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黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 3

8


 「さて、ここからは僕たちの仕事の番だ」


 椅子に腰を下ろすなり、レトが話しはじめた。

 ドニーの部屋を出たレトとメルルは、今度はレトの部屋でふたりだけのミーティングを始めることにしたのだ。とは言っても、部屋にはふたりだけではない。アルキオネはレトの肩からベッドの上に移動して、ふたりの様子を眺めていた。


 「私たちの仕事はフロレッタさんに呪いをかけた人物を探し出すこと、ですよね」

 メルルも椅子に腰かけながら、緊張した面持ちでつぶやいた。予感ではあるが、かなり困難な事件だと思えるのだ。


 「少し違う」

 レトは腕を組みながらメルルの言葉を否定した。


 メルルは首をかしげた。「少し違うって……?」


 「呪いをかけた人物、だけでなく、ドニーの魔法陣を壊した人物『も』探す、だ」

 レトは『も』の部分を強調するように言った。


 「同じじゃないんですか? だって、フロレッタさんを呪ったひとが、解呪の儀式の邪魔をしたいわけじゃないですか」

 メルルは抗議するように語気を強めた。


 「メルル。君はフロレッタさんの首に浮かんだ魔法陣を見たとき、その魔法陣がどんな色をしていたか覚えているかい?」


 レトの質問の意図はわからないが、メルルはうなずいて答えた。

 「覚えています。黒インキで書いたような真っ黒の魔法陣でした」


 「核心部分はそこだ。推測ではあるが、フロレッタさんを呪った人物はすでに死んでいるかもしれない」

 「どういうことです?」


 レトはすぐに答えなかった。なぜか、ベッドで羽を休めているアルキオネを見つめている。しばらく沈黙が続いた。


 レトがなかなか答えようとしないので、メルルは「どういうことです?」と質問を繰り返した。ようやくレトはメルルに顔を向けて口を開いた。


 「呪いの魔法をかけられた者には、ある共通点がある。身体の一部に呪いの魔法陣が浮かび上がる、というものだ。フロレッタさんの場合も、執事がそれに気づいたのでフロレッタさんが呪われたことがわかった。呪いの魔法陣は術者の魔力などから力を得て効果を発揮している。基本的には術者が死亡すれば、魔力の供給が止まるので呪いは消える」

 「おとぎ話でも聞いたことがありますね。悪い魔法使いを倒したら、お姫様にかけられた呪いが消えるという……」

 「それは実際にそうだからさ。ただし、あくまで『基本的に』、だ」

 「基本的って……」

 「もし、その呪いがあまりに強力なものだった場合、術者が死亡しても呪いは消えないんだ。むしろ、より厄介なレベルにまで強化されてしまう」

 「ほんとですか、それ?」

 「事実だ。そうなった場合、呪われた人物に浮かび上がった魔法陣に変化が起きる。

 それは……、『魔法陣の色が濃い黒色に変わって』しまうことだ」


 メルルは目を大きく見開いた。「そ、それじゃあ……」

 しかし、メルルは言いかけた言葉を飲み込むと、「つまり……、そういうこと……なんですね……」納得したように言葉をぽつりぽつりと吐き出した。


 「術者の支配から外れた呪いが対象者に留まり続けるのを、『定着』と呼んでいる。

 定着した呪いは、簡単に解呪できず、また、無理やり引き剥がそうとすると、今度は引き剥がした相手に憑りつこうとする。

 解呪の儀式は、宮廷魔導士ぐらいのレベルでないと難しいものだけど、そういう危険があるから彼らはやりたがらない。

 ドニーのような自称『呪術師』に活躍の機会があるのはそのせいでもある」


 「さっき、ドニーさんと話したとき、呪いの定着について話がありませんでした。

 ドニーさんは呪いの術者がもう死んでるかもと考えていないんでしょうか?」


 「おそらく、ドニーが呪いの魔法陣を直接見たとき、その色合いは黒じゃなかったかもしれない。彼がフロレッタさんに憑りついた魔法陣を検めたのは、異変が起きて3日後だと話していたからね。あまり、時間が経っていないときだ。呪いの魔法陣が自分の手に負えないものだとわかると、それ以上魔法陣を調べようともしなかったんだ。なにせ、彼にとっては、魔法陣が解読できようができまいが、どちらでもいいからさ。

 そして、フロレッタさんに呪いをかけた人物は、その後死亡したんだ。

 『人を呪わば穴二つ』という言葉がある。

 強力な呪い魔法を使う場合、その魔法は術者に大きな代価が必要になるんだ。

 たいていは術者の『生命』、または『生命力』だね。さっきの言葉は、相手を呪い殺そうとすれば、自分もまた、その呪いによって死ぬ。つまり、相手と自分の2つの墓穴が必要になる、ということなんだ」


 「居間でフロレッタさんたちと話していたとき、フロレッタさんにかけられたのは状態異常魔法で呪いでない、と説明されていましたが、つまりは状態異常魔法も同じなんですか? その……、呪いと同じように被術者に呪いの魔法陣が刻印されてしまうんですか?」


 「被術者の身体に魔法陣が刻印されるのは共通だね。

 呪いも状態異常魔法も、突き詰めれば術式で構成された魔法なんだから。本質は同じなんだよ。

 魔法の行使の代価に術者の『生命』、または『生命力』が要求されるのもそうさ。状態異常魔法は相手の肉体に直接作用する。つまり、相手の『生命』、または『生命力』に干渉する、ということだ。炎を生み出すような現象的なものと違い、代価もまた似たようなものになる。今のところ、この等価交換以外に状態異常魔法を行使する方法は見つかっていない。これはありがたい話だよ。もし、この危険リスクも無しに状態異常魔法を行使できるのであれば、世の中は呪い合いで混沌カオスの世界になっているよ」

 言われてみればそのとおりだ。この危険リスクのおかげで、魔法が当たり前の存在である今の世界であっても、犯罪に魔法が使われるのは限定的なのだ。


 「だからこそ言えるわけだけど、フロレッタさんに呪いをかけた人物は、自分の生命力をかなり失ったはずだ。早ければ術をかけた4日以内に命を落としたのではないか。だからこそ、フロレッタさんの首に刻まれた魔法陣は黒く変色していた。

 でも、ドニーにすれば術者が生きていようが死んでいようが、彼が解呪しなければならないのは変わらない。

 もし、術者がすでに死亡していて、そのことにドニーが気づいていたとしたら、彼は僕たちを試しているのかもしれない」


 「試す? 何を? いえ、そもそもどうして?」


 「僕たちの探偵としての力量さ。

 術者について、どの程度の推測ができているのか、とか。

 魔法陣の破壊者について、どう捜査すれば犯人に行きつくか、その見通しが立てられるのか、とか。

 もし、術者、あるいは魔法陣を壊した犯人を簡単に捕まえられたら、それでいい。そうなれば黒水晶を失くさずに呪いを解くことができるかもしれない。黒水晶が手元に残れば、今度は別の事案で使えるからね。損にならない。

 たとえ僕たちの捜査が失敗しても、彼には黒水晶がある。最終的にはそれで彼の事案は解決さ。ただ、妨害者が存在する問題は残る。

 そこで僕たちを……」


 「あー、わかりました! 私たちを犯人の牽制に使うつもりなんですね?

 私たちが犯人を捕まえられなくても、私たちが捜査で城内や城下を歩き回っている間は犯人もおとなしくしているだろうと。

 ドニーさんは妨害の手が緩んでいる間に、悠々と自分の仕事を片づけることができるって考えですか!」

 「そういうことだろうね」


 「まったく!」

 メルルは、ぷんすか怒りながら腕を組んだ。

 「あのドニーさんの抜け目ないところ、私、好きじゃないです!」


 「僕も好きじゃない。でも、彼の考え方は悪党のそれとは違う。

 生きるために必要な『抜け目なさ』なんだ」


 メルルの肩が、がっくりと下がる。「レトさんはドニーさんの理解者なんですね……」


 「まさか。ただ、あの抜け目なさを犯罪に利用したら、すぐ取っ捕まえるさ」


 「どうして捜査についての打ち合わせにドニーさんを外したのか、よくわかりました。

 ドニーさんに悪用されないためですね?」


 「つまらない裏のかかれ方をしないためさ。

 最悪、引き剥がした呪いを引き受けさせられる可能性だってあるんだ。

 彼は悪人ではないが、絶対の信用もできない。そんな人物だ。

 彼の前では捜査の核心につながる部分は話せないよ」


 下がっていたメルルの肩が上る。姿勢を正したのだ。

 「捜査の核心って……。レトさん、何か気づいたことでもあるんですか?」


 「彼らの話しぶりから、フロレッタさんが呪いをかけられた瞬間を誰も見ていないと思われる。思い当たるきっかけがあれば、それを話すはずだからね。

 相手を強力に呪う方法といえば、首を切り落とした鶏を相手に投げつけて呪詛をぶつけるのが知られている。鶏に限らず、何かいけにえを捧げれば術ができるとも言われているが、あいにく、僕もそこまで詳しくない。

 ただ、そんなことをフロレッタさん相手に行なう者がいれば、誰もが犯人が誰かわかってしまうだろう。僕たちを呼ばなければならない事態にもならないよ。

 そう考えれば、彼女を呪った人物が内部の者であると断言できないよね。外部にも捜査の目を向けなければならない」


 レトが内部の犯行とすることに慎重だった理由がわかった。


 「フロレッタさんが呪われた状況から、むしろ外部の犯行だと思われるんですね?

 ただ、それだと魔法陣が壊された状況とつながりませんね。あちらは、内部の犯行のように思えます」

 「内部だと考える根拠は?」

 「城の警備をかいくぐるためといっても、夜間に忍び込むのは危険が大きすぎます。ここの城壁はかなり高くて、なかの様子をうかがうのが難しいですから、警備の状況をあらかじめ確かめるのも困難です。

 レトさんが魔法陣を壊そうと企てる人だとしたら、夜間に忍び込む危険を冒そうとしますか?」

 「考えないね、そんなこと」

 「でしょ?」


 「ただ、城の警備がまともだったのか、そこに穴がなかったのか、検証の必要はあるよ。

 警備が厳重だとわかれば、君の考えが正しいと判断できるね」


 「じゃあ、これから捜査するのは、魔法陣が破壊されたときの警備の状況の確認と、フロレッタさんが呪われた当日の、村の様子を探ることですね? いくら城の外で呪いをかけられるといっても、それほど遠くで行なえると思えません。フロレッタさんに呪いをかけた人物は、城下の村に潜んでいたかもしれないですよね?」


 「僕も同じ考えだ。

 ただ、村の捜査だが……、君に前もって話しておくことがある」

 メルルはレトの顔を見つめた。

 レトの表情はどこか思い悩んでいるように見える。この表情をメルルはつい最近見た覚えがあった。初めて城下の村に足を踏み入れたとき、村人に監視されているとレトに注意されたときのレトの表情だ。


 「前もって話したいことって何です?」


 レトはメルルの目をまっすぐに見て答えた。


 「2年前、この村で起きたことだ」



9


 「2年前、この村で起きたこと……」

 メルルはレトの言葉を口のなかで繰り返した。「それって、『討伐戦争』があったころのことですか?」

 レトはゆっくりとうなずいた。


――『討伐戦争』。


 それは、今から2年ほど前、魔族たちの国である『魔国』マイグランから、その国の四侯と呼ばれるアルタイルという魔族が私兵を率いてギデオンフェル王国に攻めこんだことで始まった戦争のことである。


 初めは王国が劣勢であったが、勇者の血を引くリオンという若者が兵を起こしたことで戦況は王国側に傾き、ついには魔候軍を退け、魔候アルタイルも討ち果たすことができた。


 この戦争が『魔候』アルタイルを討伐するためのものだったので、後に『討伐戦争』と呼ばれるようになったのだ。


 「この村で起こったことについて、僕は資料を読んで知っているだけで、直接見たわけじゃない。その点だけは注意して聞いてほしい」

 メルルは真剣な表情でうなずいた。「続けてください」


 レトは少し顔を伏せて、当時を思い出すように語り始めた。


 「討伐戦争の末期、魔候軍は王国北方の城塞都市アルデミオンに攻め入ってきた。

 アルデミオンは『魔の森』ミュルクヴィズに一番近い街で、魔族の侵攻の監視と防衛を目的とした街だ。城壁の高さも堅牢さも王国一。魔候軍はついにアルデミオンを落とすことはできなかった。

 その一方、アルデミオン近辺の町や村は、なすすべもなく魔候軍に蹂躙された。

 多くの人びとが捕らえられて、ミュルクヴィズの奥、当時アルタイルが拠点としていた『ユグドラシル城』まで連れ去られてしまったんだ。

 魔候軍はこれまでにも攻め落とした街などから大勢の人びとを拉致していた。拉致された人びとの数は15万人以上だと言われている。ただ、生きて帰ることのできたのは10万人ほどなので、実際はどうだったかわからない。とにかく多くのひとが犠牲になった。

 勇者リオンはアルタイルを討ち取ったけど、さらわれた人びとの全部を救い出せたわけじゃなかったんだ」


 メルルは黙ったまま話を聞いていた。

 勇者が率いた義勇軍は『勇者の団』と名乗っていた。大勢の若者がそこに加わり魔族と熾烈な戦いを繰り広げていたが、レトもまた『勇者の団』のひとりだった。

 以前、とある人物から『戦争で活躍したのか?』と問われたとき、レトは『まさか』としか答えなかった。

 レトが当時のことをあまり話したがらないのは、救うべき人びとを助けられなかった後悔のせいだろうか。


 「魔候軍に蹂躙された村のなかに、このマイエスタの村も含まれていた。

 魔候軍に攻め込まれたとき、村人は城に逃げ込もうとしたのだが、当時の領主は村人すべてが避難するのを待たずに門を閉めてしまった。

 城から締め出された形になった村人の多くが魔候軍に連れ去られた。戦争が終わって村へ無事に戻ることができたのは半数ほどでしかなかったそうだ。

 あのとき、領主が門を閉じた事情はわからない。その判断がやむを得ないものだったのか、そうでないのかも。

 真相が何であれ、村人たちは領主のことを決してゆるしていないと思われる。それこそ、呪いたいほどにね」


 村を覆っていた陰鬱な空気の正体がわかった。

 彼らは領主を憎む気持ちを身体から発していたのだ。

 その憎しみは領主だけでなく、領主を訪ねる者にも向けられていた。

 あのとき、メルルが感じていたのは、メルルたちもまた領主側の人間ではないかという、村人たちの疑惑と憎悪が入り混じった視線だったのだ。


 「レトさんがご存知なのは資料で読んだ情報だけですか?

 実際にここを訪れたことはなかったのですか?」


 レトは首を振った。

 「ここに来たのは本当に初めてだ。

 ただ、今話したことは、この村だけで起こったことではない。

 魔候軍に襲われたほかの町や村でも起こったことなんだ。

 被害に遭わなかったところではそれほどでもないけど、この村のように被害の大きかったところは、家族や友人たちを守ることのできなかった王国や領主に対する恨みや怒りが強い。

 僕はこの村とは違う場所で同じ視線を浴びたことがあるんだ」


 そうだったのか。

 メルルはレトがそのせいで過去の出来事に苦悩していたのだとわかった。


 「ところで、その、門を閉じてしまったご領主様は……?」

 メルルはレトの後悔と重ならないであろうと思い、領主について質問した。


 「マイエスタ領主、フィリップ・レドメイン・ノーズは、終戦直前に亡くなった。

 自分のしたことに対する後悔でずっとふさぎ込んでいたと言われる。やがて病がちになり、そのまま亡くなったそうだ。

 そんな話を聞いても村人の怒りは収まらなかったらしい。

 彼らの憎悪の目は、次期領主である、娘のフロレッタさんへ向けられるようになったのだと思う」


 食堂のおかみさんが態度を急変させた理由もわかった。

 彼女もまた、大切な誰かを失ったのだろう。

 カウンターには黄色のスイセンが活けてあった。

 黄色のスイセンの花言葉は『自分のもとへ帰ってほしい』だ。

 あれは、もう帰ってくることのないひとに、それでも帰ってきてほしいと思う切実な気持ちが込められているように感じられる。


 「レトさんの見立てが正しければ、私たちが村人から情報を集めるのは難しそうですね。

 フロレッタさんに呪いをかけた人物は、村人にとって代わりに恨みを晴らしてくれたみたいなものですから、誰が犯人であるか知っていても教えてもらえないでしょうね」

 「その見込みは、たぶん……正しい」

 レトは暗い表情でうなずいた。


 「でも、村の皆さんからお話しを集めるのは必要です、どうしても!」


 メルルは大きな声を出した。


 「フロレッタさんに刻まれた呪いの魔法陣を見たときに気づきました。

 フロレッタさんはとても弱っています。身体はかなり痩せていて、肩の骨が浮かび上がっているほどでした。

 あの呪いは直接、フロレッタさんを病気にするものでないかもしれません。

 でも、お日さまを浴びることもできず、夜は苦痛で満足に眠れない状態が続けば、誰だって病気になってしまいます。

 ドニーさんの魔法陣が完成する前に、フロレッタさんの身体がもたなくなる危険だってあるんです。

 私は一刻も早く、フロレッタさんを呪いから解放しなければならないと思うんです!」


 「僕も同じ考えだよ、メルル」

 レトは落ち着いた表情で答えた。さきほどまで見せていた暗い表情ではない。


 「だからこそ、この捜査は慎重にしなければならない。

 僕たちの失敗が、そのままフロレッタさんの危険につながっているんだから」


 それを聞いたメルルから勢いが消えていった。「たしかに、それはそうです……」


 「そこで、メルル。まずは城内の聞き込みから始めよう」

 「城内の……。騎士さんとかに聞いて回るのですか?」


 「もちろん、彼らにも聞き込みはするが、ここで働いている人たちに対しての聞き込みだ。

 彼らは城で暮らしているわけではない。彼らも村に家があるんだ。ここへは仕事のために通っているわけさ。

 彼らもまた村人だけど、事情が少し異なる。

 彼らは初めから城内にいて助かった人たちだ。なかには家族を失った人もいるかもしれないし、魔法陣を破壊した犯人も混じっているかもしれない。

 でも、多くの者は領主を恨む村人たちとは感情面や考えが違う可能性がある」


 「その人たちなら協力してもらえるかもしれない……?」

 「期待はできないが、確かめない手はないだろう?」


 メルルの表情に少し明るさが戻った。「そうですよね、そうです!」


 「じゃあ、さっそく行動開始しようか」

 そう言いながらレトは立ち上がった。


 「日が暮れるまでにやれること、やるべきことはまだまだある」



10


 それからしばらく経ったころ、レトとメルルのふたりは城の中庭に立っていた。レトの肩にアルキオネの姿はない。彼女は豪華なベッドが気に入ったらしく、そこから離れようとしなかったのだ。

 ふたりの前に背より少し高いぐらいの灌木かんぼくが並び、ひとりの老人が大きな園庭バサミを手に一本の灌木を手入れしているところだった。広い麦わら帽子の下には日に焼けた黒い首がのぞき、黒いサスペンダーで作業ズボンをしっかり留めている。彼はこの城の庭師だった。


 レトが庭師の老人に名乗ると、老人は振り返らずに何度もうなずいた。

 「ああ、ああ。聞いているよ。

 オブライエン様から直接、あんたがたに協力するようにってね。

 ただ、ワシに何か手伝えることがあるとは思えんがね」

 ハサミを動かす手も休めない。


 「庭師さん。わたしたちは、フロレッタさんにかけられた呪いを解いてあげたいと考えているんです。そのためには、もう二度と解呪の儀式を妨害されることがあってはならないんです。

 フロレッタさんのお身体はだいぶ弱ってます。

 早く儀式が行えるよう、この間、儀式の妨害をした人物を探し出したいんです」

 メルルは前のみりぎみの姿勢で庭師に訴えた。


 聞き込みの最初の人物として、フロレッタに直接仕えるメイド長のロッタとシャーリーからと考えていたが、ふたりの姿は簡単に見つけられず、いったん後回しになった。『シャーリー』は、レトとメルルがフロレッタたちと会談している間、扉口で控えていた若いメイドである。


 聞き込みが難しいのであれば、まずは現場の確認と中庭に出たところ、この老人を見つけたのだった。


 「お前さんに強く言われなくたって、ワシだってお嬢さまのことは気にかけている。

 なにせ、ワシはあのお嬢さまが赤ん坊のころからお仕えしてるんだ。

 お嬢さまを苦しめるやつは、ワシが探し出して早く呪いを解けと締め上げたい気分なんじゃ」


 これまで老人はパチリ、パチリと一定のリズムで剪定していたが、ハサミを下ろしてふたりに振り返った。


 「いったい、このワシに何を聞きたいんじゃ?」


 「まずは、あなたのことをお聞かせください。具体的にはお名前と、お仕事についてです。

 あなたのお仕事はこの庭の手入れだけですか?」

 レトが一歩踏み出して尋ねた。レトもまた、メルルと同様に真剣な眼差しをしている。


 老人はレトの顔を眩しそうに目を細めて見ていたが、すぐに首を小さく左右に振った。

 「たしかに、ワシはここの庭師だが、それだけじゃない。

 薪を割ったり、馬にエサをやったりしているよ。

 まぁ、当たり前の下男ということじゃな。

 ちなみに、ワシの名前はガルド。ほかに呼び名もないから、普通に『ガルド』と呼んでもらっていい」


 この城は、城壁などの構えは立派だが、大きさで言えばかなり小さいものだ。

 レドメイン家に仕える騎士は数十人ほどだと聞く。その規模だと、一般では小貴族と言われるものだ。あまり多くの者を雇うだけの力もないだろう。その分、城の仕事は完全な分業というわけにいかず、いろいろと兼任せざるをえない。

 ガルドの言っていることは、この城では当たり前のことなのだろう。彼の態度に、そのことで不満を持つ様子は見られなかった。


 「庭木の剪定は毎日の仕事ですか?」

 

 「いいや。ごらんのとおり、ここにはあまり木が生えていないからな。

 どちらかと言えば……」


 老いた庭師は中庭の中心に目をやった。

 「あそこの雑草むしりと手入れのほうが忙しい。あれは毎日やらんと、すぐ雑草だらけになってしまうからな」

 彼の視線の先にはドニーの魔法陣が描かれていた芝生が広がっている。


 「本当なら、とっくに塗料を落として芝生をきれいにしているところなんじゃが、まだ、あの魔法陣を使うので、芝生をきれいにするのはまだ先だとオブライエン様に言われたんだわ。

 おかげで芝生の仕事はお休み状態になっている」


 「魔法陣を描くのに使われた塗料は洗って落ちるものですかね?」

 「いいや、わからね。ダメだったら芝生の草ごと刈り取るしかないわな」

 「何も試していないんですか?」

 「試すも何も、あの呪術師が芝生で『お仕事』を始めたとき、ワシは庭から遠ざけられたんじゃ。あのとき、あの男は何て言ってたかな。『きぎょうきみつだから近づくな』って」


――きぎょうきみつ? 企業機密のことかな?

 メルルは頭のなかで首をかしげた。いや、そうだ。間違いない。企業機密。ドニーは自分の仕事を完全に割り切った意識で考えているのだ。だからこそ、そんな言葉が口をついて出てしまう。


 「その指示を現在も守っておられるんですね?」

 「まぁね」


 「ところで、あの魔法陣が壊されたときのことをお聞かせください。

 あなたはその前夜、何をなさっていたか覚えていますか?」

 「ワシか? ワシなら、ほれ、あそこに見える……」

 ガルドは灌木を少しかき分けると灌木の向こう側が見えるようにした。その先にも何本かの灌木が立ち並び、奥には灰色の城壁が見える。その城壁の壁ぎわには小さな小屋が建っていた。そこへ通じる道は地面がむき出しになっており、石畳で舗装された城内と風景が異なっていた。それでも道はほぼ平らにならされて景観を損ねないようになっている。ただ一か所だけ、土が盛り上がっている部分がメルルの視界に入った。

 「あれがワシの家なんだが、あそこでうちのかかあと過ごしていたな。

 そのとき、どんな話をしていたかまではさすがに覚えていない。

 いつもの、どうでもいい夫婦の会話ってやつだからな。

 要は普段どおりの夜を過ごしていたって話だ」


 「外の様子のことで覚えていることはないですか?

 たとえば聞きなれない物音がしたとか。

 誰かの足音が聞こえたとか」


 レトの質問に、老人は腕を組んで考え始めた。そっけない態度ではあるが、この老人は誠実に答えようとしているのだ。


 「うーん、悪いが何も思い出せないな。

 うちのかかあも同じだと思うな。

 かかあは犬みたいに耳が良くってな。ワシがかかあのことを何か言ったら、どんな遠くからでもすっ飛んできてワシを叱りつけるんだわ。

 あの晩、かかあはずっと大人しくしていたからな。何か気になる音があったとは思えないな」


 「なるほど、よくわかりました。

 ちなみにあなたの『かかあ』とはどなたですか? お名前をお聞かせいただいても?」


 ガルドは細めていた目をしばたたかせて答えた。「ロッタだ。お嬢様のメイド長を務めている」



11


 「あの庭師さん……、ガルドさんは魔法陣を壊した犯人じゃありませんね」

 庭師に礼を言って別れたあと、芝生に向かって歩きながらメルルは小声で言った。


 「そう考えた根拠は?」


 「あの人は魔法陣を描いているのは何かの塗料だと思っていたからです。

 ドニーさんが芝生にしていたのは……」


 ふたりは壊された魔法陣のそばに立った。

 「塗料でなく、除草剤を撒いていたんですから」


 メルルに指さされたのは、ドニーによって描かれた魔法陣の一部だった。

 あれから1週間ほど魔法陣は手付かずのはずだったが、その線はくっきりと残っている。

 それは、線にあたる部分がむき出しの地面だったからだ。地面には白い粉が残っており、それが白線の代わりになっていた。おそらく除草剤だろう。


 「芝生に直接塗料を塗るだけじゃ、芝生が風で乱された程度で魔法陣が使えなくなる。だったら、草のない地面にすれば確実だと考えたんだろうね。たしかに、この方法だと1週間そこらでも魔法陣は消えずに残っている。彼は本職として忠実にこなしているだけなんだろうね」


 「それでも!」

 メルルは怒ったような声をあげた。「せっかくの庭を台無しにするなんて!」


 「でも、そのおかげでさっきの庭師が犯人ではないとわかったわけだ」

 レトの言葉でメルルは我に返った。

 「そ、そうです!

 魔法陣を壊した犯人であれば、芝生のそばに近寄って、それが塗料で描かれたものではないとわかったはずです。

 あの庭師さんは魔法陣を消すなら『洗うか、芝生を刈り取るか』しか考えていませんでした。もし、芝生の状態がこのようなものだとわかっていたら、そんな答えは返しません。『芝生を土ごと入れ替える』と答えたはずなんです」


 「たしかに、あの人がそう答えていたら、僕も庭師を犯人候補のひとりとして残していただろうね。

 あの庭師にそんな考えが頭になかったのは間違いない。こっちの質問の意図がわからないまま素直に答えていただけだ。

 まぁ、何にせよ、捜査は一歩、先へ進んだね」


 レトの言葉にメルルは苦笑いを浮かべた。「大勢いる容疑者からひとりだけ外れただけですよ……」


 「一歩は一歩さ」

 レトは庭にひざまずきながらつぶやいた。

 レトの視線は魔法陣の壊された箇所――、地面が掘り返されたあたりに向けられている。


 「手で掘り返したとか、そういう行き当たりばったりの作業じゃないね。

 これは踏鋤シャベルのような道具を使った跡だよ」


 メルルはレトの肩越しに地面をまじまじと見つめた。

 「……言われると、たしかにそうです。

 じゃあ、魔法陣を壊した人は、ここへ道具持参でやってきたんですね?

 魔法陣を壊すことを目的とした計画的な行動ですよね」


 「そうだろうね。

 誰のしわざにせよ、この魔法陣が何で造られていて、どう壊せばいいかを知っていなければならない。

 僕たちは犯人を絞り込むのに必要な手掛かりをひとつ、手に入れたわけだ」

 レトがそう言いながら立ち上がったときだった。


 「おい、お前たち、そこで何をしている!」


 大きな怒鳴り声が飛んできた。

 ふたりが声のしたほうへ顔を向けると、鎧姿の男がふたり、ガチャガチャと鎧の音を立てながら歩み寄ってくるところだった。この魔法陣では直径にあたる向こう側にかがり火を焚く台が見える。ふたりはその位置から向かっているのだ。

 頑丈そうな兜を被ってはいるが顔は覆われていないため、彼らの人相や表情がよく見える。

 ひとりは顔の半分がヒゲで覆われた男。もうひとりは細く鋭い目つきだが、極端なほど垂れ目の男だった。

 ふたりとも凶暴な顔つきだったので、メルルは思わず身体をこわばらせた。


 「僕たちはメリヴェール王立探偵事務所の者です。

 この魔法陣が破壊された件で調査に来ました。今、その最中です」

 レトは身分を証明する銀のメダルを示しながら冷静に答えた。メルルのように動揺する様子は見られない。メルルはそれに気づいてすぐに自分の態度を改めた。唇をぎゅっと噛み締め、相手の威圧的な態度に負けまいと両足を踏ん張ることにしたのだ。


 「お前たちが、あの探偵だって言うのか? ハンっ」

 ヒゲ男は呆れ声とともに息を吐き出した。メルルはその男の「ハンっ」に不快感を抱いた。いかにも相手を舐めきった、人格さえも否定するような態度に思えたからだ。


 「ここは俺たちの持ち場だ。

 俺たちの許可を得ずに立ち入ることは許さん。すぐ、ここから立ち去れ」

 垂れ目兵士がそう言いながら右手をさっと天に振る。ふたりを追い払おうとするしぐさだ。


 「で、でも、私たちはオブライエン候やフロレッタさんから依頼を受けて調査をしているんです。それなのにここで調査をしてはいけないのですか?」


 メルルは思わず一歩踏み出しながら抗議した。これまでも捜査に非協力的な態度をされたことはあったが、今回のが一番ひどい。なにせ、城のあるじからの依頼を受けた者をその家来が追い払おうとするのだから。


 「そっちはそっちの事情があるかもしれんが、俺たちは俺たちでここには誰も近づけるなと命じられている。今、お前たちは俺たちの仕事を邪魔しているんだよ、わかるか?」


 わかるわけないでしょ! メルルは憤慨してさらに一歩踏み出そうとしたが、肩に手が置かれるの感じた。

 振り返ると、レトが静かな表情でメルルの前に出るところだった。


 「仕事の邪魔をしようと考えていません。

 ほんのついさっきまで、ここに誰もいませんでしたので不用心に近づいてしまいました。許可を得ずに近づいたこと、お詫びいたします」

 レトはそう言うと丁寧に頭を下げた。メルルはあっけにとられて口がぽかんと開く。

 「わかったか。だったら、さっさと立ち去れ!」

 ヒゲ男が城壁に向かって指さす。城壁より先には何もない。ただ城外へ出るだけだ。この男の指示を鵜呑みするのであれば、それはそのまま城からも出て行けと言っているのと同じである。いくらなんでもムチャクチャだ。メルルはぽかんと開いていた口をぎゅっと閉じた。

 「改めて許可をいただくわけにはいきませんか?」

 レトは腰の低い態度を崩さない。レトは丁寧な口調でヒゲ男に頼んだ。


 ヒゲ男のヒゲがもぞりと動いた。メルルはその顔つきに戦慄した。


――笑っている!


 彼らの態度は不当で、明らかな嫌がらせだ。道理の通らないことでもめ事を起こしているにすぎない。それなのに、この男はそのことを楽しんでいることがメルルにわかったのだ。


 「もちろん、許可をやらんでもないが、なぁ?」

 ヒゲ男はかたわらの仲間に顔を向けた。いつの間にか垂れ目男もニヤついた顔つきなっている。

 「そうだなぁ、許可をやらんでもないが、タダってわけにはなぁ」


 メルルは心底呆れた。これはワイロの要求と同じだ。犯罪捜査を行なっている者に法を破れと言っているのだ。彼らはそのことを理解しているのだろうか?


 「あいにく、今の僕たちは持ち合わせがありません。

 依頼料はドニー・メンデス氏から受け取る予定になっています。彼から少し前金をいただけないか相談しますので、少し時間をいただけますか?」

 レトは少々困った表情を浮かべながら、いかにも申し訳なさそうに申し出た。レトの返事にメルルは驚いて両目を見開いてしまった。


 「あ、あの、レトさん。何を言って……」

 レトのすそに手を触れようとしたが、レトはその手をさっと避けてしまった。


 レトの返事はふたりの兵士たちを満足させたようだった。ふたりは顔を見合わせて、ますます意地の悪い笑みを浮かべた。

 ヒゲ男はその満足げな笑みをレトたちに向けると、「いいぜ。待ってやる。ただし、ケチな金額だったら許可はやれんからな、そう思え」と言い放った。レトの態度に彼らはますます増長しているようだ。


 「お金を渡すのは、いつ、どこがいいのですか? こちらはほかにもいろいろと尋ね歩く必要があり、そちらの指定される時間に持っていけるかわかりません。さきほどのようにこちらで不在の場合はどちらに? さきほどおられた場所でお渡しすることはできますか?」

 レトの質問に、ヒゲ男があごのあたりを撫でながら天を仰いだ。

 「そうだなぁ……。

 さっきいたのは炊事場だからダメだ。いつもそこにいるわけじゃないからな。

 実のところ、俺たちはあと30分ほどで交代なんだ。そこからは詰め所で仮眠をとって夜にまたここの見張りをする。詰め所じゃ他人目ひとめもあるし、寝ているところを起こされるのは迷惑だ。

 だから、金を持ってくるのは夜がいいな。零時から朝までならいつでもいいぜ」


 「おふたりはずっと同じ交代制シフトなのですか? この魔法陣を見張ることになってから」

 「そうさ。ずっと同じさ。だから、今夜も同じ時間帯にここにいるぜ」

 垂れ目男が請け合うように胸を張った。レトはその答えに納得したようにうなずいた。

 「わかりました。では、用意ができたらうかがうようにいたします」


 レトはそう答えるとくるりと向きを変えて魔法陣の描かれた中庭から去っていく。メルルは置き去りにされまいと急いでレトのあとを追った。メルルの背後からは兵士ふたりの笑い声が聞こえてきた。いかにも馬鹿にしたような笑い声だ。


 レトはそんな嘲りの笑い声が耳に届いていないかのように悠々とした足どりで歩いている。メルルは一度後ろを振り返り、兵士たちの様子を確認してからレトに囁きかけた。「どうして、あんなことを?」


 「あんなことって?」

 レトはちらりとメルルに顔を見せた。口のはしに少し笑みを浮かべているようだ。メルルは逆に困惑の表情を浮かべる。「あんなことって……。ワイロを払う約束をしたことですよ!」周りに聞こえないように小声で抗議する。


 「ああ、あれね。でも、おかげで必要なことは全部わかったじゃないか。

 魔法陣が破壊された晩、警備をしていたのが彼らだったということ。

 彼らの警備はまともと言えるものではなかっただろうということ。君は気づいていたかい? 彼らの息から酒の匂いがしたのを」

 レトに指摘されてメルルは気づいた。そうだった。彼らの態度に腹を立てていたせいでしっかりと認識していなかったが、あの場はたしかに酒臭かった。そこで改めて気づく。あの兵士たちは酔っているから、あんなひとを舐めきった態度だったのだと。正常な判断力を持っていたら、自分たちのあるじを救うために行動している者へ嫌がらせなどするはずがない。

 「言われてみればそうでした。

 さっき、顔の半分がヒゲまみれの兵士が『さっきいたのは炊事場だ』って言っていました。あれは、そこで酒を飲んでいたんですね。誰かに酒をせびって」

 「だろうね。

 中庭の警備は寒いからね。酒で身体を温めたかったのかもしれない。

 そう考えると、事件当夜も、まともな仕事ができたかどうか……、想像するまでもないように思うね」

 レトの考えにメルルの足が一瞬止まった。

 「あのひとたちは魔法陣が壊された晩も酔った状態で警備していた……」

 「魔法陣が破壊された事態になったにもかかわらず、反省して警戒を厳にするどころか、ああいう状態だったからね。おそらく当時も同じことをしていただろう。事件当夜は酔いつぶれて寝ていたかもしれないし、少なくともまともな判断ができる状態じゃなかっただろうね。そうでなければ、かなり頭の悪いひとたちだよ」

 レトにしてはかなり辛辣な表現だ。さすがのメルルも苦笑を浮かべた。「かなり頭が悪いって……」

 「だって、そうだろ?

 彼はわざわざ30分したら交代でいなくなるって言ってたんだ。

 魔法陣を調べたければ、そのときに行けばいいじゃないか。わざわざ彼らに許可をとる必要なんてないって教えてくれたのも同じだよ」

 小走りでレトの背中に追いついたメルルはふたたび足が止まってしまった。

 「……まさか、レトさん。さっきのやりとりは相手にいろいろしゃべらせるためにわざと……」


 今度はレトが足を止めて振り返った。

 「まさか、僕が本当にワイロを払うとでも思ったのかい?」



12


 基本的に、レトは善人だとメルルは思っている。レトのこれまで事件に対する取り組みは他人を気遣い、思いやった態度であり、行動だった。

 それに加えて、いつも冷静で、周りの状況を的確に分析、判断することができる。ここまでであれば、誠実で、仕事においてもっとも信頼できる人物だと断言できる。

 ただ、レトにはかなり『食えない』部分がある。

 それを『狡猾』と言えばいいのか、あるいは『抜け目がない』と言えばいいのか、メルルにはわからない。

 ただ、レトには他人を出し抜いてしまう『危うさ』があることはたしかだ。たとえ、それが悪意によるものでなくても。


 ここしばらくは気を張る事件が多かったせいか、レトからその一面を見ることはなかったが、メルルは久々にレトの『食えない』部分を見てしまった気がした。


 「してやったり、という気持ちですか?」

 メルルはレトの隣に並んで歩くと、不快そうな声で囁いた。さっきの兵士たちには不愉快な感情しかないが、それでも、兵士たちのほうが被害者のように思えてきたのだ。


 「そんな感情はないよ」

 レトは本当に感情のない声で答えた。

 「ただ、僕たちはするべきことを見失ってはいけない。

 少なくとも、あの兵士たちともめるのは『するべきこと』じゃないだろう?」

 正論ではある。

 「そうですけど……」メルルはそうつぶやくしかできなかった。


 ふたりは城の裏手に向かって歩いている。メルルは次の行き先が気になった。

 「ところで、どこへ向かってるんです?」


 「さっきの話の裏取りさ。

 炊事場に向かおうと思っている」

 簡単に相手の話を鵜吞みにしない。レトはやはり冷静だとメルルは思った。


 城の裏手には木製の小さな扉があった。

 レトはその扉をノックするとノブを握った。扉は施錠されておらず、簡単に開いた。

 なかは暗く、そこが炊事場なのかはわからない。

 それでも迷うことなく足を踏み入れるレトにメルルも続いた。


 そこは炊事場だった。

 メルルはすぐ部屋の暗さに慣れて、室内の様子がわかるようになった。


 大小さまざまな鍋がいくつか壁にぶら下がっている。それらの下には、大きなかまどがひとつ据えられていた。部屋の中央には、メルルをさばくことができそうなほど大きなまな板と、こちらも大小さまざまなザルが置かれている。炊事場の広さはメルルが住んでいる部屋と同じぐらいか。道具類は充実しているが城内で働く者すべての食事を用意する場所としては、だいぶ小さく感じる。この炊事場は従業員用なのかもしれない。

 メルルはそう考えながら炊事場の一角に視線を向けた。


 炊事場は無人ではなく、洗い場にひとりのメイドが背を向けて立っていた。洗い物をしているらしい『ザブザブ』と水の流れる音がふたりの立っているところまで聞こえる。レトのノックの音が聞こえなかったらしい。こちらに顔を向ける様子も見られない。


 「少しよろしいでしょうか?」

 レトはその背中に声をかけた。


 声をかけられたメイドはびくっと大きく身体を震わせ、くるりとこちらを向いた。ほっそりとした若い女性で、大きなエプロンを首からぶら下げている。彼女の背後からは食器らしいものを落としたような『ガシャン』という音が響いていた。メイドはその音を気にする様子はなく、ただ、レトとメルルに対して怯えているような表情だ。メルルはその顔に見覚えがあった。フロレッタたちと会見していたとき、扉口で控えていたメイドだ。


 「驚かせてすみません。僕はメリヴェール王立探偵事務所のレトと申します。

 オブライエン候の依頼で、フロレッタさんが呪われている事件について調査しているところです。よろしければ、いくつかお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

 レトは丁寧な口調で詫びながらおじぎした。若いメイドは不安そうな表情のまま小さくうなずく。


 「ご協力ありがとうございます。私はメルルと申します。まずはお名前をお聞かせいただけますか?」

 メルルもレトの隣でおじぎしながら名前を尋ねると、若いメイドは小声で「シャーリー」とだけ答えた。とまどった表情なのに警戒する目だけが鋭い。


 「シャーリーさん。

 あなたのお仕事は具体的には何ですか? 何を担当されていますか?」

 レトは穏やかな口調で尋ねた。


 しかし、レトの穏やかな口調でもシャーリーのこわばった表情は緩まない。それどころか、ますます固くなっている。シャーリーはしばらく無言でふたりの顔を見つめていた。


 レトはこういう状態に慣れているのか、相手に答えを急かす様子はない。静かに相手が応えるのを待っている。やがて根負けしたのか、シャーリーは大きくため息を吐くと自分の腰に赤くなった右手をあてた。

 「私の仕事はフロレッタお嬢様の身の回りのお世話です。

 ただ、この城は人手が足りないので、あちこちに雑用を頼まれることがあります。

 今は洗い物を頼まれているところです」


 「そうですか。

 ところで、さきほどこちらに兵士の方が訪ねてきませんでしたか? 顔の半分がヒゲで覆われている方と顔がものすごくほっそりとした方です。その方は目じりがかなり下がっています」

 レトは先ほど出くわした二人の兵士の特徴を伝えた。それを聞いたシャーリーの目が左右に揺れるのをメルルは見た。彼女に見られた急な変化はそれぐらいで、彼女はもう片方の指先を頬にあてて天井を見上げた。思い出そうとしているしぐさに見える。

 「……ええっと。誰も来ていませんでした。

 とは言っても、私がここで洗い物を始めたのがついさっきなので、その前のことはわかりませんけど」

 「顔の特徴を聞いて、誰のことを言っているかわかりますか?」

 レトの質問にシャーリーは小さくうなずいた。

 「ヒゲの兵士さんはホプトさん。垂れ目の兵士さんはネッドさんです。

 ふたりとも特徴的なお顔なので間違いないと思います」


 特徴的なお顔――。たしかにそのとおりだ。メルルはふたりの顔を思い出し、胸の内でうなずいた。


 「シャーリーさんはホプトさんとネッドさんとは会っていないと」

 レトは念を押した。シャーリーはふたたび小さくうなずくと、エプロンを外して、かたわらのタルの上にかけた。「ええ」と、さきほどの質問に答えながらレトたちの前に進み出る。

 「何かあったのですか? 何を調べてらっしゃるのですか?」

 さきほど見せた怯えの表情はすでにない。どこか挑戦的ともとれる勝ち気な表情だ。シャーリーと目が合ったメルルは思わずたじろいで一歩下がった。


 一方で、レトはまるで動揺した様子も見せない。

 「いえ、この城で働く方がたのことをもっとよく知りたいと思っているだけです。

 さきほどの質問にも大きな意味があるわけではありません。お気になさらず」

 真顔でそんな答えを返している。


 シャーリーはレトの顔をじっと見上げていたが、やがて根負けしたようにくるりと身体の向きを変えた。「そうですか」

 そのまま洗い場に戻ると、皿洗いを再開した。「まだ何か?」

 

 「まだ何か」と言っているが、メルルには「質問はこれで終わりにしてくれ」と言われているように聞こえる。潮時かもしれないが、いろいろ確認したいことが残っている。メルルは無言でレトに顔を向けると、レトは無言でうなずいた。しかし、それはメルルの考えを理解したものではなかった。

 「いえ、質問は以上です。ご協力ありがとうございました。では、これで」

 レトはそう答え、シャーリーの背中に軽く会釈して炊事場から出ていってしまった。

 慌ててメルルもぴょこんと頭を下げてレトの後を追った。


 「質問はあれだけでいいんですか?」

 薄暗い城内の廊下を急ぎ足で歩きながら、メルルはレトの背中に質問を投げかけた。本人は気づいていないが、少しふくれ面になっている。

 「あれだけって、ほかに何を尋ねたいの?」

 レトは少しだけ顔を向けて聞き返した。

 「シャーリーさんがふたりに会っていないのであれば、その前は誰があの炊事場にいたのかってことです。たぶん、そのひとに用事を頼まれたわけでしょうから」

 「ホプトとネッドの両兵士に酒を与えたのはその人物だとメルルは考えているわけだ」

 「レトさんは違う考えですか?」

 「そうだね。ふたりに酒を出したのはシャーリーだ。僕はそう思っている」

 メルルは両目を見開いた。「どうしてそう思うんです?」


 「さっき、兵士ふたりが訪ねて来たかと尋ねたとき、彼女はすばやく洗い場の脇に視線を向けた。そこには酒樽があった」

 シャーリーが一瞬、目を左右に動かした瞬間があったことはメルルも見ている。しかし、シャーリーが視線を向けていたのが酒樽とは気がつかなかった。

 「さらに大きなエプロンを脱ぐと、それを酒樽にかけていた。まるでそれを隠すかのようにね」

 言われてみれば、シャーリーはわざわざエプロンを外してかたわらの樽にかけていた。ただかけたのではない。樽を覆い隠そうとしたかのようだった。ふたりの前に立ちはだかるように立って見せたのも、自分の身体でふたりの視線をあの樽からさえぎろうとしたように思える。あれがレトの言うように酒樽であれば……。それに、シャーリーが嘘をついていた根拠になるかはわからないが、彼女の手が赤くなっていたのは少し気になっていた。ついさっき水仕事を始めたばかりであれば、あれほど手が赤くなっただろうか。少し気になってみれば、シャーリーの言動には怪しい点がちらちらと見えるではないか。メルルはレトの考えがわかってきた。

 「レトさんは兵士さんのことしか尋ねていませんでした。お酒のことはひと言も触れていません。それなのに彼女は酒樽の存在を気にし、さらにそれを隠すような行動までした。つまり、兵士さんのことを聞いて酒樽のことを連想した。それは、彼女があのふたりにお酒を提供した張本人だったからですね? 彼女はそれを私たちに知られまいとした」


 「だと思う」レトはうなずいた。

 「それなのに、あっさりと引いちゃうんですね、レトさんは」


 レトは立ち止まるとメルルに顔を向けた。

 「これ以上追及してどうする?

 これは、あくまで彼らの行動の裏を取るためだったじゃないか。あのメイドの嘘を暴くことじゃない」


 本当にレトという人物は冷静だ。メルルはそれを感心したらいいのか、呆れたらいいのか判断できなかった。ただ、レトの言うことは正しい。どこか間違っていると思えるほどに。


 「それに、もうひとつ重要なことがわかったじゃないか」

 メルルがレトのことをどう考えているか気づかない様子で話を続けた。メルルはレトの口もとに小さな笑みが浮かんでいるのに気づいた。


 「重要なこと?」いったい、何がわかったというのだろう?


 「シャーリーというメイドはともかく、ホプトとネッドはとても素直で正直だったということさ。彼らは嘘を言っていなかったことが明らかになったからね」

 さっきのことといい、今日のレトは毒が効いている。


 「レトさん……。それって、すっごい皮肉ですぅ……」


 メルルは苦い表情で返した。

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