表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/18

黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 4

13


 城の1階は防衛上の理由か扉が少なく、無機質な石壁に沿って廊下がだらだら続いていた。レトはドニーから城の地図を渡されていたが、すでに覚えてしまったらしい。地図を広げることもないまま、迷うことなくこのだらだらとした廊下を歩いている。次の目的地はすでに定まっているようなたしかな足どりだ。


 「今度はどこに向かっているんです?」

 「一応、確認しようと思ってね」

 レトはちらりとメルルに顔を向けた。「作業道具置き場だ」


 レトの言う『作業道具置き場』は、廊下が直角に折れた先を曲がり、そのまま一番奥まで進んだところにあった。いかにも年季の入った、古ぼけた木の扉があり、そこにはこれもまた年季の入ったぼろぼろの木の札がぶら下がっていた。インクの色がかなりあせているが、『道具置き場』という文字がかろうじて読めた。もし、レトから『道具置き場へ行く』と聞いていなければ、ここがその道具置き場だとすぐには気づけなかっただろう。


 道具置き場は薄暗く狭い部屋だった。窓はなく、外の明かりを入れるための小さな『明かり穴』が天井の近くでふたつ空いているだけだ。もちろん、外敵の侵入ができるような大きさではないので部屋に差し込む明かりの量は知れている。さらに、外気がそのまま流れ込むので部屋はかなり寒い。メルルは寒さで震えながら、レトに続いて部屋へ入った。


 道具置き場はさまざまな道具が置かれていた。大工仕事に必要な『のみ』、『かんな』や『のこぎり』が棚に並べられている。何に使うのか、大きな鉢や壺も床に置かれていた。レトはそれらの前で立ち止まることもなく、さらに奥の壁へと歩み寄った。そこにはシャベルなどが壁からぶら下がっているのがメルルに見えた。


 レトは壁から一本のシャベルを手に取ると、その先端を検めはじめた。メルルもレトの隣に並んでシャベルの先端を見つめる。

 「これを見てくれ」

 レトはシャベルの先端をよく見せようと、メルルの顔に近づけた。メルルは部屋の薄暗さでよく見えなかったが、目を細めながらシャベルの先端を検めてみた。


 「……土がついてますね……」

 「シャベルだから当然だ。

 それより、その土をよく見てごらん。ただの土じゃないだろ?」


 レトの言葉に、メルルは改めてシャベルの先端に目をこらした。そして、気がついた。

 「土に何か白いものが混じっています。これは……」


 レトはうなずいた。「たぶん、ドニーが魔法陣を張るために使用した除草剤だろう」


 そうか。いや、すぐ気がつくべきだった。あの魔法陣を壊すために地面を掘り返したのなら、シャベルなどの道具を使ったはずだ。魔法陣を破壊した犯人は、道具置き場からこのシャベルを持ち出した。そして、破壊の作業を終えると、何ごともなかったかのようにもとの場所へ戻したのだ。


 「犯人は、このシャベルで魔法陣を壊したんですね……」

 メルルはレトに向かってつぶやいた。レトはシャベルを壁のフックにかけ直しながらうなずく。「そうだね」


 「レトさん、これって……」

 メルルは確認しようとレトの背中に話しかけた。「内部の者による犯行を示唆していませんか?」


 レトはすぐに答えない。メルルはレトの背中に話し続けた。

 「このシャベルが納められている道具置き場は、城内の回廊をぐるりと回った一番奥にあたります。それに、道具置き場を示す掛札の文字はかなり読みづらくて、城に不案内な者がこの場所を簡単に見つけられたとは考えにくいです。

 それと、犯行に使ったシャベルをもとの場所に戻しているということも重要です。犯人はシャベルを現場に残さず持ち去っていますが、それって、けっこう危険じゃありませんか? 誰かに見とがめられでもしたら、自分の犯行だとバレてしまいかねません。それでも、犯人はその危険を冒した。このシャベルを使って魔法陣を壊したことを知られたくなかったからです。このことが明らかになれば、誰だって内部の犯行だと考えます。少しでも内部の者以外にも犯行が可能だと思わせたければ、危険を冒すだけの価値が犯人にはあったと思えませんか?」

 「まったくそのとおりだ」

 レトはくるりとメルルに身体を向けた。「ただ、最後の部分は考えすぎかもしれない。単にごまかしたかっただけかもしれないよ」

 「ごまかしたかっただけ?」

 「そこまで慎重に考えていたのなら、シャベルについた土は落としておくんじゃないかな? それに内部の犯行であることを隠すにしても、これは少しずさんと言うか……、隠ぺい工作としては下手な部類だと思うね」


 たしかに。メルルはレトの言うとおりだと思った。


 「それでも、そういう弱い点があるものの、魔法陣を壊した犯人は内部の者である、という考えには賛成するしかないね。このシャベルを犯行に使えるのは内部の者じゃないと無理だからね」

 シャベルを戻し終えたレトはメルルに振り返った。

 「あのシャベルをここに戻すには、この長い回廊を通らないといけない。誰かに目撃される危険が高い。内部の者もそうだけど、外部の者であれば、まず、そんな危険は避ける。シャベルを現場に残して立ち去るさ。それに、シャベルを利用できるのは内部の者だと示せるので、むしろ、そうしただろうね」


 メルルはレトが自分の考えを補強してくれるので少し嬉しくなった。一方で気になるところもある。


 「でも、レトさんは、その考えに納得がいってないんですよね?」

 「どうして?」

 「そういう表情をしています」

 レトは眉をひそめた。「そういう表情か」


 「レトさんは打ち合わせのときに言ってましたよね。

 フロレッタさんを呪った相手は近くにいないと。それが理由ですか?」


 レトはうなずいた。「そうだ。それで、この事件はそれぞれ犯人が異なるのではと考え始めている」


 明確ではなかったが、メルルも同じような考えが浮かんでいただけに、レトの発言を意外と思わなかった。むしろ、レトの言葉で自分の考えに輪郭ができたように感じた。

 「フロレッタさんを呪ったのは外部の犯行。解呪の儀式を妨害したのは内部の犯行。私たちが追うべき相手は最低ふたりだということですね?」

 メルルの問いにレトはふたたびうなずいた。「そうなるのかなって」


 そこで沈黙の間が空いた。レトは無言で壁に掛けられたシャベルに視線を向けている。レトの右手はあごの先端をつまんでおり、沈思黙考しているときのレトの癖だとメルルは知っていた。どうやら、これまで知りえた情報を整理しているらしい。思考の邪魔をしてはならないと、メルルはしばらくの間おとなしく付き合ってはみたものの、やがて、この長い沈黙に我慢できなくなった。

 「で、これからどうするんです? この考えの裏を取るには、どう行動すればいいんでしょうか?」


 そのとき、メルルの問いかけが合図だったかのように、部屋中に鐘の音が響きはじめた。


 ゴーン、ゴーン、ゴーン……。


 鐘の音は規則正しいリズムで鳴り響いている。


 「日暮れが迫っていることを知らせる鐘だ」

 天井を見上げながらレトがつぶやいた。レトの言葉に触発されて、メルルはこの城を訪れたときの光景を思い出した。全体的に背の低い城だったが、鐘が据えられた細長い鐘楼が城の中心から天を突きさすようにそびえていた。今聞こえている鐘の音は、その鐘楼からだろう。「砦や山地にある城ならではの慣習だよ」

 「日暮れを告げる鐘、ですか?」

 メルルもレトにつられるように天井を仰ぎながら尋ねた。


 「たとえば、ここのような山に囲まれた土地は、日が暮れると辺りが急に暗くなる。何の用心もせずに出歩いていたら、闇に飲み込まれて遭難する危険があるんだ。山間部にある城ではこうして鐘を鳴らすことで、城下の者たちに注意を促す。王都のように定時を報せるのとは少し違うんだ」

 レトはメルルに説明すると身体の向きを変えて扉へと歩き出した。

 「どこへ行くんです?」

 そう言いながらメルルがレトのあとを追うと、レトは顔だけを向けた。

 「中庭に戻るんだよ。30分ほど前にヒゲのホプトさんが説明していたじゃないか。『あと30分ぐらいで交代だ』って。今聞こえている鐘は、日暮れを告げるだけでなく、警備の交代時間も告げているんじゃないかな?」

 どこか確信しているような、力強さを感じる声だった。



14


 もと来た回廊を歩いて中庭まで戻ってみると、レトが予想したとおり、中庭に立っている兵士の顔ぶれが変わっていた。人数はふたりと変わらないが、ふたりともホプトやネッドよりも背が高く、そのうちひとりは明らかに鎧が上等に見えた。警備にあたる兵たちの上官らしい。


 レトはぶらぶらとまるで初めて庭へ立ち寄るかのように、あたりを見回しながら歩いている。

 思っていたより抜け抜けとしたレトの態度に、メルルは心の内で呆れながら後ろをついて歩いた。


 ふたりの兵士はレトたちの姿にすぐ気づいたが、レトたちに近づこうともせず無言で見つめている。邪魔をするような素振りも気配も見られない。しかし、これが事情を聞かされている者がとる、本来の態度だ。


 レトは魔法陣が掘り返された場所で足を止めると、兵士ふたりに顔を向けた。

 「オブライエン候より、魔法陣が破壊された事件を捜査している者です。少し、このあたりを調べさせていただきますがよろしいですか?」

 ふたりの兵士はお互いに顔を見合わせたが、ひとりがうなずいてみせた。「話は聞いている。勝手に調べてくれ」


 ホプトとネッドよりはまともな返事だ。しかし、「勝手に調べてくれ」の言い方にメルルは引っかかるものを感じた。どうも、彼らもこちらのことを歓迎していないらしい。


 レトは彼らの態度を気にした様子も見せずに「ありがとうございます」と礼を言ってしゃがみこんだ。掘り起こされた箇所を検めるつもりだ。メルルもレトの隣でしゃがんで、掘り起こされた魔法陣に目をやった。


 「ずいぶんと派手に掘り返していますね。遠慮がないというか、無分別というか……」

 掘り返された土くれを見つめながら、メルルはレトに話しかけた。


 「いい着眼点だ」

 レトは小声で返した。めったに出ない誉め言葉に、メルルは嬉しくなって顔を輝かせた。しかし、続くひと言で曇ってしまった。「で、何がわかった?」


 「いいえ。ただ、掘り返されているなぁって……」メルルは顔を真っ赤にさせて答えた。これぐらいしか答えられない自分に恥ずかしさを感じたのだ。

 「それだったら、最初ちらりと見たときにも感じただろう? このことから導き出せることは何かって尋ねたんだ」

 レトの声は静かで落ち着いているが容赦はなかった。メルルは叱られた子どものような気持ちになって地面に目を向ける。

 「ええっと……。掘り返されているのは魔法陣全体のほんの少し、端の部分だけです。これだと、すぐ埋め戻して魔法陣を描き直すのはすぐできるんじゃ……、あっ……」

 「どうかしたかい?」

 メルルはすぐに答えず、その場から立ち上がると魔法陣の周囲を小走りで走り始めた。無言で様子を見ていた兵士たちは困惑したようにふたたび顔を見合わせている。メルルは兵士たちの視線にかまわず、ぐるりと魔法陣を一周してレトのそばへ戻ってきた。

 「い、今、何が、わかった、わけじゃ、ないかも、しれません、が……」

 少し走っただけだが、メルルは息を切らしながら言葉を吐き出した。

 「この魔法陣は、精密、すぎるんだと、思い、ます……」

 「ほう」レトの反応は短かった。

 「周囲を走ってみて確かめてみました。この魔法陣はきれいな正円で、歪みひとつありません。この庭は芝生が生えているのにもかかわらず、地面は非常に平らかです。へこみひとつありません。これほどの広さでまっ平らな場所って、お城の全部を見て回ったわけじゃありませんが、たぶん、ここぐらいしかないでしょう。

 魔法陣を壊した犯人は、ただ地面を掘り返しただけじゃありません。掘り返した土の一部を持ち去っています。つまり、大きなへこみができているんです。ここを元に戻すのであれば、土をただ埋め戻して平らにするだけでなく、土の状態を以前と同じに整え直す必要もあるのではないでしょうか?」

 「土の状態も戻す理由は?」

 「これだけ精密にしているということは、わずかなバランスの崩れでも致命的な欠陥につながるんだと思います。どこかから土を戻しただけでは、そこだけ土の成分や構造が変わってしまいます。それでは魔法陣のバランスが乱れてしまい、儀式に差し支えるんじゃないかと。ですから、この魔法陣を復活させるには、土の状態も元に戻す必要があるのだと思います」

 「まぁ、魔法陣が簡単に復旧しない理由としては、それが妥当な考えかな」

 レトはしゃがんだ姿勢のまま、ゆっくりとうなずいた。メルルはレトの態度が少し気になった。うなずいているのに、レトの反応はメルルの考えを肯定しているとは思えなかったのだ。ただ、そのことを指摘するより先に言いたいことがある。


 「あの程度の損壊で魔法陣に復旧の見込みが立たないということは……」メルルは言いかけたが、視線を感じて口をつぐんだ。少し離れてはいるが、兵士たちがこちらを見ているのだ。さっきまでの会話もすべて聞かれているだろう。

 メルルはレトの隣でしゃがみこむと小声で囁いた。「魔法陣に対して知識がある人物の犯行ってことじゃないですか?」

 「そうなるのかな」レトはのんびりした声で返すだけだ。

 「だって、そういう知識がないと、この程度の妨害行動でこの魔法陣が使い物にならなくなるなんてわからないじゃないですか」


 「もうひとつの可能性が残っているよ」

 「何です、それ?」

 「地面を掘り返せば魔法陣が壊れると考えるほど、魔法陣に対する知識が皆無のひと」

 メルルは言葉を失ってレトの横顔を見つめた。


 「たしかに、魔法陣に対して多少の知識があれば、少々条件の悪い場所でこしらえた魔法陣でも稼働させることはできるし、そのことも知っているだろう。たしかに、この魔法陣はその例外で精密さを要求されるものだったのかもしれない。

 でもね、儀式の妨害を企てるにしては、犯人がとった行動は、もっとも幼稚な方法だよ。通常であれば、この程度で妨害されたと考えたりはしないだろう。

 今わかっている材料だけで、これが犯人の思惑通りだったのかは断定できない。

 実のところ、気になる点はほかにあるんだけどね。まぁいいか」

 レトは立ち上がると、そのまま警備している兵士たちに向かって歩きはじめる。

 メルルはレトの発言の意味を聞きたがったが、無言で立ち上がりレトに続いた。


 警備している兵士たちはレトが近づいてもずっと無言のままだった。レトがふたりの正面に立つと、ようやくひとりが口を開いた。ひとりだけ鎧の異なる、おそらく上官と思われる兵士だ。「何だ。何か用か?」

 「ひとつ確認したいことがあります。皆さんはこれまでもずっとそこで魔法陣の警備を?」

 レトは兵士たちの足もとを示しながら尋ねた。レトの質問に、兵士たちは何度目かの顔を見合わせる行動をした。

 「ええ、そうです。それがどうかしたのですか?」

 質問に答えたのは上官らしい兵士ではなく、もうひとりの若い兵士だった。これまでと違い、ずいぶん丁寧な口調だ。

 メルルは思わず若い兵士に注目した。これまで、ぞんざいな扱いを受け続けただけに、この若い兵士の態度は新鮮に感じられたのだ。

 若い兵士はおそらく20代半ばあたりの年齢に見えた。甲冑からのぞく首もとや腕はあまり太くなく、身体が出来上がりきっていない印象だ。それは隣に立っている上官のせいかもしれない。こちらは首も腕も筋肉でふくれあがっているのだ。レトの細身の剣だと、首の筋肉で攻撃を受け止められるかもしれない。いかにも鍛えられた兵士らしい姿だ。

 一方で若い兵士には、そこまでの『いかつさ』がない。どことなく貴公子のような優しい風貌も相まって繊細で心優しい人物だと思える。もちろん、それは見かけだけの印象の話だが。


 「この魔法陣は見通しの良い開けた場所で描かれています。これまで、その位置で警備されていたのであれば、当然、ここでの破壊行為は目についたでしょう。ひょっとして、夜間はかがり火を焚かず、暗闇のなかで警備されていたのですか?」

 この質問に対して若い兵士は口をつぐみ、答えようとしなかった。上官の顔を見ようともしない。


 「もういい、レイ。その質問には俺が答える」

 若い兵士が口をつぐんだままなので、上官らしい男が進み出た。


 「俺は、このマイエスタ守備隊の団長、クルト・ヒューズだ。こいつはレイ・ブルース。同じくマイエスタ守備隊の団員だ。で、さっきの質問の答えだが、たしかに、ここの魔法陣は俺たち騎士団が交代で見張りをしていたんだが、魔法陣が破壊された晩に警備していたのが居眠りをしていたんだ。かがり火は焚いていたから暗闇ではなかった。言い訳にしかならんが、事件までの数日、我々は寝る時間もないほどいろいろと駆り出されていた。居眠りしてしまった者はかなり疲労がたまっていたんだ」

 たしかに言い訳だ。しかし、あの晩、見張りに立っていたのがホプトとネッドのふたりであれば、その最中に居眠りをしていたとしても驚く話ではない。

 「いろいろ駆り出されていた、とは何かあったんですか?」

 レトは当時、警備していたのが誰かを尋ねずに別のことを訊いている。

 「いろいろはいろいろだ……」

 クルトの答えは歯切れの悪いものだった。


 メルルはレイに視線を向けたが、レイは黙ったままだ。彼にしてみれば、身内の恥を自らすすんで話すわけにいかないはずだ。実のところ、これはかなりの失態で、事件当夜、見張りが居眠りしていた背景に飲酒が絡んでいたのであれば、さらに失態どころの話ではないのだが。

 レイは団長を前にして、そんな事情を話せるわけもなく、沈黙しているのだろう。

 メルルはレイの態度をそのように理解した。


 「居眠りをしていた兵士は処分されたのですか?

 つまり、騎士団から追放されたとか、どこか謹慎で籠っているとか」


 「そんな処分はされていない」クルトは即答した。

 「つまり、いっさいの処分を受けていない、と」

 「いいや。あの晩、見張りに立っていたのは城内守備兵のホプトとネッドだが、彼らは強くけん責された。任務から外す処分も行われようとしていた」


 あの晩、見張りに立っていたのはホプトとネッドのふたりだろうことは推定できていたが、隊長のクルト自らの発言でそのことが裏付けられた。しかし、その話では、あのふたりは任務から外されることになったのでは?

 メルルの疑問は、クルトの続く言葉で答えられた。


 「だが、彼らを処罰して任務から外さないよう、メンデス氏がオブライエン候にかけあってくださったのだ」


……ドニーさんがとりなしてくれていたの?

 メルルは意外に思った。軽そうな人柄の印象なので騒ぎにはしないかもとは思ったが、まさか、彼らをかばうことまでは想像できなかった。そんなに鷹揚なひとだったのか。


 「なるほど。たしかにそのおふたりを外してしまうと、この魔法陣の警備できるひとはいなくなりますからね」

 レトは納得したようだが、メルルはその言葉に少し皮肉な響きを感じたのは気のせいだろうか。それは、さっきホプトとネッドの反省のみられない態度を目の当たりにしてせいかもしれない。

 一方、クルトはレトの言葉に何の含みも感じていないようだ。

 「ここは辺境にある城だからな。兵士の数は少ないし、まるで人手が足りないんだ。失態を犯した者は当然、減給など処分は行なっているが、謹慎で人員を減らせば、残った者の負担が大きくなる。メンデス氏はそのことを理解されたのだろう。おかげで彼らには引き続き見張りに立たせることができた。彼らも反省して同じ失敗はしないと誓っている。騎士団の名誉にかけてな」


 団長の口調は確信に満ちた力強いものだったが、さきほどのやりとりを経験しているだけに大丈夫かと思ってしまう。少なくともふたりは騎士団の名誉を守る意思が弱そうだとメルルは思った。


 「そうですか。それは大変ですね。ところで、マイエスタ守備隊は総勢何名なのですか?」

 メルルが疑いの目でクルトを見つめているなか、レトは何も感じていないような素の表情で質問を続ける。レトさんってほんと強心臓だとメルルは思った。


 「現在はちょうど20名です。20名が昼夜交代で城を守り、領内の見回りを行なっているのです」

 レイがようやく口を開いた。答えづらい質問にはクルトが答えてくれることもあってか、不祥事と関係のないことであれば素直に答えてくれるようだ。

 「今、城にいない者は領内を見回っているところさ。ただ、鐘が鳴ったからな。もうすぐ戻ってくる」

 クルトがちらりと背後に目をやりながら補足するように言った。


 すると、クルトの言葉に合わせたかのように、クルトの背後……城壁の外から何かが近づく音が聞こえてきた。

 どっ、どっ、と地面を力強く叩くような音――。ひづめが地面を蹴る音だとメルルはすぐに気づいた。一頭の馬が駆ける音ではない。何頭もの馬が駆ける音だ。


 「おう、ちょうど帰ってきたようだな」

 クルトもひづめの音に気づいて満足そうな笑みを浮かべた。


 「10頭ほどのようですね。毎日、その人数で?」

 レトはひづめの音を聞いただけで馬の頭数がわかったらしい。レトは城壁に目を向けることもなく尋ねた。


……こんなことも簡単にわかっちゃうんだ、レトさんは……。

 メルルはレトの領域に至るにはまだまだ距離があると感じた。


 「そうです。ここは小さな辺境領と言っても、徒歩で見回るには広すぎます。我々は騎馬隊を編成し、日々、巡回しているのです」

 答えたのはレイだ。


 「深い渓谷で隔てられているが、魔の森のすぐ隣なんだ。ここは。

 盗賊も警戒しなきゃならんが、魔獣の類が領内に入り込むなんて日常だからな。見回りを欠かすなんてできねぇのさ」

 レイの答えでは不十分と感じたのか、クルトが説明を補った。口調はぞんざいで、あまりいい印象を感じない人物だが、思っていたより親切そうだ。


 「魔獣が出るんですか、ここ」

 メルルの顔から不安な表情が浮かんだ。彼女もイーザリスと呼ばれる、ここよりはるか北西にある辺境の出身だ。そこではウサギや鹿だけでなく、熊も生息している。自然豊かな土地ならではのことだが、魔獣が出たという話は聞いたことがない。彼女のふるさとで脅威なのは熊ぐらいで、それも熊のテリトリーに入り込まなければ襲われる危険はほとんどないし、熊は熊で人間のいる里には近づこうともしない。メルルはふるさとを出るまで魔獣に遭遇するなど予想すらできなかった。

 これより少し前、メルルはギガントベアと呼ばれる熊の魔獣に襲われたことがあった。それ以来、魔獣にかかる事件はこりごりだと思っている。そう思っていただけに、クルトの発言はメルルを不安にさせたのだ。


 「このあたりで出るのは魔犬ライラプスぐらいだ。『魔犬』と呼んでいるが、オオカミをもっと凶悪にしたようなもんだ。馬みたいに大きいし、凶暴だ。ありがたいのはオオカミと違って単独行動を好むところだな。見かけるのはいつも一頭だから、油断さえしなければ俺たちで退治できる。これまでも何頭も仕留めているんだ。安心しな」

 クルトはふたたび自信たっぷりに答える。さっきの話には不安しか感じられなかったが、今度は頼もしさが感じられる。メルルは安心したようにふうと息を吐いた。


 「ライラプスはもともと『神の猟犬』として神様が飼っていたと言われている。しかし、神が地上を去ってライラプスは地上に残されてしまった。あるじを失ったライラプスは、やがて魔に染まって魔獣と化したと聞いている」

 レトが代表するようにメルルに説明した。メルルはレトの顔を見上げた。「もともと神様の飼い犬だったんですか」


 「決して獲物を逃さない、完璧な猟犬だったそうだ。それが魔獣化したんだから厄介だね」


 「でも、神様が飼っていたのは一頭だけじゃなかったんですか?

 どうして、そんなに増えちゃっているんです?」

 メルルの素朴な質問に、レトは苦笑いを浮かべた。「知らないよ。そもそも神話が事実を語っているとは限らないし」


 「そんなおとぎ話のような神話より、魔の森に入り込んだ野生の犬が森の魔素をたっぷり吸収して魔獣化したっていう学者の説が正解だと思うな。やつらをただ『魔犬』と呼ぶのもどうかと。どっかの誰かが神話を引っ張り出して名付けただけだろうからな」

 クルトが結論づけるように説明し、メルルはそれに感心してしまった。

 さすがに日頃ライラプスを相手にしているだけあって、クルトの考えが正しいと思える。今回はレトさんのウンチクは役立たずだ。まぁ、教養にはなりそうだけど。メルルはライラプスのことをレトに対する評価と合わせて把握した。


 「ところで、帰ってきた見回りの方がたはどこから城に入るんです? ひづめの音からだと、門の前を通り過ぎてしまったようですが」

 レトはライラプスの話題など忘れたかのように尋ねる。

 「騎馬隊が向かっているのは裏門です。裏門は物資を運び入れる馬車も通るため、どちらかと言えば通用門はそちらになるでしょうね」

 レイは城の北側に目を向けながら答えた。北の方角は城がそびえているだけだが、おそらく、城の向こう側に裏門があるのだろう。

 「なるほど、この城は本当に要塞として運用されているのですね」

 レトは納得したような表情だ。しかし、メルルはまるで理解できない話だ。「どういうことです?」

 「この城は東に谷川があり、北と西側がほとんど崖に近い地形になっている。南側が広く開けているけど、急な坂だ。もし、敵がここを攻めるとなれば、基本的には正門のある南側だろう。でも、正門は小さく、見た目だけでなく城壁は分厚く堅い。簡単には破れそうにない。

 じゃあ、東の谷側から通用門のある北へ回ろうとすれば、門に着くまでに高い城壁の上から矢を射かけられたり魔法攻撃を受けたりで大きな損害を被ることになる。攻撃から逃がれようにも谷は深くて、そちらには逃げ込めない。下手をすれば滑落して命にかかわりかねない。

 ここは軍事的に攻めにくい城なんだよ」


 「そのとおり。よくわかってるじゃねぇか」

 クルトが自慢げに胸を張った。まるで自分の城であるかのようだ。

 「ここは『解放戦争』が終わってから建てられた、対魔族最前線の城のひとつだったんだ。城が建てられて実に千年。何度か魔族に攻められたこともあったが、そのたびに魔族どもを追っ払った。ここは難攻不落の城なんだよ」


 クルトの自慢にメルルの口が開きかけたが、慌てて口をぎゅっと閉じた。思わず「この間の戦争のときもですか?」と聞き返しかけたのだ。村の様子を先に見ていたメルルには、クルトの自信たっぷりの態度に違和感を抱かずにはいられなかった。しかし、今感じたことをそのまま口にすれば、これまで無難にやりとりできたこの雰囲気が一変することは間違いない。


 「たしかに、この城は簡単に落とせそうにありませんね。

 でも、日々の見回りに半分も人員を割いてしまったら、ここの魔法陣の警備は大変なのではありませんか? もともとここにあったわけではありませんから」

 レトの何気ないような質問だったが、クルトの反応は大きかった。彼は大きくうなずき、「わかるか、あんた!」と大きな手でレトの両肩を叩くようにつかんだのだ。ばしっという音が庭中に響くほどの勢いだった。


 「もともと半数が交代で城勤めをするんだが、そこから半分が夜勤のために日中は休んでいた。残るは5人だが門衛は必ずふたりは置かなきゃならない。実際に城内の勤めができるのは3人ぐらいなんだ。たしかに小さい城だが、いくらなんでも3人は少なすぎるだろ、実際!」

 たしかに。メルルは王都のディクスン城を頭のなかで思い浮かべながら思った。そこでは数え切れないほどの兵士が城を守っている。それに較べれば、魔族との最前線にあたる城を守る兵士はあまりにも少ない。この城も城と呼ぶには規模が小さく、砦と表現してもいいだろう。兵士の数が20名程度ならなおさらだ。


 「そこからさらに2名を魔法陣の警備に割けって言われたんだ、こっちは。

 おかげで5人交代を変則的に調整して、人員のやりくりをしなきゃならなくなった。

 俺もそうだが、ここしばらくはまともに身体を休められた者はいねぇよ」


 クルトの説明は完全に愚痴と化していたが、メルルにはこの城の事情――ホプトとネッドがあれほどいいかげんな態度で任務に就いていた背景――が見えてきた。

 もともと少ない人数でやりくりしていた城勤めが、ドニーの登場で、いや、この魔法陣の存在で破綻しかけているのだ。彼らからすれば、「こんなの、やってられねぇ!」といったところなのだろう。もしかすると、ホプトとネッドは、それほどいいかげんな兵士ではなく、急に増えた任務でやさぐれてしまっただけかもしれない。もちろん、それで正当化などできないのだが。


……自分たちを苦しめる原因となった魔法陣の存在が疎ましくて、兵士の誰かが魔法陣を壊したのかもしれない……。

 そんな考えがメルルの頭に閃いた。これが正しければ、ある謎についても説明できる。


 それは、『ホプトとネッドは、なぜ、彼らのすぐそばで魔法陣を壊す者に気がつかなかったのか?』。


 これまでの捜査から、事件当夜に彼らは居眠りをしていたと思われる。しかし、地面を掘り返す音で目を覚ますことはなかったのだろうか? いくら慎重に行われたとしても、まったく無音で作業されたとは考えられないのだ。

 おかしいのは犯人の行動もだ。たとえ見張りが居眠りしていたとしても、彼らのすぐそばで地面を掘り返すことなどできるだろうか? 作業の音で彼らが目を覚ます危険を感じはしなかったのだろうか? 自分が同じことを企てる者であれば、そんな危険を冒そうとはどうしても思えない。

 これらの疑問は、さっきの推理から次の考えが導き出せる。


――魔法陣を破壊した犯人が同僚の兵士だったから。


 ホプトとネッドは居眠りをしていたのではない。犯人の破壊行動を見て見ぬふりをしたのだ。ひょっとすると、それはホプトとネッドのどちらかだったのかもしれない。いずれにせよ、兵士たちは魔法陣を守る任務を放棄するだけでなく、破壊行動にまで走ってしまったのだ。


 魔法陣を破壊するのに使用されたシャベルの保管場所を、犯人が知っていたのも当然だ。城勤めの兵士なら何がどこに保管されているかなど熟知しているからだ。


 メルルは自分の考えで顔が上気するのを感じていた。胸の奥には焦燥感が芽生え始める。

 レトに自分の推理をすぐにでも伝えたい。しかし、クルトたちの前でその推理を披露するなどできるはずもない。一刻も早く、レトとふたりきりにならなければ。そんな気持ちばかりが胸の奥をチリチリと焦がしている。


――レトさん! 早くこの場は切り上げて、ここから立ち去りましょう!


 しかし、メルルの思いが届く気配もなく、レトは質問を続けている。

 「この変則的な体制は、ドニー・メンデス氏が魔法陣の構築を始めてからですか?

 フロレッタ嬢がご病気で伏せるようになってからではなく?」

 フロレッタが呪われていることは城内でも一部の者しか知らされていない。事情を聞いている者は当然のごとく口止めもされている。レトが『ご病気』という表現を使うのはそれが理由だ。ドニーの魔法陣も『解呪』の魔法陣ではなく、『治癒』の魔法陣であると周知されていた。


 「お嬢様が倒れたとき、城内は大騒ぎだったがね。一方でオレたちは完全にのけ者扱いさ。まぁ、おそばにいたとしても何も役に立ちゃしなかっただろうがね」

 クルトは両手をひらひら振りながら答えた。しっしっ、あっちに行けとでも言われたかのようだ。


 「この魔法陣の見張りはオブライエン候からの指示で?」


 「むろんだ。あのドニーって魔術師はオレたちとはひと言も口を利いたりしない」


 「あなたがたがここを警備している間、彼は誰とも話さずにここで作業を?」


 「そうだ。ただ、あいつは飽きっぽい性格のようだな。

 すぐ作業を中断して、あっちこっち歩き回っていたよ、この城内を。迷惑だったぜ」


 「迷惑でしたか」


 「どこに何があるか知らないと気が済まないのか、そこら中をのぞきまわっていたよ。さっき、あんたたちがやってきた1階の回廊も歩き回っていたぜ。あそこには道具入れしか無いのにな。扉が閉まっていても、カギがかかってなければ全部開けていたよ。

 さすがに『何をしてる』って注意したさ。オブライエン候の客人ではあるが、好奇心が過ぎるぜ……」

 レトとクルトの会話は終わりが見えない。メルルはじりじり苛立ってきた。


 そこへ、ガチャガチャといくつもの金属音を響かせながら甲冑を着込んだ男たちが中庭に入ってきた。長い間、兜を被っていたいたらしく、男たちの髪はいずれもべったりと固められている。


 「見回りに行っていた連中だ」

 クルトがあごで彼らを指しながら言った。



15


 「ドノヴァンと申します。主に領内の見回りを担当しています」

 ドノヴァンと名乗った兵士は、毛先がちりちりと縮れた赤毛の、背の高い男だ。

 ひょろりとした長身ではなく、肩幅が広くがっちりした体格で、さすが兵士を職業にしているだけはあると思わせた。

 彼は、隊長であるクルトのもとへ見回りの報告にやって来たのだ。残りの兵士たちは少し離れたところで控えるように立っている。


 「今日の報告を聞こうか」

 ドノヴァンがレトとメルルにあいさつをすませると、クルトはさっそく切り出してきた。メルルは早くこの場を立ち去りたかったが、一緒に報告を聞かなければならないような雰囲気で動けなくなってしまった。


 ドノヴァンもレトたちがいることを邪魔とも思っていない様子で、表情も変えずに報告を始めた。

 「本日、午前10時過ぎ、ディエゴが第二伐採地南側でライラプス一頭と遭遇。ライラプスはその場から逃走。

 午後2時、ランスが第十二伐採地でライラプス一頭と遭遇。ライラプスはその場から逃走。

 午後4時、ヒギンスが第十六伐採地でライラプス一頭と遭遇。ライラプスはその場から逃走。

 本日は3頭のライラプスと遭遇しました。いずれも戦闘にならず、負傷者は出ていません。ちなみに、本日報告した地域はすべて育樹期間で村人は立ち入っておらず、村人の負傷者も出ていません」


 「魔犬さんが3頭も出たのですか?」

 メルルは目を丸くして大声を出してしまった。ついさっきまで早く立ち去りたいと考えていたが、その考えは頭から吹き飛んでしまった。


 ドノヴァンはちらりとメルルを見たが、特に気にする様子を見せずにクルトに視線を戻した。

 「彼らが目撃したのがそれぞれ別のライラプスであると断言できません。同じ個体が複数回目撃された可能性もあります」

 「今回目撃されたライラプスはすべて逃げ出したんだな? お前たちに気づくと」

 クルトは腕を組みながら尋ねた。

 「ええ。今回、森に異常は見られなかったわけですが、異変と言えば異変と言えるかもしれません」

 ドノヴァンは神妙な表情で答えたが、メルルはドノヴァンの言い方が気になった。

 「異変ってどういう意味です?」

 つい、質問してしまう。


 「ライラプスは獰猛な魔獣だ。敵や獲物を見つけると、すぐに襲いかかってくる。戦いもせずに逃げ出すのは珍しいことなんだ」

 レトが代わるように答えた。


 「それだけに、今回複数目撃されたのが同じ個体ではないかと考えるわけです。

 出くわしたライラプスがすべて逃げ出すとは考えにくいので」

 今度はドノヴァンがメルルに顔を向けて説明してくれた。見た目はいかつい感じだが、穏やかで優しい口調だ。そこには誠実な人柄もにじんでいるように思える。


 「それに、1日に3頭もライラプスが現れるのも異例だ。ふだんは数日に一頭見かける程度なんだがな」

 クルトは腕を組んだまま首をかしげた。ドノヴァンの報告が腑に落ちない様子だ。


 「このあたりに魔獣の出る頻度は高くないのですか?」

 クルトのひとりごとに近いつぶやきにレトが尋ねた。

 「魔の森に近いと言っても、ここは人里だからな。

 魔獣も熊と同じで、人間がいるとわかっているところへノコノコやってくるものじゃないんだ。やつらの領域テリトリーを冒さなかったら、魔獣が棲む森だってそんなに危険じゃない。逆にやつらのシマに一歩でも足を踏み入れたら……、ま、そっから先は言うまでもないな」

 「つまり、周囲に棲む魔獣の数は少なくないが、遭遇する危険はそれほど高くないということですね?」

 「ま、そうだな」

 レトとクルトは淡々と会話を続けているが、メルルには驚愕の話だった。

 レトは「危険はそれほど高くない」などと発言しているが、それは安全でないということで、それだけでも充分に脅威の話だ。つまり、ここは危険と隣り合わせの世界なのだ。それなのに彼らはその危険の度合いが高くないから安心だと言わんばかりだ。実際そう思っているのだろう。彼らにとって、それが『当たり前』だから。

……私は世界のことを知らなすぎる。こんな危険なところで普通に生活している人びとがいることさえ私は知らなかったんだ……。

 メルルは少し胸の奥が苦しくなった。それは自分の無知に対して無自覚に芽生えた羞恥心のせいであるのは間違いない。しかし、このときのメルルは自分の心を理解できていなかった。ただ、胸の奥が苦しい。そう感じただけだ。


 「まぁ、そういうわけだから、森のなかを出歩くのを止めはしないが何が起きてもこっちを責めるのは勘弁してくれよ。ただ、さっきも話したが城のなかをうろつくのも節度を保ってくれ。本当に人手不足なんだ。あんたたちの行動をいちいち見とがめてもいられないからな」

 クルトの言葉は注意ともぼやきとも取れないあいまいな言い方だった。

 「たしかに、捜査のためといっても城のあちこちを無遠慮にのぞき回るわけにはいかないでしょう。メンデス氏と同様にこちらも注意するようにいたします。ですので、立ち入りを遠慮すべき場所はあらかじめ教えていただければと思うのですが」

 レトは丁寧な口調で尋ねた。


 「……そうだな……。

 お嬢様やオブライエン候の居室はもちろんとして、今は亡きフィリップ様と奥方様の居室、それと暗室だな」


 「暗室?」メルルは首をかしげた。


 「城の最上部にあるお部屋だ」

 クルトは城の一角を指さした。そこには城の尖塔の根元部分に無骨な狭間の胸壁に囲まれた部屋がわずかに見える。

 「もともとは城の中庭が見える歓談室だったんだが、お嬢様のお身体にさわるという理由で明かりの入らない部屋になっちまったんだ。お嬢様はあの部屋がお好きで、そこが一番落ち着くそうだ。だから、あそこは不用意に立ち入っちゃいけないんだ。お嬢様がおられるときに部屋に明かりが入りでもしたら……」

 「そうですね。おっしゃるとおりにいたします」


 「それ以外であれば、特にとがめだてされないだろうが、それでも事前に許可は取ってくれよ。許可はガッデスさんに話してくれればいいだろう」


――ガッデス。


 レトとメルルはまだ会えていないが、ここの執事だという人物だ。さっきドニーと話していたときに少しだけ話題になっていた。この城のなかで唯一、魔法の知識を持っているそうだ。フロレッタが呪われていることを最初に気づいたのがガッデスだった。


 「わかりました。そのようにします」

 レトは頭を下げ、クルトは中庭……つまり、魔法陣に身体を向けた。

 もう話は終わった。クルトの態度から、そう言われているように思える。


 レトも身体の向きを変え歩きだそうとしていた。メルルはレトに話したいことがあったことを思い出して焦った。


 「あの、レトさん……」

 どこかで誰にも聞かれないところで話を聞いてもらおうと話しかけたが、振り向いたレトにさえぎられた。


 「あと少し、調べよう」



16


 レトとメルルは先ほどとは違う回廊を歩いていた。こちらは扉が点在していて、いずれも兵たちの部屋だと思われた。

 騎士は城の近くに居を構え、城へは通うものだが、城兵は居室を城内で与えられてそこで暮らす。

 しかし、マイエスタの騎士たちは基本的に城で寝食している。規模の小さいマイエスタならではの話だ。


 レトは無言で廊下を歩いている。メルルはその後ろをついて歩きながら、ひょっとするとレトも同じ考えに至ったのではと思い始めていた。そうであれば、この廊下を歩いているのはホプトとネッドのふたりを詰問するためかもしれない。


……そうだとしたら、私が考えていることを伝えるのは控えたほうがいいかもしれない……。


 レトの背中を見つめながらメルルはそんなことを考えていた。レトが考えているだろうことを自分が先に指摘してもレトは怒ったりはしないだろう。それでも気が引けてきたのだ。


 しかし、レトはそのまま兵の居室の区域を通り過ぎてしまった。メルルは最後の扉をしり目に見ながら、レトはどこへ向かうのだろうと思った。ホプトとネッドを詰問するのでないなら……、そういえばさっきレトは「あと少し、調べよう」と言っていた。レトはまだ何の結論も出していないのだ。


 「あの、レトさん。どこに向かってるんですか?」


 メルルの問いに、レトは「人探し」とだけ答えた。


 「人探し?」


 「この『呪い』事件で肝心な人物からの証言が得られていない。

 その人からも証言を取らなければ、僕は何も結論を出したりしない」


 肝心な人物。そう言われて思い当たるのは先ほども話題に上った執事ガッデスだ。


 たしかにフロレッタが呪われていることを真っ先に気づいたガッデスから話を聞かなければ捜査をしたとはいえない。


……でも……。


 今しているのは魔法陣を使用不可能にした者を探し出すことだ。魔法陣を警備していた者たちからひと通りの証言は得られているが、警備に関わっていない執事の証言は必要だろうか?


 メルルは首をひねったが、レトは本当にガッデスを探しているらしい。途中でロッタに出会い、彼女からガッデスの居場所を尋ねているからだ。


 「ガッデスさんは先ほどオブライエン様のお部屋に入られていましたよ」

 ロッタの答えにレトは礼を言うと、階段を昇り始める。オブライエン候の居室は城の3階にあることをふたりは知っていた。


 この階段は1階から最上階までの吹き抜けをぐるりと囲む構造になっていた。メルルが頭を吹き抜けにつき出して天井を見上げると、何かぶら下がっているのが見える。黒くて丸く、それでもどこか武骨な感じのものだ。


 「この城の釣り鐘だよ」


 メルルが疑問を口にする前にレトが答えた。

 「鐘ですか」

 メルルは頭を引っ込めるとレトを追った。


 「大きな鐘って、どこも吹き抜けの上にある印象ですね。

 でも、どうしてそうなのですか?

 もし、落っこちたら危ないじゃないですか」

 「理由は2つだ。

 ひとつ目は鐘の音が聞こえるようにするため。吹き抜けにしてあれば建物全体に鐘の音が届きやすくなる。床で仕切られてしまうと音は遮られてしまうからね。

 ふたつ目は工事上の理由。だいたい、鐘の大きさは据えられる建物の大きさに比例して大きなものになるものだ。大きくなれば重量も増して、とても担いで運べるものじゃなくなる。

 そこで、天井からロープを下ろし、1階で結わえ付けられた鐘を引き上げるんだ。

 滑車を使えばかなり重い鐘も引き上げることができるし、そのまま天井に固定してしまえば工事は完了だ。

 鐘を付け替える工事をする場合も、階下まで吹き抜けのある構造だとやりやすい」


 なるほど。

 メルルは納得してうなずいた。


 ふたりが向かっているオブライエン候の部屋は、その階段を昇ったすぐ脇にあった。


 部屋の前に立つと、レトはゆっくりと扉をノックした。

 「誰かね」

 なかからオブライエン候の声が返ってくる。レトは落ち着いた声で「レトです。そちらにガッデスさんがおられると聞いて訪ねてきました」と答えた。

 すると、扉がすっと開き、扉の陰からガッデスが顔をのぞかせた。

 「わたくしはこちらでございます。何の御用でしょうか、カーペンター様」


 「急に押しかけてすみません。捜査していることでお聞きしたいことがありまして」

 レトはガッデスに廊下まで出てもらうよう促すため一歩後ろに下がりながら言うと、

 「探偵殿には入ってもらいなさい、ガッデス」奥からオブライエン候の声が聞こえてきた。

 「オブライエン候がこう申されています。どうぞお部屋へ」

 執事はそう言いながら扉を大きく開く。レトはメルルにうなずいてみせると部屋へ入った。メルルも急いで続く。


 部屋はやたらと広いものだった。家具は寝台とテーブル、ソファぐらいしかない。とはいえ、寝台はメルルの部屋の広さと同じではと思えるほど大きい。ソファも何人掛けなのかわからないほど幅のあるものだった。家具のスケールがメルルの感覚からかけ離れているのに、それでもこの部屋ではあまり存在感が見られない。それは部屋があまりに広いからだろう。メルルは貴族と庶民の差を改めて感じさせられた。


 オブライエン候はレトたちをソファに座るよう促すと、自分もその向かいに座った。

 「さて、ガッデスに質問があるとのことだが……」

 オブライエン候は傍らに立つガッデスに目をやりながら、「私も話を聞かせてもらってもいいかね?」と、尋ねた。


 さすがにここでオブライエン候に席を外してくれと言えない。メルルは心のなかでしかめ面をした。断れない状況を作ってから要求するやり口は、正直、気に入らなかった。


 レトの表情が気になってメルルはちらりとレトに視線を向けたが、レトの表情には何の変化も見られなかった。


 「もちろんです、オブライエン候」

 レトはメルルが予想した返事をした。


 「では、カーペンター様。わたくしにご質問とは?」

 ガッデスはうやうやしく頭を下げながら尋ねた。


 「あなたはフロレッタさんが呪われていると最初に気づいた人物だと聞いています。それはたしかですか?」

 レトは静かな口調で質問を始めた。ガッデスはゆっくりとうなずく。「たしかに、わたくしでございます」

 「ということは、魔法に通じていらっしゃるわけですね。もともとは魔法使いだったのですか?」

 ガッデスは、今度は首を横に振る。「いいえ。わたくしは魔法使いではございません。魔法学校にも通っておりません。ただ、このお屋敷に伺候しこうさせていただく前は、さる魔導士の方にお仕えしておりました。その方のお仕事をお支えするなかで魔法についていくつか知見を得たのです」

 「その知見のなかに呪いについてもあったのですか」

 「呪われた人物には、身体の一部に魔法陣が浮かび上がることがあると教わっていたのです。ただ、あの方は呪いについては学術的な興味しか持たず、実践はもちろん、研究もなさっておられませんでしたので、わたくしの知識も知れたものでございます。それで、お嬢様が呪われたことには気づいても、解呪の対処はまったくできなかった次第でございまして……」


 メルルは申し訳なさそうに語る執事の顔を見上げた。どうも、レトの質問の意図を、フロレッタにかけられた呪いを解かなかった非難と受け取ったようだ。とんでもない誤解だ。レトは多少皮肉を口にすることはあっても、非難することはしない。この呪いの件では、執事に落ち度などないことはわかっているのだからなおさらだ。


 「誤解なさらないでください。僕はあなたがどれぐらいの知識からあの魔法陣を呪いの術式と判断したのか、その根拠を知りたかったのです。話を戻しますが、あなたがフロレッタ嬢が呪われたと判断したのは、過去に仕えた魔導士から得た知識からだけですか?」


 ガッデスはうなずいた。「さようでございます」


 「その知識から、フロレッタ嬢がどのような呪いをかけられたのか具体的なことは何もわからなかったのですか?」


 「何もわからなかったと言うのは正確ではないでしょうが、具体的なことは何もつかめなかったのは間違いございません。わたくしにわかったのは、あの呪いの術式はまったく言語不明の暗号で構成されたものであること。

 わかるのは、そうですねぇ……。

 あの魔法陣はドナテロ陣形であること。それと、あそこまで暗号化された術式を扱えるのは高度な魔法を習得した人物だろうということぐらいです」

 「高度な魔法、ですか」

 「ええ。魔法使いのなかでも上級に位置するような人物でないかと」

 「そう考えたということは、多少は術式の解析はできるということですか?」

 「そうですね。かつてお仕えした魔導士の方は、暗号化されていないこの国の言語で術式を構築されておられました。物を浮かせたり、植物の生長を促したりするような、平和的なものばかりでしたから、暗号化の必要はなかったからでしょう。そばで見ていたわたくしでも術式の内容が読み取れるほどでした。だからこそ、あの術式は呪いの術式だと確信が持てたのでございます。簡単に読み取れる術式であれば、魔法では素人同然のわたくしでもひょっとすれば解呪できたかもしれませんから」

 「なるほどですね」レトはうなずいた。

 「探偵殿。少し口を挟んでも良いかな?」

 アーネスト・オブライエン候が遠慮がちに声をあげた。

 「何でしょうか?」


 「あの呪いの術式についてガッデスにかなり細かな質問をしているが、探偵殿はガッデスに何らかの疑念を抱いているのかね?」


 「僕がですか? いいえ」レトは首を振った。

 「ですが、あれが呪いだとわかった背景について詳細を把握する必要があるのです。それがフロレッタさんに呪いをかけた人物の正体をつかむことや、メンデス氏の解呪の準備を妨害した者を明らかにできるかもしれませんから」


 レトはふたたびガッデスに視線を向けた。「ガッデスさん。これまでこの城に出入りしていたなかに、魔法使いか、魔法に通じている者はいませんでしたか?」


 今度はガッデスが首を振った。

 「こちらに仕えるようになって20年になりますが、そういった方が出入りされたことはございません。あえて申し上げれば、呪術師であるドニー・メンデス様と……」

 そういいながら、ガッデスはレトとメルルに向かって頭を下げた。「カーペンター様とメルル様の3名様だけでございます」


 ガッデスの答えに、レトは「そうですか」と、ひと言つぶやいただけだった。


 オブライエン候の部屋を辞し、ふたりは暗く長い廊下を歩いていた。明かりはレトの左手から立ち昇る炎の明かりだけである。この城では陽が落ちているにもかかわらず、明かりを点けていなかったのだ。


 「レトさん、いいですか?」

 メルルはレトの背中に声をかけた。

 「何?」レトは振り返らずに応じた。


 「さっき聞いたガッデスさんの話ですが……。

 あれで、何かわかりましたか?」


 「質問の意味が、今回の事件を解決できる内容かってことなら、残念ながらってことだね」

 レトは首を振りながら答えた。少しは期待していただけにメルルはがっかりした表情を浮かべた。「そうですか……」

 しかし、そうつぶやいた瞬間にメルルはハッとして顔をあげた。「事件の手がかり以外のことなら何かわかったということですか?」


 「さぁ、どうだろう」レトはあいまいな答えを返す。

 「そんなはぐらかすようなことを言わないでください、レトさん」

 メルルはレトの隣に駆け寄るとレトの顔を見上げた。抗議する顔をしてみせる。


 「はぐらかすつもりは……」

 レトは言いかけたが口をつぐんで立ち止まった。メルルも立ち止まり、レトが視線を向けている先へ顔を向けた。


 薄暗い廊下にこちらへ向かって近づく小さな明かりがあった。

 メルルはどきりとしながら目をこらすと、それは小さな燭台だった。誰かがそれを手にして歩いているのだ。ひとりだけではない。その後ろには白いドレス姿が小さな明かりに照らされて浮かび上がっていた。


 「あら、おふたりは……」


 聞こえてきたのはフロレッタの声だった。



17


 メルルは少し背筋を伸ばした。緊張したのだ。フロレッタの前を歩いていたのはロッタである。彼女は燭台を手に、おそらくフロレッタを自室まで先導しているのだろう。

 レトが会釈すると、フロレッタはふたりの前に進み出てきた。


 「こんばんわ。お夕食は済まされましたか?」

 柔らかく、優しい声だった。


 「いえ、まだです。あと少し、しなければならないことがありますので」

 レトがそう答えると、フロレッタの表情が少し陰ったように見えた。「そうですか。あの、お願いしている身で言うことではございませんが、無理はなさらないようにしてください」


 「陽が落ちてまだ間もない時間です。少々時間がずれたところで知れています」

 レトはどうということはないという口調で返すと、ちらりとかたわらのメルルに目をやった。

 メルルはレトの意図を察した。そこで、「私たちは仕事上、食事を摂る時間が遅いことは珍しくないのです。仕事が立て込むと夜半に摂ることだってありました。どうぞお気になさらないでください」と、レトの返事を補足した。


 「探偵のお仕事は大変なのですね。失礼いたしました。私、おふたりの仕事をまったくわかっていなくて……」

 フロレッタがそう言うのでメルルは慌てた。「いえ、本当にお気になさらないで……」


 「僕たちは仕事に差し支えないよう、自分の体調管理はしっかり行ないます。それよりもあなたのほうが気がかりです。お身体の具合は大丈夫なのですか?」

 レトの質問にフロレッタが身体を固くしたように見えた。ロッタの燭台はフロレッタの顔を照らすどころか逆光にもなっているので、表情がうかがえないのだ。

 「まぁ、今の自分を健康だと意地張っても仕方ありませんね。でも、今の調子は悪くありません。夜間は苦痛で眠れないことがありましたが、メンデスさんからいただいたお薬のおかげでこの数日はきちんと睡眠がとれていますので。ここでは睡眠薬などは簡単に手に入りませんから、メンデスさんがお持ちだったのは助かりました」

 「そうですか。お身体に障りがなければと思います」

 レトは心からそう思っているような優しい口調だ。レトの誠実な態度が響いたのか、フロレッタは「ありがとうございます」と言って頭を下げた。


 「ところで、あなたはどうしてここに? オブライエン候に御用ですか?」

 レトが話題を変える。フロレッタは首を横に振った。

 「いいえ。私は陽が落ちてから城内を歩くようにしているのです。部屋に閉じこもってばかりでは気が滅入ってしまうので。明かりのない城内は寂しいですが、仕方がありません。本当は、この城はここまで暗いわけではないのです。私のために上階層のこの一帯だけ明かりを減らしているのです。実際は、魔法灯はそれなりに備えられています。ですが、私にかけられた呪いは魔法灯の明かりにも反応するので、やむなく……」

 このあたりが暗い理由がわかった。

 「そうでしたか」レトはつぶやくような声だ。

 メルルはレトがフロレッタたちではなく、窓に目を向けていることに気がついた。

 「ここからの景色はたしかに美しいですね」

 レトの指摘で、メルルも窓の外に視線を移した。

 窓からは城や村を覆うように広がる森を望むことができる。陽は完全に落ちてしまっているが完全な闇になっているわけではなく、空は紺色と深い紫色とも言える複雑な色合いをしている。ところどころではあるが、小さな星がきらめいているのが見える。そんな星々の下で、森の樹々たちは闇に沈んだ影となって広がっていた。


 窓枠という額縁で切り取られた自然の夜景。


 これほど高い位置から夜の森の景色を見ることができて、メルルはしばらく呆けたようになっていた。

 レトの言うほど「美しい」とは思わなかったが、自然の壮大さ、荘厳さは強く感じられた。窓から見える景色は、「ただそこにある」だけなのかもしれない。しかし、その景色が持つ力強さに、メルルは心奪われたのだ。

 「ええ、美しいです。本当に」

 フロレッタはレトの隣に並ぶと、レトと同じように窓の外を眺めた。わずかな明かりから見えるその横顔には笑みさえ浮かんでいるようだ。そこには呪いで苦しめられている女性がいないようだ。

 メルルは、フロレッタがなぜ部屋から出歩いているのだろうと初めは不思議に思っていたが、窓の外に広がる景色を目にしたことでわかった気がした。呪いで苦しめられている者にさえ、この雄大な光景はその苦しみを忘れさせてしまうだろう。自然そのもののはずなのに、どこか非現実的な世界。この非現実さが、現在、自分が置かれている現実も切り離してくれるのだ。それが、ほんのひとときのことかもしれないのだが。


 「嬉しいです」唐突に、フロレッタからそんな言葉がこぼれた。レトはフロレッタに顔を向ける。「何がです?」


 「私ひとりのせいで、この階層は夜でも明かりのない場所になってしまいました。ほかの皆さんには関係ないことなのに、ずいぶんと不自由をさせています。この階層だって、私がずっと部屋にこもっていれば……、外の明かりが漏れ入らないよう黒い布などで部屋のなかすべてを覆ってしまえば、このあたりが暗がりになることもなかったでしょう。

 ですが、私は弱い女です。ひとり闇の部屋にこもっているのがつらく、こうして出歩くためだけに廊下の明かりは消されているのです。私の部屋は完全に窓が塞がれてしまって、そこから外の景色を見るのは不可能です。ですから、夜の間だけ、こうして廊下まで出て、窓からの景色を眺めているのです。

 皆さんからすれば外の景色など何でもないと思われるでしょう。ですが、今の私にとって、ここから見える景色は本当にかけがえのない、美しいものと思えるのです。

 ですから、カーペンター様から『美しい』と言ってもらえて嬉しくなったのです」


 陽の光で身体を焼かれる苦しみはどれほどのことか、メルルには想像できない。しかし、自分が同じ立場に置かれれば、一日中暗闇にこもりっぱなしの生活に何日もつかを考えれば、フロレッタの気持ちに共感できる。自分だったら、そんな生活など二日ともたないだろうから。


 「月明かりや星明かりは大丈夫なのですか?」

 レトの声には少し心配するような響きがあった。


 「今のところは……。満月はきついのかもしれませんが、今は半月あたりですし」

 フロレッタは景色を見つめたまま答える。嬉しいと言ったときの弾んだ調子はすでにない。「私はたぶん恵まれていて、まだ幸運なのでしょう」

 「幸運?」メルルは思わずつぶやいてしまった。慌てて自分の口を押さえる。


 フロレッタはメルルの反応に、ふふふっと小声で笑った。

 「変なことを言ってるって思いますよね。でも、これまでに呪いをかけられた方がたには、全身が爛れた状態になって体中からウジが湧いたとか、重い熱病にかかったとか、まったく目覚めなくなったとか、本当に酷いことをされた方がいます。

 それに比べれば、私は陽の光さえ浴びなければ、人並みの暮らしができるのです。

 幸運は言い過ぎかもしれませんが、はるかにましだと思えるのです」

 フロレッタはメルルに顔を向けた。陰になっているので表情はわからないが、穏やかな印象を抱いた。

 「そして、今日、レトさんから呪いからではなく、病気のせいで私と同じ目に遭っている方がいると聞きました。そんな話を聞いてしまうと、自分の境遇を嘆くなんてできません。だって、その方がたに失礼じゃないですか」

 フロレッタの説明はもっともだと思えたが、それでも哀しいとメルルは感じた。彼女はこの理不尽に怒りではなく、平常心で立ち向かおうとしている。それは理不尽に対してあまりにも優しすぎる。

 フロレッタは本当に優しい女性だ。それなのに、誰ともわからない者の悪意に苛まれている……。

 メルルは暗い気持ちで心が沈んだ。


 「現時点で何の解決策も見出せていないのが心苦しいのですが、必ず、その呪いから解放されるよう尽力します。改めてお約束します」

 レトはフロレッタに誓うように言った。フロレッタの顔が少し傾く。笑みを浮かべたようだ。「ありがとうございます、カーペンター様」

 レトはうなずくように会釈して、「では、僕たちは失礼します」と言いながら歩きはじめた。フロレッタも軽く会釈するとロッタを引き連れてメルルのかたわらを通り抜けた。すれちがいざまにはメルルにも会釈する。

 「あ。お、お休み、なさい」

 メルルは慌てて頭を下げるとレトのあとを追った。

 レトを追いながら後ろを振り返ると、ロッタが燭台でフロレッタを先導している姿が見えた。ただ、ロッタの目はメルルに向けられていた。

 メルルは少しどきりとした。ロッタの表情があまりにも感情が無いように見えたからだった。


 レトの次の移動先は階下を下りてすぐのところだった。

 「この部屋は……」メルルはつぶやいた。目の前にあるのはドニー・メンデスの部屋だった。


 レトは扉に小さくノックした。「ドニー。いるかい?」

 部屋の奥から反応する声があり、まもなく扉が開かれてドニーが姿を見せた。部屋着姿だ。

 「どうしたレトの旦那? 夕食はすんだのかい?」

 「その前に片づけたいことがあって来た。いいかな?」

 レトは部屋の奥を見やる。ドニーはうなずいた。「もちろん、かまわない」


 ドニーはふたりを部屋に入れると、夕方に打ち合わせしたソファまで案内した。

 「で、片づけたい用って?」

 ふたりが腰を下ろすと、ドニーはレトに話を促した。

 「魔法陣を壊した犯人についてだ。これを先に解決しておきたい」

 レトの答えにメルルは緊張した。そうか、レトさんも犯人がわかったんだ! 犯人はもちろん、警備していたあのふたりの兵士。名前はええっと……。


 「あの魔法陣を壊したのは君だ。ドニー」

 レトは宣言するように言った。



18


 メルルの口が大きく開いた。しばらく、声も出ないままぱくぱくと口を閉じたり開いたりする。やがて、「え? え? ええー?」と大きな声が漏れ出た。


 「魔法陣を壊した犯人がドニーさん? どういうことです? それ!」

 メルルは思わずソファから立ち上がってしまっていた。


 「その理由を聞きたいと思っている」

 レトはドニーから視線をそらさずに続けた。

 ドニーは両手を広げながら皮肉な笑みを浮かべた。

 「レトの旦那は魔法陣を壊した理由はわからないが、それでもオレが犯人だと考えたわけだ。なぜかな?」


 「たしかに、誰もがあの魔法陣を壊すことは可能だったように見える。でも、魔法陣を『あのような』壊し方をした理由を突き詰めて考えれば、君しか残らなかった、というのが正確かな」

 レトの返事にメルルは首をかしげた。「『あのような』壊し方?」

 レトはメルルに顔を向けた。

 「君自身が言ったことだよ、メルル。

 『あの魔法陣は少ししか壊されていない』と。

 つまり、あれだけであの魔法陣の使用を諦める理由にはならないじゃないか。すぐ修復して解呪の儀式を行なえばいい。現在やっているような城全体を魔法陣に作り替える手間に比べれば、そちらのほうが手っ取り早いし、むしろ安全だ」

 「それには反論があるな」ドニーが手を挙げた。「そのことに対して、オレは今後も妨害される恐れがあるから、あの魔法陣は使わないと言ったじゃないか。そうだろ?」

 「警備体制が少人数で穴のできる状況だということはわかっている。でも、あの儀式を行なう当日は、警備を魔法陣の守備に集中させられるはずだ。フロレッタさんは昼間にあの魔法陣のある中庭に出ることはできない。当然、儀式は夜間に行なわれることになるのだろう? だったら、城内には兵士が戻ってきてるし、そのときだけ増員をお願いすればいいだけじゃないか。あれぐらいの損壊であれば、君なら一日で修復できるはずだ。君が何を遠慮しているのかわからないな」

 今度はドニーからの反論はなかった。レトは話を続ける。

 「メルルが考えたように、持ち去られた土を戻さなければならないというなら、その土はすぐに見つかったよ。庭師のガルドさんの自宅に通じる小道の脇に無造作に捨ててあった」

 メルルは『あっ』と思った。言われてみればガルドが自分の家を指し示したとき、その道に土が盛り上がっている箇所があった。メルルの記憶にも残っているのは、この城があまりにきれいに整備されていたからだ。どこも平らにならされて、でこぼこの部分など見られない。それなのに、あそこだけ土が盛り上がっていた。メルルはそれに違和感を抱いたのだ。あれが魔法陣から掘り出された土だったのだ。

 「君が周囲を調べることもせず、かつ、魔法陣の修復を全くしようとしなかったのはおかしい。少なくとも穴を埋め戻すなどして、それで魔法陣の復旧が可能か試すはずだ。そのうえで、城全体を魔法陣化することを決断するのじゃないかな?

 君は非常に手間のかかる方法を簡単に選んだ。何も調べず、何も試そうともしないで。

 別に君は消極的な人間ではない。警備の兵士たちは城内で活動する君をかなり目撃したと証言している。あちこちに出入りするから注意したぐらいだとも。それほど行動的なのに、魔法陣の修復をしようとしなかったのはなぜだろうか?」

 レトはドニーに質問を投げかけたが、ドニーから答えはない。ただ無言で首を振るだけだ。

 「決定的なのは、あの魔法陣に穴を空けるには警備の者に見つかる危険が高すぎることだ。警備兵が立っているところから一番離れているからといって、目につかない位置じゃない。たとえ夜間であっても、あそこにはかがり火が焚かれていた」

 兵士が立っていたところにかがり火の台があったのはメルルも見ている。

 「たとえ、目につきにくいところであったとしても、土を掘り返す音は消せるものじゃない。すぐに気づかれてしまうよ。それが、兵士がふたりとも居眠りしている状況だったとしても。すぐ見つかるかもと思える状況で、魔法陣を掘り返しに行く者がいるだろうか?」

 「でも、実際に魔法陣は掘り返されている。危険を承知で実行した者はいたわけだ」

 ドニーは反論ともつかないことを言った。

 「それは警備する兵士に対して、ある策を打ったからだろう」

 「策だって? オレが?」

 「兵士に一服盛ったのさ。睡眠薬をね」

 メルルはふたたび『あっ』と思った。メルルの頭のなかで断片的だったものすべてが、レトの言葉でカチカチと音を立ててひとつにまとまったのだ。

 「魔法陣を壊そうとした者は警備兵が居眠り、それも土を掘り返す音ぐらいでは目を覚まさないほど深い眠りにつくことを確信していた、ということですね? つまり、警備兵の皆さんは事前に眠り薬で眠らされていた。そして、それができるのは薬を持っていたドニーさんだけです。なにせ、この村では睡眠薬が手に入らず、取り寄せるのに大変苦労するそうですから。事前に薬を用意する時間的余裕があるのもドニーさんだけです。警備している兵士さんたちを眠らせようと考えても、手持ちに薬がなければ実行すら不可能ですから」

 そのことは、さっきフロレッタが話したことだ。

 「警備のシフトは固定されていましたから、誰に薬を盛ればいいかすぐにわかります。それに、仕事の最中に飲酒することに気がつけば、酒樽に薬を仕込むだけでも簡単です」

 そこで、メルルは『ぽん』と手を打った。「シャーリーさんを共犯にしたんですね? あのひとに薬を兵士さんたちに飲ませた」

 「それは違うよ、メルル」レトがすぐに否定した。「シャーリーさんにドニーと共犯関係になる必然性がない。少なくとも今まで見つけた手がかりのなかには。それに酒樽に薬を入れてしまったら、ほかのひとも薬の被害に遭ってしまう。さすがに、そんな危険は誰も冒さないよ」

 「え? それじゃあ……」

 「僕たちが見たこと、訊いたことには暗示的なものがある。

 ホプトとネッドが勤務中に飲酒をしていたことは間違いないだろう。酒をシャーリーが提供していたのも事実だろう。でも、ホプトとネッドが警備中に居眠りしたために魔法陣が壊されたというのに、あのふたりには反省の色が全く見られない。さすがに勤務姿勢としてはひどすぎる。しかし、彼らが自分たちのことを安全だと思っていたら? つまり、勤務中の居眠りを厳罰にしようものなら、ほかの誰かが困ることになると確信していたら? 彼らの増長した態度の理由にはならないかな?」

 「ふたりの増長の理由……」

 「ここで、ある話に注目してみよう。

 ふたりが居眠りという大失態を犯したとき、それをかばった人物がいた。彼のおかげでふたりは厳罰を免れ、通常の勤務につくことが許された。ふたりをかばった人物とは……。もちろん君だ、ドニー。これはクルト・ヒューズ隊長から証言を得ているが、これもおかしな話だ。そんな不祥事を起こした者たちをかばう理由を君は持っていない。本来は。

 でも、もし、彼らの居眠りの原因に君が関わっているとすれば?

 たとえば、夜勤をしている彼らと一緒に酒を酌み交わしていたとしたら?

 飲酒の問題はふたりだけのものでなく、君にとっても大問題となる。当然、オブライエン候からの信用を失い、契約解除となるだろう。だから、君はふたりが口を割らないよう、オブライエン候にとりなしたんだ。

 つまり、あの魔法陣警備での失態は君も深く関わっているんだ。ふたりのあの増長した態度はそれを暗示するものなんだ。もっとも、彼らは一緒に飲んだ酒に睡眠薬が仕込まれていたことまでは気づいていないようだけどね」

 メルルはぽかんと口を開けてレトの推理を聞いていた。言われてみれば思い当たることだらけだ。それらがつなぎ合わされた推理は正しいと思える。しかし……。


 「でも、レトさん。さっき、シャーリーさんを容疑者から外しましたけど、シャーリーさんが魔法陣を壊す障害を除くため、ふたりにお酒を飲ませたとは考えられないんですか? この場合は睡眠薬を仕込むことはできませんが……」

 「そう。それだとお酒だけで相手が居眠りしてくれるか賭けになる。魔法陣を壊している最中に彼らが目を覚まさないかも賭けになる。けっこう分の悪い賭けだよ。それに、あの魔法陣を壊す行為は主人に対する裏切りだ。発覚した場合の罰は重いものになるよね。賭けに負ける危険が高いのに、そんなリスクを背負うだろうか?  もし、そうするのであれば、彼らが眠っている間に文字通り寝首をかいてから魔法陣を壊すほうが安全で確実だ。眠っている間であればふたりぐらい殺すのはそれほど難しくないと思う」

 「さらっと恐ろしいこと言わないでください!」

 しかし、シャーリー犯人説をレトが否定する理由はわかった。だが、ここで簡単に引き下がれない。メルルは意地になってきた。

 「そもそもホプトさんとネッドさんが任務内容に強い不満を持ち、怠慢な態度で魔法陣の警備をしていたのなら、誰か知っている人物が魔法陣を壊しに来たら簡単に見逃したりはしませんか? 親しい仲間に見逃してほしいと頼まれたら……、あるいは、彼ら自身が魔法陣を壊した張本人でした、とか……」

 「それについては、彼らが厳罰される可能性をどれほど見積もっているか、だよね。もし、自分たちが警備している間に魔法陣をみすみす壊されたら、それは大失態として本来は厳罰に処されるものだよ。たとえ彼らを追放することで人手不足の状況が悪化するとしてもね。まさか、初めからドニーがかばってくれる見込みがあったと言えるだろうか?」

 もちろん、そんな見込みが立つはずがない。いや、ドニーがかばってくれてもお咎めなしになった保証はまるでないのだ。

 「……シャーリーさんも、兵士さんたちにも魔法陣を壊すのに、自分が安全確実にできる状況にはありません……」

 「実は、彼らが犯人かどうかは最初の段階で考えていた。ただ、消去法で考えて彼らの線はなくなり、最後に残ったのがドニーだった、ということだ。そして、ドニーが犯人だと考えたとき、僕のなかでは一番納得できたわけだ。

 そろそろ答えてくれるかい、ドニー。

 君こそがあの魔法陣を壊した張本人だろ?」

 レトは穏やかな口調でドニーに話しかけた。

 ドニーはときおり微笑を浮かべながら話を聞いていたが、レトに話しかけられると顔を隠すように伏せた。しかし、すぐに顔を上げたが、それは満足そうな笑顔だった。


 「さすがだね。君たちを呼んでよかったよ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ