黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 18
93
「私が、あの呪術師を殺したと……?」
ヒギンスは槍の穂先をレトに向けたままつぶやいた。
「なぜ、そうだとわかる? 根拠は?」
「確信を持ったのは、ドニーの遺品を調べたときですが……」
レトはヒギンスに背を向けたまま答えた。
「そうですね。あなたが犯人だと考えたきっかけは、教練室にカギがかけられていたのが事件の夜だけだったと知ったことです。
ランスさんから証言を得るまで、僕はドニーを殺した人物は毎夜教練室そばの柱の陰でこちらを監視していたのだと思っていました。あの位置であれば、ドニーの部屋だけでなく、僕やメルルの部屋も監視できるからです。ですが、それは考え過ぎでした。
犯人はドニーが標的でした。つまり、監視対象はドニー『だけ』だったんです。僕たちは犯人の眼中に入っていなかった。
そうであれば、あの柱の陰で監視する必要はありません。
あの階は騎士団員の自室が並んでいました。多くの部屋が窓からドニーの部屋を見ることが可能でした。
犯人は自室からドニーの監視を続けていたのです」
レトは剣先を少し動かした。戸口の近くを赤くて大きなものがさっと横切ったのだ。ほかのライラプスが近づいているのだ。
「ですが、事件のあった夜。あのときだけ犯人は自室ではなく、教練室前の柱の陰からこちらを監視していました。
その理由は、『自室の窓からドニーの部屋を監視できなくなったから』です」
レトはちらりとヒギンスに顔を向けた。
「あの夜、自室からドニーの監視ができなかったのは数名いました。
ひとりはエイモスさん。同室のゲハンさんが珍しく深夜にも書類をまとめていたので、窓から監視するのは困難でした。もし、エイモスさんが窓から監視する行動をしていれば、ゲハンさんに覚えられているか、不審に思われたでしょう。
ドニーを殺した犯人はひとりです。もし、共犯者がいれば、ドニーの遺体を隠すことができるでしょうし、そもそも、ほかに目撃者が現れるかもしれない場所でドニーを襲う危険は冒しません。共犯者と連携し、ドニーを人目につかない場所へ誘導して自由を奪ってから悠々と殺せばいいのです。
そのことから、犯人はひとり窓辺でドニーを監視していたと考えられるわけですが、何かあれば自分の行動を同僚に覚えられるのはまずいです。当然ながら監視行動は同僚には内緒で行なわれてきた。
もし、犯人がゲハンさんであれば同僚が眠っている間、そこからドニーの部屋の監視をすればいいだけで、教練室前まで行く必要はありません。また、エイモスさんが自室を出なかったことはゲハンさんが証言しています。よって、エイモスさんは犯人ではない」
レトは剣を振った。外で獣の吠える声が響き、遠ざかる足音が聞こえた。
「ほかの、ドニーの部屋が見える方がたも同様で、わざわざ教練室にカギをかけてランスさんを遠ざけ、教練室前の柱の陰から監視する必要のある者はいませんでした。
いえ、奥の部屋ともなると、はじめからドニーの部屋を見ることができない方がたもいました。しかし、そうであれば、教練室のカギは毎夜かけられていたことでしょう。
同僚から不審がられないよう行動には慎重さが要求されます。そんな状態で毎夜出歩いて監視行動などしていれば、同僚に覚えられてしまいます。不審にも思われるでしょう。
ですから、ドニーの部屋を直接見ることのできなかったタンドリさんやタイラーさんも逆説的ではありますが犯人ではないとわかります。ですが……」
そこで、レトはくるりとヒンギスに身体を向けた。
「あなたとオーガスタスさんの部屋だけは事情が違っていました。
オーガスタスさんが前日の18時ころに鎧戸を閉めたとき、おそらく留め金の部分が壊れて開けることができなくなってしまった。鎧戸にはすき間を開く仕組みが備わっていましたが、それでは斜め下の僕の部屋しか見ることができず、監視対象のドニーの部屋を見ることはできませんでした。
無理に開けようとして鎧戸を破損してしまったら同僚に説明するのが面倒になります。なにせ、寒い夜にわざわざ鎧戸を開ける理由を説明しなければなりませんから。そういうわけで、あなたとオーガスタスさんはあの夜だけは窓からの監視ができなかったのです。
鎧戸の留め金が壊れてしまったのは18時ころ。
事態を知った犯人は急いで新しい監視場所の選定を行ない、教練室の前が最適だと考えた。ですが、そこはランスさんが毎晩訓練しているところでもある。少しでも目撃者を遠ざけるために、犯人は教練室にカギをかけ、そのカギも隠してしまった。
新たに監視場所にした場所はこれまでと違い、僕たちの部屋も、さらには1階あたりまで見渡せる絶好の場所でした。
犯人は僕の部屋からドニーとメルルが出るのも見ることができました。それに、自室にメルルが戻ったことも確認できました。
さらに、ドニーが自室に戻らず、1階の廊下を歩くところも見ることができた。
犯人はドニーの行動に不審を抱き、あとを追うことにした。解呪の儀式を断念するよう脅迫したのに、いっこうに城から立ち去らないドニーを犯人は警戒していた。たとえ、何者かによって魔法陣が壊されていても。いえ、むしろ、その状況で儀式を諦める姿勢を見せていないドニーに疑念を拭うことができなかったのではありませんか?
そして、ドニーが人目を避けて城内をうろつくのを見て、ドニーが密かに儀式の準備を進めている疑いを強めた。もちろん、それを問い質すことはできません。できるのは、儀式を執り行われる前に術者を排除すること。ドニーを殺すことだった。だから、あのとき、犯人は急ぎ手にした槍でドニーを襲ったのです」
「あの呪術師が命を狙われるに至った経緯はそれでわかる。ですが、それで私が犯人だと絞り込めますか? あなたが言ったのですよ。自室の窓から監視できなかったのは私とオーガスタスだと。
オーガスタスを容疑者からはずした理由は何ですか?」
「それは、ドニーの最期の行動です」
レトはそう答えると、ポケットから小さく光るものを取り出した。
「これはドニーの指輪です。遺品から少し拝借しました」
レトは小さな指輪をヒギンスに見せた。指輪はかがり火の明かりを受けて、赤く光った。
「それは……?」
ヒギンスはレトに襲うつもりであるのも忘れて尋ねた。
「これは『暗視眼』の術式が込められた指輪です。
ダンジョン専用の魔法道具です。
この魔法道具を発動させれば、しばらくの間、明かりの乏しいところでも物が見えるようになります。陽の光が入らないダンジョンでは非常に有効な魔法道具です。
ですが、これはある副作用があり、結果的にダンジョンでしか使われない道具になっています。
それは、陽の光など明るい場所では眩しすぎて、とても目を開けていられなくなるのです。この魔法は、わずかな光も増幅して眼球に届けるので、明るいところでは光が入りすぎてしまうのです」
レトの言葉に、心なしかヒギンスの顔が蒼ざめたようだった。レトはかまわずに話を続ける。
「ドニーは襲撃者に対し、魔法をかけていました。
この魔法道具、『暗視眼』を発動させ、相手に暗視能力を与えていたのです。
本来、夜目が効く、ありがたいものですが、あくまでダンジョンだけのもの。
ダンジョンではないところでは、これは障害にしかならないのです。
あなたは今日、大部分を部屋で過ごされましたね?
トーマスさんから頭痛薬をもらって休んでいたはずです。
それは、村人の警護に向かうヒューズ隊長から、そして、トーマスさん自身からお聞きしています。
あなたは、魔法の効果により、明るい場所を出歩くことができなくなっていた。あたりがあなたには眩しすぎるから。それに、光は目に入る情報そのものです。一度に大量の光が射しこんでくると、人間の脳はその情報を処理しきれません。人間の脳は情報を処理しきれなくなると頭痛を起こすことがあります。
トーマスさんが運んだ薬は、ズル休みの口実ではなく、本当に必要だったのではないですか?」
「た、たしかに今日は頭痛で休んでいた。
しかし、それが私が犯人である証明にはならないでしょう?
あの呪術師が仮にその魔法道具を使ったとして、その相手が私だと証明できる話ではない」
ヒギンスはあくまで抵抗を続ける。
しかし、レトに動揺はなかった。
「そうですね。
頭痛の話だけでは、あなたが犯人だと断言できません。
ですが、あなたは僕と会っていたとき、重大な手掛かりを与えていたのです」
「手掛かり?」
レトはうなずいた。
「僕があなたがたの部屋を訪れたとき、部屋は真っ暗でした。
鎧戸が壊れて開かなかったからです。
部屋が暗いなか、室内へ入った僕をあなたは止めました。足もとに同僚のメガネが落ちていて、僕が踏みつけそうになっていると」
そこで、レトは反応をうかがうようにヒギンスの顔を見つめた。ヒギンスの顔は完全に蒼白になっていた。
「あの暗がりのなか、僕にも見えていなかったオーガスタスさんのメガネを、あなたは見つけることができました。なぜ? それは、『暗視眼』の効果であの暗がりの部屋が、明かりの点いた部屋と同じようによく見えたからです。
一方、オーガスタスさんは部屋が暗いとぼやいていました。それで周りがよく見えないと」
ヒギンスの槍がぶるぶる震えている。彼は完全に動揺していた。
「ドニーは解呪の儀式に必要なアイテムの隠し場所、儀式を行なう魔法陣の場所を『炎陣』で伝え、同時に、襲撃者の手掛かりを『暗視眼』で残したのです。
まさに彼らしい、ひとを食った行動です」
レトの顔には笑みが浮かんだ。しかし、それは皮肉を感じているような苦笑に近いものだった。
「ドニーは血文字で手掛かりを残さなかった。
文字を書くだけの力が残っていなかったからかもしれませんが、もし、文字を書き残したとしても、それを見た犯人に消される恐れがありました。最後まで書ききれるかという問題もあります。
そこで、ドニーは自らに残った魔力や生命力を使い、『炎陣』と『暗視眼』を同時に発動させた。それはそれで負担だったと思いますが、彼はやり切った。
こうして、メルルは儀式の準備を進めることができ、僕はあなたが犯人だと絞り込むことができたわけです」
ヒギンスの膝が折れ、彼はその場でひざまずいた。手からは槍がこぼれ、ガランという音が狭い部屋に響き渡る。
「あの呪術師は私に呪いをかけていたのか……。今朝からあたりの見え方がおかしいと思ったし、頭痛にも悩まされた。その原因がそれか……」
「ドニーがかけたのはあくまで魔法です。
ドニーはあなたを呪うつもりはなかったんですよ」
「まさか」ヒギンスは信じられないというように首を振った。
「自分を殺そうとした相手を呪おうともしない。そんな呪術師がいるのですか?」
「ドニーはいろいろとふざけたところがありますが、根は悪くない人物なんです。
ドニーはですね、王都ではありませんが王立の魔法学院を出ているのですよ。
本当は優秀な魔法使いなのです。
ですが、彼は攻撃魔法を使うことを頑なに拒み、そんな魔法を使わないですむ呪術師の職を選んだのです。
彼は、あなたに襲われたときも攻撃魔法を使う機会がありました。彼なら『火球衝撃』程度なら簡単に放つことができたはずです。
ですが、彼はそうしなかった」
「どうして……?」
「正直、わかりません。そこまでの事情は教えてくれませんでした。
それでも、これだけは言えます。
ドニーはあなたを殺す考えは持たなかった。
せいぜい、嫌がらせするだけだったのです」
「なぜだ。なぜ、そんな考えができる?
自分を殺そうとした相手だぞ。命がけで反撃するものだろう?」
「ドニーは自分が負った傷の様子を冷静に分析して、それが致命傷だと判断したのでしょう。
そこでドニーは残りわずかな命の使い方を考え、そして選択したのです。
優先順位をつけ、それを実行した。
あなたを攻撃する考えがもしあったとしても、その順位はきっとかなり下位だったのだと思います」
レトの答えは完全にヒギンスを打ち砕いた。
ヒギンスは床に両手をついたまま、「どうして、どうして……」と繰り返しつぶやいた。
「どうしてと言うなら、それはこちらのほうです。
あなたはなぜ、フロレッタさんの解呪の儀式を妨害しようとしたのですか?
しかも、ドニーを殺してまで。
あなたにそこまでさせたのは何なのですか?」
レトは左右に目をやりながら尋ねた。外では何頭かの獣が走り回る足音が聞こえていた。その音は確実にこの部屋に向かっている。
ヒギンスはガチャリと甲冑の音を立てながら腰を床につけて座った。両脚を投げ出す姿勢で、どこか投げやりなように見える。
ヒギンスはレトを見上げながら少しけだるそうな様子で口を開いた。
94
「言ってもわかってもらえるかどうか……。
私は、あの討伐戦争で魔候軍の捕虜になった。
屈辱的で……、それに、そこは地獄だった……。
私は誇りある騎士団の一員だと自身のことを考えていたが……、負傷し、武具や甲冑を奪われた私は、同じように囚われた村人たちと何ら変わるところはなかった。
絶望的な状況で出会ったのが……、彼女だった……」
「彼女?」
「ローズさんだ。
そう……。姫様……、フロレッタ様を呪ったガンズという人物の娘さんだ……」
「あなたはガンズさんを知っていたのですか?」
ヒギンスは首を振った。
「いいや。
あの方に会ったのは姫様が呪われてからだ。正確には会ったと言えるものでなかったが。
彼女に父親がいること、その父親が西の山に住んでいることは彼女から聞いていた。
しかし、城へ帰還した私は彼女の父親を訪ねることはしなかった。いや、できなかった。
私は、彼女の死に立ち会っている。あのときの私は、何のなすすべもなく、ただ冷たくなっていく彼女の手を握ることしかできなかった。
そんな私があの方に会って、何が話せるというのか。たったひとりの娘を失った者の苦しみはどれほどのものか。私は会うのが怖かった。
そうしてただただ時間だけが過ぎ、私は表向き、忠実な騎士として任務を果たしていた。いや、人びとを守る任務そのものについては忠実だったと思う。私はレドメイン・ノーズ家に対する忠誠心を失っていただけだから。
姫様が呪われたことを知ったとき、私は直感的に誰のしわざかわかった。
彼女から父親が元魔法使いだと聞かされていたからね。
私は機会をつかまえて西の山を訪れた。あの方に会うために。
あの方が住んでいる小屋はすぐ見つかった。しかし、小屋は奇妙な状態になっていた。
かんぬきに小石が詰められて、なかから出ることができない状態になっていたのだ。
私は小石を取り除き、小屋に入った。
あの方はそこにいた。屍霊の姿になって。
私は慌てて小屋を出ると、かんぬきに小石を詰め直して逃げ出した。そう、私は逃げた。
逃げながら私は泣いた。
また、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。
あの方が命を落とす前に、私はあの方に会って詫びるべきだった。騎士の務めを果たせなかったことを。手をこまねいて彼女を見殺しにするしかなかったことを。
しかし、その機会は失われてしまった。……永遠に……。
本来なら西の山へ戻り、あの方を小屋ごと燃やすべきだが、私にはできなかった。
もう、あの小屋へは、私ひとりでは近づくこともできなくなっていたのだ。言いようのない恐怖が私の足をすくませるのだ。
だが、誰かにそのことを伝え、私の代わりに行かせることもできない。そうすれば、なぜ、周りに教えることもせず西の山へ向かったのか説明できない。私のしわざではないが、フロレッタ様を呪った一味と疑われるかもしれない。
いや、あのとき、私は一味になろうと思ったのだ。
あの方の呪いを引き継ぎ、その完遂を見届ける。その役目を担うことを決意したのだ。
あの方の死で、私の罪はすでに贖えないものになっていた。
そんな私にできることは、こうするぐらいしかなかった。
私が呪術師に儀式を中断するよう脅迫状を書き、それに従わなかった呪術師を殺したのはそういうわけだ。
あなたに理解できましたか?」
レトはヒギンスの長い告白を静かに聞いていた。ヒギンスが告白を終えると、レトは静かに息を吐いた。
「今回の事件は、とかく『呪い』がからむものでしたが……。
本当に呪われていたのは、あなただったのですね。
しかし、誰もあなたを呪ってなどいない。呪っていたのは『あなた自身』です。
あなたは罪悪感に囚われ、その苦しみから逃れるため、みずからに呪いをかけた。
あなたはみずからかけた呪いに縛られて罪を重ねていたのです」
今度はヒギンスが息を吐いた。「そうかもしれませんね……。私は、私の勝手で楽になりたかった。そう、楽になりたかったんです……」
ガサガサという足音が部屋の両脇から聞こえ、そこから同時に二頭のライラプスが現れた。二頭は同時に跳ね上がり、まっすぐヒギンスめがけて飛びかかった。
ヒギンスは予想していたように両眼を閉じた。「これで本当に楽になれる……」
「猛火障壁!」
レトが魔名を叫ぶと床から炎が立ち昇り、二頭のライラプスは炎に包まれた。ライラプスたちはそのまま床に落ちるとしばらく悶えていたが、やがて黒焦げの姿で動かなくなった。
ヒギンスは両目を見開いて、その様子を見つめていた。
「魔法……。あなたは魔法が使えるのですか……?」
「系統は狂っていますが」
レトは左腕をぐるぐる回しながら答えた。左腕にだけ装着された白銀の鎧がかがり火の光を受けて眩しく輝く。
「しかし、なぜ? なぜ、私を助けた?
放っておけば、あなたは簡単に私を始末できた。私はあなたを殺そうとした者です。
また、いつ、あなたを狙うかわからない。背後を気にしながら魔犬たちと対峙するより、先に背後の憂いを断つほうが、あなたにとって合理的ではありませんか。
理屈に合いません。なぜです?」
「なぜ、ですか……」
レトはすでにヒギンスから背を向けて戸口に剣を向けていた。戸口にはもう一頭別のライラプスが迫っていたが、レトの剣を見るや、身をひるがえして闇の奥へ逃げ込んだ。
「わかりません」
レトの答えにヒギンスは困惑の表情を浮かべた。「わからない?」
「目の前に今、まさに命を狙われている者がいる。
僕はとっさに魔法を放ったにすぎません。そこに計算も打算も何もありません。
反射的に行動した。それだけです。
勘違いしないでください。
僕はすべてを救う聖人君子でも何でもありませんから」
――わかりません――
――だって、目の前に困っているひとがいるんです。そのひとを助けるのに何か理由がいるんでしょうか?――
――それに、私は親切を施しているつもりはありません。私はそんな、聖職者みたいなものでありませんから――
ヒギンスの頭に、ローズの声が鮮やかに甦り、彼は改めて目を見張った。
……同じだ……。
信じられないものを見る目でレトの背中を見つめる。
……同じだ。このひとはローズさんと同じなんだ。
難しく理屈を考えることなく行動できる、あの優しいローズさんと……。
信じられない。
さっきまで冷徹に私の罪を暴いたこのひとが、ローズさんと同じだなんて……。
――だが……、
これは決定的だった。ヒギンスは床に両手をついた。
……もう無理だ……。
私にこのひとを殺すことはできない。私には、私には……。
ヒギンスは床に突っ伏すとむせび泣き始めた。
そんなヒギンスにレトは声をかけない。無言で戸口を睨みつけ、ときおり姿を見せるライラプスに剣を突き出したり、『猛火障壁』を放ったりしながら迎撃を続けている。
ヒギンスは部屋の周囲での攻防戦もかまわず、ただひとり、子どものように声をあげて泣き続けた……。
95
冷たい横殴りの風が頬を突き刺してくる。
――寒い、冷たい、痛い……。
メルルは目をつむったまま、梯子をつかんでいた。梯子は強風が吹きつけるたびにガタガタと揺れ、本当に横倒しに倒れそうだ。
梯子をつかんでいたのは、きっとほんのわずかな時間にすぎないはずだ。
しかし、メルルはそれが何時間もの長さに感じていた。
「メルルさん、手を伸ばして。さぁ! こっちを向いて!」
頭上から声が聞こえ、うっすら目を開けて見上げると、レイ・ブルースが身を乗り出して手を伸ばしていた。なかなか上がってこないメルルを心配して様子を見てくれたようだ。
メルルはそろそろと右手を伸ばそうと試みるが、ごおっと強い風にあおられて慌てて右手を引き戻して梯子をつかむ。気がつけば三角帽子はとうに飛ばされて、くしゃくしゃの髪がばたばたとはためいている。
「す、すみません……、登れないですぅ……」
メルルは目をつむったまま謝った。情けないと思うが、一度憑りつかれた恐怖心は自分の心から拭い去れない。
「何をしている」
新たな声が頭上から聞こえてきた。アーネストの声だ。
「風が強くなってきまして」
レイが答えた。
「魔法使い様が梯子を登れなくなっています」
「あの忌々しい雲か」
アーネストは天を睨みつけた。
城の上空では、真っ黒な雲が渦を巻いてうごめいていた。ときおり小さな稲妻が雲の表面を舐めるように這いまわる。月や星の光もないなか、レイやアーネストの顔が見えるのは、その稲妻の青い光に照らされているからだ。
「吹雪いてもおらんのに、まるで嵐のような風だ。
呪術師め。こんなことまで予測できなかったのか。面倒な場所に魔法陣を敷きおって……」
アーネストはドニーに悪態をついた。
「ブルース。すまないが私の身体をつかんでもらえんかね?」
「は? それはどういう……」
「フロレッタの呪いを解くには、この娘が必要なのだろ?
私がもう少し身を乗り出して、この娘を引き揚げるから、君は私が落ちないようにつかんでほしいのだ」
「候がそんなことを!」
レイは驚いて大声をあげた。それを聞いてアーネストが顔をしかめる。
「何を驚く? 私より君のほうが身体は大きく、力も強い。
君の身体を私がつかんでいるより、私の身体を君がつかんでいるほうが確実ではないのかね?
それに……」
アーネストは背後に目をやった。そこにはガッデスとロッタに両脇を支えられて立っているフロレッタの姿があった。フロレッタは昼間に覆っていた包帯をはずし、素顔をさらしている。頬や額から見える、赤く変色した肌が痛々しい。
「今、手が空いているのは私しかおらんではないか」
「わかりました」
レイは身体を起こすと、アーネストに場所を替わった。アーネストはレイがしたのと同じように屋上で腹ばいになると、思いきり身体を伸ばしてメルルへ手を伸ばす。
「こら、小娘。私が両脇をつかんだら一歩ずつ梯子を登れ。
手は少しずつ上をつかめばいい。大丈夫だ。私がつかんでいるから落ちはしない」
メルルは自分の両脇を何かにつかまれるのを感じた。大きな男の手だ。
「す、すみません……」
「謝る元気があるならさっさと登れ。こっちだってこの風が平気ではないわ。
さっそく手がかじかんでいる。早く登らんと手を離しかねん」
アーネストは不快な感情を隠すつもりもないらしい。メルルに対しても毒を吐いた。
しかし、メルルにはそれが本当の悪態に思えなかった。
アーネストは差別的で傲慢な男だが、それでも姪のことを気遣い、そのために自らの身体を張る男でもあったのだ。
そのことがわかるとメルルは不思議な気持ちになる。
この世に本当の悪人はいるのだろうか?
一歩、また一歩、梯子を登りながら、メルルはそんなことを考えていた。
商売人気質で、何でも損得勘定で動いているように思えたドニーも他人を気遣う一面があった。そして、今、自分を引っ張り上げようとしているアーネストも……。
一方で、娘と平穏な暮らしをしていたガンズは、娘の死がきっかけではあるが他者を呪い不幸の底に落とそうとした。
ガンズのことはよく知らないが、メルルにはガンズもまた悪人と思えなかった。
ひそかに村人を守るため、魔獣忌避の魔法のプレートを設置したり、村の子どもたちに文字を教えてあげたりもした。曲がりなりにもガンズもまた他人を気遣う心があったのだ。
それでも――、
ひとはひとを嫌い、憎み、蔑み、陥れ、傷つけることもある。さらには殺してしまうことも……。
これもまた人間の本質のひとつだ。否定などできない。
それでも――、
メルルはひとの心を信じたかった。闇に堕ちることがあっても、闇そのものになるわけでないことを。
アーネストの支えのおかげか、それとも思考がほかのところ向いたせいか、メルルの心を覆っていた恐怖は消え、メルルはしっかりと自分の足で一歩、また一歩と梯子を登っていた。
「よし、いいぞ。もうすぐだ!」アーネストが励ますように大声をあげる。
アーネストの背後ではレイが顔を真っ赤にしてアーネストの身体をつかんでいた。思っていたよりアーネストの目方は重かったらしい。
ようやくメルルは屋上に上がり、そこで仰向けで倒れこんだ。わずかな高さのはずだったのに、全身から汗が噴き出している。吹きさらす風がなぜか心地いい。
メルルを引き揚げたアーネストもメルルの隣で荒い息を吐いている。日頃したことのない労働で疲労困憊の様子だ。
「ありがとうございました」
メルルは顔だけ向けてアーネストに礼を言った。アーネストは片手を少し持ち上げてひらひらと振る。
「礼などいらん。さっさと儀式をすませて、あの子の呪いを解いてくれ。私はそのためにお前を引き揚げたんだ。それだけだ」
そのとおりだ。自分が今、ここにいる理由、使命を果たすんだ。
メルルは立ち上がった。レイがそばによって支えてくれようとするのを手を振って断る。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
屋上に吹き荒れる風の勢いは弱まる様子もない。いや、ますます強くなるようだ。
しかし、メルルはしっかりと自分の脚で立っていた。使命感に胸の奥が燃え上がっているメルルには、その風はすでに脅威でなくなっていた。
しっかりした足どりでフロレッタに近づく。フロレッタは真剣な表情でメルルを見つめている。これから行なわれる儀式に、さすがに緊張を抑えることができないようだ。
「フロレッタさん、これを」
メルルは懐から黒水晶を取り出して渡した。
「これを胸に抱いたままこちらまで来てください」
フロレッタは無言でうなずくと、それを胸に優しくかい抱く。生まれたばかりの赤子を抱くように。
メルルはフロレッタの肘を持つと、ゆっくりと中央に案内した。
フロレッタの足どりは弱々しいものであったが、それでも立ち止まることもなく屋上の中心まで歩いた。
「それでは、これより、フロレッタさんにかけられた呪いを解く、『解呪の儀式』を行ないます」
フロレッタから手を離し、数歩下がりながらメルルは宣言した。
96
「お城の空が大変だよ」
ポッチが不安そうな声をあげた。隣にはカイナが立っている。カイナはポッチの手を握っていた。小さな手に力を込めて決して離すまいとしているようだ。
ふたりは丘の上から城の方角を見つめていた。そこから城を直接見ることはできなかったが、ポッチには自分が向いている先に城があることがわかっていたのだ。
「何なんだ、あれは。
雲があんな渦を巻いてるなんて見たことないぞ」
ふたりの背後からレギストが近づいた。ふたりと同じように空を見つめる。
3人の様子にただならぬものを感じたのか、丘のふもとで焚火を囲んでいた村人たちもひとり、またひとりと丘を登って同じように空を見つめる。クルト・ヒューズは自分の娘を抱き上げると、妻を伴って丘を登り、あとから登ってきた部下たちとともに空を見上げた。
「不吉な雲だねぇ」
食堂のおかみマッタが不安そうにつぶやく。「あれが呪いの力なのかい?」
「わからない」ポッチもつぶやくように答えたが、カイナの手をしっかりと握り返した。
「でも大丈夫」
「大丈夫?」カイナはポッチの横顔を見つめる。
ポッチは空を見上げたまま強くうなずいた。「お姉ちゃんが呪いをおっぱらうんだ」
それは確信に満ちた強い声だった。カイナは笑みを浮かべると、ふたたび空を見上げた。
「そうだね。あの強い剣士のお兄ちゃんも一緒だもんね」
大人たちはふたりの言葉を否定も肯定もしなかった。ただ、子どもたちとともに無気味にうごめき続ける雲の渦を見つめていた。
****************************************
「そろそろ……」
レトは剣を振り下ろしながらヒギンスに話しかけた。
「あなたも戦っていただけませんか?」
あれからレトはひとりでライラプスたちと対峙していた。
この部屋へ援軍に来る者はいない。
城内に侵入を果たしたライラプスたちに倒されてしまったのか。それとも、襲い来るライラプスたちと戦うのに手を取られて、こちらまで駆けつけるどころでないのか。
状況の見えないなか、ライラプスは攻撃の手を緩めることなく襲いかかってくる。
まるで、レトの神経がすり切れるのを待っているかのように、巧みにレトの剣を避けて距離を取っている。たまに部屋へ侵入を試みるものもいるが、レトが魔法を使おうとすると踵を返して闇へ逃げ込んだ。すでにレトの戦い方を覚えたらしい。
ヒギンスはうずくまったまま、床に転がった槍に手を伸ばそうともしていなかった。彼はすでに生きることを放棄していた。このまま魔犬に喰い殺されてもいいと考えていたのだ。
だから、レトの言葉を聞いたヒギンスの答えは「なぜ?」だった。
「なぜって、このままではライラプスたちに攻め切られてしまうからです」
「それは、あなたが私を守りながら戦っているからでしょう。
私を放っておけば、あなたはもっと自由に戦えるはずです。
あなたは強い。こんな魔獣程度に負けるあなたではない」
「僕の腕前を高く評価いただけるのは光栄ですが……」
レトは迫りくるライラプスに剣を突き出した。ライラプスはすばやく後退して避ける。
「正直、買い被りです!」
「もういいのです、私は。
もう生きていても仕方がない。
私は真の騎士でいられなかった。
呪いを完遂させる一味にもなりきれなかった。
どちらにもなれない半端者です。
そんな下らない人間なぞ、さっさと死んだほうがましでしょう。
私はあの魔犬どもが私の喉笛をいつ噛み切ってくれるのか、それを待っているだけなんです」
ヒギンスは弱々しく返したが、レトは「ふん」と鼻息を荒くさせた。
「生きていても仕方がないから魔犬に殺してもらおうですか?
ずいぶん見当違いのことを考えてますね。
違うでしょう? あなたはまだ生きていたいと思っている」
「そんなことはない……」
「死ぬつもりなら、その槍でみずから喉を貫けばいいんです。
ですが、あなたはそうしなかった。いいえ、できないんです」
「な、何を……」ヒギンスは動揺したように声を震わせた。
「あなたには生きる理由があるからです」
「バカな、そんなものなど……」
「あなたが死ねば、ローズさんが本当に死んでしまいます」
「え?」
「ひとはいつか死にます。穏やかで静かに逝く者も、壮絶な死を迎える者もいるでしょう。そういう違いはありますが誰もが死から免れません。
ですが、ひとつだけ生き続ける方法があります」
「何だって? そんなバカな方法などあるはずが……」
レトは「あるんです」とヒギンスを遮り、
「人びとの記憶に残り続けることです」と穏やかな視線を向ける。
それを聞いたヒギンスは目を大きく見開いた。
「ひとはそのひとが生きていた証しを残したりします。たとえば墓だとか。
あれは、そのひとが生きていた証左のひとつになるでしょう。
ですが、墓なんかよりもっと確かで、大切な証しがあるんです。
それは、そのひとが生きてきた軌跡を記憶に留めておくこと。
あなたが生き続けているかぎり、ローズさんが生きてきた記憶は残ります。
ローズさんの死を看取ったあなたの記憶は、ローズさんが生きてきた大事な証しになります。もし、あなたが今死ねば、ローズさんの最期の記憶はこの世から消え去り、彼女は真の死を迎えることになります。
真の死。それは完全な無です。この世に存在しなかったことと同じになるのです。
あなたがローズさんの記憶とともに生き続けているかぎり、ローズさんもまた、あなたのなかで生き続けるんです」
レトは左手から炎を噴き出すと、闇から様子をうかがっていたライラプスに浴びせた。
ライラプスは悲鳴をあげながら遠くへ駆け去っていく。
そのあいだ、ヒギンスはレトの言葉を心のなかで繰り返していた。それはやがて、ローズの言葉となって形になってきた。
ローズが最期に自分へ向けた言葉――、
『生きてくれれば、私もまた生きていけます。希望が持てます』
あの言葉の意味は、自分の記憶のなかで生き続けるということだったのか?
その正解はきっとわかることはない。だが、ヒギンスはそれが真実だと信じられた。
……ローズさん……。あなたはとんでもないひとだ……。あなたは私に生きる希望を残そうとしてくれていたのか……。それなのに、私はそれに気づかず取り返しのつかないことを……。
ヒギンスの目に新たな涙があふれた。
ガサガサとかたわらから足音が聞こえ、戸口からライラプスが姿を現した。それはヒギンスに襲いかかる。
「くそっ!」
ヒギンスはすばやく槍を拾うと一閃させた。槍は深々とライラプスを貫き、ライラプスは血のあぶくを吐きながら床に倒れこんだ。
ヒギンスは槍を抜くと、ぶうんと大きく振り回した。ガチリという音とともに槍を構える。
「覚悟しろ魔犬ども! これから先、私から一片の肉もお前たちに喰らわせない! 近づくやつは一匹残らず返り討ちにしてくれる!」
レトはヒギンスの闘志あふれる姿を目にすると、「上等です」とつぶやいて背を向けた。
もう自分の背中を気にする必要はない。目の前の敵に集中するだけだ。
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「いいですか? フロレッタさん」
メルルはフロレッタから離れた位置から話しかけた。フロレッタは静かにうなずく。「いつでもいいです。メルルさん」
メルルもうなずいた。「では、フロレッタさん。その黒水晶を足もとに置いてください」
「ここに、ですね」フロレッタは自分の足もとを見下ろすと、ゆっくりしゃがんで手にしていた黒水晶をその場に置いた。
黒水晶が置かれた瞬間、その場は青白い光に包まれた。
「え、これは?」
フロレッタは少しよろめきながら立ち上がった。彼女の足もとにはいくつもの同心円が広がって、そこには見慣れない文字などが羅列し、独特の文様を形成している。
屋上に魔法陣が浮かび上がったのだ。
「なんと……」アーネストも目を丸くして魔法陣を見つめた。
「これが、メンデス様が残した魔法陣……」ガッデスも驚きを隠せない様子だ。
メルルは黒水晶に自分のてのひらを向けた。わずかでも魔力を注いであげられるように。そして、力を、想いを込めて魔名を叫んだ。
「解呪魔法!」
97
メルルが魔名を唱えるや、青白い光はさらに強く、そしてメルルや周りにいる者たちも包んだ。魔法陣の光がさらに大きく広がったのだ。
青白い光の円はどんどん広がり、やがては城全体を覆っていく。
城のあちこちでは、いろんなものに変化が起きていた。
ドニーの部屋の丸テーブルに置かれた花瓶。そこに活けられた黄色のスイセンが、または、廊下の壁に飾られた一枚の絵画が、または、1階の道具部屋では1本のシャベルが……、屋上と同じ青白い光を放って輝いていた。ほかにもさまざまなものが光り輝いていた。いずれもドニーの手によって、魔法陣の一部に換えられたものたちだ。
魔法陣を構成するさまざまな物たちは静かに、唄うように、胞子を舞い上げるように、穏やかな白い光を瞬かせた。
舞い上がる光は天井をすり抜けてさらに高く昇っていく。
舞い昇る光の胞子は、やがて青白い光に包まれていた屋上をも抜け、空へと昇っていく。
フロレッタの周囲を昇る光の胞子は彼女を柔らかく包み込み、まるで繭のような姿へと変えていく。
フロレッタを囲んで見守っていた人びとは一様に息をするのを忘れて、じっとその光景を見つめていた。
繭は白から少しずつ紫へと色が変わっていく。よく見ると、フロレッタの全身から黒い霧状のものが立ち昇り、光の胞子と混ざり合い、溶け合っていくのだ。
気がつけば黒水晶はゆっくりと空へ浮かび上がり、フロレッタの頭上で静止している。
フロレッタを包み込んでいた光は細い渦を巻きながら黒水晶へ昇っていく。黒水晶は垂直に向きを変えると、渦と同じ方向に回転を始め、渦をその全身にまとい始めた。
「黒水晶がフロレッタさんの呪いを吸っている……」
眼前に展開する光景を見つめながらメルルはつぶやいた。
フロレッタは目を閉じ、立ってはいるがまるで眠っているようだった。今の彼女に苦痛の表情は見られない。穏やかな表情で、足もとから立ち昇る光の胞子に身をゆだねている。
フロレッタの顔から赤く爛れていた肌がみるみる白く、健康的な肌へ戻っていく。
腕に巻かれた包帯はするするとほどけて空へ舞い昇った。むき出しになった腕からも赤黒く爛れていた肌が元どおりの肌色に変わっていく。
フロレッタから黒い霧が完全に抜け切ると、黒水晶は回転しながら徐々に高く昇っていく。黒水晶は紫の光を吸収して赤く輝き出していた。その輝きはどんどん強くなっていく。
瞬間、黒水晶は弾けるように砕けた。細かな欠片は赤い光の粒となって、ゆっくりと舞い降りてくる。
誰もがこの光景に心を奪われて声も出せずにいる。
「なんて……」
しかし、思わず二、三歩進み出したアーネストから声が漏れた。「美しい……。まるで雪のようだ」
美しい。本当に美しい。
メルルもそう思った。しかし、メルルにはそれが雪のようには思えなかった。
黒水晶は呪いという罪を、憎しみを、怒りをすべてその身に引き受けて浄化し、そして砕け散ったのだ。
メルルには、舞い散る赤い光が黒水晶の涙のように見えた。
「雲が……、消えている!」
レイの声が聞こえ、皆はいつの間にか上空を覆っていた雲の渦が消えていることに気づいた。
呪いの消滅とともに、城を覆っていた禍々しい魔の力も霧が晴れるように消えてしまっていたのだ。
「儀式は……終わりました……」
メルルは言葉に力を込めて宣言した。呪いはすでにフロレッタから消え去ったという確信があったからだ。
それは周りの者たちも思っていたらしい。
フロレッタ自身もそれを確信できていた。
フロレッタはメルルを見つめながら、「ありがとう、メルルさん」と明るい声で言った。
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西の山では、丘の上から様子を見ていた者たちから歓声があがっていた。
彼らからも、禍々しい雲の渦が消え去ったのが見えたのだ。
「やったぁ! やったよ、お姉ちゃん」
ポッチは両手を挙げて大声で叫んだ。カイナもポッチの手を握ったまま両手を挙げる。「やったぁー」
ふとりは互いを見やるとくすくすと笑いあう。
レギストはふたりに近寄ると、子どもたちの頭に手を置いて微笑んだ。
いつの間にかポッチたちを囲んでひとだかりができている。
「よかった、よかった」
木こり仲間のひとりがかたわらの同僚と肩を組みながら喜びを分かち合っている。
マッタは無言で繰り返しうなずいていた。彼女の目のはしには涙がにじみ出ている。
クルドは抱きかかえた幼い娘の頭を撫でながら妻にうなずいてみせた。娘は静かな寝息を立てて、すでに眠っていた。寒さも感じていない、穏やかな寝顔だ。
「私たちも休みましょう」
クルトの妻、アルマは夫に話しかけた。
「明日、村へ帰るために」
クルトは強くうなずくと、ふたたび城の上空を見つめた。城のあるあたりから白い光が広がり、丘の上も照らされている。
クルトは城の方角を見つめたまま、「そうだな。帰ろう」とつぶやいた。
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1階の小部屋では、レトとヒギンスがライラプスたちとの戦いを続けていた。
床にはライラプスの血が広がり、何頭ものライラプスが息絶えて倒れていた。
ふたりは自分の血か、ライラプスの返り血かわからないぐらい血みどろだった。
しかし、ふたりの目は生気に満ち、絶望の陰りなど一片も見出せない。
疲労は全身を覆い、立っているのもつらい状況ではあった。それでもレトは剣を振り続け、ヒギンスは槍を繰り出し続けていた。
もし、その部屋にも光の胞子が立ち昇らなかったら、彼らは命が途絶えても戦い続けていたかもしれない。
凄惨な戦闘の場に、柔らかい光が満ちてくるのを気づき、ふたりはようやく攻撃の手を止めた。
「儀式が……」レトがつぶやいた。「始まったんだ……」
「姫様が……」ヒギンスも天井を見上げてつぶやく。「助かるのですか……?」
「後悔しますか?」
レトの問いに、ヒギンスは弱々しい笑みを浮かべると首を振った。
「いいえ……。今となっては、どうしてあんなことにこうも執着したのか、わからなくなっていますので……」
「どうやら……」
レトも天井を見上げた。「あなたも解き放たれたのですね……」
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城壁の上ではアッシュたちが汗みどろになりながら槍を手に奮闘中だった。
何頭ものライラプスが城壁を越えて次々と城内へ飛び込んでいくが、彼らにはどうすることもできなかった。
こちらにもやつらが攻め寄せているからだ。
狭い城壁の左右から挟み撃ちにされてしまった。魔犬たちに広く対峙するため、仲間同士の間隔を広く開けて構えていたのが裏目に出たのだ。
「くそっ! くそっ!
いいかげん引き返せよ、犬っころ!
俺なんか食べたって旨いわけないだろ……」
最後の声は弱々しいものになっている。
常に背後から迫ってくるライラプスに槍を突きつけながら追い払うことを続けてきた。何度かやつらの牙が鎧に当たることはあったが、幸いにもそれが貫通することはなかった。
もし、あの巨体にのしかかられたら体格に自信のあるアッシュでもひとたまりもなかっただろう。押さえつけられた状態で悠々と喉笛を噛み切られたに違いない。
しかし、この『幸運』は長く続きそうにない。
ライラプスの牙や爪にまったく折れることのない太い槍が、今では重い枷のようになっている。持ち上げるだけでも腕が悲鳴をあげ始めた。訓練で槍を振って、多少の時間は槍を振るい続けられるほどには鍛えてきたが、こんな緊張感を強いられる状況では、たちまちのうちに槍を振るう体力を失ってしまう。アッシュは自分が鍛錬不足であることを身をもって痛感させられた。しかし、これを後悔している場合ではない。やつらの牙は、両側から彼の喉を今も狙っているのだ。
「神さま……」
おそらく、人生で初めてアッシュは神に祈った。神の奇跡にすがった。彼のなかでは、もはや万策尽きていたのだ。
そのとき、彼は全身が青白い光に包まれるのを感じた。驚いて自分の身体を見下ろすと、足もとから白い光の胞子が城壁の床から湧き上がっている。
「な、なんだ?」
光に包まれているのはアッシュの身体だけではない。城壁もまた、まるでみずから光を発しているかのように輝いている。どこか清浄さを感じさせる、神秘的な光景だった。事情を把握していないアッシュには本当に神の奇跡が起こっていると思えた。
実際に、アッシュの目に奇跡と思えることが起き始めていた。
先ほどまでアッシュを狙っていたライラプスたちが動きを止め、まるで呼びかけられたかのように城へ顔を向けているのだ。つられるようにアッシュも城へ視線を向けた。
城は高くそびえており、屋上の様子はまるで見えないが、一部から太い光の筋が天まで伸びているのが見える。おおよその見当でしかないが、あそこは大きな鐘が据えられた部屋があるところだ。
光の筋は雲のところまで達しており、さらに天へ突き抜けていた。光の筋にたじろぐように、上空をうごめいていた雲の塊が輪を広げるようにして退散していく。輪の向こうには夜空がアッシュの眼でも確認できた。
「空が晴れていく……」
戦うことを忘れてアッシュはつぶやいた。圧倒的な神秘を前に、少し呆けてさえいる。
ガサガサという音が聞こえ、アッシュは我に返った。慌てて槍を構えたが、ライラプスは彼を襲おうとしたのではなかった。
むしろ、興味を失ったかのように踵を変え、城壁から外へ飛び降りたのだ。
さらに何頭かの走る足音が聞こえてきたかと思うと、中庭の方角から数頭のライラプスが駆けてくる。
呆気に取られて見ているアッシュの前を、ライラプスたちは軽々と城壁に登り、次々と外へ飛び出していく。ライラプスたちは撤退を始めたのだ。
アッシュは城壁にとりついて外を見ると、外へ降り立ったライラプスたちはそのまま足を止めることもなく、ばらばらに森へ入っていく。そこには先ほどまで見せた統率の取られた動きではなく、いつもの個で生きる獣の姿だ。それに気づいて、ようやくアッシュも安堵の息を漏らすことができた。
「やった……。やつらが引き返していく……」
ずるずると城壁に身体をこすりつけるようにしながら、アッシュは床に膝をついた。全身を覆う疲労感は抑えようもなく、彼には立っている元気もなかったのだ。
「やつら、森に帰っていくな……」
頭上から声が聞こえて、アッシュはゆっくりと見上げた。頭からすっぽりと兜で覆われた騎士が槍を手に立っている。アッシュの隣で外の様子をうかがっているようだ。その騎士はまだ疲れを感じていないかのような堂々とした立ち姿だった。
面あてのおかげで顔は見えないが、アッシュにはそれが誰であるか声でわかっていた。それに、こんな状況で元気な者はひとりくらいしか思い浮かばない。
「お前、まだ余裕そうだな、ランス」
名前を呼ばれてランスは同僚に顔を向けた。
「お前はへばっているようだな」
「当たり前だ」ごろりと身体の向きを変えてアッシュは大きく息を吐いた。
「俺はお前と違って繊細なんだよ」
「お前が繊細?」
面あての向こうから含み笑いをしている声が返ってきた。
「何だよ」
「いや」
ランスはふたたび外へ顔を向けた。「お前も余裕が残っているようじゃないか」
アッシュはそれを聞いて「へっ」と唾を吐くように息を吐いた。
「そいつはひどい冗談だ……」
城の上空はすでに晴れ渡り、天空を覆う星々が先ほどの光の胞子のように小さく瞬いていた。
98
夜が明けて、マイエスタは忙しい朝を迎えた。
村人たちは村へ戻り、村の様子を見て互いの顔を見合わせた。
家屋の多くが巨大な獣に踏まれたように倒れていたのだ。ライラプスの群れは城だけを狙ったわけでなく、村もやはり蹂躙していたのだ。
もし、ここに残っていたのなら……。
それを想像し、身体を震わせた者もいたが、多くは見合わせた顔を苦笑に変えるだけだった。
「壊れちまったものは仕方がない。まずは後片付けからだな」
レギストが巨斧を肩に載せた格好で周りに声をかけた。
仲間の木こりたちも笑顔でうなずく。
「ボク手伝うー」
ポッチが片手をうんと伸ばして声をあげた。それを見ると、カイナも小さい手を伸ばす。「わたしもー」
「ありがとうよ」
マッタがふたりの頭をぐしゃぐしゃに撫でまわした。
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城の地下牢には、ヒギンスが入ろうとしていた。ちょうどガルドやグーラックたちと入れ替わる形だ。
地下牢にはライラプスが攻め込むことはなく、トーマスも含めケガをした者はいなかった。
牢はしっかりと期待に応えたのだ。
そして、今は本来の役割に戻り、ヒギンスを閉じ込めた。ヒギンスはおとなしく寝台のふちに腰を下ろすと、天井付近から開いている小さな明かり窓から差し込む柔らかい光に目をやっていた。
今日はあたりに雲のかけらもなく、外はすっきりとした青空だった。
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「本日のお昼、メンデス様を天へお送りしようと思います」
ガッデスは恭しい態度でレトとメルルに報告した。
「そうですか……。
僕たちはもうすぐ出る駅馬車でアルデミオンに向かわなければなりません。明日には王都へ戻らなければなりませんから。
メンデス氏の葬儀には立ち会えません」
レトは残念そうに言った。メルルもそう思ったが、自分たちが私的な理由で城に残るわけにいかない。寂しいがドニーのことは彼らに任せるしかない。
「ドニーさんのこと、よろしくお願いします」
メルルは頭を下げた。
ガッデスはメルルに身体を向けると、「遺灰は、遺品とともにご遺族のもとへ送り届けます。必ず」誓うように頭を下げた。
「もう戻ってしまわれるのですね」
フロレッタが片手を差し出しながら言った。レトはその手を握る。
「次の仕事が控えていますから」
レトは短く答えた。
「本当は、もっとフロレッタさんとおしゃべりとかしたかったんですけど……」
メルルも続けて差し出された手を握った。
フロレッタはにっこりと笑った。「私もです」
少し離れたところにはアーネストが立っていた。メルルと目が合うと、ふんと鼻を鳴らして横を向いた。
「ま、まぁ、今回はよくやった。平民にしてはな……」
どうも本来のオブライエン候に戻ったらしい。しかし、メルルはそのことがあまり気にならなかった。
「お邪魔いたしました」
メルルは丁寧に頭を下げた。
正門を出ると、上からばさばさと羽ばたく音が聞こえてきた。アルキオネだ。
アルキオネはレトの肩に何ごともなかったかのようにとまる。
「アルキオネちゃん、今までどこに行ってたの?」
メルルが顔をかたむけて尋ねると、アルキオネはぷいと顔をそむけた。
メルルは少しムッとしたが、しかし、それは普段通りのアルキオネの姿だ。
「君は遠慮したのかい?」
レトはアルキオネの羽を撫でながら話しかける。メルルにはその意味がわからなかった。
「僕も誘惑にかられたが踏みとどまったよ。
僕たちのことはじっくりと取り組むことにしよう。いいだろ?」
すると、アルキオネは鋭いくちばしをレトの頭に突き刺した。
「痛い!」
レトが悲鳴をあげる。
メルルはいっこうにわけがわからずレトのあとをついて歩いた。なんとなく呪いに関することを口にしている気はするが、それをなぜアルキオネに話しているのかまるで見当もついていないのだ。
呪い――。
たしかにマイエスタを覆う呪いの影は消え去った。しかし、それで問題のすべてが解決したわけでもない。
壊れてしまったマイエスタ領主と村人との関係が修復されたわけではない。しかし、毅然としたフロレッタの姿に村人たちは多少なりとも感銘を受けたように見えた。時間はかかるかもしれないが、和解への道は完全に閉ざされたわけでないと思う。
領主、といえば、フロレッタとアーネストの関係も、その先が明るいわけではなさそうだ。
フロレッタはマイエスタに残り、領民との暮らしを望んでいるが、後見人であるアーネストは領内の資産を自領に移して、フロレッタをともなってここを引き払うつもりだからだ。
しかし、フロレッタはそれを簡単にさせはしないだろう。父が残した後悔をそのままにできるはずがない。彼女はそのために王都から帰ってきたのだから。叔父とは、これから『静かな戦い』にのぞまなければならない。それにはどんな困難が待ち受けているだろうか。
だが、フロレッタはアーネストが嘆いた母譲りの意志の強さで、きっと乗り越えてくれるだろう。メルルはそう信じた。
だらだらとした坂道を下ると村へ入る。
村人の多くはレトとメルルの姿を見ても声をかけることはなかった。しかし、最初のときとは違って警戒心を露わにしたものではない。
破壊された村のあとかたづけで忙しいだけで、かまってやれないだけだ。
その証拠に、何人かはメルルに手を振り、笑顔を見せた。
ポッチとカイナはふたりに駆け寄り、ポッチは泥だらけの手でメルルの服をつかんで彼女に悲鳴をあげさせた。その様子を見てカイナが腹を抱えて笑い出す。レトもその光景に微笑み、アルキオネは嬉しそうに鳴き声をあげた。
ふたりはやがて村のはずれにある駅馬車乗り場に着いた。
昨夜の騒動を知らない、アルデミオンからやってきた馭者はのんびりした表情で馭者台から村の様子を眺めている。もう老年に近い、しわだらけの男だ。
「もう出るよ」
馭者は何の感情も見せずにふたりに声をかけた。
「乗ろう」
レトは馬車に乗り込む踏み台に足をかけた。メルルもうなずいてあとに続く。
しかし、メルルは馬車に乗り込む前に振り返った。
彼女の眼には忙しく動き回る村人と遠くにそびえる城が映っている。
こことは関係のない多くのひとにとって、これはなにげない景色で、何でもないもののように映るのだろう。ちょうど今、馭者台に座っている男と同じように。
それでも――、
ここにはたしかに存在している。
貧しく、生きるのに不便で窮屈でつらいことの多いこの場所に――。
――それでも、希望はある――。
メルルは馬車に乗り込み、その土地から離れた。
****************************************
――これは、――
多くの絶望に打ちのめされ、
地面に倒れ伏してその苦さを味わいながらも
それでもふたたび立ち上がろうとする、
希望を失わない人びとの物語……
今作で長編は6作目となった。『Ragnarok of braves』を挟んで前後3作ずつである。
『Ragnarok of braves』以降はそれぞれ意図した造りになっている。
4作目『魔法の杖は真実を語らない』は「本物」と「偽物」、
5作目『狩人は闇に潜む』は「狩る者」と「狩られる者」というように、
モチーフに合わせて対比の関係をストーリーに盛り込んでいる。
今回は「呪う者」と「呪われる者」ではあるが、
それぞれを明確な「善」と「悪」に区別しなかった。
本来なら悪役確定になる、差別主義者のオブライエン候でさえも他人を思いやる描写を入れた。
加害者が主人公の物語を挿入し、加害者側からの立場や事情を明らかにし、
また、呪われる側になった被害者の側も物語として描いて、
双方の立場を明らかにするのにページを割いた(おかげでシリーズ最長編になったけど)。
実は、最近のネットの風潮を見て、『何でも一方的に決めつけているのは何か違うな』と感じていた。
事情をよく知らない外野が勝手なことをネットでワイワイ言うのに違和感を抱いているのだ。
きちんとファクトチェックされた情報をもとに意見を言うのではなく、
けっこう憶測レベルの話で結論づけている印象を持っている。
この物語はあくまでファンタジーでミステリなんだけど、
そんな社会情勢に対して僕なりに思うところを形にした。
今回、そのためにめちゃくちゃ長いものになってしまったが、
短く編集せずに公開することにした理由はそういうことである。
うーん……、でも、やっぱ、長すぎたかな……。