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黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 17

87


――これは、――


贖えない罪悪感に打ちひしがれ、


自らに課された使命さえ投げ捨てて罪人になることを選んだ、


とある男の魂の号泣、あるいは懺悔……


****************************************


 どのぐらい眠っていたのかわからない。

 いや、自分が眠っていたのかさえ確信がもてなかった。

 どこかに意識が残って、まどろみに近い状態でただ横たわっていたようにも思える。


 眩しい光が目に射して、ヒギンスは目を開いた。

 耳元には、がらがらと車輪が地面を転がる音が響き、身体はときどき小さく跳ねあがったりしている。

 そこでようやく、ヒギンスは馬車の荷台に横たわっているのだと気づいた。全身だけでなく、頭もズキズキと痛む。


 「あ、目が覚めましたね」

 柔らかい女の声が聞こえ、ヒギンスは目だけを動かした。ヒギンスの頭側に、ひとりの女が座っていた。若い女だ。どこかで見たような気がするが思い出せない。もっとも、彼女が村人のひとりであるならヒギンスが思い出せるはずはない。なぜなら、彼は村人の名前など、そもそも憶えていないのだから。


 身体を起こそうとするが全身に痛みが走り、ヒギンスはうめき声をあげた。

 「無理をなさらないでください。あなたはこの二日間、ずっと意識がなかったんですから」

 「……二日間……?」

 ヒギンスは呻きながらもどうにか半身だけ起こした。女がそっとかたわらへ寄り、背中に手を回して支えてくれた。


 「な、何だ……」ヒギンスは目を見張った。

 彼が横たわっていたのは木材を運ぶのに使う大型の荷馬車だ。彼以外にも何人もの男女が腰を下ろしている。いや、彼らの様子はうずくまっていると表現するほうが正確だろう。

 荷馬車の脇にも何人もの男女が疲れた表情で歩いている。荷馬車は歩いている者たちの歩調に合わせてゆっくり進んでいるようだ。

 しかし、ヒギンスが目を見張ったのは彼らの姿ではない。馭者台に座っていたのが、まるで人間の姿をしていなかったのだ。

 全身が緑色で耳がぴんと尖っている。一見、ひとに似た体格だが、細部はまるで人間と異なっている。ヒギンスはその姿をもつ種族のことを知っていた。


……ホブゴブリン……。ホブゴブリンが馬車を操縦している!


 ヒギンスは反射的に自分の腰に手を伸ばした。しかし、彼の手は腰に何もつけていないことを確かめるだけだった。彼はそこに自分の剣を装備していたはずだった。

 彼は慌てて全身に手をあてる。そこで、彼は自分が甲冑や胸当ても身に着けていないことがわかった。村人と変わらない軽装姿だ。


……私は、私はいったい……。

 ヒギンスは混乱した頭で必死に記憶をたぐった。すると、わずかずつだが記憶が戻ってくる。彼はいつもの警備任務で巡回先の山道を駆けていた。そこで彼は、ゴブリンたちに襲われている村の木こりたちを見つけたのだ……。


****************************************


 「ドノヴァン、君は城へ戻って救援を呼んでください!」

 ヒギンスは槍を構えると馬を走らせた。背後のドノヴァンは驚いた表情になった。

 「ヒギンス、君は?」


 「木こりたちを逃がす。敵はゴブリンばかりだ。この数ならなんとかひとりでも戦える」


 「いや、戦うなら私も残る。ひとりじゃ無理だ」


 「こんなところにゴブリンが現れたんだ。魔候軍が迫っているのかもしれない。君は状況を速やかに報告し、それから救援を送ってくれ。そうしないと、城での対応が後手になる!」


 「そんなの、ここの敵を蹴散らしてからでもいいだろ!」

 ドノヴァンが怒鳴ったとき、小さな矢がひゅっとドノヴァンの頬をかすめた。

 「なに!」

 ドノヴァンが振り返ると、そこには新手のゴブリンたちが押し寄せていた。その数は優に40は超えている。

 「全部で50あまり、戦うのは無理だ、ヒギンス!」

 ドノヴァンは怒鳴った。

 「なおさら私は残る! このままでは木こりたちが全員殺される!」

 ヒギンスも負けじと怒鳴り返した。ドノヴァンは顔をしかめる。「この頑固者め!」


 「頼むドノヴァン。君ならこいつらを振り切って城まで戻れる。頼む!」


 ドノヴァンは一瞬迷った表情を見せていたが、強くうなずくと馬を走らせた。小さな剣を振り回すゴブリンたちを蹴散らし、あっという間に山道を駆け抜けていった。


 「よし、次は私の番だ!」

 ヒギンスも馬を走らせると、木こりとゴブリンたちの間に割って入った。


 「皆さんはこのまま第七伐採地へ! そこには4名巡回しています。彼らに保護を求めて下さい。さぁ、私がこいつらを押さえている間に!」

 ヒギンスは槍でひとりのゴブリンを突き刺しながら叫んだ。刺されたゴブリンは血しぶきをあげながら地面に倒れる。周りのゴブリンたちから怒声があがった。


 「す、すまねぇ!」

 木こりたちは斧を振り回して身を守っていたが、ヒギンスの声にうながされるようにその場から逃げ出した。


 「数が多いと言ってもしょせんはゴブリン。この甲冑なら傷をつけることもできないだろう!」

 ヒギンスは自信たっぷりに声をあげた。ただ、これは大声でひとり言を言ったというより、自ら鼓舞するためだった。ヒギンスはこれまで多くの魔獣と戦ってきたが、ゴブリンのような魔族との戦いは初めてだった。勝手の違う相手に、自分の槍がどこまで通用するのか。そもそも、この数をひとりで相手できるのか。彼にはまったく見当もつかなかった。

 だからと言って自分が退くわけにはいかない。彼が逃げ出せば、馬もない木こりたちはひとり残らず捕捉されるはずだからだ。


 それからは、槍を振り回す人間と、包丁よりは長い剣を振り回すゴブリンたちとの戦いになった。ヒギンスは得物の間合いで有利な立場にあったが、しかし、数が違い過ぎた。

 右側面に押し寄せるゴブリンたちを相手している間に、左側面から近づいたゴブリンたちに脚をつかまれ馬から引きずり降ろされてしまった。身体が小さく、それほど腕力のないゴブリンたちでも、数が揃えば人間ひとりでは敵うものではない。

 抵抗を続け、あがき続けるヒギンスに、木槌を持ったゴブリンの一撃が彼の兜を強打した。鋼鉄の兜といえども、この衝撃を防ぐのは不可能だった。彼は目の前に火花が散る感覚を最後に意識を失った……。


****************************************


 記憶を取り戻すと、ヒギンスはようやく自分の状況を理解した。


 自分はゴブリンたちに捕らわれてしまったのだ。兜はもちろん、甲冑や武器も奪われ、どこかで奪ったであろう荷馬車の荷台に乗せられているのだ。『どこかで奪った』と推察できるのは、この荷馬車は檻どころか幌すら付いていないからである。もし、捕虜を乗せるために用意されたものなら、簡単に逃げ出せそうな、覆いすらない荷馬車であるはずがないのだ。


……しかし、なぜ、誰も逃げ出そうとしていない? 意識を失っていた私ならともかく……。


 ヒギンスがあたりを見渡すと、かたわらの女と目が合った。そこで、彼は女がまだ自分の背中を支えてくれていたのだと気づいた。


 「あ、す、すみません。もう、大丈夫です。ひとりで起きていられます……」

 ヒギンスは顔を赤らめながら女に詫びた。

 「良かったです」

 女は、はにかむような笑みを浮かべながら手を離した。穏やかな、柔らかい笑顔だった。


 「やつらは私たちをどこに連れて行こうとしているのですか?」

 ヒギンスはかたわらを歩く人びとに目をやりながら女に尋ねた。女は首を振る。

 「わかりません。ですが、ここがミュルクヴィズの森だということはわかっています」

 ヒギンスは驚いて女に振り返った。「ミュルクヴィズ? じゃあ、ここは……」


 女は静かにうなずいた。「ええ。私たちは今、魔の森を進んでいるのです」



88


――ミュルクヴィズの森――。


 ギデオンフェル王国の東側、いくつかの川と運河を王国と挟むように南北に横たわる大森林。それがミュルクヴィズの森である。

 広大な森を抜けた先に、魔族たちだけの国、マイグランが存在する。人間たちはその国を『魔国』と呼び、そこを治める王を魔王と呼んで、恐れた。

 ミュルクヴィズの森は、いわば、ギデオンフェル王国と魔国との国境としての役割を果たしていた。魔族たちはこの森を抜けて人間界に踏み込もうとはあまりしなかったのだ。

 それは、この森がきわめて魔素の濃い地帯であり、その生態系はどことも異質であるからだ。強烈な濃度の魔素を吸収した獣たちのほとんどは狂暴な魔獣と化し、植物でさえ生き物に襲いかかって喰らうほどだ。人間よりも腕力や体力が勝り、魔力においても抜きんでている魔族たちさえも、よほど自分の実力に自信がない限り、この森を抜けるのは無謀以外の何ものでもなかった。


 ただ、弱肉強食が絶対の掟のようなこの森には、もうひとつ、来るものはすべて受け入れるという慈母のような懐の深さもあった。森は弱者に厳しいのではない。強者も含め、すべて受け入れ、何者にも制約を課さないため、結果として弱肉強食の世界となっているのだ。

 『制約を課さない』と言っても、森には森であるための絶対の掟も存在した。


 それは、森に火を放たないこと。樹を切り倒して更地を造らないことだ。


 どこかに明文化されているわけではないが、これは経験によるものだ。森に火を放った者、多くの樹を切り倒した者。彼らは一様に森から制裁を受けた。森の番人と言われる『樹人』と呼ばれる魔物に襲われて命を落としたのである。


 こうしたことで得られた教訓は、人間だけでなく魔族にも強く伝わっていた。これのおかげで、人間と魔族は地理的に隣人と言えるほどの距離にありながら、大きな争いはあまり起きずにすんだ。もちろん、『あまりなかった』だけであり、大きな戦いがまったく起きなかったわけではない。今回も、魔族側から魔候アルタイルが軍勢を送り込んできたのだ。


 「なぜ、周りの人たちが逃げ出さないのかわかった」

 ヒギンスは暗い表情でつぶやいた。彼もまた逃げ出そうという考えが失せてしまったのだ。もし、この危険な森をひとりで抜けようとしたら、武器すら持たない自分など、たちまち森の魔獣たちの餌食になるだろう。

 こうして大勢が身を寄せ合って、ひと塊であるほうが魔獣たちにも狙われずにすむのだ。


 「やれやれ。私たちは魔候軍の捕虜として、敵の本拠地へ連れて行かれるのですね」

 ヒギンスのため息は諦めの気持ちがこもっていた。

 「いいえ。生きていれば希望はあります」

 女はヒギンスの腕に触れながら言った。優しくも力強さが感じられた。ヒギンスは女の顔に視線を向けた。この状況でも絶望を感じさせない女に興味が湧いたのだ。


 「あなたのお名前は?」

 ヒギンスは自分の胸に手を当てて尋ねた。「私はヒギンスです」


 「私はローズと申します」

 女は名乗った。

 「ローズ……。あなたはもしかして、西の山に世捨て爺さんと住んでいるという……」

 ヒギンスはそう言うと慌てて口をつぐんだ。『世捨て爺さん』は失言だ。

 しかし、ローズはにっこり笑うと首をかしげてみせた。「はい。その世捨て爺さんの娘です」

 「あ、いや、これは失礼……。し、しかし、あなたも捕らわれの身になってしまったのですか。魔候軍は西の山にも攻め込んだのですね」

 「いいえ。私は最近は村で暮らしていました。私が捕らわれたのは村でのことです」

 会話で『村』と言えば、城下の村しか思い浮かばない。


 「城は……、城はどうなりましたか? 城は無事だったのですか?」

 ヒギンスの問いに、ローズは首を振った。

 「わかりません。村が襲われたとき、私は周りを見る余裕はございませんでした。お城がどうなったのか、正直わかりません。ですが、見渡したところ、お城の方らしい姿は見られません。きっと、皆さんご無事でしょう」

 最後の言葉はヒギンスを励ますものになっていた。ヒギンスは思わず苦笑した。

 「何か、おかしなことを言いましたか?」

 ローズはふたたび首をかしげる。

 今度はヒギンスが首を振った。

 「いいえ。ですが、あなたはずっと他人を気遣っているのですか?」

 「私が? とんでもないです。でも、いつも他人を思い遣れる人間でありたいとは思います」

 なるほど。

 ヒギンスはローズの一部を理解できた気持ちになった。彼女が「こうありたい」という思いが、無意識のうちに行動に表れているのだろう。彼はそう考えた。


 「う、うーん……」


 ローズの背後からうめき声が聞こえてきた。女と思われる声だ。ローズはくるりと向きを変えた。ヒギンスは緊張した。さきほどまで穏やかだったローズの顔もまた緊張で蒼ざめたからだ。


 「セシリアさん、おかげんはいかがですか?」

 ローズの背後には老婆がひとり寝かされていた。さきほどのうめき声はこの老婆から発せられたものだった。

 老婆はまぶたを震わせながらゆっくりと目を開けた。「……ローズさん……」


 「はい、ローズです」

 ローズは明るい声で応えた。


 「ここはどこだい? まだ着かないのかい?」

 老婆は声も震わせながら弱々しくローズに尋ねた。老婆は不安そうにあちこちに視線を向けている。起き上がることもできず、目だけをきょろきょろ動かしていた。ローズは小さく首を振る。

 「ここはまだ森のなかです。おうちはまだまだですよ」

 ローズはそう言いながら、

 「背中は痛みませんか? ほかにも痛いところはございませんか?」

 と聞いた。


 ヒギンスは首を伸ばして、老婆がよく見える位置に頭を動かした。老婆の粗末な服の下から白い包帯が見える。老婆は身体に傷を負い、包帯が巻かれているようだ。老婆は自分の現在地を確かめることを諦めたようで、小さくため息をつきながら視線をローズに戻した。


 「……どこも痛くないねぇ……。でも、変だよ。体中が熱いみたい。そんな季節でもないのねぇ……」


 身体に痛みがなく、熱い? ヒギンスは顔をしかめた。ひどい重傷を負うと、痛みではなく熱さを感じることがあると聞いたことがある。老婆の答えは、あまり良いものではない。


 「そう。痛くないのなら良かったです。痛いなら痛いって、我慢せずにおっしゃってくださいね」

 ローズが優しい声で言うと、老婆は安心したように表情が穏やかになった。静かに震えるまぶたを閉じると、そのまま眠ってしまったようだ。


 「この二日間、意識が戻ったり、眠ったりを繰り返してるんです」

 ローズはヒギンスに背を向けたまま説明した。心なしか肩を落としているように見える。

 「ひどいケガを負っているのに、満足に治療してあげることもできなくて……」

 「この馬車に医者は乗っていないんですか?」

 ローズは首を振る。「この馬車は、ただ動けないひとを乗せているだけです。もし、歩くことができるなら、今、荷台の脇を歩いている方がたと同じように歩かされているでしょう」


 ヒギンスは荷台の外に目をやった。すぐ近くを疲れ果てた顔の男が歩いている。こちらに顔も向けず、うつろな表情のままだ。


 「歩かせるなんて無理です。とても耐えられるような状態には見えなかった」

 ヒギンスは自分の声で老婆を起こさないよう、小声でロースにささやいた。ローズはヒギンスを振り返った。ローズの表情からは穏やかな笑みが消え、憂いに満ちていた。

 「セシリアさんはもともと足が不自由なんです。歩かせるなんて……」


――そうだ。

 ヒギンスは馭者台に座っているホブゴブリンの背中を見つめた。

 こいつらはなぜ、こうも手あたり次第に捕虜を連れているのだろう?

 捕虜を運搬する馬車の用意も満足にできていないのだから、捕虜が必要だとしてもそんなに連れて行けないはずだ。敵兵である自分は別としても、非戦闘員であるローズや、重傷で身動きのできない老婆まで無理をして連れて行く合理的な理由がない。言い方は悪いが、彼女たちは簡単に言えば『足手まとい』なのだ。


 しかし、魔候軍は足手まといだろうが面倒だろうがお構いなしに連れて行くつもりだ。

 ヒギンスはさらに身体を起こそうと試みた。荷台の上に立つことができれば、この行列をより高いところから見ることができるし、自分が今置かれている状況もわかるかもしれない。それで疑問の答えに行きつければ幸運だ。彼は単純にそう考えたのだ。


 「ぐうう!」

 立ち上がろうとした瞬間、ヒギンスは足首を押さえて床にうずくまった。足首が大きく腫れあがっており、そこから強烈な痛みが走ったのだ。患部はぶよぶよとした感触で、まるで自分の身体の一部とは思えない。


……足首をねん挫したか? いや、この腫れ具合だと骨にひびが入っているかもしれない……。


 ヒギンスは足首を押さえながら必死で痛みに耐えた。先ほどは思わずうめき声をあげてしまった。これ以上声をあげて、馭者台のホブゴブリンに不審に思われるのはまずいからだ。


 幸いなことに、ホブゴブリンは振り返ることもなく手綱を握り続けている。少々声をあげたぐらいでは、この魔族は気にもかけないようだ。


 ヒギンスの手に冷たい感触があり、目を開けるとそこにローズの顔があった。ローズが彼の手に自分の手を添えたのだ。


 「無理をなさらないで。あなたはさっき目覚めたばかりじゃないですか」


 ヒギンスは苦笑いを浮かべた。

 「無理をしているつもりはなかった。自分は立ったり、歩いたりできると思っていたんです」


 「痛みは感じてなかったんですか?」

 「いえ、全身が痛いです。だから、足をここまで痛めているなんて気づきませんでした」

 「痛いから気づかないって」これにはローズも苦笑した。

 「仕方がない」

 ヒギンスは荷台の上に両脚を投げ出すように座った。

 「足が治るまで、このまま甘えさせてもらおう」

 本当は、すぐ脇を歩いているほかの者たちに悪いと思っていたのだが、この足で馬車から降りて歩くのはさすがに無理だ。


 「たしかに、ほかの方を乗せて差し上げたいですね。自分が降りることになっても」

 ローズはヒギンスの心を読んだかのように言った。

 「ですが、ここはあなたのおっしゃるとおり甘えさせていただきましょう。

 体力が戻れば、この状況もよくなると思います。きっと目的地ももうすぐですよ」


――しかし、


 状況はよくなる方向へ進んでいかなかった。


 ローズの隣で寝ていた老婆が息を引き取ったのである。



89


 「セシリアさん、セシリアさん、セシリアさん……」


 ヒギンスはローズのささやく声で目を覚ました。夜が明けて、穏やかな木漏れ日がこちらにもわずかだが射しこんでいる。馬車は森の道に停まったままだ。日が暮れて行列が止まって以来、少しも動くことはなかったようだ。


 ヒギンスはお腹を押さえながらローズの声がするほうへ身体を向けた。昨日から口にしてきたのは配給される水しかない。さすがに空腹感は抑えようもなかった。


 ローズはヒギンスの向こう側で寝ている老婆の肩に手をかけて揺すっている。周りを気にしてずっと小声だが、その響きには切迫したものが感じられた。ヒギンスは身体を起こした。


 ローズは両目に涙をためて老婆の名前を呼び続けている。ヒギンスはその肩に手をかけた。

 「ヒギンスさん。す、すみません、起こしちゃって……」

 「お止しなさい、ローズさん。彼女はもう息をしていません」

 「そんな、そんな……」ローズの両目から涙があふれ出た。

 「昨夜、眠る前はしっかり受け答えできてたんですよ……!」


 ヒギンスはその光景を覚えていた。

 老婆はローズの手を握り、「ありがとう」を繰り返し、繰り返し、ささやいていた。闇夜が迫るなか、老婆の表情は見えにくかったが、それでも終始穏やかで、何の苦しみも感じていないかのようだった。思えば、老婆はあのときすでに自分の死期を悟っていたようだ。


 ローズはすぐに現実を受け入れられない様子だった。老婆の手を握り、しばらく呆然としていた。

 時間が経つにつれ、地面で寝ていた人びとも目を覚ましたころ、水の配給が始まった。食料はなかった。

 配給係のゴブリンは、数人の仲間を引き連れて馬車に乗り込んだ。仲間たちは水の入った樽を抱えている。

 ゴブリンはひとりひとりに水を配っていたが、まったく身動きを見せない老婆に気づくと馭者台に向かって大声をあげた。

 馭者台のホブゴブリンはまだ眠っているところだったが、ゴブリンの声で目を覚ますと、剣を手に荷台へやってきた。老婆の隣でしゃがむと閉じたまぶたを指で開いて様子を見ている。ヒギンスは魔族もああやって調べるのかと思った。


 状況を把握したホブゴブリンはうなずきながら立ち上がった。ひと声大声で叫ぶと、遠くへ手招きするしぐさを見せる。

 すると、数人の武装したホブゴブリンがやってきた。仲間が現れると、馭者のホブゴブリンは老婆を指さして何かを言った。仲間たちは無言で顔を見合わせる。


 やがて、仲間のホブゴブリンたちは次々と荷台に上ってきた。老婆を取り囲むようにすると、彼女の身体を抱え上げる。

 「セシリアさんをどうするのですか?」

 ローズはすぐ近くのホブゴブリンに話しかけた。ヒギンスはローズの肩をつかむ。「よしなさい。騒いじゃだめだ」

 ローズはヒギンスに顔を向ける。「でも……」

 「あのひとは亡くなった。彼女はこれから葬られるんです」

 ローズはまぶたを震わせた。「……まだ、最後のお別れができていません」

 「仕方がないのです。私たちは死ねば屍霊グールになる呪われた身です。

 このままだと、セシリアさんは屍霊になって襲ってくるようになるのです」

 「わかってます、そんなこと……!」

 ローズは小声で抗議した。「でも、でも、それでも……!」


 老婆を担ぎ上げたホブゴブリンたちは、起き上がった人びとが見守るなか、森へ入っていった。誰もが無言だった。


 ヒギンスもまた、ローズの両肩に手をかけたまま、無言で様子を見ていた。どことなく葬列を見送る心境になっていたのだ。荷台のおかげで高い位置から様子が見られるので、森に入ったホブゴブリンたちの姿も見ることができた。


 ホブゴブリンはどこで老婆を葬るつもりなのか。そう思いながら見ていると、彼らはすぐに歩みを止めた。担いでいた老婆を地面に降ろしている。


 「まさか……」ヒギンスの顔が蒼ざめた。慌ててローズの身体をこちらに向ける。

 「ローズさん、見てはいけない!」


 しかし、それは間に合わなかった。剣を握ったホブゴブリンがすばやく振り下ろす様子をローズは見てしまったのだ。


 「首をはねた!」

 森のはずれで様子を見ていた誰かが叫び声をあげた。それを聞いて、周囲から動揺のどよめきがあがる。


 「死んだ者を屍霊にしない方法はふたつ。

 炎か魔法で浄化するか、首をはねるか。

 ここはミュルクヴィズの森です。魔族どもも森で火を使うのに慎重なのでしょう。

 彼らは状況的に適切な方法を選んでいるのです!」

 ヒギンスは硬直しているローズの身体を揺さぶりながら必死でささやいた。ヒギンスはもっともな理屈を説明してみせたが本心は違う。やつらは魔の森でなくても老婆の首をはねていただろう。なぜなら、それが手間もコストもかからない、『もっとも簡便な』方法だからである。やつらに死者を悼む考えなどあろうはずもない。


 「そうでしょう……。そうでしょうね。ヒギンスさんのおっしゃるとおりだと思います……」

 ローズは涙ながらに納得したようにうなずいた。首だけを森へ向け、引き揚げてくるホブゴブリンたちを見つめる。

 「でも、あのまま森のなかに放置されるなんて気の毒です。

 まるで、捨てられるみたいじゃないですか……」


 ローズの言うことはもっともだと思ったが、ヒギンスは何も言わなかった。周囲の者たちと同じように動揺しながらも、魔候軍の捕虜に対する姿勢を冷静に考えはじめていた。


……やつらは大量の捕虜を必要としている。しかし、それは捕虜交換などの軍略的、または政治的な理由からじゃない。ただ数を集めたいだけだ。そこに、捕虜の質など考慮する必要もないんだ。目的地にとにかく捕虜を集める。それまでに何人死のうがやつらはあまり気にしていないのだ……。


 配給されるのは水のみ。それもヒギンスの考えを裏付けた。もし、軍略的、あるいは政治的な意図があるなら、捕虜はもっと大切に扱われる。充分でないにしても、いくばくかの食料は配給されるはずだからだ。


……しかし、解せない。

 もし、捕虜を集めるだけなら、その目的は何だ?

 処刑が目的なら、その場で行なえばいいし、奴隷目的であれば私や老婆のように身動きできない者は捨て置けばいいはずだ。わざわざ荷馬車に積んでまで運ばせるのは手間だ。


 ヒギンスの思考はそこで止まった。そこから先はどう考えても答えに行きつかない。彼は頭を振ると考えるのをやめた。

 それより……、ヒギンスは自分の両手の感触に心が移っていた。ローズはうつむいて涙を流している。小さな肩を震わせて。彼はその震えをどうにかしてあげたいと思った。

 「セシリアさんは穏やかに旅立たれましたよ。

 あなたのおかげです。あなたの献身が、あのひとの心を穏やかにさせていたのです。

 最期を迎えるとき、あなたがそばにいたこと、セシリアさんはきっと感謝していたと思いますよ」

 それは確信だ。あの老婆の「ありがとう」は、まさに今、ヒギンスが説明したとおりなのだと彼は信じていた。自然に言葉に力が入る。


 ローズは涙にくれた顔をあげた。戸惑っているような、意味がわからないような表情だ。


 「あなたが、あのひとを救っていたのです」

 ヒギンスは繰り返した。

 「たとえ、魂を失った肉体をどう穢されようと、あのひとの魂は清浄なる天の世界に向かっていますよ」

 「そうでしょうか?」

 ローズは不安そうにつぶやいた。

 「私は、セシリアさんを守ってあげることも、きちんとお世話することもできなかった。そんな私にセシリアさんが感謝などしてくれるのでしょうか?」

 ひとが感謝する基準は株のように上下するものだ。ヒギンスは人間の本質にそんな皮肉な一面があることを知っていた。裕福で何の不満もない者は些細な善意を気にも留めなかったりもするが、絶望の底にいる者はそれが何ものにも得難い、神の御手を差し出されたに等しかったりするのだ。

 ただ、セシリアの場合は、そこまで俗な考えではなく、純粋にローズの優しさに感謝していたのだろう。ヒギンスはそう思った。


 「あなたは本当に優しいひとだ。その優しさに、あの方は救われたのですよ」


 ぐらりと荷台が動いて、ふたりは支え合うように床に膝をついた。行列は行進を始め、荷馬車も進み始めたのだ。


 「ヒギンスさん」

 ローズは両手をつき、うつむいた姿勢でヒギンスに声をかけた。

 「どうかしましたか?」

 ヒギンスは床で転がらないよう両手で踏ん張りながら返事した。


 「救われているのは私です。本当に優しいのはあなたです」

 顔をあげたローズは笑顔だった。初めて見たときと同じ、穏やかで柔らかい笑顔だ。


 その表情に、ヒギンスは胸をつかまれるような感触とともに、はっと思った。

 違う。救われているのは私のほうだ。この笑顔を見るたび、自分の心が晴れてくるを感じる。

 生きていることに喜びを感じられる。

 このどうしようもない、残酷で絶望的な状況のなかで。

 誰もが感情すら失った様子でいるなか、自分が――いや、自分だけがこうも平静でいられるのは、彼女の存在のおかげだ。彼女の笑顔がなければ、自分の心はとっくに真っ暗な虚無に沈んでしまっていただろう。


……違いますよ。優しいのはあなたで、私もそれに救われているのですよ……。

 ヒギンスはそう返したかったが、そうするとローズと変な応酬になりそうだ。彼は無言で笑顔を見せるだけにとどめた。



90


 あれから数日が経ったが、過酷な行進はまだ続いていた。


 ヒギンスはローズといろいろと語り合い、互いのことを知るようになっていた。

 ヒギンスはマイエスタの騎士であることを明かすと、ローズだけでなく周りの者も驚いたようだった。ローズはふもとの村で暮らしていることを明かした。父親は西の山で暮らしており、元魔法使いだとも言った。

 「父はきっと無事だと思います」ローズは力強く言った。

 歩かされていないおかげもあるが、ふたりがこの過酷な状況に耐えられたのは、ふたりのささやかなふれあいが、互いの心の支えになっていたからではないか。少なくともヒギンスはそう思った。


 そう思えるほど、この行進はつらいものだった。荷台に乗せられた者は、その後も数名命を落とした。多くは病に臥せっていた老人たちだ。しかし、荷台が広くなることはなく、場所が空くと、新たに歩けなくなった者が積み込まれた。


 ケガもなく歩くことのできた者にも、途中で力尽き、命を落とす者が現れるようになって、魔候軍も態度を改めた。

 わずかであるが食料も配給されるようになったのだ。


 そのほとんどが森のどこかで手に入れた木の実や果物であった。彼らはもともと捕虜のための食料を用意していなかったのだ。捕虜を連れて行くには、あまりにもずさんで行き当たりばったりの行動だった。


 ヒギンスに、そのことで抗議する力はなかった。彼は荷台の上に横たわり、ぼんやりと空を眺めながら口に入れた木の実を舌の上で転がすだけである。噛み砕いて飲み込むのは容易い。しかし、そうするとしばらくは口にできるものがなくなってしまうからだ。


 ローズは同じように荷台に乗せられた者たちの世話を続けていた。自分で果物を食べることができない者には、身体を起こしてあげ、食べられるように支えてやったりもした。


 ローズの無償の行為に、初めは戸惑ったひとびとも、今では彼女を頼りにするようになっていた。

 荷台の隅には50代くらいの男が寝ていた。額に古い傷跡があり、生まれつき右足が不自由だという。その男は頑固な性格でローズの介助を嫌がっていたが、彼もまた、いつしか彼女の支えに感謝するようになっていた。


 ローズはこの荷馬車での『女神』だった。


 「あなたはなぜ、こうも親切にするのです?」

 あるとき、ヒギンスはローズに尋ねた。彼女に救われてはいるが、彼女自身には何の救いにもなっていない。彼はそう思っていた。まるで見返りも期待できないことに、なぜこんなに献身的になれるのか。彼女の行動を偽善と疑っているわけではないが、それを鵜呑みすることもできずにいたのだ。


 「わかりません」

 ローズの答えに、ヒギンスは目を丸くした。「わからない?」


 「だって、目の前に困っているひとがいるんです。そのひとを助けるのに何か理由がいるんでしょうか?

 それに、私は親切を施しているつもりはありません。私はそんな、聖職者みたいなものでありませんから」


 ヒギンスは笑い出しそうになった。聖職者? 聖職者のほうがよっぽど不親切で利己的だ。少なくとも彼にとっては。

 マイエスタの城には教会もある。しかし、そこに聖職者の姿はない。『聖職者』の誰もが辺境の地に赴任するのを拒んでいるからだ。

 どんな状況にあろうが、どんな相手であろうが、救いの手を差し伸べる。それが、ヒギンスの考える『聖職者』だ。

 ただ、現世においてヒギンスが『聖職者』と呼べるのはローズ以外に思いつかない。


……ああ、なんて世のなかだ……。

 彼は心のうちに湧き上がる感情を抑えるのが難しかった。

 自分はローズの今の姿に感謝を抱いたり、感動を覚えることもなく、この現実に怒りや恨みを募らせている。


 自分が忠誠を誓い、仕え続けた領主。敬意を払い続けた教会の聖職者たち。守るべき領民たち……。


 ローズの存在が眩しくなるにつれ、逆に彼らが陰の存在……、言い換えれば『悪』の存在に思えてくるのだ。彼らは『俗』な存在だ。そこに善悪だの感じたことがなかった。しかし、今、自分が感じているのは、俗であることもまた『悪』たりうることだ。そう考えてしまったことに、ヒギンスは自虐的な笑いがこみあげてきたのだ。


 「ヒギンスさん?」

 ローズの声に、ヒギンスは現実に引き戻された。

 ローズはきょとんとしたような顔でヒギンスを見つめている。彼の反応が何を意味するかわからないのだろう。

 そう、わかるはずがない。毎日、この行列のどこかで誰かが命を落としている。こんな異常な状況で笑いそうになる気持ちが。理解できるはずもない。ローズの存在が自分を含めた他の人間たちを矮小な存在だと思い知らせていることに。


 それでも、ヒギンスはローズに悪い感情を抱くことはなかった。自分の矮小さを思い知らされても、彼女は尊い存在に違いなかった。


……彼女は、いや、彼女だけは死なせたくない。この世に生きて、その生を享受していいのは彼女だ。もし、彼女の命が危険にさらされる事態になれば、私は騎士としての最後の矜持を示して戦おう。この命を投げ出すべきはそのときだ。


 ヒギンスはそう決意してうなずいた。「安心してください、ローズさん」


 「安心?」


 「私は今、あなたの騎士になろうと決意しましたので」


 この言葉に、ローズは困ったような笑みを浮かべた。「そんな……、大げさです……」


 そう。あのときは強い決意だった。決して揺らぐことのない。


 しかし、間もなく、ヒギンスは自身で定めた決意を裏切ることになる。


 「おい、お嬢さん、どうした?」


 ただならぬ声に、ヒギンスは顔を向けた。

 額に傷跡がある男が、倒れている誰かの肩を揺さぶっている。後ろ姿ではあるが、それがローズであることはすぐにわかった。


 「ローズさん!」

 ヒギンスは身体を起こすと、四つん這いのままふたりのそばへ近づいた。ヒギンスの足はまるで回復に向かわず、今も歩くことがままならない状態だったのだ。


 ローズは倒れたまま目を閉じていた。額に汗を浮かばせて、苦しそうに息を吐いている。ヒギンスはローズの額に手をやった。


 「熱い」ヒギンスは呻くような声とともに手を離した。かなりの熱がある。


 「ああ。傷が悪化したんだ……」


 しわがれた声が聞こえ、そちらに顔を向けると、フードを被って丸まっている老婆と視線が合った。これまでずっとローズが面倒を見ていた者のひとりだ。


 「傷だって?」

 ヒギンスが聞き返すと、老婆は視線を外した。しかし、口もとを隠すようにしながらもぼそぼそした声でヒギンスの問いに答え始めた。


 「このお嬢さんも大ケガしてたのさ。

 このあいだ死んで首をはねられたお婆さんと一緒に連れてこられたんだ。その子もお婆さんと同じように背中をケガしていた。包帯を巻く程度の手当しかしてもらってなかったんだよ」


 ヒギンスはそれを聞くと、ローズの耳もとに自分の顔を寄せた。「悪い。服を脱がせます」

 ローズからは反応はなかったが、ヒギンスはそれにかまわず、ローズのシャツを脱がせてうつぶせにした。


 「……なんてことだ……」


 ローズの背中は真っ赤を通り越してどす黒いものに変色していた。傷が化膿し、膿んでいる。彼女が倒れたのは、傷が生み出した毒素が全身に回ったものだと推察できた。


 これを見た瞬間、ヒギンスは自身の『呑気さ』を思い知った。


……馬鹿か、私は!

 ローズさんがなぜ荷馬車に乗せられているのか、その理由に思い至らなかった!

 理由は、彼女もまた負傷して歩くことが困難だったからだ!

 初めはセシリアさんの世話をするために乗っているものばかりと思っていたが、それならセシリアさんが亡くなった以降は馬車から降ろされていたはずだ。

 いつも穏やかで笑顔を見せるローズさんが、実は重傷者であることなど気づけなかった。

 なんて、なんて、私は馬鹿なんだ!


 ヒギンスは全身から汗が噴き出すのを感じながらローズを見つめた。

 ローズは息をしているが意識がないようだ。男からの呼びかけに応える様子がない。


……このままでは……。このままでは彼女は死ぬ!


 ヒギンスはくるりと向きを変えると、四つん這いのまま馭者台へ向かおうとした。


 「待てよ、あんた」

 背中の服をつかまれる感触があり、振り返るとさっきの傷の男が片手でヒギンスの服をつかんでいた。

 「あのホブゴブリンに何を言うつもりだ?」


 「薬をもらうに決まっている!」

 ヒギンスは答えた。当然だろという表情だ。しかし、男は違うというように首を振った。


 「それはダメだ。やめたほうがいい」


 「なぜ?」


 「まず、言葉が通じるか問題だ。俺たちはけっきょく、あいつらとは会話していない。そもそも、何か頼み事ができるかどうかわからねぇんだ。

 それにだ。仮に言葉が通じたとして、人間の傷の治療薬を魔族が持ってると思うか?

 俺もそうだが、負傷してこの荷馬車に乗せられた者は満足に治療してもらっていない。せいぜい小汚い包帯を傷口に巻いてもらった程度だ。

 化膿した傷を治す薬を持ってるんなら、最初から薬をつけてただろうさ。

 そんな対応をしてもらっていないということは……」


 「あのときは人間に治療を施すことが必要か、わからなかっただけかもしれないだろ?」

 ヒギンスは反論した。

 「今、私たちの立場は変わっている。簡単に死なれちゃ困るんだ。やつらにとっては!」


 「そうかもしれない。だが、やつらがくれた食料は、現地調達のわずかなものばかりだ。

 これ以上は、やつらだって手間をかけたくないだろうよ。

 もし、お前がここでゴネてみろ。やつらは、このひとを殺して森に捨ててしまうぜ。

 なにせ、そのほうが『簡単』だからな!」


 ヒギンスは言い返せなかった。自分が冷静であれば同じことを考えただろうからだ。


 「俺だってお前と同じだよ……」

 男はローズを見下ろしながらポツリと言った。ヒギンスはうなだれているような男を見つめる。「同じ?」


 「俺だって、このひとに生きててほしいんだ。

 やつらに殺させたくもない。

 だがよォ……。俺たちに何ができるってんだ?

 俺たちにできるのは、このひとを静かに見守ってやることしかないんじゃねぇのかよ……」

 「静かに、見守る……」

 それは神の奇跡にすがるしかないということか。ヒギンスが知るかぎり、試練しか与えてこなかった神の……。


 ヒギンスは中腰の姿勢だったが、どすんと床に腰を落とした。絶望が彼自身を覆い、ついに心を折ってしまったのだ。


 「見守るって、それは……」

 ヒギンスはローズの横顔を見つめた。「見殺しにするってことだろうが……」

 ヒギンスは涙を流しながら、その言葉を絞り出した。



91


 その日から、ローズは起き上がることができなくなった。

 幸いと言うべきか、ローズは間もなく意識を取り戻したが、混濁した様子も見られた。熱と身体をむしばむ毒素に苦しめられ、ときおりローズの顔が苦痛に歪んだ。


 むしろ、穏やかなのは眠っているときだ。しかし、そのときはかたわらのヒギンスにとって、もう目覚めないのではと気が気でなかった。だが、彼になすすべはまったくない。

 男が言うように、ヒギンスにできるのはただ見守るだけだった。


 「ヒギンスさん……」

 彼を呼ぶ声に、ヒギンスは目を覚ました。ローズの隣で座っていたのだが、いつの間にかまどろんでいたらしい。声がしたほうへ目をやると、ローズが横になったまま彼を見上げていた。

 「ローズさん……」

 ヒギンスは彼女に手をかけようと動かしたが止まった。彼の左手はローズに握られていたのだ。それに気づいた彼は優しく握り返した。「どうかしましたか?」


 「ごめんなさい。ご迷惑かけて……」

 「あなたが謝ることではない。むしろ、謝らなければならないのは……」

 ――私なのです。あなたを守る騎士になると言いながら、ただ、あなたを見殺しにするしかできないことに……。


 「いいえ。あなたは私に優しくしてくれました」

 ヒギンスの言葉を先に読んだのか、ローズは彼の言葉をさえぎるように言った。


 「あなたは優しいひとです」

 ローズは繰り返すように言った。

 「ですから、私のせいで、あなたの優しい顔が曇るのが私はつらい……」

 さらに握り返すローズの力は弱いものだった。ヒギンスはそこに彼女の死が間近であることをはっきりと悟った。


 「いいえ。私のほうがあなたに救われたのです」

 ヒギンスは両手でローズの右手を握ると、身をかがめた。彼女に良く見えるように顔を近づける。

 「ご覧ください。私は笑顔です。曇ってなどいません。あなたの思いやりのおかげです」

 ヒギンスは慎重に言葉を選ぶように、ひと言ひと言丁寧にしゃべった。ローズは彼の顔を見上げながら微笑んだ。穏やかで優しい。しかし、どこか虚ろさも感じさせる弱々しいものでもあった。


 「私はあなたに会えて幸運でした。

 こうして、今、私は穏やかな気持ちでいられるのですから……」

 やめてくれ、そんなこと言わないでくれ……。

 ヒギンスは言いようのない罪悪感に思わず叫びだしそうになるのをこらえた。

 自分がしていることは、死につつある者を、ただ手をこまねいて見ているだけなのだ。

 知らず知らずのうちに涙があふれ出す。


 「お願いがあります」

 ローズは静かな声で語りかけてきた。

 「何です?」

 ヒギンスはあふれる涙をぬぐうこともできずに聞き返した。


 「あなたは生きてください。どうか」


……そんな……。


 「生きてくれれば、私もまた生きていけます。希望が持てます」


……生きていけるって……。


 「私の幸運が、いつかあなたにも巡ってきますように……」

 ローズはにっこりと笑いかけた。先ほどまで感じられた虚ろさもない、輝くような笑顔だった。


 ヒギンスは涙を流し続けた。ローズの手からは力が失せ、徐々に体温が消えていくのを感じていた。それでも、彼は彼女の手を握り続けた。


 ふいに突き飛ばされるような感触を受け、ヒギンスは床に転がった。


 気がつけば荷馬車が停まっており、馭者のホブゴブリンが仁王立ちでヒギンスを見下ろしていたのだ。

 ホブゴブリンの背後からは、剣を携えたゴブリンたちがわらわらと姿を現した。


 ホブゴブリンは背後のゴブリンたちに何か言うと、数人のゴブリンが前に出てヒギンスの腕や脚をつかんだ。

 「な、何をする……」

 ヒギンスは抵抗したが、ずるずると床を引きずられてローズから引き離されてしまった。

 ホブゴブリンは身をかがめてローズの首に手を当てるなどしている。


 「や、やめろ……」

 ヒギンスはなおも抵抗を続けた。「そのひとに触るんじゃない!」


 ホブゴブリンはゆっくりと立ち上がると、残りのゴブリンに何かを言った。すると、残りのゴブリンたちはローズの身体に群がるように集まると、彼女の身体を抱え上げた。


 「や、やめろ。やめてくれ、頼む、それだけは……!」

 ヒギンスはもがいたがゴブリンたちの力は思ったよりも強く、彼はその力から逃れることができなかった。


 ローズを抱えたゴブリンたちはそのまま荷台を降りる。彼らの姿が見えなくなると、ガサガサと草を踏みつける音が聞こえてきた。やつらは森へ入ったのだ。


 「やめろーーーー……!」ヒギンスの叫びは、ただむなしく森のなかに響き渡るだけだった。



92


 あれから、どれぐらい時間が経ったのだろう。

 ヒギンスには時間の感覚がまったくわからなかった。


 わかっているのは、ゴブリンたちの『仕事』はすぐに終わり、行列は行進を再開したことだけだ。


 ヒギンスは荷台の柵によりかかり、虚ろな目で空を見つめるだけだった。彼の目にはすでに涙はなく、まるで枯れ果てたかのようだった。


……生きてくれれば、私もまた生きていけます。希望が持てます……


 ローズの言葉が虚ろな頭に響いている。あの言葉は何だったのだろう?

 死を覚悟していたのではなかったのか。自分の死期を悟っていたのではなかったのか。

 それとも、意識が混濁し、うわごとのようなものだったのか。


 わからない。

 まったく、わからない。


 いや、もういい。何も考えたくない。感じたくない。

 すべてから意識を切り離し、楽になりたい。

 この世から消え去りたい。


 しかし、自分の死を望んだとき、あの言葉が甦ってくるのだ。


――「あなたは生きてください」――


 なぜだろう。何もかも投げ出したいほどどうでもいい気持ちなのに、あの言葉だけが力を持って心のなかに浮かんでくる。死を望むヒギンスにとって、それはすでに呪いの言葉と同じだった。


……なぜ、私に生きろと……? こんな、生きる価値もない男に……。


 答えはけっきょく得られなかった。


 一行は間もなく森の奥地にそびえるユグドラシル城に到着し、ヒギンスはほかの捕虜たちとともに別の監禁場所へ移された。彼はすでに無抵抗だった。ようやく歩けるようになった足を引きずって、ただ連れて行かれるだけだった。


 その後、『勇者の団』が捕虜を救いにやってきて、魔候軍は壊滅した。ヒギンスは生き残ったほかの捕虜たちとともに救い出され、マイエスタへと帰ることができた。


 ヒギンスの生還を仲間たちは皆喜んだ。しかし、彼に笑顔はなかった。


 「ご領主様は……?」

 暗い表情で尋ねるヒギンスに、仲間たちも表情が曇った。


 「フィリップ様は臥せっておられる」

 ドノヴァンが答えた。

 「魔候軍が攻め寄せて来たとき、お倒れになったのだ」


 「絶対安静だ。今も予断を許さない状況だよ」

 クレイトンはヒギンスの肩を叩きながら言った。

 「だが心配するな。お前が帰ってきたと聞けば、フィリップ様も喜ばれよう。

 元気にもなられるさ」


 仲間たちの言葉はヒギンスを思い遣る気持ちに満ちていた。しかし、どの言葉も彼の心を溶かさなかった。彼の心は冷たく、凍りついたままだった。仲間たちは気づいていなかったが、彼の心の奥には、レドメイン・ノーズ家に対する憎しみの感情が生まれていたのだ。

 ローズが死んだのは、魔候軍の侵攻を許したせいで、それは領主フィリップが事前の策も打たず、その対応にも失敗したからだ。


 許せない、許せない、自分自身も含めて……。


 フィリップがついに命を落としてもなお、ヒギンスの心からその考えが消えることはなかった。


 フロレッタが王都から帰還し、その前にひざまずいたときも、ヒギンスの心は変わらなかった。そこには忠誠を誓う騎士の姿はなかった。そこにあるのは人知れず怒りを胸に、破壊的な衝動を抑えているだけの呪われた男の姿だった。ただ、誰もそのことに気づくことはなかった。


 フロレッタが呪いをかけられたとき、ヒギンスはそのときになって自分の使命は何か気づいた。いや、気づいた気持ちになった。


……マイエスタに忠誠を誓えない半端者の自分ができることは、姫様を呪った者の意志を守ることだろう……。


 誰がフロレッタを呪ったのかは知らなかった。間もなく、その人物がローズの父、ガンズだとわかると、ヒギンスは衝撃を受けた。ヒギンスは自分を取り戻すと、この使命は天命だとも思うようになった。何者にも邪魔をさせてはならない、自分だけの使命なのだと。


 フロレッタの呪いを解くべく、アーネストがドニー・メンデスをともなって現れたとき、ヒギンスはうわべだけ平静を保ったまま迎え入れた。

 しかし、心の奥ではドニーを何としてでも排除するのだと、どす黒い殺意の炎を燃えあがらせていたのだった……。

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