊する魔獣の何匹かが入り込む程度だ。それもフィリップが治世するようになってから数回のものである。


 その状況に甘えてきたのは事実だ。現状を維持するのが精いっぱいで村の防衛機能を上げることに力を入れてこなかった。

 もし、こんな状況で敵に襲われでもしたら……。


 これまでのように、敵がここを攻めない可能性はある。かつてと違い、ここを攻め落とす軍事的な重要性はすでに失われていた。魔候軍も同じように判断し、ここまで軍を送らないと考えるのが常識的な考えではないか。


 フィリップは首を振った。

 治世者として、甘い見込みでのぞんではならないことを彼はよく理解していた。特に防衛については最悪の事態を想定したうえで、その対策をとるのが彼にとって常道なのだ。


――つまり、


 これまで彼はするべきことをしなかった。


 そう言えるわけである。


 魔候が侵攻を始めたと聞いたときも、彼はすぐ対策に乗り出さなければならないと思ったが果たせなかった。心の片隅に、王国軍が魔候軍を撃退さえしてくれれば、被害がここまで及ぶことがないと、期待の気持ちがあったのは事実だ、

 しかし、その期待は簡単に砕かれた。

 魔候軍は王国の中部にあたる都市、アングリア、ポラトリス、そして、ついにはセルネドまでも落としてしまった。

 南部には強力な王国の戦力はない。なぜなら、王国南部は貴族たちの領地で占められており、軍事的には彼らの私有軍に頼るしかなかった。

 だが、彼らの戦力はあてにならないだろう。彼らにとって、自分の領地こそが大事であり、守らなければならないものだ。わざわざ領地以外のところまで兵を送って戦う必然性はない。それは、フィリップ自身が同じように考えているのだ。


 このままでは魔候軍はアルデミオンにも軍を進めるだろう……。

 ガッデスの言うとおりだ。


 本来であれば、そこで村の防衛のために土塁や壁の建設に取り掛からせる判断もできただろう。

 しかし、その一方で、アルデミオンで魔候軍を撃退できれば……という、最後の期待も残っていた。


 アルデミオンは軍事的には最重要の拠点で、王国最強の城塞都市である。

 常駐する兵士の数は5千あまり。20名ほどで領地を守っているこちらとは雲泥の差だ。

 万を超える戦力で攻め込んだ魔候軍も占領した都市にいくらか軍を残すはずだから、アルデミオンを攻める戦力は侵攻当初ほどの大軍ではないだろう。

 アルデミオンで魔候軍を撃退できれば、という期待は、まるきり根拠のないものでもなかったのだ。


 しかし、もし、アルデミオンも落ちることになれば……。


 アルデミオンとマイエスタとは直線で10里ほど離れている。もし、魔候軍がこちらに進路を向けたとしても、1日はかかるはずだ。アルデミオンとは連絡を密にしている。異変があれば、やつらがやってくるまでにすぐ情報はつかめる。ただし、その場合、こちらが態勢を整えるための時間的猶予は1日ほどしかないのだが。


 「早馬からの便りはまだか?」

 フィリップは身体を沈めたまま尋ねた。アルデミオンに風雲急を告げる事態があれば、この怠惰な姿勢を改めて事にあたらなければならない。できれば、この姿勢のまま怠惰な時間を貪りたい。フィリップはけだるそうな目で執事を見つめた。

 「本日は3時の予定です。あと2時間といったところです」

 ガッデスはあるじの意図をつかんでいるのか、そんな答えを返す。フィリップはふたたび右手をふらふらと振った。「わかった。それまで、わたしはしばらく仮眠をとろうと思う。早馬が来るまではこの部屋には誰も通さぬようにしてくれぬか?」

 「かしこまりました」

 ガッデスは深々と頭を下げると、消えるように部屋から退出した。


 ひとりとなったフィリップは椅子の背もたれに全身をあずけると高い天井を見上げた。右手は胸をつかんでいる。

 最近になって、急に胸の奥に痛みが走ることがあった。それはほんの一時的なもので、すぐに収まるものだった。

 かつては城付きの医者がいたのだが、現在はいない。老齢となって引退し、後任を見つけられなかったのだ。こんな辺境の城までわざわざ来てくれる医者などいない。たいして報酬も高くないとなればなおさらだ。領主でさえ隣村に住む医者か、アルデミオンから外患を扱う医者に往診を頼まなければならないのだ。こんなすぐ収まる痛みのために医者を呼ぼうとは思えない。診察の結果、たいしたことがなければ診察費が『死に金』になってしまう。自分のことであっても無駄な出費は抑えたいのだ。


 しかし、例外もある。


 王都の別邸には娘を残している。名前はフロレッタ。彼と今は亡き妻との間に生まれたたったひとりの子どもだ。今年で17歳になる。

 彼女は現在、王都の女学校に通っている。貴族の娘だけが通う、世間で『淑女養成所』などと言われる学校だ。そこで教養、立ち振る舞いなどを身に着けさせるのだ。

 貴族のための学校なので授業料が高いのは当然と言えるのだが、フィリップはこれだけは惜しむことなくつぎ込んでいる。ほかならない娘のために。領地を治める立場であれば、他貴族との婚姻で自領の安定をはかるのは当然のことで、自分のしていることは領主として当然のことだと自分の心に言い訳をしながら。


 それは半分以上嘘だ。


 自分は意地のようにこの領地で頑張っているが、自分の死後はこの領地などどうなってもいいと思っているのだ。決して良い領主でなかったかもしれないが、今に至るまで領民との関係は良くならない。誰からも慕われない領主など継ぐものではない。それがフロレッタであれば、なおさらそうだ。あの子は心の優しい娘だ。他人からの悪意にさらされていい存在ではないのだ。

 教養を身に着けさせるのは彼女の人生の選択肢を増やすためだ。教養は良い縁談に結びつくことにもつながるし、もっと自由に生きるすべにもなる。フィリップはそう確信していた。あの子は幼いうちに母親を亡くし、寂しくつらい人生を歩ませている。だが、こんな陰気臭いところより華やかな王都で暮らすほうが、あの子にとって幸せだろう。娘に会えない寂しさより、娘の幸せを願う気持ちが勝っていた。だからこそ、娘にはマイエスタには帰らないよう言い聞かせている。それが父である自分の心からの願いであった。


 フィリップは天井を見上げながら大きく息を吐いた。胸の痛みはすでに消えている。

……ほら、すぐ収まった。


 フィリップは少し安心したように胸を撫でて目を閉じた。



29


 あれからひと月以上が経過したが、フィリップが心配した、アルデミオンへの侵攻はなかった。

 さらに、『解放戦争』で魔王を滅ぼした勇者の子孫から、新たな勇者が現れたという報せが入り、その勇者は次々と魔候軍を撃退しているという報せも入った。

 アングリアの解放に始まり、メネアでの攻防戦。勇者の活躍により劣勢だった王国軍も息を吹き返し、ついには王国内から魔候軍を追い払うことにも成功した。勇者率いる『勇者の団』はミュルクヴィズの森に逃げ込んだ魔候軍を追討するとのことだ。


 これで安心だ。王国北部は魔候軍に襲われる心配はない。


 フィリップは胸を撫でおろした。最近は胸の痛みに襲われる頻度が上っていた。以前は月に一度あるかどうかだったのが、このところ週に1回は痛みで胸を押さえることがあった。彼はその原因を心的なものだと考えていた。胸の痛み以外で不調と呼べるものがない。痛みが収まれば日常の行動に何も差しさわりがないのだ。遠方の医者を呼んでまで診てもらうほどでもない。


 領内の経済状況も上向き出した。皮肉なことに魔候軍侵攻のおかげである。

 魔候軍の進撃により、多くの街や村が破壊された。その復興として、木材の需要が上ったのである。領内の木材は高値で取引され、これまでにない活気であふれるようになった。

 需要が高まれば、領への訪問客も増える。

 このところ、新しい取引を求めて、各地の商人がフィリップを訪ねるようになっていた。これらの商談をまとめるのに、彼はまともに休む暇もなかった。この状況も医者を呼ばなかった理由になった。自分が病気であるなど商人たちに思われでもしたら、彼らはこれまで下手したての態度だったのが変わるかもしれない。商人というのは常にこちらの隙をうかがい、隙あらば自分たちの有利になるようつけ込んでくるものなのだから。


 その日も、数件あった商談の予定を終えて、ひと息つこうとしていたときだった。フィリップは窓辺に立って大きな伸びをした。


 「だ、旦那様!」

 ふだんは礼儀正しく、常に落ち着いていたガッデスが部屋へ駆け込んできた。扉をノックすることさえ忘れている。


 「どうした、ガッデス」

 フィリップは伸びの姿勢のまま振り返った。

 ガッデスの顔は蒼白で額から大粒の汗が流れている。


 「あ、アルデミオンに、魔候軍が侵攻を始めました!」

 ガッデスは大きく肩を上下させながら声を絞り出した。


 フィリップは両手を挙げたまま口が大きく開いてしまった。「何だと!」


 「現在、アルデミオンは大勢の魔候軍に取り囲まれており、街の守備隊が応戦している模様です。魔候軍はさらに周辺の街や村までも軍を広げており、魔候軍侵攻の影響はかなりの範囲まで広がっているようです!」


 フィリップの身体はふらふらと大きく揺れた。そのまま近くの机で両手をついた。机がなければ、その場で倒れこんでいたかもしれない。

 「が、ガッデス……」

 「はい、旦那様」

 「それは今着いた早馬の報せか?」

 「さようで」

 「実際の魔候軍の進撃はいつ始まった? 今朝のことか?」

 ガッデスは首を振った。

 「昨日の昼のことだそうです。昨日の早馬が出発したすぐあとに襲撃があったのだと」

 「昨日のことなのに、なぜ昨日中にその報せを届けに来なかった!」

 フィリップは大声をあげた。日頃はおとなしい彼でも怒りの感情を抑えることができなかったのだ。「緊急事態のための早馬だろうが!」


 「そのとおりでございます、旦那様」

 ガッデスは額に流れる汗をこぶしで拭った。

 「報せに来た者は、事態を報せるために昨日出発したのですが、魔候軍に捕捉されぬよう街道を避け、回り道をして来たとのことです。確実にこの情報を届けるために」

 それを聞いて、フィリップの身体から怒りの熱が急激に冷めていくのを感じた。

 「そうか、そうであったか……」

 フィリップは机の上に視線を落とした。「その者は今どうしてる?」


 「控え室で眠っています。昨夜は不眠不休で馬を走らせていたそうで」

 「そうか……。その者にはゆっくり休養をとらせてやってくれ……」

 「かしこまりました」ガッデスは頭を下げた。顔をあげたガッデスはその場を動かない。ガッデスの緊張した面持ちから彼が何を待っているのかわかった。

 いや、フィリップ自身もわかっていたことだ。早馬の使者をねぎらうより大切なことがある。今するべきは次にどんな指示を出すのか、だ。事態は急を要する。わずかな判断の遅れが最悪の事態を招くかもしれない。今は間違いなく非常時だった。


 「すぐ馬を走らせて巡回中の守備隊を呼び戻せ。夜勤の者を起こして村まで走らせるんだ。城下の村人は全員、この城に避難させる」

 「ただちに」

 ガッデスは命令を実行すべく、すばやく部屋から飛び出した。入れ替わるように守備隊長クルト・ヒューズが姿を現した。

 「レドメイン様、ドノヴァンが急ぎの報せがあって戻ってまいりました!」

 クルトがフィリップの前でひざまずくと、その隣に赤毛の若い兵士もひざまずいた。


 「かまわない話せ」

 フィリップの顔色は土のようになっていたが、それでも気丈な姿勢は崩さなかった。


 「第8伐採地に武装したゴブリンが現れました。数は50体前後かと思われます。現在、ヒギンスがゴブリンたちを牽制しながら木こりたちが避難する時間を稼いでいます。ただ、ヒギンスひとりなので長くはもちません。ただちに救援を!」


 「すでに現れていたか」

 フィリップは全身を震わせた。「で、今動かせるのは誰だ?」


 「ホプトとネッドのふたりがいますが……、彼らは乗馬が不得手なので救援は無理です。それ以外となると……」ドノヴァンが苦しそうな表情で答える。「隊長、私がすぐ第8伐採場へ戻ります」ドノヴァンはそう言うなり立ち上がった。

 「待て、ドノヴァン!」

 クルトはひざまずいた姿勢のまま怒鳴った。

 「お前ひとりが救援に行ってどうなる。

 さっき、ガッデスさんとすれ違ったとき、トーマスを探しているようだった。トーマスは馬に乗れる。あいつなら巡回に行っているほかの連中を呼び戻せるはずだ。お前はここで待機して、誰か戻ったらそいつと救援に向かうんだ。決して単騎で行こうとするな!」


 「は、はい……」ドノヴァンは蒼白の表情でその場に立ち止まった。


 フィリップはその光景を見ながら呼吸が苦しくなるのを感じた。

 クルトの判断、発言は正しい。状況としての理解として間違いがあるようにも思えない。しかし、フィリップはこの状況に強い違和感を抱いていた。そして、その答えを彼はすでに持っていた。

……かみ合っていない。対応のひとつひとつがかみ合っていないのだ……。


 かみ合っていない。


 まさにそのとおりだった。

 自分が指示した直後に守備隊長が現れ、新しい危機を知らされる。一刻を争う状況なのに、それに対応するためには部下をひとり『待ち』の状態にしなければならないのだ。 この城は人手不足で悩まされている。そんな状況にもかかわらず、だ。


 「ヒューズ隊長。私はガッデスに巡回中の守備隊を呼び戻すこと、夜勤で休んでいる兵士を起こして村へ走るよう指示を出した。

 兵も領民もこの城に集まり、敵を防ぐためだ。

 領民の避難はこれからだ。君にその対応を任せたい」


 クルトはさっと頭を下げた。「仰せのままに」

 クルトは立ち上がるとドノヴァンの肩に手を置いた。

 「ホプトとネッドはもう村に走っているかもしれん。君は門衛のふたりのうち、ひとりを裏門に回してそこで待機してくれ。裏門は守備隊が全員戻り次第閉める。その間の守備を頼む」

 「了解しました」

 ふたりはすでに出口に向かっている。「守備隊が戻ってからのことだが……」

 クルトとドノヴァンが去り、部屋にはフィリップひとりだった。

 フィリップは机に両手をついた姿勢のままだったが、苦労して身体を起こした。まだ身体がふらついている。魔候軍侵攻の報せは思っていた以上に衝撃だった。動揺が身体の不調につながっているに違いない。

 フィリップはそう思った。


 たしかに不手際はあるが、クルトは誠実に職務にあたっている。ドノヴァンは向こう見ずだが、それは仲間を案じているからであるし、彼もまた職務に忠実だ。

 誰ひとり、ふざけた考えで行動などしていない。誰もがこの危機を無事に、そして犠牲者を出さずに乗り切ろうとしている。


……やり遂げられる。私たちはこの困難に打ち勝つことができる!


 フィリップはこの部屋で一番広い壁に歩み寄った。そこには先祖代々受け継がれている大剣が飾られている。かつては父もこの剣を手に、魔獣討伐に出たものだった。

 今度は自分の番だ。この剣で攻め寄せるゴブリンどもを薙ぎ払ってくれる。


 フィリップは剣を手に部屋を出た。廊下を歩いていると、向こうからふたつの影が駆けてくるのが見える。フィリップがよく見ると、それは小さな女の子の手を引いた若い女性の姿だった。


 「君たちはたしか……」

 フィリップが立ち止まると、若い女性もフィリップの前で立ち止まった。少し髪を振り乱しているが、それでこの女性の美しさを損なうものではなかった。

 「ああ、ご領主様。このたびは城へ入れていただき、まことにありがとうございます。私はクルト・ヒューズの妻アルマでございます。こちらは娘のメリルです」

 アルマは深々と頭を下げる。メリルは母親のおじぎをくりくりした目で見つめていたが、フィリップに身体を向けると、母親と同じようにおじぎをした。母親を真似たらしい。

 「そうか、ヒューズ隊長の家族であったか」

 クルトは村の女性と結婚し、城の近くに住居を構えていた。アルマは城から近いおかげでいち早く非常事態を耳にすることができ、すばやく城へ避難できたのだろう。


 「ヒューズ隊長の家族が無事でなによりだった。さぁ、奥に進みたまえ。ロッタたちが領民の受け入れ態勢を整えているはずだ。願わくば、彼女の手伝いをしてもらえると助かるが」

 「もちろんでございます。夫からも何かあったときは城へ出向き、お役に立つよう言いつかっております。どうぞ、私のことはお気になさらず」

 アルマはもう一度お辞儀をすると、娘の手を取って奥へ走りだした。

 フィリップはふたりを見送ると正面を向いた。さっきまで心細さに近い弱気な気持ちが胸の半分を占めていたが、今はそんな弱気な感情は消え失せていた。

 確実に誰かを救っているという実感が湧いて、自信が生まれてきたのだ。それは闘志を燃え立たせることにも役立った。

 フィリップは歩みさえも力強く、城の中庭へ闘志に満ちた足を踏み出した。


 中庭には大勢の村人が集まっている。すでに連絡が伝わり、村人たちが避難してきたのだ。


 良かった。一時はどうなることかと思ったが、本当に良かった。


 フィリップは安堵の笑みを浮かべそうになって慌ててそれを引っ込めた。

 安心するのはまだ早い。まだ敵を撃退できていない。戦いはまだこれからなのだ。


 城門へ足を向けると、城門から「がらら」と大きな音が響いてきた。城門では数名の兵士が立っている。門衛を務めるアッシュとペイン、そして、ホプトとネッドだ。

 4人は城門を閉じたところだった。


 「これはご領主様」

 アッシュはフィリップに気づくや直立姿勢になって敬礼した。アッシュは大柄の男で、全身を鋼鉄の鎧で身を包んでいる。おかげ実際よりも大きく見えた。

 「ご苦労だ、アッシュ。門を閉じたのか」

 「ハッ。村へ避難を呼びかけた者が村人を引き連れてきましたので。村人によれば、遠くから何者かが集団で迫ってくるのが見えたとのことでした。ここを閉めてしまえば、やつらも簡単には侵入できません。我らはここでやつらを迎え撃つつもりです」

 アッシュは手にしている太い槍を持ち上げてみせた。門の扉は鋼鉄の格子状のものだ。この槍で格子のすき間から敵を突き殺すつもりなのだろう。


 「そうか。敵の規模などはわかっているか?」

 フィリップは格子越しに外を見やった。ここからは長い坂になっており、坂を降りきったところに村が見える。ここから見ても村は小さく思えた。


 「いえ、大勢だ、としか」

 フィリップの問いに答えたのはホプトである。


 「そうか。あとどれぐらいでここまで……、ん?」

 フィリップは目をこらした。村の家と家の間から何か黒いものが蠢いているようだ。よく見ると、それは黒光りする小さな胴体に革製の鎧で身を包んでいるようだった。

 「ゴブリンだ……。もう村まで来ている……」


 フィリップは緊張で額から汗が噴き出すのを感じていた。『あれ』がまもなく城へも迫ってくる。人生で初めて魔族との戦いが始まるのだ。


 様子をよく見ようと、フィリップはさらに目をこらした。そのとき、彼の目は小さな黒い群れ以外のものも視界に捉えた。

 「あれは、いや、まさか……!」


 彼が目にしたのは、ゴブリンたちに家から引きずり出された村人の姿だった。



30


 「な、なんだと!」

 フィリップは鉄格子をつかんで顔をそこにつっこんだ。「まだ村人が残っている!」


 フィリップの叫び声に、背後の4人は驚愕した表情を見せた。

 「ええ?」

 「そ、そんなはずは……」

 ホプトとネッドのふたりはフィリップの両側に並び、フィリップと同じように村へ目をこらした。フィリップの見間違いでないことを確かめると、ふたりはそろって鉄格子から身体を離した。

 「そ、そんな……」ホプトは声を震わせた。「たしかに村全体に避難を呼びかけた……」

 「避難に集まった村人を城まで連れて来たんです、俺たち……」ネッドは顔面蒼白でつぶやく。

 「全員集まったか確認しなかったのか、お前たちは!」

 フィリップは顔を真っ赤にさせて怒鳴った。怒鳴られたふたりは身をすくませる。


 「いや、今は怒鳴っている場合ではない。すぐに門を開けろ。村人を救い出すのだ」

 フィリップの指示にすぐ動き出す者はいなかった。気まずそうに4人は顔を見合わせるだけだ。

 「おい、早くここを開けろ、どうした?」フィリップは苛立った声をあげる。

 「ご、ご領主様、今、門を開けると、今度は閉めるのに時間と手間がかかります」

 「こ、この格子扉は完全な鋼鉄製で重いのです。さきほども4人がかりでやっと閉められたのです。これをまた天井まで上げるのは時間がかかります」

 アッシュとペインの声はどちらも遠慮がちだ。


 「それがどうした」フィリップの苛立ちも我慢の限界だった。感情が爆発しそうだ。


 「ご領主様、失礼します!」

 ネッドがフィリップに抱きつくと、そのまま扉から引き離した。フィリップは抵抗しながら「何を……」と声を荒げた。


 そのとき、「ゴツン」と大きな音が響き、目の前を小さな剣がきらめいた。フィリップは剣がつき出された方向に視線を向け、そして蒼ざめた。


 剣をつき出していたのは1体のゴブリンだ。それは格子扉にとりつき、格子のすき間から剣でフィリップを刺そうとしていたのだ。


 すぐさまアッシュが太い槍をつき出し、ゴブリンの胸を刺し貫いた。ゴブリンは口から血の泡を噴き出しながらその場でくずおれた。


 「この城にも敵が来ています。ご領主様、どうか奥へ!」

 ネッドはフィリップを引きずるように城門から離れていく。

 「ば、ばかもの! 村の状況を見ただろう。すぐ救助に向かわなければ……」


 「おそれながら申し上げます」

 ホプトはフィリップの耳もとに囁きかけた。「もう手遅れにございます」

 ホプトの言葉でフィリップは『はっ』とした表情を見せたが、すぐに怒りの表情に変えた。「何が『もう』だ!」


 フィリップはネッドの腕を振り払い、城の奥へと駆けだした。城門に向かうと身構えたホプトとネッドは困惑の表情を浮かべてあるじの背中を見送った。

 「おい、いいかげんこっちに来てくれ!」

 アッシュが梯子の手をかけた格好でふたりを呼んだ。「いくら門が頑丈でも、たったふたりじゃ戦いにならない!」


 それを聞いたふたりは慌てて門まで戻る。格子扉の前には無数のゴブリンたちがひしめきあって、力づくで扉を破壊しようとしていた。どこから持ってきたのか、ハンマーで叩いている者もいる。

 「そんな『小づち』じゃ、扉は壊せねぇよ」

 ホプトはハンマーを持ったゴブリンをからかうと、門の脇の梯子を駆け上った。この城の規模は小さいものの、城壁は異常とも思えるほど高い。城壁の真上へ出るには何本もの梯子を登らなければならない。ホプトが3本目の梯子に手をかけたときには息が切れかかっていた。ネッドはすでに速度が落ちて、まだ2本目の真ん中あたりだ。

 ホプトがようやくてっぺんに着くと、ペインが弓を放り投げた。「そら、頼むぜ」

 城門の上には弓と矢が備え付けられている。弓を受け取ったホプトはすばやく矢をつがえると矢窓から眼下の敵めがけて放つ。ホプトの放った矢は、城門に殺到していたゴブリンたちの1体の頭を真上から貫いた。「まずは1匹」ホプトは次の矢を手にした。


 ホプトたちが城門で奮戦している間に、フィリップは裏門に着いていた。その門の扉も固く閉じられている。

 「ヒューズ隊長。門を閉じたのか? 守備隊は戻ってきたのか?」

 フィリップは大声でクルトを呼んだ。守備隊が戻っていれば、彼らに村人の救出を指示するつもりだった。しかし、裏門に誰の姿も見えない。警備する者ひとりいない状況に、フィリップは不安感に襲われた。そこへ、ひとりの男が裏門そばの建物の陰から姿を現した。探していたクルトだ。

 クルトは扉の前に荷車を押しているところだった。荷台には大きな岩が載せられている。どうやら、裏門に重しをつけて、扉がこじ開けられないようにするつもりのようだ。こちらの門は正面の門より強度が劣るのだ。


 「これはご領主様」

 クルトは大粒の汗を浮かべながら、なおも荷車を押し続けた。

 フィリップは周囲を見渡した。「守備隊はどうした? 報告するんだ、ヒューズ隊長!」


 クルトは荷車を扉に押し付け終わると、ようやく身体を離し、額の汗を拭った。扉からは何ものかが扉を激しく叩く音が聞こえている。

 「ご領主様。守備隊はまだですが、門を閉じざるをえませんでした」

 クルトはフィリップの足もとを指さした。「敵がもう来ていたんです」

 フィリップは自分の足もとに目を向け、そして、飛びずさった。気づいていなかったが、そこにはこと切れたゴブリンが倒れていたのである。フィリップは夢中で駆けこんできたので、足もとにゴブリンの遺体が転がっていることを認識できなかったのだ。


 「君が倒したのか?」

 「こいつはドノヴァンが仕留めました。ドノヴァンはなおも入り込もうとするゴブリンたちを追い払いながら門の外に出ました。彼にはこのまま裏山まで移動させて戻ってくる守備隊と合流させるつもりです」

 「君は彼ひとりに門の外の敵を対処させるつもりか?」

 「ドノヴァンは重装しています。あいつならもうしばらくはもちこたえられます。裏門の敵を牽制しつつ、守備隊に城の状況を伝えられるのはあいつしかいません」

 「だからといって危険すぎる! ドノヴァンはその命令を素直に飲んだのか?」

 「もちろんです、ご領主様」

 クルトは真剣な表情で答えた。「それに、あんな指示を出さずとも、あいつは城外に飛び出していましたよ」

 「単騎で飛び出すなと言ったのは君だろ!」フィリップは大声をあげる。「それなのに、なぜ……」

 「状況が変わったのです」クルトの声は冷静だった。

 「敵はすでに城を取り囲んでいます。この状況では守備隊も簡単に城へは戻ってこれません。無理に戻ろうとすれば敵に囲まれて捕まるか殺されてしまうでしょう。

 ここは城から距離をとり、我らが得意とする『あい路』に誘い込んで敵を叩く策をとります。状況が不利になれば馬で離脱。また誘い込んで叩く。この繰り返しで敵の数を減らします。敵の数はそれほど多くないと見ています。この作戦であれば負けません」

 「たしかに負けないだろう」フィリップは認めた。「しかし、その間に領民たちが犠牲になるのだぞ」

 「城内に大勢避難してきましたが……」そこで初めて、クルトの表情に動揺が見られた。「まだ、逃げ遅れている者が?」

 フィリップはすぐに答えず、無言で扉を見つめた。扉は相変わらず、どん、どん、と大きな音を響かせている。相手は扉の破壊を諦めていないようだ。

 クルトはフィリップの前に立った。顔色が完全に蒼白だ。「つ、妻は? 娘は避難していないのですか?」

 「安心したまえ。君の家族は城に避難している。君の細君は我々に協力を申し出てくれている。無理のない範囲でお願いしたところだ」

 それを聞いて、クルトの全身から力が抜けたようだ。彼はひざを落としながら、「良かった……」とつぶやいた。

 「しかし、正門から村を確認したとき、敵に引きずり出される領民を見た。逃げ遅れた者はいるのだ」


 「ご領主様、今の話は本当かい?」


 フィリップは弾かれるように振り返った。彼の背後にひとりの女が全身を震わせて立っている。その顔には見覚えがあった。村で一番人気がある食堂のおかみだ。

 「マッタ。どうした?」

 「教えておくれ、ご領主様。村にはまだ逃げ遅れている者がいるんだね?」

 マッタの目から涙があふれ出した。

 「あのひとが……、あのひとがいないんだよ、この城に。いくら探してもいないんだよ、ご領主様!」

 マッタは涙ながらにフィリップにすがりつく。フィリップの顔が蒼ざめた。「まさか、ご主人のことか?」

 マッタは涙を拭いながらうなずく。「あのひとは今日、村はずれの集会所に出かけたんだ。役員さんたちの会合があって、そこに弁当を届けるためさ。こんな騒ぎで周りのことなんかわからないから、取るものもとりあえず城にやってきたら、あのひとの姿がないじゃないか。名前を呼んでも応えがない。誰に聞いてもあのひとを見たって答えてくれない。間違いない。あのひとはまだ外にいるんだよ。ご領主様、あんた、あのひとが避難できていないのに門を閉めちまったのかい?」


 「い、いや、私は……」

……領民すべてを避難させるよう指示したんだ!


 フィリップは最後の言葉は口にできなかった。彼の目はすでにマッタではなく、その背後に向けられていた。


 そこには大勢の領民の姿があった。誰もがフィリップと同じように蒼ざめた顔で立っている。しかし、その目に宿っているのはフィリップとは違い、怒りの感情だった。


 フィリップは背筋にぞくりとするものを感じた。これまで感じたことのないものだ。領民との関係は良好とは言えないまでも敵対的なものではなかった。彼らの関心は日々の暮らしがこれまで通りに続くかどうかであり、領主がどんな人物なのか、どのように領を治めるのか、まるで気にしていなかったからだ。


 しかし、今の彼らは違う。彼らの無数の視線がフィリップの一挙手一投足に集中している。何を発言するのか耳をすませている。それは関心によるものではない。ここでフィリップが何か発言すれば、それを合図に襲いかかろうとしている。フィリップはそんな考えが頭をよぎり、背筋が凍ったのだ。


 「どうしたんだい、ご領主様! 何か言っておくれよ、ご領主様!」

 マッタはすがりついたまま訴える。そこには日頃豪快で、陽気なおかみの姿はない。夫の安否をただただ案ずるひとりの女性の姿があるだけだ。フィリップは身体を揺すられるまま呆然と立ち尽くしていた。


 「お、おい、ご領主様に何をしてるんだ、マッタ!」

 クルトはふたりの間に割って入ると、力づくでマッタの手を引き剥がした。腕をつかんだそのままの体勢でマッタをフィリップから引き離そうとする。

 「放して、放してくれよ、このろくでなし!

 あんたたちはなぜ、うちのひとや村のひとを助けにも行かず城のなかに閉じこもっているんだい?

 ご領主様もあんたも『騎士』なんだろ?」

 マッタはクルトの手を振り払おうと抗いながら大声をあげる。


――『騎士』……。事実だ。


 フィリップは数歩後ろへよろめきながら思った。

 『騎士』とは王国を守る『盾』であり、敵を打ち払う『剣』でもある。

 フィリップの先祖は、『解放戦争』で後にギデオンフェル王国を建国するディクスン・メリヴェールとともに魔族と戦った『騎士』だった。戦争での功績により所領を与えられる身分となった。フィリップの家系はいわゆる分家筋で所領も小さいが、『騎士』の血を引いているということの誇りは本家にも劣らない。いや、劣らないと信じていた。


 そんな信念に近い誇りが今、大きく揺らいでいる。

 自分は何をしている? なぜ身体が動いていない? マッタに言われるまでもないだろう。自分はどういう『責任』を背負い、こんなときにどう行動すべきかわかっているはずだ。

 わかっている? 何を?

 戦況はまったく不明だ。主要な戦力は城外にいる。敵の状況を知ろうにも、人数が足りないので、そこまで対応できる者がいない。だからと言って、自分が物見やぐらに昇ったとして、戦況を理解できる自信がもてない。


 では、自分は何ができる?

 『騎士』の血を引いていると言っても、引いているのは歴史だけで、自分に剣の才能はない。そもそも剣の腕を磨いてはいなかった。もし、剣を振りかざしてゴブリンたちと相対しても、1体すら討ち取れず返り討ちになることは間違いない。これまで自分が領主でいられたのは、このような非常時に見舞われていなかったからだけだ。大きな成果を残しはしなかったが、目立った失政も犯していない……。それだけで自分のことを高く評価していたのだ。

 だが、今はどうだ。

 今の自分に誇りに見合う行動ができるのか? 先祖の魂に、いや、自身の魂に泥を塗らない何かが。


 今の彼ができるのは、こうして無言で立ち尽くすだけだ。さきほどまで燃え上がっていた闘志は完全に鎮火してしまった。

 彼を突き動かしていたのは領主であるという義務感からだ。しかし、義務を果たそうと行動したことがことごとく空回りし、何もできていない。彼ができるのはせいぜい……。


 「私は精いっぱい努力した。領主としてできることをやった!」

 なけなしの自尊心を守るための言い訳だった。


 「それがどうしたんだい? やることやって、それでうちのひとは魔族どもの群れのなかに取り残されているって言うのかい?」

 マッタから当然のような抗議が返ってきた。クルトはマッタの腕を持ち上げながら「よさないか、マッタ!」と怒鳴りつける。


 悪くない。私は悪くない。私はいい加減な態度でこの非常時に臨んでなどいなかった。ただ、結果が伴わなかっただけだ。そうだ。それだけなのだ……。


 フィリップはなおも抗議を続けようとするマッタに向かって、反論しようと息を吸い込んだ。肺に力を入れて言葉を発しようとした瞬間――。


 フィリップの胸を激しい痛みが貫いた。


 何かが自分の胸に手を突っ込み、心臓を握りしめたかのような激痛。これまでもたびたび起きていた胸の痛みが、何倍もの痛みとなって自分の胸を締め付けた。

 フィリップは自分の胸をつかむようなしぐさをすると、その場にくずおれた。自分の心臓をつかんだ手の正体が死神であることを彼は直感的に悟った。


 「ご領主様!」

 クルトはマッタの腕を放すと大声で叫んだ。すぐさま倒れているフィリップのもとへ駆け寄る。

 「ご領主様、お気を確かに。ご領主様!」

 フィリップはクルトの叫び声を遠く感じながら意識を失った……。



31


 死神がどんな気まぐれを起こしたのか、フィリップは一命をとりとめた。


 正確にはあのときは死ななかった、と表現すべきかもしれない。フィリップは3日ほど意識を失っていたが、目覚めたとき彼は身体を起こすことすらできなくなっていた。多少は状況を理解し、判断する能力は保っていたものの、多くの時間はぼんやりと天井をベッドから見つめるばかりだった。


 意識を取り戻してまもなくのころ、フィリップは現在の状況を尋ねた。

 ガッデスの報告では、魔候軍はすでに撤退していた。敵は城を取り囲んだものの、簡単に落とせないとわかるや、その日のうちに撤退したのである。

 城はほぼ無傷だったが、村はひどい状況だった。

 多くの家屋が破壊され、食料や衣類などが略奪されていた。破壊された家屋のなかには、残骸にうずもれた数名の村人の遺体が見つかった。いずれも激しく抵抗した痕跡があり、抵抗むなしく命を落としたのだとうかがえた。それを知った人びとは悲しみを新たにした。

 遺体のなかにマッタの夫は含まれていなかった。ほかの行方不明となった村人たちと同じように姿を消してしまっていたのだ。

 多くの村人が城へ避難したにもかかわらず、行方不明者は村のほぼ半分の50名あまりに及んだ。

 行方不明者には木の伐採に山へ入った者も含まれた。料理人見習いのトーマスが馬を駆って守備隊に合流できたのは魔候軍襲来から1時間も経ったときだった。守備隊は部隊を半分に分け、その1隊は山へ入った村人を保護すべく馬を走らせたが、彼らを見つけることがなかなかできなかった。伐採地域はかなりの広さがあり、守備隊は彼らが今日どこの地域で伐採作業をするのか知らなかったからである。

 守備隊が現場を見つけたとき、そのときはすでに事が終わったあとだった。つまり、あたりはそこら中に血しぶきが飛び散っており、数名の遺体が倒れているだけだったのだ。ここも村と同じく、ほかの村人の姿はなかった。ひとり戦っていたヒギンスの姿も見えなかった。

 死者数は村と山へ入った者と合わせて10名弱だった。『討伐戦争』そのものとしての犠牲者数からすれば、はるかに小さい数字かもしれない。それでも、生き残った村人たちを大きく悲嘆させる甚大な被害だった。


 こうした話を、フィリップは虚ろな表情のまま無言で聞いていた。特に感情を揺すぶられた様子も見られなかった。ガッデスが報告を終えると、「そうか」と、かすれた声でつぶやいたのみである。


 ただ、ガッデスが退出したあと、ひとり残ったフィリップは目を閉じて涙を流した。

 自分の無力感に打ちひしがれ、心は後悔と慚愧ざんぎに満ちていた。彼は自分自身を憐れむ気持ちを恥じながらも感じずにはいられなかった。ただただ心が苦しい。彼は自分が涙を流す理由を誰にも知られたくなかった。彼は一晩中泣き続け、翌朝にはすべての感情を捨て去った。


 あれから何日か過ぎたが容体は快方に向かわない。フィリップの周囲にいる誰もが彼はもう長くないと感じていた。

 自分の命が長くないのは彼自身も悟っていたことだったが、たったひとりの身内であるフロレッタが城へ戻ることは固く禁じた。戦争が終わっておらず、魔候軍がふたたび襲ってくる可能性があったからだ。城が襲われずとも、帰る道中で遭遇することもある。娘の安全を望むなら当然の判断と言えた。


 しかし、それは建前で、本心はみじめな自分の姿を娘に見られたくない気持ちもあったのではないか。彼は医者とガッデス以外は、誰とも顔を合わそうとしなくなっていたのだ。


 城の外では領主に対する非難と恨みの声が沸き起こっていた。フィリップは頑なにその声を聞こうとせず、その態度が村人の感情を逆なでさせた。領主と領民との亀裂はさらに深いものとなってしまったが、彼自身はそれを修復しようともしなかったばかりか、その考えそのものも放棄してしまっていた。彼はすでにこの世から消え失せたいとばかり願っていたのだ。


 ここにきてようやく、死神はフィリップの心臓にふたたびその手を伸ばした。

 完全な失意と絶望の底、領民からの怨嗟を一身に受けたままフィリップは世を去った。享年45歳。魔候アルタイルが勇者に倒され、『討伐戦争』が終わったのはそれからまもなくのことだった。

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