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黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 5

19


 メルルは背筋を伸ばした。「その言い方だと……」

 ドニーはおどけたように両手を挙げた。「正解だよ。あの魔法陣を壊したのはオレさ。警備のふたりに睡眠薬入りの酒をふるまって眠らせたというのもそうさ」


 「な、なぜ……!」

 メルルは怒りが湧き上がるのを感じながら言葉を絞り出した。


 「そうせっつくなよ。正直に話すからさ」

 ドニーはメルルを押しとどめるように両手を動かした。

 メルルは頬をふくらませたが、それ以上は何も言わなかった。

 「まずはこれを見てくれ」

 ドニーは向かい合っていたテーブルの下に手を伸ばすと、そこから一通の紙切れを取り出した。テーブルの裏に何らかの方法で貼り付けていたようだ。それはふたつに折りたたまれている。

 ドニーはそれを広げるとテーブルの上に置いた。レトはちらりとメルルに視線を向けてから紙切れに手を伸ばした。

 メルルはレトのほうへ身体をかたむけてレトが手にした紙切れをのぞきこんだ。


――解呪ノ儀式ハ止メロ。サモナイト命ノ保証ハナイ。


 「これはいつ届いた?」

 「魔法陣の構築を始めて3日目の朝。扉のすき間から差し込まれていた。魔法陣はほとんど完成して、あとは調整をしているところだった。その調整も2日で終わるほどだったよ」

 「脅迫状ですね……」メルルはつぶやいた。

 「解呪の仕事をしてりゃ、たまにこういう脅迫を受けることはある。間違いなく呪っている陣営からね。ただ、今回問題なのは……」


 「明らかに内部からの脅迫だった、ということか」

 レトは紙切れをひっくり返すなどして調べながらつぶやいた。


 「外部の人間が城内に忍び込んで、わざわざオレの部屋まで訪ねてくるなんて考えられないんでね。そもそも、オレがどの部屋に泊っているのか外部の者が知っているかとなればなおさらだ」


 「じゃあ、魔法陣を自ら壊したのは……」メルルは遠慮がちに声を出した。


 「そ。脅迫されたから」


 メルルは思わず「かる!」と言いそうになった。


 「正確には時間稼ぎ、というわけか」レトが考え込みながら言った。「それと、妨害者のあぶり出しにつながるか試すためか」


 「そこまで正解を言ってもらえて助かるよ。説明を省くことができる」

 ドニーの声は満足そうだった。


 「だからってどうして? 魔法陣を壊さずに、すぐ私たちを呼んでくれればいいじゃないですか」

 メルルのほうは不満に満ちた声だ。


 「たしかに、わざわざ騒ぎを起こさなくてもいいだろうがね。魔法陣はもうすぐ完成というところまで来ていたんだ。もし、魔法陣に異変のない状態であればオブライエン候はすぐにでも儀式を行なうことを要求しただろうし、断りにくいな。その場合、オレが殺される危険が高まる。レトの旦那が着く前に殺されるかもしれない。

 ただ、今回のように魔法陣が何者かに壊されたとなれば、オレは儀式を伸ばす口実ができる。妨害者からすれば、自分以外で解呪の儀式を妨害する存在が現れたことになる。自ら行動しなくても儀式の妨害ができるならしばらく静観するだろう。こっちに何か仕掛けるのは自分の正体がバレる危険もあるってことだ。あっちだって、そんなリスクは減らしたいだろうからな。

 まぁ、オレが自分で魔法陣を壊したのはそんな事情だよ」


 わかってみればそれほど意外な事情ではなかった。しかし……。


 「自分の身を守るために、せっかく構築した魔法陣を壊したんですか?」

 メルルの声には非難する気持ちがこもっていた。


 「おかしいことかい?

 最初に話したけど、オレは商売でここに来てるんだ。金儲けだよ。金儲けってのはあらゆる危険を事前に察知して回避することが求められる。そうしないと大損してしまうからね。まぁ危機管理ってのは商売の基本だよ。自分の命を守ることは当然じゃないか」


 「でも、そのせいでフロレッタさんが呪いから解放されるのが先延ばしになっているんですよ!」

 「もともと2か月の期間契約を結んでいる。今回のようなトラブルだけでなく、不測の事態はいろいろ起こりうるんでね。期間は長めに設定してある。先方は先延ばしにされていると考えていないさ。なにせ、まだひと月も経っていないんだからな。そして、実際にトラブルが起きた。オレとしては安全にかつ確実に仕事を終わらせるためにできるかぎりのことをしている」

 「安全、確実!」メルルは大声になるのを抑えながら怒りの声をあげた。「だったらなぜ、私たちに魔法陣を壊したのは自分だと申し出なかったんですか? 私たちはバカみたいに魔法陣の壊れ具合やら壊すのに使用した道具やらを探し回ったんですよ! ドニーさんが話してくれたら、私たちはすぐにでも呪いをかけた人物の捜査に向かっていますのに!」

 「君たちに事情を説明しなかった理由がそれさ。

 先に種明かしをしてしまったら、君たちは魔法陣を壊した犯人捜しもせずに呪術者捜しを始めてしまう。それじゃ困るんだ。そんなことをされると妨害者はすぐに、魔法陣を壊したのがオレの自作自演だと気づいてしまうだろうからね。そうなるとオレの身に危険が迫ってくることになる」

 「なるほど」レトはうなずいた。「それはたしかに道理だ」

 「レトさん!」メルルはレトに顔を向けた。「なんてことを言うんですか!」

 「ドニーの考えが理解できたって言っただけだよ。別に賛成しているわけじゃない。正直、余計な捜査をさせられたと不快に思っている部分もある」

 「それについては申し訳なく思っているよ」

 ドニーはこれまでの笑みを引っ込め、本当に申し訳なさそうな声で言った。

 「ただ、オレとしても下手を打つわけにはいかなかった。せっかく呼んだ探偵がしょぼい捜査しかできなかったら仕事の完遂はおろか、妨害者に殺されてしまうかもしれないからな。この魔法陣破壊事件を簡単に解決できなければ、妨害者の捜査も期待できないじゃないか」

 「……つまり、今回の事件は僕たちの実力を測るテストも兼ねていた、と」

 「旦那の評判は聞いている。だが、それをまるきり鵜呑みにするほどオレもお人よしじゃないんでね」

 レトは呆れたように首を振った。「やれやれ。それで、このテストに僕たちは合格できたのかな?」


 「もちろんだ」ドニーは身を乗り出した。「だから改めて依頼したい。オレの命を狙う妨害者と、姫様の呪いをかけた呪術者を見つけ出してほしい」


 「……君も呪術者と妨害者は別々だと考えているんだね?」レトはドニーの依頼にすぐ応えずに尋ねた。


 「脅迫状が送られた状況から、妨害者は城内の者と考えられる。一方で、姫様に呪いをかけるにはけっこう複雑な仕掛けが必要だ。オレも城内をあちこち歩き回ったが、それらしい魔法陣は見当たらなかった。兵士たちの部屋は数名ごとの相部屋だ。誰かが変な魔法陣を展開していたらすぐ見つかる。まぁ、兵士たちに魔法のできる者はいないから、その可能性はほとんどないんだがね。とにかく、城内に呪いの魔法陣は見つからなかった。

 たしかに城勤めの兵士のなかには日常的に城外に出ている者はいるが、彼らは単独行動をとらない。魔犬がうろつく危険な森を巡回するんだからな。彼らが呪術者である可能性も限りなく無いに近いと思う。

 結論を言えば、城内に呪術者はいない。オレはそう考えている」


 「だから、僕たちが呪術者の捜査を優先させると、妨害者の捜査がおろそかになると心配したわけだ。それで自作自演の事件で僕たちを巻き込んだ。早く城内の妨害者を見つけ出して安心させてほしい、てね」

 レトの全身から力が抜けたようだった。完全に気が抜けたらしい。メルルもがっくりと肩を落とした。「ほんと、自分中心で考えているんですね」


 それを聞くと、ドニーは片手を頭の後ろにやって笑顔になった。

 「そんな……、褒めるなよ」


 「褒めてない!」メルルだけでなく、レトも同時に声をあげた。



20


 「ところで、まじめな話に戻そうと思う」

 ドニーはレトが手にしている紙切れを指さした。「それから何かつかめそうか?」


 「勝手に話を戻そうとしないでください」メルルはぶすっとして言った。「それに正しくは『話を変える』です!」


 「旦那の助手はきついねぇ」ドニーはメルルの態度を気にする様子も見せず、平然とそんなことを言う。


 そんなやりとりの間、レトは紙切れをさっきと同じようにひっくり返したり、透かして見たりしながら調べていたが、やがて首を横に振った。

 「当たり前の上質紙だ。インクにも特徴的なものが見られない。専門の器具で細かな分析ができれば話は変わるかもしれないけど、そんなものが手元にない現時点では手がかりと言えるものは見つけられないな」


 「筆跡はどうです? こんな直線的な筆跡なんて見たことないですけど」

 メルルが横から指摘すると、今度はドニーが首を横に振った。

 「お嬢ちゃん、気がつかなかったのかい? これは定規を使って直線で文字を書いたものだ。そうでなきゃここまでカクカクした文字なんてふつうは書けない」

 「ドニーさん、その知識はどこから?」

 「脅迫状を受け取るなんてのは、この仕事にはつきものなのさ」


――おいおい。


 メルルは呆れて声も出なかった。


 「こんな危険には慣れている、と」

 レトは紙切れをテーブルに置きながら言った。「そして、それを回避するために他人を巻き込む方法も熟知している、と」


 「怒っているのかい、レトの旦那?」

 「怒ってはいない。でも、少々不愉快ではある」

 「まぁ、引っ掛けるようなやり口でここに呼んだのは悪かった。謝るよ」

 ドニーは素直に頭を下げた。

 「でも、オレも殺されたくないんでね、仕方がなかったんだ」


 「その話はもういい。妨害者の話に戻そう」

 レトはソファから立ち上がった。


 レトは部屋のあちこちを歩きながら周囲に目を向けている。メルルが何をしているのだろうと見ているうちに、やがてレトはソファに戻ってきた。


 「何か仕掛けでも見つかったかい?」ドニーはレトに尋ねた。

 「いいや」レトは首を振った。「盗み聞きされるような仕掛けも、君に危険が及ぶような罠の類も見当たらなかった。少なくとも術式を使ったようなものは」


 「なるほどね、術式の罠、か……」ドニーはうなずいた。「さすがレトの旦那。用心深いねぇ」

 「脅迫されているくせに君のほうがのんきだ」

 レトはソファに座った。「とりあえず、ここで話すことが外に漏れる心配はないようだ」


 「その……、妨害者って、フロレッタさんを呪った人物と関係があるのでしょうか?」

 メルルは落ち着かなく身体を揺らしながらつぶやいた。命を狙われているのはドニーのはずなのに、メルルのほうが怖くなってきたのだ。


 「それについては現時点で判断できる材料はない」

 レトは、はっきりとした口調で答えた。

 「それを明らかにするには、フロレッタさんに呪いをかけたのが誰かつきとめなければ」


 「念のための確認ですが、この城で魔法に通じているのは執事さんだけですか? ガッデスさんご自身は『いない』って言ってましたけど」

 メルルはドニーに尋ねた。そもそもの話、呪いをかけることができるほど魔法に通じた者でなければ不可能な話だ。そうであれば、魔法を使える者が誰かを確認したほうが早い。メルルはそう考えたのだ。


 「今の時代、多少の資質さえあれば誰でも魔法の習得はできるようになった。でも、兵士含めて魔法の修業をした者はいない。はっきりしているのはガッデスだけだな。魔法の知識を少しでも持っているのは。

 たしかに、ガッデスは姫様が呪われていることに気づくことはできた。

 でも、あの執事でさえ魔法に通じているとは言い難いな」

 ドニーは両手を頭の後ろで組んで天井を見上げた。


 「どういうことです?」メルルは首をかしげた。


 「さっき、ガッデスさんと話したとき、彼はあの呪いの魔法陣を『ドナテロ陣形』だと言った。覚えているかい?」

 レトが代わるように答えた。メルルはレトに顔を向ける。「覚えています」


 「『ドナテロ陣形』という魔法陣の方式はけっこう古いんだ。魔法陣の研究はここ20年で大きく進んでいる。あの呪いの魔法陣はもっと発展したもの、『バシェー』か『ラックス』の方式を使ったものだと僕は見ている。いずれも20年の間に生み出された方式だ。君だって『脱力の陣』で馴染みじゃないか」


 言われて気づいた。「『脱力の陣』はラックス方式の術式です!」


 ドニーが片手をひらひら振った。

 「今の時代、少しは魔法をかじった者であれば知ったかぶり程度でも『ラックス』ぐらいは口にする。でも、あの執事さんは『ドナテロ陣形』なんて、カビの生えた言葉を使った。ここ最近の知識がないのさ」


 「あれは『ドナテロ陣形』の魔法陣ではない……?」

 「間違いなく、ね。昔の魔法陣は構造が複雑怪奇でゴテゴテした印象のものが多かった。あの呪いの魔法陣は構造こそ多重的で複雑だが、全体的にはすっきりとまとめられた形状をしている。まぁ、多重的って時点で『ドナテロ陣形』じゃないんだけどね。あれは平面的なものだ」

 ドニーは淡々と説明する。メルルはだんだん恥ずかしくなってきた。いくら修業期間が短かったとはいえ、魔法使いを目指して勉強してきたはずなのだから。


 「魔法の研究は、まったく発展しないこともあれば、急に進むこともある。それは天才が現れるかどうかにかかってくる。魔法陣の方式をあそこまですっきりさせたのは、とある魔導士の存在のおかげだね」

 ドニーはまるで先生のように説明を続ける。メルルはこの機会にこれまでの無知を埋めようとドニーに解説の続きを促した。「どんな魔導士です?」


 「ひょっとしたら、君も名前ぐらいは知っているんじゃないかな?」

 ドニーはメルルを試すような表情で答えた。


 「元宮廷魔導士長、ザバダック」



21


 あれっ?

 メルルはレトに反射的に視線を向けた。

 視界の端でレトの表情が大きく動いた……、驚きの表情を浮かべたように見えたのだ。


 しかし、メルルが見たレトの表情はすでに無感動に近い、何の感情も見られないものだった。レトの表情の動きはほんのわずかのものだったようだ。


 「お嬢ちゃん、どうかしたかい?」

 メルルはドニーの言葉で我に返ると正面を向いた。「い、いいえ。ザバダック……でしたっけ? 全然聞き覚えがありません」


 「そうか、残念だね。まぁザバダックのほうが、だけど」

 ドニーは片手をぶらぶらと振る。

 「ザバダックは魔法大学院の院生時代に、魔法陣の構成を単純化させることに成功した。

 それが現在『ラックス』と呼ばれる方式。これまで複雑怪奇で構築に時間がかかった魔法陣をかなり簡略した形で再構成してみせたんだ。それにより構築にかかる時間を大幅に削減。すごいものだと8割以上削減できたっていうんだから、天才が現れると時代が一気に進む典型例だね。彼は後に宮廷魔導士として活躍し、歴代最年少で宮廷魔導士長にまで上り詰めた」

 「……すごいひとですね」メルルは本気で感心してつぶやいた。

 「ああ、すごいひとさ。ただ変わり者でもあった。面倒くさがりで、まじめに仕事をしようとしなかった。そもそも魔法陣の簡略化を考えついたのも、これまでの魔法陣を構築するのが面倒だったから、というのが動機だったんだ。

 あれ、レトの旦那、おかしいか?」


 見ると、レトの顔がほころんでいる。いや、少し笑うのをこらえているようだ。

 「いや、話を続けてくれ」


 「まぁ、続きと言ってもたいした話は知らないが、まぁいいか。

 ザバダックはルチウス王太子殿下の家庭教師を務めたが、それ以外でひとに教えたことはない。弟子もとらなかった。まぁ、それが結果的に地位を追われることにつながった。政治的地盤が脆弱だったせいで派閥の力学に抗うことができなかった。2年前の討伐戦争で最前線に送り込まれる羽目になったんだ。宮廷魔導士長なのに。彼はその戦争で戦死した、とのことだ」


 「ザバダックって方は派閥抗争に巻き込まれて、戦地に飛ばされたんですか?」

 「……という噂だ。まぁ、天才は妬まれ、疎まれるものさ。世の中、何の才能もない者ほど権力抗争に強い。なぜなら、やつらは徒党を組んで数の暴力で攻めてくるからだ。どんな強者も多数でかかられるとかなわないってね」


 「現在も生きていらしたら、新しい術式も編み出されたんでしょうね。残念です」


 「そうだね。そう思うよ」ドニーはうなずいた。


 「まぁ、その話はともかく、ガッデスさんが自身の魔法の知識について嘘をついていないと考えていいようだね」

 レトは静かな口調で言った。メルルはレトの横顔に疑問を投げかけた。「どうしてそう思うんです?」


 「ガッデスさんが魔法の知識に通じていると見せかけるには無知すぎる。逆に、魔法に通じていないふりをするにはドナテロ陣形の話は中途半端すぎて下手すぎる。どっちに見せかけるにも失敗だからね」

 「魔法に通じていないふりをする必要なんてあります?」

 「あるだろ、そりゃ」メルルの疑問にドニーが口を挟んだ。「自分がフロレッタを呪った犯人だと思われないようにするため、とか」

 「僕はあの場であの魔法陣が『ドナテロ陣形』でないことを指摘しなかった。

 もし、ガッデスさんが自分を容疑者から外してもらうため、わざと言ったんだとしたら狙いを外したことになる。そのままでは困るから別の話題を振ったり知識を見せたりしただろう。でも、ガッデスさんは当たり障りのないことしか話さなかった。つまり、あれがありのままのガッデスさんの姿だということだ」

 ガッデスにいろいろ尋ねたとき、レトは何かつかんだようなことを匂わせていたが、それがこれなのだろう。メルルは直感的に思った。レトはこれまで出会った人物の正体、それが言いすぎであれば実体を探っていたのだ。注意深く、冷静に。そして、狡猾に……。


 「レトさんは城内にフロレッタさんを呪った人物はいないって言ってたくせに、ガッデスさんを容疑者にしてたんですね?」

 自分でも皮肉っぽいかなと思ったがメルルは思わずそんなことを口にしてしまっていた。

 しかし、レトはメルルの皮肉な言葉を気にする様子も見せなかった。

 「何ごとも確認は必要なんだ。たとえ、自分ではもう大丈夫だと思っていることでも。僕は完璧の存在じゃない。勘違いだって間違いだってする。機会があれば、完全に見落としがないと思えるまで確認は続けるよ」

 それが、レトさんが間違えないでいる理由ですね? 簡単には真似できないです……。

 メルルはそんなことを思ったが、言葉にはできなかった。


 「これまでにわかったことを整理してみよう」

 レトが人差し指を立てて言った。

 「ひとつ。

 フロレッタさんは城外の何者かに呪われた。理由は城内にフロレッタさんを呪うことができるほど魔法に通じた者がいないこと。それと呪いの魔法陣が見当たらないこと。城が広いといっても限度がある。実際にドニーが解呪の魔法陣を構築するのに適当な場所は中庭ぐらいしかなかった。また、城全体を魔法陣化したのだとすれば、今ごろドニーが気づいているはずだ。同じことをしている最中だからね」

 「たしかにそうだね」ドニーは認めた。

 「ふたつ。

 妨害者は城内にいる。あるいは出入りの自由が許されている者だ。

 この城は夜が明けるまで誰も出入りできなくなる。ただし、夜が明ければ食料など必要品を搬入するためにひとの出入りはあるはずだ。その人物であれば、ドニーに脅迫状を送りつけるのは一応可能ということになるので考えとしては除外しないでおく。とはいえ、ドニーが寝泊まりしている部屋を把握しているという条件がある。その意味では出入りの者という線は弱いんだけどね」

 「そうだと思います」メルルはうなずいた。

 「そこで明日は城下の村を調べる。基本的には城に出入りしている業者から聞き込みを始めようと思う。そこから妨害者まで手繰れないか試すつもりだ。心配そうな顔するなよ、ドニー。呪術者捜しに集中するわけじゃない。君は解呪の儀式の準備に専念すればいい。たとえ、こっちが妨害者をつきとめられなくても解呪に成功すればこちらの『勝ち』だ。首尾よく解呪できれば、僕たちは君を無事にレドメイン領から連れ出してあげるよ。妨害者に仕返しなどさせない」

 「頼むよ、ほんとに」そうつぶやくドニーの声は少し弱々しい。

 

 そのとき、扉をノックする音が響き、3人は身体を固くした。


 「メンデス様。お食事をお持ちしました」

 扉の向こうからシャーリーの声が聞こえた。


 「ああ、入ってよ」

 ドニーがほっとしたような声で応えると、シャーリーがワゴンを押しながら部屋に入ってきた。ワゴンからはほのかに湯気が立ち昇っている。


 「ありがとう。そこでいいよ」ドニーが場所を指し示すと、シャーリーは小さくうなずいてワゴンを指定された場所に停めた。用事をすませると、シャーリーはレトたちに視線を向けることもなくすぐに部屋から立ち去ってしまった。


 「ここで食事するんですか?」

 メルルが尋ねると、ドニーは苦笑いを浮かべた。「仕方がないのさ」

 ドニーはワゴンに近づくと片手をかざす。「毒検査ポワゾンテスト

 ワゴンの上に白く光る魔法陣が浮かび上がると、それは青白いものに変ってそのまま消えていった。

 「毒が盛られていないか確かめているのか」

 レトがつぶやいた。もし、ワゴンの料理に毒物が混入していれば、さきほどの魔法陣は赤く変わるのだ。

 「あくまで用心のためさ。ただ、そんな警戒をしているところを周りに見せられないじゃないか。特に料理人は気に入らないだろう。オレとしては周りを怒らせたくないのさ」

 それが誰もいない部屋でひとり食事をする理由か。何者かに脅迫されている身としては当然の対応かもしれない。メルルはドニーの態度を理解した。


 「ドニー。さっきの『毒検査ポワゾンテスト』は指輪に術式を仕込んだものか?」

 レトはドニーの右手を指さした。ドニーの両手にはいくつかの指輪が光っている。ドニーは右手を自分の顔の横まであげてみせた。

 「そうだよ。オレは多少魔法が扱えるが、得意でもない。回復魔法ヒーリングとか初級魔法なら人並みにできるが、高度の魔法や、呪文や術式のややこしいのは無理だ。そこで、使う頻度の高いものは、こうしてあらかじめ魔法の指輪に仕込んでおくのさ。指輪ひとつにつき、ひとつの魔法しか仕込めないのが欠点だが、魔名を唱えるだけで発動できる。オレには必須のアイテムだね」


 メルルはドニーの手に顔を近づけた。

 「この指輪、全部術式が込められてるんですか?」

 「そうだよ。

 右手の人差し指にあるのが、さっき使ってみせた『毒検査ポワゾンテスト』。

 中指にあるのが、『暗視眼ナイトビジョン』。これを使うと、夜目が効くようになる。ランタン不要になる優れもの……と言いたいが、ダンジョン専用だね、これは」

 「どうしてダンジョン専用なんです?」

 「一度発動すると、解除の魔法を使わないかぎり効果が数日続くんだ。数日、闇の中で過ごすには便利だが、明るいところに出ると眩しすぎて物を見るのがつらくなる。魔法道具って加減ができないから、効果時間を調節できないんだ。道具に魔法の術式が仕込める時代になったのに、未だに魔法道具が世の中に広まらないわけさ」


 「左手にはめているのは?」

 レトはドニーの解説を中断させるように質問した。


 「こっちのほうか?

 左手の人差し指にあるのは『炎陣サークル・ブレイズ』。術者を中心に炎の円陣をつくる魔法だ。オオカミとか獣などに襲われるときに使うと有効だ。獣は炎を恐れるからね。攻撃を直接防ぐ障壁魔法バリアよりも効果的なんだ。

 中指にはめているのは『聴覚上昇ヒアリングアッパー』。『暗視眼ナイトビジョン』と対になるような術式魔法だ。これを使えば、聴覚が研ぎ澄まされて、些細な音も聞き取れるようになる。ただし、耳にかなり負担をかけさせるので、常用はできない。使い続けると聴覚を失いかねないんだ。だから、この術式は難聴者などには使えない。もともとは耳の不自由なひと向けに開発されたが、失敗した魔法だよ。ただ、一時的に聴覚をあげるのはダンジョン攻略などには有益なので、こういう指輪が作られてるんだ」


 「ドニーさんが身に着けているのはダンジョン攻略用ばかりなんですね」

 メルルは首をかしげた。


 「たしかにそうなんだが、別にオレはダンジョン攻略に興味はないんだ。ただ、この仕事をするのに有効なことが多いのさ」

 ドニーは笑いながら答えた。


 「どれも直接、身を守る術式じゃないけど、君はそれでいいのか?」

 レトの質問にもドニーの笑顔は変わらなかった。


 「まぁ、オレって戦いは不得手なんでね。とにかく会敵を避ける、逃げる、に特化してるんだ。オレなりの生存戦略だよ」


 「なるほど」

 レトは納得したようにうなずいた。


 「ところで君たちは夕食を摂ったのか? そんな風に見えないけど」

 ドニーは手に取ったシチューの匂いを嗅ぎながら尋ねた。

 「いえ、まだです」


 「そうか。じゃあ、ここでの話はここまでにしよう。お嬢ちゃんをお腹すかせっぱなしにはできないからね」


 「私、そんなに食い意地張ってないです!」

 メルルは顔を真っ赤にさせて大声をあげた。



22


 ドニーの部屋を出ると、メルルはひとりで食堂に向かっていた。

 レトは「部屋に戻ってアルキオネを連れてくる」と言って別行動になったのだ。


 食堂に入ると、そこには何人もの男たちが細長いテーブルを囲んで食事の最中だった。夕暮れどきに見かけたマイエスタ守備隊の兵士たちだろう。鎧を外した軽装姿なので印象が変わっている。あのときはどこか恐いと思えたのだ。圧を感じた、というのが正確かもしれない。

 しかし、今食事をしている者たちからそんな感覚など抱かない。同僚とげらげら笑いながら話している様子は、どこにでもいる若者の姿だ。


 しかし、メルルが一歩食堂に入ると、彼らは談笑をやめ、いっせいに視線を向けた。これにはメルルもたじろいで立ち止まってしまった。


 「フロレッタ様の『お病気』を直すために来た呪術師の助っ人だ」

 どこかから声が聞こえ、そちらに顔を向けると、そこには赤髪の男が見えた。ドノヴァンだ。

 ドノヴァンの紹介は正確ではなかったが、メルルはお辞儀した。「メルルです」


 それで彼らの関心は失せたらしい。すぐに食堂はがやがやと話声で満たされた。


 メルルはテーブルの端に座った。少し離れたところの兵士はちらちらとメルルを見ている。まったく関心がないわけでもないらしい。メルルは緊張で身体が縮こまった。顔も伏せ気味になってしまう。


 「お疲れ様です」

 柔らかな声が聞こえ、顔をあげると少年の顔が見えた。少年といってもメルルよりは年上だろう。17、18歳ぐらいか。顔のほとんどがあばたで覆われている。


 気がつけば目の前にはシチューが盛られた皿が置かれている。この若者が給仕してくれたのだ。


 「あ、ありがとうございます!」

 メルルは反射的に礼を言ったが、その声はうわずっていた。


 「どうぞごゆっくり」

 若者はにっこり微笑むとその場を後にした。メルルは目の前に並べられた料理を見つめる。さっきまでそれほど空腹だと思っていなかったが、いざ温かそうな料理を目にすると自分が空腹だと気づかされる。すぐ手を出してしまいそうだ。


 どうしようかなどと小さな葛藤をしている間にレトが姿を現した。アルキオネはレトの肩にとまっていた。

 「先に食べてていいのに、待たせてしまったね」

 メルルの向かいに座りながらレトが詫びた。アルキオネはレトの肩からぴょんとテーブルに移る。


 「い、いえ……」レトを待っていたのに明確な理由はなく、『なんとなく』だったのでメルルは口ごもった。


 「料理はお気に召したかい?」

 ふたりが食事をしてしばらくすると、恰幅のいい男が声をかけてきた。年齢は50代だろうか。豊かな口髭をたくわえている。料理人が着る白い服を身に着けているので、この城付きの料理人なのだろう。男の後ろには給仕してくれたあの若者も控えるように立っていた。


 「ええ、おいしいです。とっても!」

 メルルは満面の笑みで答えた。本心からの言葉だ。


 「そう言ってもらえて嬉しいよ。ここは新鮮な野菜が手に入らないからね。どうしても芋中心の料理になってしまう。城の大メシ食らいどもを満足させるのもひと苦労しているんでね」


 「芋を裏ごししたシチューですね。おいしいです」

 レトも満足そうな声だ。メルルはレトらしい褒め方だと思った。


 「そちらの兄さんはわかってるね。そうさ。このシチューは裏ごしした芋をベースにしてるんだ。煮潰しただけではこんな舌ざわりにならないんだ」

 料理人は嬉しそうに説明する。自分の工夫がわかってもらえて本当に喜んでいるようだ。


 「ご馳走さまです。僕はレトと申します。こちらはメルルです」

 「よろしく。俺はグーラック。城付きの料理人だ。で、こっちがトーマス。見習いだ」

 グーラックが後ろを指さすと、あばたの若者はぴょこんとお辞儀した。緊張しているのか無言のままだ。

 「おい、ちゃんとあいさつをしないか」

 グーラックが顔をしかめると、トーマスは「ど、どうも……。よ、よろしくお願いします……」とおどおどした様子であいさつした。さっき、メルルに給仕してくれたときと印象が違う。あのときはもっと気さくな感じだったのに……。


 「こいつ、城勤めを始めて3年にもなるのに礼儀も何も知らねぇんで。さっきだって失礼な態度をしなかったかと心配してたんでさ」

 そういうことか。

 「いいえ。トーマスさんにはよくしていただきました」

 メルルはトーマスに微笑みかけた。トーマスはびっくりしたような表情を浮かべたが、やがて安心したような笑顔になった。おとなしい、優しそうな印象の笑顔だ。


 「ここの料理はすべてあなたおひとりで作っていらっしゃるのですか?」

 レトが質問した。レトの皿は空になっている。かたわらのアルキオネもレトから分けてもらった料理を平らげて満足そうに目を閉じていた。メルルはあともう少しだ。自分の皿に視線を向けたとき、出された料理がドニーのもとへ届けられたものと同じだと気づいた。それでさっきの質問になったのか。メルルはシチューの残りを口に入れながら考えた。

 「ご領主様と兵士さんの分は俺が用意している。ただ、城の者全員は難しくてね。ほかの者は階下の炊事場を使って自分たちで用意しているよ」

 『階下の炊事場』とはレトたちがシャーリーと話した炊事場のことを指すのだろう。メルルはやっぱりあの炊事場は従業員用だったんだと思った。考えてみれば、あの時間帯でシャーリー以外にひとがいないのはおかしかった。本来であれば、グーラックのような料理人が調理している最中のはずだからだ。


 「それでも数十人分ですね。大変ですね、頭が下がります」

 レトがグーラックをねぎらうように言うと、グーラックの髭がもぞりと動いた。笑みを浮かべたのだ。

 「嬉しいことを言ってくれるねぇ。何か食べたいものがあれば俺に遠慮なく言ってくれ」

 グーラックはどんっと自分の胸を叩くと上機嫌に立ち去っていった。トーマスもぺこりと頭を下げるとグーラックの後を追って去っていった。


 「さて、明日は天気であればいいが……」

 レトは窓を眺めながらつぶやいた。窓の外は完全に暗闇となっている。


 「明日、ですか?」

 「ここは寒い土地柄だからね。明日、雪が降っても不思議じゃない。吹雪ともなれば仕事にならなくなる」



23


 翌朝、空は抜けるような青空だった。昨日も天気は良かったが、今日は昨日以上だ。レトの心配は杞憂だった。


 「今日は城下の村へ行くと話したが……」

 城門からの砂利道を下りながらレトが口を開いた。

 「なぜ、君も来る」

 レトが振り返ると、そこにドニーの姿があった。


 「嫌だな、レトの旦那。そんなつれないこと言うなよ」


 「君はこれまで村に行ったことがないんだろ?

 道案内もできないんじゃ、ついてこられても邪魔になるだけだ」


 「邪魔は言い過ぎじゃないかな。なぁ、お嬢ちゃん、そう思わないか?」

 ドニーは愛想笑いをレトの隣を歩くメルルに向けた。メルルは振り返ることもなく、「邪魔とは言いません。ですが、そちらのお仕事はいいんですか? 魔法陣を張るお仕事のほうは?」と突き放すように返した。しかし、内心では邪魔かもと思っていた。


 「魔法陣構築に必要なアイテムが城で見つからなくてね。調達の必要があったんだ。いやぁ、レトの旦那たちが村へ行くなんてありがたいことだよ。ついでにオレも同行させてくれよ」

 要はついでに護衛を頼みたいということか。もうだいぶわかってきたが、改めて抜け目ない人物だとメルルは思った。


 「魔法陣の構成に必要なアイテムって? 何を象徴するものだい?」

 追い返すことは諦めたのか、レトはドニーに尋ねた。レトの肩にはアルキオネがのっている。今日はおとなしく同行しているのだ。アルキオネはレトの話に耳をかたむけているようにくちばしをレトに向けている

 「アイテムそのものは何だっていい。それが『回帰』、『そこへ戻る』を意味する、あるいは象徴するものであればね。魔法陣で言えば『リカーランス』にあたる部分だ」

 「そこへ戻る、回帰、を意味するアイテムか……。難題だね。君は何だと思っている?」

 「それが見当ついていない。『進行することを助ける』だったらスリッパを象徴効果のアイテムに使えたんだが、『回帰』の意味を含んだものとなると、ね」


 スリッパが『進行することを助ける』の象徴? あ、でも、なるほど。

 メルルは黙って歩きながら納得した。


 「足りないのはそれだけかい? ほかには?」


 「そうだな……。実を言えば『欠落』、『開く』も足りない。でも、それらはどうにかなりそうだろ?」

 「『欠落』……。刃先がこぼれたナイフとか、割れた食器とか、かな?」

 「そう。そういうものだったら村のいたるところに転がってそうだろ?」

 「……ドニーさん。さすがに転がってはいないと思いますが……」

 メルルは呆れ顔でつっこんだ。


 「『開く』、であれば、扉が真っ先に思い浮かぶが、それじゃ大きすぎて運べないな。 設置するのも大変そうだ」

 レトは考えながらつぶやく。肩にのっているアルキオネが退屈そうにあくびをした。すでにレトたちの会話に飽きたようだ。もし、アルキオネが人間同士の会話を理解できるのであれば、の話ではあるが。


 「大きさは別に小箱程度でかまわないんだ。それに蝶つがいがついていて、パタンパタンと開け閉めできるものであれば。まぁ、女性の装身具入れが適当かな」

 「そんなものここで調達できます?」

 メルルは顔をしかめた。女性にとって装身具アクセサリーは大切なものだ。それを保管する箱を簡単に譲ってくれるとは思えない。たしかに、この村に装身具アクセサリーを扱う店はなさそうだから、それを手に入れるには街などで買うしかないだろう。

 「南京錠はどうかな?」

 レトは道のかたわらを指さした。3人はすでに村に足を踏み入れていて、レトの指さす先には小さな雑貨屋が見えた。小さな看板で『よろずや 日常品はこちら』とある。


 「南京錠。問題ない」

 ドニーはレトとメルルの肩に手を置いた。「さっそく入ってみよう」


 「……私たちはドニーさんの用事のために出かけてるんじゃないですよ」

 メルルはむすっとした表情でつぶやいた。


 「まぁ、とりあえず今は彼に合わせよう」

 レトはなだめるようにメルルを店へ促す。メルルはむすっとした表情のまま店に入った。


 店は思った以上に狭い。天井にまで届くほどの棚に日常に使われるものがびっしりと並べられていた。さらに、足もとに置かれた台にも重なるようにさまざまな商品が並べられ、店のなかを歩くのは容易でなかったのだ。3人は歩きにくいのを我慢しながら店の奥へと進んだ。

 奥には年老いた男が小さな丸椅子の上で身体を小さくさせて座っている。かたわらに小さな手提げ金庫を置いた小さなテーブルがあるので、この人物が店主で間違いないだろう。


 「南京錠を探してるんだが」

 ドニーは店主に話しかけた。

 店主は度の強い眼鏡をかけており、それが鼻先までずれ落ちかかっていた。店主は眼鏡をずり上げながらぼんやりとした様子で顔をあげた。

 「ああ?」

 耳に手をあてて聞き返す。どうも耳が遠いらしい。


 「南京錠、ここに、ある?」

 ドニーがゆっくりと口を大きく開けながら尋ねると、それでわかったらしい。店主は大きくうなずくと右手の棚の下あたりを指さした。「あそこ」


 ぼんやりとした様子だったが、店主の記憶力はたしかだった。教えられたところを探すと、すぐに目的の品が見つかった。


 ドニーが南京錠を手にしていると、レトがドニーの肩を人差し指でつついた。

 「あれ、『欠落』に使えるかな?」

 レトが指し示した棚のなかに、1冊の本がまぎれこんでいた。表紙には『解放戦争 2』とある。

 「著者はアルビレス。全5巻の2巻目だ。あれ1冊じゃ、『解放戦争』の歴史はわからないよ。前後が『欠落』している」

 「なぜ、雑貨屋に本が? 売り物か?」さすがにドニーは呆れた表情を浮かべた。「でも、たしかに『欠落』だな、これは」

 ドニーは本を取ると、店主に見せた。「これは売り物かい?」


 「……5百リュー」

 店主はそれだけ答えた。



 店を出たドニーの表情は朗らかだった。「いやぁ、いい買い物をした」

 続けて店を出たメルルは渋い表情だ。「こっちは収穫なしですぅ……」


 「聞き込みってこういうものさ。それに動かないと何も始まらない」

 レトの声は静かだが、どこか力強さもあった。それは確信を持った人間の言葉だった。


 「用事が終わったらすぐ城へ戻るのかい?」

 レトはドニーに尋ねた。

――いじわるなことを聞く。

 メルルは思った。ドニーがレトたちにくっついているのは自分の身を守ってもらうためだ。直接そんなことを言っていないが、これまでの経緯を思えば間違いないはずだ。なにせ、レトたちが城からいなくなれば、ドニーは妨害者が潜む城にひとり残されることになるのだ。

 「まぁまぁ、そんな邪険にするなよ、レトの旦那。

 さっきはオレの用事を手伝ってくれたんだ。今度はオレに手伝わせてくれよ、な?」

 ドニーは愛想笑い全開でそんなことを言う。


 「邪魔しなければかまわない」

 レトはそっけなく答えた。


 メルルはレトとドニーの後ろをついて歩きながら、ふたりの背中を不思議そうに見つめた。

 ふたりはウマが合っているようには見えない。どちらかと言えば、ドニーがレトに対して一方的にすり寄っているように感じる。

 それでも、ふたりの間にはどことなく友情で結ばれているように思えるのだ。それは、レトがドニーに対して、あまり嫌そうな感じを見せないからだ。レトは感情を表にあまり見せないのだが、嫌っている人物に対しての態度は意外とわかりやすい。ドニーのことを『信用できない』とかいろいろ言ってはいたが、こうしてそばにいることを許している。

 もし、本当に嫌な相手だったら、レトは「今は仕事中だから」と拒絶しているはずなのだ。


 しかし、それはメルル自身も同じだ。

 ドニーは善人とは言い難いし、抜け目ないところも好きではない。それでも、ドニーのことを嫌いになれないのだ。それは、彼に悪人特有の性質、つまり、悪意で他人と接する部分が無いせいだろう。彼の言動には善悪とは関係のない、合理的な理由が存在するのだ。ただ、折り合えないことだけはたしかだ。彼を本当に理解できたとしても。


 そうだ。互いを理解し合えたら仲良くなれるわけではない。認め合わないから仲たがいするわけでもない。ひととひとのつながりに合理的な法則なんてないのだ。


 メルルは村を見渡した。

 あの店に立ち入る際、村人の何人かに見られているのを感じていた。相変わらずの警戒心に満ちた目。無言の抗議……。


 あのひとたちは、私たちが理解できないから敵視しているわけではない。ただ、異物だから嫌っているんだ。それ以上でもそれ以下の理由なんてないんだ……。


 店の周囲にはすでに村人たちの姿はなかったが、それ以上の寂寥感をメルルは感じた。

 この村での悲劇はレトから聞いた。この村を覆う空気が、その悲劇から来るものだということも。それでも、メルルはこの村を「さみしい」と感じるのだ。


 どこか考えがまとまらないうちに変な方向へ進んだようだ。

 メルルは自分の頭をぶんぶんと振って、考えてきたことを振り払おうとした。

 それが功を奏したのか、ふいにあることが頭に浮かんだ。


 「あの、レトさん」

 レトは自分の肩に手をかけようとするドニーの手を振り払いながら振り返った。「何だい?」


 「昨日、立ち寄った食堂に行ってみませんか?」

 「なぜ?」


 「あそこに黄色の花が活けてあったのを思い出したんです。

 あれは、たぶん、スイセンだったと思うんです。そして……、黄色のスイセンの花言葉は『自分のもとへ帰ってほしい』。『回帰』を象徴するアイテムになりませんか?」

 ドニーは驚いたような表情で振り返った。「……それ、使える」

 レトは少し顔をしかめた。「でも、あそこの店主が花を分けてくれるかな? 断られると思うけど」


 「花をどこで手に入れたのか教えてもらうだけでいいんです。

 村の近くで自生しているのであれば、それを摘みに行けばいいわけですし」


 「なるほどね」レトは納得したようにうなずいた。「行ってみるか」



24


 「いらっしゃ……い……」

 食堂のおかみの声は、はじめ元気なものだったが、入ってきたのがメルルたちだとわかるや暗いものへと変わった。メルルはふたたび「さみしい」と思った。


 「あの、教えていただきたいことがあるのですが……」

 メルルはおずおずと進み出た。おかみは不機嫌な表情をメルルに向ける。「何だい?」


 「あそこに活けてある……」

 メルルは花瓶を指さした。「あの花はどこに咲いていましたか?」


 メルルの質問はおかみの予想をはるかに上回るものだったらしい。おかみは質問の意味がわからなかったように目をぱちぱちとさせた。「え、え? 花?」


 「あれは……スイセン、ですよね……」

 メルルは自信なさげに花瓶のある台へと歩く。メルルの行き先を目で追ったおかみは質問の意味をようやく理解した。「ああ、その花かい?」


 「私、この花を探しているんです」


 「なぜ?」


 「この花には『自分のもとへ帰ってほしい』という意味があるからです」

 さすがに魔法陣の構成材料にするなんて言えない。メルルは胸苦しさを感じながらそう答えた。少なくとも嘘はついていないと考えながら。


 メルルの答えを聞いたおかみはすぐに答えなかった。じっとメルルの顔を見つめている。メルルは緊張して身体をこわばらせた。私、ひょっとして疑われている?


 「……あんた……、男にでも捨てられたのかい?」

 ようやくおかみは口を開いたが、出てきた言葉はとんでもないものだった。


 「い、いいえ! そんなんじゃありません!

 私、恋人なんていません! いえ、はじめから、という意味で!」

 メルルは顔を真っ赤にして否定した。扉口でくっくっと誰かが忍び笑いしているのが聞こえる。見ると、ドニーがこちらに背を向けて顔に手をやっている。


――そこ、笑うなぁ!

 メルルはドニーを怒鳴りつけたいのをこらえた。


 「変なことをお尋ねしていると思われるかもしれません。ですが、必要なのです。その花が」

 レトは何か悩んでいるような沈痛な面持ちでおかみに話しかけた。その表情だと、花は誰かを悼むために必要としているように思える。


 はたして、おかみはそう解釈したようだ。

 「大切なひとのためのようだね。

 昨日であれば、その花を譲ってあげても良かったけど、もう萎れ始めているからね。

 さすがにそんな花を譲るのは悪いね」


 ドニーが「そんなことありません」と言わんばかりの笑顔で振り返り、おかみへ歩み寄ろうとしたが、レトが片手をあげてそれを押しとどめた。


 「その花はね、近所の子が持ってきてくれるんだ。

 私もね、大切なひとを亡くしたんだ。そんな私のために、その子が花を届けてくれるのさ。私があのひとを悼むことができるように」


 おかみはさみしそうな表情でスイセンに視線を向けた。

 スイセンは昨日と変わらない鮮やかな色で咲いていたが、1枚の花びらが落ちかかっている。まだ花の形を保っているが、まもなく散ろうとしていることがうかがえた。


 「その近所の子が花を摘んで持ってきてくれるのですか?」

 メルルは気持ちを落ち着かせて尋ねる。肯定するためだろう。おかみはゆっくりとうなずいた。その顔に、これまでのような厳しい表情はすでにない。


 「やさしい子さ。こっちは止めるんだけど、わざわざ谷を降りて花を摘みに行くんだ。森には魔犬が出るから行けないけど、沢には出てこないからって言ってね……」


 「谷、ですか……」

 村に沿うように大きく深い谷が走っているのは知っている。その谷がひとの住む世界と、魔の住人が潜む魔の森とを隔てているのだ。谷の存在で魔族の侵入が防げているのだから、それは……。


 「谷底へは簡単に降りることができるのですか?」

 レトが尋ねると、おかみは激しく首を振った。それだけで「とんでもない!」と言っているように感じられる。


 「おすすめはしないよ。村の者だって谷から降りたがらないんだ。本当に危ないんだよ。でも、あの子は楽に降りることができる道を見つけたって言ってね。いくら止めたって降りてっちゃうんだよ。子どもってのは危ないところでも平気で足を踏みいれることがあるからね」

 「そうですね」レトはうなずいた。

 「もし、あの子がまた無茶をして花を摘んできたら、それを譲ってあげるよ。でも、その子に花を摘むよう頼んだり、案内を頼んだりしないでくれるかい? 花のことは感謝しているけど、本当に危険なことはさせたくないんだ」

 メルルはレトに視線を向けた。レトは小さく首を振っている。そうですね、仕方ないですね……。

 「わかりました。スイセンの件は諦めます。どうもお邪魔しました」

 メルルはぺこりと頭を下げた。つられるようにおかみも頭を下げる。「いいや。役に立てなくて悪かったね」


 そこへ出入口の扉が大きく開かれ、ひとりの少女が顔をのぞかせた。

 「マッタおばさん、こんにちは!」


 マッタおばさんと呼ばれたおかみは驚いたように顔をあげた。「あら、カイナじゃない!」


 少女は店に入ると、おかみに向かってすたすたと歩いてきた。両手を後ろに回して何かを隠しているしぐさだ。

 「マッタおばさん、これ!」

 少女は後ろ手に隠していたものを見せた。それは明るく輝く黄色のスイセンだった。



25


 「そろそろ花が散るかなって思って」

 おかみにカイナと呼ばれた少女は笑顔で花を差し出した。おかみは困惑気味の表情で花を受け取る。


 「いつもありがとうね、カイナ。でも、本当にもう摘みに行かなくていいんだよ。いくらお前が平気だって言っても、谷は深いんだ。どこかで足を踏み外したらと思うと……。あまり大人を心配させないでおくれ」


 「谷から落ちたら死んじゃうぐらいわかってる。だから心配しないで。本当に安全な秘密の道を見つけたんだから!」

 カイナは朗らかな笑みをたたえたまま胸を張った。


 「安全な秘密の道って言ってもねぇ……」おかみは困り顔だ。


 「その秘密の道を教えてもらうわけにいかないかな?」

 ドニーも愛想のいい笑顔でカイナに尋ねた。カイナから笑みが消えて、不思議そうな表情をドニーに向ける。「おじちゃん、誰?」


 「……おじちゃん……」

 カイナの言葉に、今度はドニーから笑顔が消えた。「お嬢ちゃん。オレはまだ20代だ……」

 「ええ? 嘘!」カイナと同時にメルルも声をあげた。


 「嘘じゃねぇ! 三十路まであと数年ある!」

 「こんな見た目だが、所長やコーデリアさんより年下だよ」

 レトがフォローするように口を挟んだがメルルには信じられない。

 「いや、所長より10歳は年上に見えます」

 「あっちが若作りなんだよ、まったく……」ドニーは苦い表情だ。

 「で、お兄ちゃんはどうして秘密の道が知りたいの?」

 カイナは不思議そうな表情のままドニーに質問した。『おじちゃん』から『お兄ちゃん』へ呼び方をしっかり修正している。


 「それはね、君が持っているスイセンの花をオレたちも探しているからさ。

 その花はおかみさんのために摘んできたのだろう? それをもらうのは悪いから、オレたちが直接摘みに行きたいのさ」


 カイナはおかみに視線を向けた。おかみはゆっくりとうなずく。「私はいいから、それはそのひとたちにあげておくれ」

 カイナは握っている花に視線を落として「んー」と小さくうなったが、すぐに顔をあげた。「じゃあ、今日は半分こ。それでいい?」

 カイナが摘んだスイセンは何本かの束になっていた。彼女はそれを半分に選り分けて片方をドニーに差し出した。「はい、どうぞ!」

 「ありがとう、カイナちゃん」ドニーが礼を言って受け取ると、カイナはにっこりと笑って店の奥へ駆け出した。向かったのはスイセンが活けてある花瓶のところだ。

 彼女は散りかけたものをすべて抜き取ると、持ってきた新しい花を差し込んだ。


 「よし、できたぁ!」満足げな笑顔だ。


 「ほんと、この子は……」おかみは苦笑いで自分の頬に手をあてる。呆れているようであり、それでも嬉しそうだ。


 カイナの走る姿を見て、メルルはカイナが昨日村で見かけた少女だと気づいた。あのときは『ポッチ』という名前の少年を追って走り去っていた。


 「スイセン分けてあげたから、秘密の道は教えてあげないよ。それに、ポッチと約束したんだから。誰にも教えないって」


 「ポッチって、昨日一緒にいた子かい?」

 レトが少しかがみながらカイナに尋ねた。視線の高さをカイナに合わせて安心させるためだ。レトはカイナが昨日見かけた少女だとすでに気づいていたらしい。


 「昨日……? ああ、そう。あの子」カイナはちょっと首をかしげたが、すぐ思い出したようにうなずいた。レトの前に進み出ると、まじまじとレトの顔を見上げる。

 「お兄ちゃん、すごいね。昨日、ちょっと見かけただけのひととか覚えてるんだ」

 「レトの旦那には最初から『お兄ちゃん』かよ……」ドニーが苦い表情でつっこむ。

 「どう見たって、レトさんのほうが若く見えるじゃないですか」メルルが冷静な表情で返した。


 「秘密って大人にも教えていないの?」

 レトはカイナに質問を続ける。カイナは当然だと言うように大きくうなずいた。

 「だって、わたしたちふたりだけで見つけたんだもん。簡単に教えてあげたら、ふたりだけの秘密じゃなくなるじゃん!」


 わかるなぁ。メルルは背中にこそばゆいものを感じながら思った。女の子は男の子とふたりだけの秘密ってものに憧れるんだ。自分にそんな思い出はないけど。


 レトは身悶えしているメルルに気づかない様子で顔をあげた。


 「そうか。僕も何が何でも君たちの秘密を聞き出そうとはしないよ。

 でも、マッタおばさんは君のことを本気で心配してるんだ。本当に安全なのか、信頼できる大人に確かめてもらったほうがいいよ。そのひとが危険だって判断したら、そのひとの言うとおりにしたほうがいい。それは君の安全のためなんだ」


 「んー」カイナは顔を伏せて煮え切らない態度だ。理屈ではレトの言うとおりだと理解しているが、納得できないのだろう。


 「ところで」

 レトはカイナからおかみに視線を移した。

 「この村には魔法使いの方とかおられますか?」


 「スイセンの次は魔法使いだって? あんたたち、ほんと変なひとたちだよ」

 おかみは本気で呆れたように顔をしかめた。そして、すぐに首を振った。

 「ここは木こりの村だよ。魔法使いなんて『お上品』な者はいないね」

 「以前、住んでいたことも」

 「ないね。少なくとも私が生まれてからこっち」

 「そうですか、ありがとうございます。じゃあ、ふたりとも行こうか」

 レトはおかみに礼を言うと、メルルとドニーを促して店を出た。


 店を出ると3人はどこという目的もなく歩き出した。誰も口に出していないが、歩きながら考えをまとめようとしているのだ。このまま進めばまもなく城とは反対側の村はずれに出る。メルルはレトのとなりで小さくため息をついた。

 「ドニーさんの分は収穫がありましたが、こちらは残念でしたね……」

 「そんなに落ち込まないでくれよ。さすがに気になる」

 ドニーは困ったように小声で言った。


 「あの食堂のおかみは、こちらにいい感情は持っていなかったけど、それでもこちらの質問に正直に答えてくれたように思う。

 あれぐらい協力的な証言を集めるのは、正直、骨が折れそうだな」

 レトは肩で羽繕いをしているアルキオネを撫でながらつぶやいた。アルキオネはレトに撫でられるままだ。レトが優しく撫でるとき、アルキオネはたいてい大人しい。

 3人はすでに村のはずれを歩いていた。左手すぐに深い谷がその大きな口を開いている。


 「でも、まぁ、こんなものだろうとも思うよ、レトの旦那」

 ドニーは自分の両手を頭の後ろに回した。メルルは首をかしげた。「どうしてです?」


 「大きな規模の街であれば、魔法使いのひとりやふたりはいるもんだ。回復士ヒーラーや土木従事者、ほかにも魔法が生かされる職業はいろいろあるからな」

 「メルルの先生だって魔法薬剤師だったろう?」

 ドニーの説明にレトが補足した。言われてみれば、かつての魔法の師カーラ・ボルフは魔法を多くのひとのために使いたいと魔法使いのギルドに所属せず、街の薬剤師として働いていた。魔法の力で、さまざまな薬を調合していたのだ。メルルの両親は彼女の薬で命を救われた。魔法はひとを救うことができるのだ。


 「言われてみれば、この村にはお医者さんがいませんね。城付きのお医者さんさえもいませんでした。この村はいろいろ足りない感じです」

 メルルは思い出したように言った。そうだ。ここはいろいろと足りない。学校、教会、病院、いろいろなものが買えるお店とか……。

 いや、そもそもひとが足りないのだ。思い出してみれば、庭師のガルドも庭仕事以外のこともしていると言っていた。どこも人手不足なのだ。そういうところであれば、魔法使いの存在は万能感をもって迎えられただろう。引く手あまたのはずだ。そうであれば、あの食堂のおかみもさすがに魔法使いの存在に気づかないはずがない。やはり、この村に魔法使いはいないのか……。


 困惑ぎみにメルルが頭を振ると、レトが村はずれに生えている樹のそばに立って、その太い幹をじっと見つめているのに気づいた。

 「どうかしました? レトさん」


 「これを見てくれ」


 レトは樹の幹を指さした。メルルだけでなく、ドニーも樹に寄って見てみると、そこに小さな木製のプレートが打ち付けられている。


 「これって……」

 「魔法陣だな」

 ふたりはプレートが何かわかって、同時につぶやいた。


 「独特な術式が混じっているから、全部は読み取れないけど、これはたぶん『魔獣除け』の魔法陣だ」


 「そうみたいだな」プレートのすぐそばまで近づいていたドニーはうなずいた。「だが、これは焼き切れている」


 「焼き切れている?」メルルはドニーの言葉を繰り返した。


 「この魔法陣は一度に大量の魔獣か魔族の侵入を受けて、この魔法陣が許容できる範囲を超えてしまったんだ。それで、許容量を超える魔力の流入で魔法陣が焼き切れた。そういうことさ」

 レトの説明で、メルルは理由がわかった。

 「この魔法陣は、2年前の魔候軍の襲撃に遭って焼き切れた。そうですね?」


 「オレもそうだと思う」ドニーがうなずいた。「『魔獣除け』の魔法陣は、犬猫の忌避剤みたいなものさ。侵入を完全に防げるほど強力じゃない。必要な魔力が少ないから長く持つのが利点だがね。

 だけど、その分、一度に大量の魔力が入り込むと魔法陣の文様が熱を帯びてしまう。魔法陣って、発動すると光るじゃないか。光るってことは熱も持つってことでもある。たいていは熱くならないがね。ところが大量の魔力で熱くなり過ぎた魔法陣は文様が焼けてしまって効果を失ってしまうこともある」


 「それが、この魔法陣のプレート……」

 メルルは樹の幹のプレートを見つめた。

 「魔候軍が攻めてくる前に誰かが設置した、ということだよ」

 レトは話を続けた。

 「この村に魔法使いが『いる』、あるいは『いた』という証拠でもある」


 「そういうことですよね、やっぱり」

 メルルもうなずいたが、そうなると、さっきの食堂のおかみの態度は……? 彼女が嘘をついている様子はまったくなかったのに。このかみ合わない状況っていったい何?


 「お兄ちゃんたち、魔法使いさん探してるの?」

 メルルの背後から声が聞こえ、見るとカイナが3人に向かっているところだった。好奇心に満ちた目をキラキラさせながら。


 「そうだけど、この村に魔法使いはいるのかい?」

 レトの声には期待感が見られない。期待していないけど聞いてみたといった様子だ。もちろん、それがレトなりの聞き込み手法で、実際はどんな情報も聞き逃すまいとしていることをメルルは知っていた。なにせ、つい今しがた、魔法使いの存在を匂わす手がかりを見つけたばかりなのだから。


 「ううん、この村にはいない」カイナは首を振った。

 「そうか、ありがとう」レトは内心の失望をおもてに見せることなくうなずいた。そっけない態度で質問するのは、相手の心に余計な負荷をかけたくないからだ。レトはどんな情報であっても、がっかりした態度は見せまいと考えている。相手がせっかく話してくれたのに、自分の態度で悲しい思いをさせたくないのだ。


 「でも、たぶん、魔法のことを知っているひとは知ってるよ」


 「え? どういうこと?」

 カイナの言葉にメルルが反応してしまった。


 カイナは思い出すように自分の口の下に人差し指をあてて空を見上げた。

 「んーとね。この村から西の山に、おじいさんがひとり住んでいるんだって。

 で、そのおじいさん、昔は王都で偉いひとだったって。たしか……『まどしちゅう』とか、そんな立場のひとだったって。それで、『まどしちゅう』は魔法に一番詳しいひとなんだって聞いたんだ」


 「『まどしちゅう』?」メルルは困惑して声をあげた。何、まどしちゅう。まどしちゅうっていったい何?


 「それって『魔導士長』のことじゃないか?」

 ドニーが考えながら口にすると、カイナは口の下に人差し指をあてたまま首をカクンとかたむけた。「そうかなぁ。そうかもしれないけど、わかんない」


 「何にせよ、その元『まどしちゅう』のおじいさんが住んでいる場所を知っているんだね?」

 レトが尋ねると、カイナはふたたび首を振った。

 「ううん、わたし知らない。知ってるのはポッチ。あの子だけおじいさんに会いに行ってる。村のひとは誰もおじいさんと会ってないから、おじいさんの家、誰も知らないと思う」


 レトはメルルと顔を合わせた。メルルはレトが何を考えているかわかった。「けっきょく、ポッチくんに会わないと始まらないみたいですね」

 レトはうなずいた。「そうなるね」


 「お嬢ちゃん、ポッチくんが今、どこにいるか知ってるかい?」

 ドニーは優しそうな声でカイナに話しかけた。笑顔を見せながらカイナに歩み寄ろうとすると……。


 「こらぁ、お前たち!」


 突然、怒鳴り声が飛んできた。



26


 声の聞こえた方角に3人が目をやると、そこには数人の男たちがこちらに向かってくるのが見えた。彼らの手には斧が鈍い光を放っている。


 「なんか……厄介ごとが向かってきてるようだな……」

 ドニーは眉をひそめながらつぶやいた。


 男たちはカイナと3人の間を割り込むようにして取り囲んだ。


 「何ですか?」

 レトは落ち着いた声で尋ねた。仕事柄、荒っぽい場面には慣れている。メルルはまだ慣れていない。今も全身がこわばるのを感じながら立ちすくんでいた。


 「それはこっちが聞きたいことだ。

 カイナは村の子どもだ。この子をどこに連れて行こうとしている?」

 取り囲んでいる男たちのなかで、一番身体の大きな男が尋ねた。身体だけでなく、手にしている斧も一番大きい。あれを頭に叩きつけられたら、簡単に全身がまっぷたつになってしまうだろう。


 「いや、こっちは道を尋ねているだけで……。その子をどっかへ連れ去ろうなんて……」

 ドニーは両手をあげて相手を落ち着かせようとしながら弁明を試みていた。

 「ひとさらいは道を尋ねるふりをして急に連れ去ってしまう。道を聞くのはひとさらいの常套手段だ」

 別の男が警戒心をあらわにした敵意ある表情で詰め寄ろうとする。たしかに、その男の言っていることは正しいが、それでも……。メルルは彼らの態度にかちんときた。


 「私たちはひとさらいじゃありません。

 私たちはオブライエン候の依頼でここに来たのです!」

 メルルの声には抗議の感情が少しこもっていた。

 レトはメルルの腕にそっと触れた。「それを言っちゃダメだ」小声で囁いたが、すでに手遅れだ。


 「オブライエン候だとぉ……。お前たち、城の者か……」

 大きな斧の男から怒りに震えた声が漏れ出ていた。

 メルルは男の目を見て身体を震わせた。男の目は明らかな殺意に満ちて、凶暴なものになっていたのだ。


 「いったい、城の者が村の者に何の用だ。


 こっちが材木をきちんと納入すれば、そっちはこっちをそっとしてくれる約束だろ?」

 さらに別の方角から抗議する声が飛んできた。

 メルルはそれを聞いて、自分が失敗したことを悟った。そうだった。レトさんに忠告されていたんだった。こちらが何者なのかできるだけ伏せておこうって……。


 「いやいや、ちょっと待ってくれないかな。

 たしかにオレたちは城側の人間だが、あんたたちに何か迷惑かけようなんて考えてない。

 実際、こっちがしているのは道を尋ねているだけだ。そっちだって、初めて来た場所じゃ誰かに道を尋ねたりするだろ? オレたちがしているのはそれと同じことさ」

 ドニーはさらに愛想のいい笑顔でなだめにかかる。しかし、それはあまり効果をあげていなかった。男たちは斧を持つ手に力を入れて、さらに詰め寄ってきたのだ。

 「同じだぁ? お前、何とぼけたこと言ってやがる!

 お前がカイナに手をかけようとしてたのは遠目でも見えてたんだぞ!」


 ドニーの弁明は逆効果だった。

 メルルは不安な気持ちを抱えたまま助けを求めるようにレトの顔を見上げた。

 しかし、レトは取り囲んでいる男たちはおろか、誰にも視線を向けていなかった。レトの目は谷とは反対側、樹々が生い茂った林に向けられている。


 「レトさん、どうしたんです?」


 「やつが狙っているのは、あの子か」

 レトは腰から剣を抜き放った。メルルはもちろん、周囲の男たちも目を見張った。

 「何、こいつ!」

 「やる気か!」

 男たちは殺気立ったが、レトは彼らの間をすり抜けるように駆け抜けた。

 「な、何!」

 「は、速い!」


 レトの足は谷に向かっていた。そこには大人たちの騒ぎを離れて見ているカイナの姿があった。レトはカイナに向かって走っているのだ。


 しかし、カイナに向かっているのはレトだけではなかった。


 林から赤黒い巨大なものが飛び出して、カイナめがけて走ってきたのだ。


 それは馬ほどの大きさもあった。しかし、その姿かたちは馬とはまるで異なっていた。その姿はまるで……。


 さすがに村の男たちも、その生き物に気づいて顔色を変えた。

 「まさか……」

 「魔犬……!」


――魔犬?


 メルルは口を開いて、その生き物を見つめた。『それ』は何もかも鋭かった。鼻、耳、目つき、口、そして、口からのぞく牙……。遠目から見ればすらりとした体格の犬に見えたかもしれないが、その犬は見上げるほどの大きさだった。


――じゃ、あれが魔犬ライラプス?


 レトは大きく飛び上がると剣を振りかざした。アルキオネはレトの肩から飛び立っている。

 林から現れたライラプスはものすごい勢いで谷のふちで呆然と立っているカイナに迫っていた。ライラプスの巨大な牙がカイナの首に近づく……。


 レトは剣を振り下ろした。剣はライラプスの鼻先をかすめ、ライラプスは大きく飛びずさった。


 間に合った……。メルルは胸を撫でおろした。もし、レトがライラプスの存在に気づかなければ、カイナはライラプスに首を噛み砕かれていたことだろう。


 レトはカイナをかばうように立つと、剣を構え直した。


……大きい。馬ほどの大きさと聞いていたけど、本当に馬並みの大きさだ……。


 剣を持つ手に汗がにじむ。レトの額から汗がひと筋、流れ落ちた。


 「お、お兄ちゃん……」カイナが震え声をあげた。

 「カイナ。君はじっとしてるんだ。下手に動くと谷から落ちる」

 「う、うん……」カイナは自分の手を握り締めながらうなずいた。彼女の立っている位置はあまりにも崖に近い。もし、あと数歩下がれば、彼女は谷から足を踏み外してしまうだろう。


 ライラプスはレトから距離を取ったものの、立ち去ろうとしなかった。グルルルと威嚇の声をあげながら一歩、また一歩とふたりに近づいてくる。


 「おい、あんたたち、レトに加勢してくれよ。武器持ってるじゃねぇか」

 ドニーは蒼い顔で声を震わせた。しかし、村の男たちは斧を手にしたまま動かない。いや、動けずにいるのだ。目の前にいる魔犬は思った以上に大きく、そして、凶暴そうだった。彼らには、相手に数で上回っているという感覚さえなかった。ただ、魔犬の放つ禍々しい空気に気圧され、立ちすくんでいるだけだ。


 村の男たちの状況はライラプスも把握しているようだった。『それ』はまるで何も恐れる様子を見せず、ただ目の前の獲物……この場合はレトとカイナになるが……に視線を向けているだけだからだ。


……相手の反射速度が異常に速い。僕はやつの頭をかち割るつもりで剣を振り下ろしたのに当たらなかった。下手に魔法で攻撃すれば、避けられたうえに隙をつかれてしまう。


 レトは剣を構えたまま、思考を巡らせていた。最近も手ごわい魔獣と戦っている。あのときは知恵の回る強敵だったが、今回は身体能力が特に優れた獣だ。知恵勝負というより技術勝負になりそうだ。


……技術勝負? 違う、こいつは……。

 レトは対峙しているライラプスを睨んだ。

……ずっとカイナを狙っている!


 ライラプスの鋭い目はレトを見ていなかった。彼の背後で身体を震わせているカイナに向けられている。

 理由はわからない。ただ、このなかでは一番非力で狙いやすいと思える。ライラプスがそう考えてカイナを狙っているのだとしてもおかしくはない。


 レトは剣を構え直した。そう、これは技術勝負じゃない。僕が誰かを守ることができるのかが問われる、『僕が剣を手にする理由』のための戦いだ。


 「僕はやるべきことをする。それだけだ」


 レトは左手をライラプスに向けた。「衝撃波インパクト!」

 ライラプスがさっと身を引き、その足もとから土がどんという大きな音とともに跳ね上がった。ライラプスはレトの魔法攻撃を避けると、隙を見つけたとばかりに突進した。向かうはレトが睨んだ通りカイナだ。カイナの口から悲鳴があがる。


 しかし、レトはすでに行動していた。ライラプスの側面に向けてすばやく剣をつき出していたのだ。剣先はライラプスの喉を貫き、ライラプスは血の泡を噴き出した。


……誘いやがった……!

 レトの戦いを見ていたドニーは心の内でつぶやいた。

 レトはカイナを助けるために戦っていたはずだ。それをあっさりとカイナをおとりにするように戦ってみせた。少しでも間違うと、ライラプスの牙はカイナの喉を噛み砕いていたはずだ。あまりに流れるような動きだったので、ドニーの目にはそう映った。

……レトの旦那は勝つためなら危険な賭けだって平気でするんだ……。

 ドニーは自分の背中がこわばるのを感じた。

……いや、そうじゃない。レトの旦那には『確信』があるんだ。自分のやり方で間違わないという……。

 レトは自分よりも年下であることは知っている。だが、非情で、老練ささえも見せるレトの戦いぶりに、ドニーは戦慄した。

……レトの旦那。あんた、これまでどんな戦いを経験してきたんだ?


 カイナはライラプスが迫る勢いに押されて、数歩あとずさっていた。片方のかかとが崖のへりを越え、カイナの身体は大きく傾いた。死の口を大きく開く谷に向かって。


 「危ない!」メルルは叫んだ。


 レトは持っていた剣を放していた。右手でカイナの腕を取ると、身体を回転させてカイナを空中へ放り上げる。

 「ドニー! 頼む!」

 レトの声でドニーは我に返ると、崖のふちまで駆け寄った。宙を舞ったカイナを両腕で抱きとめる。


 「レトさん!」メルルはレトのもとへ駆け寄ろうとした。


 レトの身体は崖から完全に離れていた。さらに、同じく宙を舞ったライラプスの身体がレトに激突する。

 レトはライラプスと絡み合うように谷底へと姿を消した。


 「レトさん!」メルルはふたたび叫んだが、それは絶叫に近かった。



27


 メルルは帽子を脱ぐとドニーに押し付けた。

 ドニーは抱きかかえていたカイナを下ろして両手を空けたばっかりだったが、そこにメルルの帽子を渡されて困惑の表情を浮かべた。「今度は何を……」


 メルルはそれに応えず、いや応える余裕がなかったのだが、崖へ駆け寄りそこへ腹ばいになった。腹近くまで崖のふちから出して、懸命に下をのぞき込む。


 「お、おい、お嬢ちゃん、危ない。お嬢ちゃんも落ちてしまう」

 ドニーは慌ててメルルに駆け寄って、メルルの足を押さえた。


 メルルは必死で目をこらしたが、崖の底はかなり遠く、ところどころ崖の腹部分で隠されて下の様子が見えない。


……レトさん……。どこですか?……


 「こ、このあたりの谷は浅くても深さが2百メルテを超えてるんだ。

 さ、さすがにさっきの剣士でもひとたまりもないぜ……」

 大きな斧を手にした男は遠慮がちにメルルへ声をかけた。


 「そのとおりだと思うよ、オレも」

 ドニーはそう言いながら、ゆっくりとメルルを引き戻した。メルルは何も反応を返さない。ドニーは呆然とした様子でその場で座り込んだメルルに帽子を載せてあげる。


 カイナは地面に降ろされたときはびっくりした表情のまま凍りついていたが、だんだん自分を取り戻したらしく、メルルと同じように地面にへたり込んでぐすぐすと泣き始めた。


 ドニーはふたりをそのままにしてゆっくり立ち上がると歩き出した。彼の向かう先にはレトの剣が落ちていた。

 ドニーはその剣を拾い上げると、それを検めた。

……この剣は魔力が込められている。魔剣か?

 王国内でもこんな剣を持ってるやつなんて聞いたことがない。

 いや、しかし、そうか。こんな剣を持っているから……。


 ドニーはレトが落ちた崖を見下ろした。


――呪文の詠唱なしに魔法が使えたのか。この剣に『衝撃波インパクト』の術式が仕込まれてるんだな。


 ドニーはさっきの場面で感じた疑問をそう納得させた。

 ドニーは村の男たちの立っているほうへ、くるりと身体を向けた。何が起こったのか理解できない様子の男たちはドニーの動きで身を固くさせた。


 「ここから谷へ降りる道を教えてくれないかな」


 「お、降りる、だって?」

 ひとりが驚いたように大声をあげた。

 「こ、この谷は魔物だって登れない急な崖なんだ。だから、おれたちはここで安全に暮らせてるんだ。か、簡単に降りることもできない!」


 「でも、レトの旦那をこのままにはできない。

 放っておけば、レトの旦那は屍霊グールになって崖を登ってくるだろうしな。

 屍霊になる前に遺体を引き揚げておきたい」

 『屍霊グール』の言葉に、メルルの肩がぴくんと動いた。


 「そ、そうは言ってもよ。無茶な話だ、それは。昔、この崖から落ちた者がいたが、誰も遺体の引き揚げなんてしていない。なにせ、昇り降りするだけで精いっぱいなんだ。降りたところで谷底まで届くロープなんてないからな。できないんだよ、そんなこと。

 そんな崖だから、たとえ屍霊になってもよじ登る芸当なんてできやしねぇよ」

 さっきとは別の男が説得するように言うと、周囲の男たちも無言でうなずいた。この場にいる村の男たちの表情は雄弁に語っていた。『諦めろ』と。


 「そうなのかい、その話?

 この女の子は谷を降りる道があるって言ってたけどな」

 ドニーはカイナに視線を向けながら言った。話題になったことも気づかず、カイナはさっきからずっと泣きじゃくっている。


 「子どもが勝手にそう言ってるだけだ。誰も確かめていないから嘘かどうかも知らないんだ」さらに別の男がカイナをちらちら見ながらつぶやいた。当人の目の前で嘘つき呼ばわりすることに多少は抵抗を感じているのだろう。


 ドニーは首を振った。

 「この子は谷底に生えているスイセンを採ってきてるんだ。オレたちは現物を見ている。ほら」

 ドニーは腰にぶら下げている袋を少し持ち上げてみせた。そこにはカイナから譲ってもらったスイセンの花が袋からのぞいている。

 「この子は嘘をついちゃいない。わかったかい?」

 村の男たちは無言で顔を見合わせた。緊迫した空気はすでに消えていたが、代わりに困惑に満ちた微妙なものが漂っている。


 「私は谷を降ります」


 声をあげたのはメルルだった。いつの間にか立ち上がっている。しっかりと踏ん張った姿には決意の気持ちが強く感じられた。


 メルルはカイナのそばでしゃがむと、カイナの肩に両手を置いた。

 「ねぇ、大切な秘密だってことはわかっているけど、教えてくれないかな。

 私は急いでレトさんを助けなきゃいけないの」


 「助けるだって?」ドニーは大声をあげた。「生きてるわけないだろ!」


 「なんで決めつけるんですか!」

 メルルはドニーに鋭い声を投げつけた。

 「レトさんは今までどんな危険なことだって乗り越えてきたんです。生き延びてみせたんです。レトさんは、あの『討伐戦争』で、魔候軍と直接戦って生き残ったひとなんですよ!」


 「直接戦った?」ドニーは不思議そうにつぶやいたが、すぐに顔つきが変わった。「まさか、『勇者の団』か。レトの旦那は『勇者の団』の生き残りなのか!」

 メルルは強くうなずいた。


 ドニーはレトの剣を持ち上げて、その刀身をしげしげと見つめた。「どうりで……、ほとんど魔族しか持っていない武器を持ってるわけだ。これは、そのときの戦利品か……」


 「だ、だからって、今回無事だという根拠にならない」

 村の男のひとりが反論した。「あ、あんな落ち方したら誰だって……」そこから先は口どもる。


 「レトさんは死んでいません。きっと!」

 メルルは負けていなかった。

 「根拠はあります。

 レトさんはカイナさんが落ちそうになったとき、ためらうことなく飛びついてカイナさんを空中に放り投げました。そんなことをすれば今度は自分が落ちるってわかってたはずです。

 レトさんはどんなときだって先のことを考えて行動するひとです。そんなレトさんが落ちるときの対処も考えずに、あんな行動をしたとは思えません!」


 「そうだな。オレが意外だと思ったところだよ」

 ドニーが口を挟んだ。

 「いつも冷静に見えたレトの旦那が、自分のことにかまわず女の子を助けようとしたことが。

 ありゃ、とっさの行動だ。考えて動いたんじゃないね。

 考えて行動したのなら、自分も落ちないようにしてみせたさ。

 レトの旦那は反射的に女の子を助けて、そして、落ちたんだ」


 メルルの両目から涙があふれ出した。「わかってます。レトさんは何でも計算で動くひとじゃないって……。でも……!」


 「あのお兄ちゃん……、大丈夫なの……?」

 カイナが泣きはらした顔でメルルに尋ねた。

 「ねぇ、お姉ちゃん。教えて。あのお兄ちゃん。急いで助けに行ったら助かるの?」


 メルルは一瞬表情をこわばらせたが、すぐに力強くうなずいた。「きっと」


 カイナはごしごしと自分の顔をこぶしで拭きながら立ち上がった。

 「お姉ちゃん、ついてきて。わたし、案内する!」


 カイナの突然の行動に村の男たちが困惑の表情で立ち尽くしている。カイナは彼らの間をかきわけるようにして抜けると、「こっち」と言って走りだした。


 「あ、待って、カイナちゃん!」

 メルルも村の男をかきわけて追いかける。その後ろをドニーも無言で続く。初め、ドニーたちを取り囲んでいた男たちはふたりを押しとどめることもせずに通した。


 ドニーは数歩駆けていたが急に立ち止まり振り返った。「おい、あんたたち」


 「なんだよ……」男たちのひとりが弱々しく聞き返す。完全に気勢をそがれて迫力も圧力も感じられない。

 「あんたたちはすぐ村へ戻って城へ報せに向かってくれ」

 「何だと?」

 「魔犬ライラプスが村はずれで人間を襲った、てな。

 レトの旦那が退治したが、ライラプスと一緒に谷へ落ちたってことも」

 「な、なんで俺たちが……」

 「逆に報告しないなんてありえないだろ。

 これまでライラプスがここまで人里近い場所に現れたことはあるのか?」


 ドニーの問いに男たちは互いの顔を見やった。「た、たしかに……」「こんなところまで来たのは珍しいんじゃないか?」小声でささやき合う。


 「じゃあ、頼んだぜ」

 ドニーはふたたび走りだす。その手にはレトの剣を握ったままだ。ドニーはそのままメルルを追って崖とは反対側の林に駆け込んだ。


 ドニーに用事を頼まれた男たちは困惑した表情のままでドニーが姿を消した林を見つめるだけだった。

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