黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 16
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今日はずっと曇天だったから一日暗かった。
しかし、時刻としては陽が落ちたばかりのころで、まだ夜の闇といえるほどでもなかった。
とはいえ……、
……いつの間にか星が見えている。
正門の裏手に向かいながら、レトは空を見上げた。城の上空は厚い雲に覆われ、ところどころ細い稲光が蛇のようにうごめいているが、それ以外の空は雲が吹き払われたかのように星のまたたきが見えるのだ。
……この城に溜まる魔の力が周囲の雲を引き寄せているのか……。
レトは梯子を駆けるようによじ登ると、正門の上に着いた。正門の上にはいくつものかがり火が焚かれ、城の周囲を照らしている。
かがり火の赤い光に照らし出され、黒々としたものが城の周囲を走り回っている。どれもが崖際でカイナを襲った獣と同じ姿をしていた。ライラプスだ。
ざっと見ただけで20頭はいる。正門付近でこれだけの数なのだから、アッシュの言うようにもっと多くのライラプスが城を取り囲んでいるのに違いない。
「油断してたつもりはないけど……」
レトは悔しそうに顔を歪めた。
「それでも、やつらの動きを測り損ねた」
早すぎると思ったのだ。
レトは、ライラプスは数をそろえてもすぐには襲いかからず、斥候係のものが数頭現れて様子をうかがってから攻めてくるだろうと予想していた。ライラプスは獰猛な魔獣ではあるが、一方で慎重で、そのため人里にはめったに現れないものだったからだ。
いきなり大挙して攻めてくるとは、これまでの行動からは想像できない。
……いや、すでに斥候係が城をうかがっていた?
城付近の森のなかから。僕たちに気づかれぬよう姿を隠して。
そうであれば相手のほうが上手だった。
バサバサと羽ばたく音が聞こえると、レトの肩にアルキオネが舞い降りてきた。
「かぁああ」
どこか間延びしたような声でレトに話しかける。
「……ひょっとして、やつらの接近に気づいていたのかい?」
レトは恨めしそうな顔でアルキオネを見つめた。カラスはそれには答えず、レトの肩で羽繕いをはじめる。
「高みの見物にも飽きて戻ってきてくれたってところか……」
レトはため息をついた。アルキオネは決して自分に甘い態度を見せてくれない。たとえ何かに気づいたとしてもだ。
「まったく、こっちの段取りを狂わせまくってくれる!」
レトは向きを変えると、梯子を駆け下りた。梯子の下ではガッデスとディエゴが不安そうな表情で待ち構えていた。
「どうでしたか?」
ガッデスは不安な表情を隠すこともできない様子で尋ねた。
「正門付近で20頭あまり。それが城の周囲全体となると百頭あたりかと」
「ひゃっ、百頭ですって?」ディエゴは叫んだ。「信じられない。山にはそんな数のライラプスがいたのですか!」
「どんな獣だって、ある程度の数がいないと種を保てません。この地方一帯にいるライラプスが種を維持するのであれば、このぐらいの数は必要でしょう」
レトの答えに、ディエゴは顔をしかめた。
「つまり、領内に生息するライラプスがすべて集まっていると?」
「すべてかどうかまではわかりません。ですが、あの遠吠えが響き渡ったところに住むライラプスが呼応したのは間違いないでしょうね」
レトは正門に向かうと、格子扉から外を見つめた。
そこには何頭ものライラプスが今にも飛び掛かろうとするように首を低くして唸り声をあげている。
「フロレッタさんの血肉がお望みですか」
レトは一頭に話しかけた。「でも、その望みを叶えさせるつもりはありません」
「私は武装して戻ってきます!」
ディエゴは城に向かって走り出した。
レトは城の守りとフロレッタへの守り。それぞれの役割分担にも関わりたかったが、事態が切迫した今となっては叶わない望みだった。レトは無言でディエゴを見送った。
「わたくしもここで失礼いたします」
ガッデスも恭しく頭を下げて立ち去ろうとしたが、レトはガッデスの腕をつかんだ。
「お引止めして申し訳ありません。あなたはフロレッタさんのもとへ行かれるのですよね?」
「もちろんでございます」
「僕もご一緒します」
ガッデスはレトの顔をまじまじと見つめた。「先ほどの件で?」
「ええ。段取りは狂いましたが儀式を諦めたわけではありません。
メルルが戻り次第、解呪の儀式を行ないます。
そのことをフロレッタさんにお伝えし、そのときに備えていただきたいのです」
「戻り次第と申されても……」
ガッデスは格子扉の先に目をやった。
「この状況ではメルル様もお戻りになれないのでは?」
「彼女は戻ります。必ず」レトの声は確信に満ちていた。
ガッデスはふたたびレトに視線を戻した。何の感情もうかがわせない静かな表情だ。
「メルル様を信じていらっしゃるのですね?」
「彼女は自分のやるべきことに責任を持てます。そして、彼女のやるべきことは今、ここにあるのです」
「わかりました」
ガッデスは大きくうなずいた。
「わたくしは、メルル様を信じるカーペンター様を信じましょう」
「……ありがとうございます」
レトはつかんでいた腕を離した。
ガッデスはレトに背を向けると歩き出した。
「さ、カーペンター様参りましょう。フロレッタ様のもとへ」
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「バカを言うな! 信じられるか、そんな話!」
アーネスト・オブライエン候は口のはしに泡を吹きながら怒鳴り声をあげた。太い腕をぶんぶんと振っている。
フロレッタの居室には、フロレッタのほかに、アーネスト、ガッデス、ロッタ、レイ・ブルース、そして、レトの姿があった。レトは一同の前で解呪の儀式のことを告げたのだ。
それに対するアーネストの反応が『これ』だった。レトのなかでは予想の範疇ではあったが、こうも大げさな反応とまでは予想できなかった。
「外ではライラプスが群れを成して押し寄せています。もし、あの群れが城内になだれ込んだら、ここは修羅場となります。彼らを撤退させる最善の方法は一刻も早くフロレッタさんの呪いを解いてさしあげること。
そうなれば、この城にこもる魔の力も失せて、彼らもここへの興味をなくすでしょう」
レトは丁寧な口調で説明した。状況は切迫している。ここでグズグズしている時間はないのだ。
「この城の城壁はアルデミオンの次に高くて堅牢だ。
犬を大きくした程度の下等生物にどうこうできるものでもないだろう。
慌てる必要はないのだ。ここで、急いで怪しい儀式を行なう必要はないだろうが」
アーネストはそう言い返したが、度重なる魔族の攻撃に一度も陥落したことのない城だ。アーネストの反論はもっともでもある。
「たしかに、この城は対魔族に優れた城だと思います。ですが、何ごとにも例外や想定外はあるものです。
今回のように、ライラプスが群れを成して襲ってくることを、この城は想定されているのでしょうか?」
「たとえ、これがその想定外だとしても、これは鉄壁の城なんだ。想定外のことなど簡単に弾き返してくれるわ!」
アーネストはあくまで強気だ。
「ライラプスは獰猛な魔獣である一方、その行動は慎重で知恵もあるとのことです。
あの城壁を越える算段がついているかもしれませんよ」
「ハッ! 犬に知恵だと? 多少の知恵を見せたところで、しょせん獣は獣よ。
放っておけば朝には引き揚げるだろう。
こっちが慌てる必要など何もない!」
「慌てるのではありません。ただ急ぐだけです。
たとえ、今夜彼らが城への突入が果たせなくても、毎晩襲撃を受けることになるのです。
城下の村人たちは村へ戻れず、周辺の村々もまた、この城へ切り出した木材や物資を届けることが難しくなります。
いずれはこの城に留まれなくなります」
「だからどうした? ちょうどよいわ! 私も、近々、この地を去るつもりでいたからな! こんな寂れた領地など、とっとと王国に返上してしまえばよいのだ!」
「あなたの本音はそちらですか。
あなたは、フロレッタさんが呪いから解放されることも、この領内で暮らすひとびとの安全もどうでもよいのですね?」
レトの問いに、ここで初めてアーネストは言葉に詰まった。
「う、ぐ……。そ、そんなことはない……」
アーネストはベッドに視線を向ける。ベッドには顔まで包帯で覆われたフロレッタが腰かけている。フロレッタは落ち着いた様子で静かに座っている。叔父とレトとのやりとりを聞いているのかもわからないほどの落ち着きぶりだ。
「いいか、探偵。私は本当にフロレッタのことを思い遣っているのだ。
私が幼いころから敬愛してきた姉上が遺した、たったひとりの忘れ形見だ。大事に思わないはずがない。
だから、フロレッタの呪いが解けるのであれば、それを全力で叶えてあげたい。それが偽らざる本心だ。
だがな、あの呪術師ならばともかく、解呪の経験もないほんの小娘に、大事なフロレッタの解呪を任せられると思うか? 思えなくて当然だろうが!
それを、どうでもいい魔犬の襲撃にかこつけて、儀式を勝手に執り行おうとするお前たちを信用すると思うてか! 私はまともな判断を下している。間違いない!」
「候のおっしゃることはもっともです」
レトは認めた。
「ですが、フロレッタさんにかけられた呪いはとんでもないものなのです。もともと解呪を引き受ける呪術師が見つからなかったのではないですか? これ以上時間をかけると、フロレッタさんの体力が先に限界を迎えかねません。急がなくてよい状況ではないのです。
それに、ドニーが時間をかけて築いた魔法陣は永続的に使えるものではありません。時間が経てば、せっかくの術式も効果を失うのです。
そうなれば、次、いつ、誰がフロレッタさんの呪いを解いてあげられるかわからないんです。そういう意味でも切迫しているんです、今は。
こちらとしては今回ダメであれば次、という考えではありませんが、せめて、今だけはドニーの残した魔法陣に賭けてはもらえませんでしょうか?
彼は自分の死に直面した状況でも、メルルに儀式を引き継いでもらえるよう手がかりを残していたのです。自分の死期を遅らせようとか、襲撃者に復讐しようとか、自分のことなどまるで考えなかったんです!」
レトのこの反論に、アーネストは完全に沈黙した。傲慢な彼でさえ、ドニーの、自分の命を省みない献身的な行動を否定できなかったのだ。
「叔父様」
この沈黙を待っていたかのようにフロレッタが声をあげた。静かで落ち着いた声だった。
「叔父様、ありがとうございます。私のことを本当に思い遣ってくれて」
アーネストはフロレッタに顔を向けたが、先ほどまでと異なる弱々しい表情だった。
「フロレッタ、私は……」
「充分です、叔父様。叔父様の気持ちはわかりました。
ですが、私、カーペンター様の『賭け』に乗ってみたいと思います」
「フ、フロレッタ、お前まで……」
「私、この呪いに苦しめられている間、ずっと考えていたんです。
こうもひとに憎まれるのであれば、こうも苦しい思いをするのであれば、生き続ける必要なんてないのではないか。もう、早く死んでしまえばいいのではないか。そうなれば私は解放される。楽になれる、と」
フロレッタはすっと立ち上がった。ガッデスとロッタが急いで両脇から支えようとする。しかし、フロレッタはふたりの支えを断り、ゆっくりとした足どりでアーネストの前に立った。
「でも、カーペンター様、メルルさん、それからメンデスさんも。皆さん、私のために懸命に動いてくれました。生きろなどと説教じみたことも言わず、ただ、呪いから、この苦しみから解放させるとだけ言い続けて。
生きることに絶望しかけている私にとって、それがどれだけ大きな励みになっていたか。叔父様に想像できまして?」
アーネストはたじろぐように一歩下がった。「う、うう……む」
「私は信じます。カーペンター様の言葉を。メルルさんの行動を。メンデスさんの誠意を。
叔父様。どうか、叔父様も皆さんを信じて。私はこの呪いから自身を解き放ち、新しく生き直したいのです」
フロレッタは決して大きな声を出しているわけでなかったが、その言葉は力強く、圧倒的だった。
それに気圧されたのか、アーネストの両肩はがっくりと下がった。
「……まったく、お前はあの姉上とそっくりだ。
普段はおっとりしているのに、いざとなると誰よりも勇ましく強い。その強さのいくばくかが私にもあればと、姉上をうらやましく思っていたものだ……」
アーネストはレトに顔を向けた。その表情には怒りや興奮の色は見られない。
「探偵殿。私は、どうしてもその儀式のことは信じ切ることができない。
だが、フロレッタの覚悟を無下にはできぬ。どうか、彼女の覚悟を無駄にせぬように頼む」
「もちろんです、オブライエン候」
レトは頭を下げた。
「ところで、その、メルル殿は今どこに?
それに、儀式はどこで行なうのだ?」
アーネストはあたりをきょろきょろと見回した。
「メルルは今、儀式の準備で駆けまわっているところです。
儀式の場所は、この城の屋上にあります」
「屋上?」
「ええ。鐘楼が据えられた部屋の屋根、その屋上が儀式の場所です」
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レトがアーネストと話していたころ、そのときのメルルは『駆けまわっているところ』ではなかった。むしろ、『駆けまわるどころじゃない』状況にあった。
草むらに身を隠しつつ、さらにはライラプスたちの位置に対して風上に立つことがないよう慎重に移動していた。
風上に自分の身を置くことが、鼻の利く相手にいかに危険であるか、メルルは身をもって思い知っていたからだ。
……早く、早くお城に戻らなきゃならないのに、もう……。
ようやく村の出口に近い草むらまで進んだが、そこから先は身を隠す場所がない。あの、やや距離のある坂を登れば城の正門に着くのだが、そこは今、ライラプスたちがうろうろする危険地帯と化している。
この状況で城へ戻る方法はひとつだ。
――離脱魔法……。
メルルは自分の左手首に目をやった。レトからもらった術式が編み込まれた紐ブレスが白く光っている。粗末な材料、とレトは言っていたが、こうして腕に装備してみると、王都でこじゃれた女性が身に着けるものと同じように思える。丁寧に編まれた紐が使われているせいだ。
……これを使えば、あの高い城壁もギューンと飛び越えて城に入ることができる……はず。
そのはずだけど、実際に使うとなったら……。
メルルはそこで逡巡してしまうのだ。自分自身が離脱魔法を使ったことはこれまで一度もない。この魔法は決して安全なものではないからだ。冒険者のなかでは、この魔法を安易に用いて大けがをした者がいる。使い方についてレトが注意したように、扱いを間違うと地面に叩きつけられるだけになりかねない。
……でもでも、これ以外に城へ戻る方法なんて思いつかないし。うーん……。
メルルは両手で頭を抱えながらぶんぶんと左右に振った。とっくに答えが出ている問いに、今も答えを探し続けているような感覚だ。でも、しょうがないじゃない。そう思ってしまう。だって、ほんとに怖いんだもん。
もし、背後の茂みがガサガサと音を立ててなかったら、メルルはそこで何時間も悩み続けていたかもしれない。
ガサガサ!
ふいに聞こえた背後の音に、メルルはもうすぐで声をあげそうになった。
こわごわと背後を振り返る。
背後の茂みは、完全に夜の闇と同化して、そこに茂みそのものがあったかさえわからなかった。
ただ、自分の背ほども高い草のすき間から、青白く光る二対の鋭い眼がメルルに向けられているのが見える。
「で、出たぁー!」
メルルは大声で叫ぶと茂みから飛び出した。一瞬遅れて、背後の茂みからも大きなものが飛び出した。
「グルル」と唸り声をあげる巨体の犬。ライラプスだ。
「うわぁ、もうやだぁ!」
半分べそをかきながらメルルは坂道を駆けだした。背後から忍び寄っていたライラプスもメルルを追って駆け出す。
メルルの足では一瞬で追いつかれてしまう。決断は一瞬だった。
「離脱魔法!」
メルルの身体は一瞬で光に包まれ宙を舞い上がった。さきほどまでメルルの身体があった位置でライラプスの牙が空を切った。
メルルの身体は空中でくるくると回りながら弧を描いて飛んでいく。城壁から警戒していたペインがそれを目撃していた。
……うわっ、うわっ、目が回る、目が回るー!
メルルの身体は城壁を飛び越えると、中庭へ通じる砂利道に落ちた。まさに落ちると描写するのがふさわしい着地だった。
どおんという衝撃とともに、メルルは舌を噛みそうになった。じゃりじゃりと小石の音を鳴らしながら、メルルは地面をごろごろと転がった。
這いつくばった姿勢でおしりをさする。着地のための緩衝系魔法は自分にはあまり効果がなかったらしい。思いきりおしりを打ってしまった。
「もう、レトさん。この魔法、欠陥品です!」
「欠陥品で悪かったね」
頭上から声が聞こえ、メルルは目を開いた。レトがメルルを見下ろしている。アルキオネもまた、レトの肩からメルルを見下ろしていた。
「本当は、そんなにくるくる回転するような魔法じゃないんだけど、怖い思いをさせてしまったようだね」
レトは右手を差し出した。メルルは半ば呆然とした表情でその手をとると立ち上がった。
「身体は痛むかい?」レトの声は優しかった。
メルルはまだぼおっとした表情だったが、立ち上がると我に返った。
「あ、えっ? レ、レトさん!」
「中庭から飛んでくる君を見たんだ」
レトは説明した。
「城に激突して跳ね返ると城外に落ちる危険もあった。君は運がよかったよ」
レトの言葉に、メルルは苦笑いを浮かべた。「これって、運がいいんですか?」
痛みの残るおしりをさする。
「ところで悪い。急いで確認したいが、黒水晶は見つかったのかい?」
「そうでした!」
メルルは首の部分から自分の服に手をつっこんだ。
「見つけました! このとおりです!」
メルルの手には黒く輝く黒水晶が握られていた。レトはほっとした表情を見せた。「よかった」
「レトさんこそどうなんです? 捜査は進んでるんですか?」
「こっちは終わったよ」
「終わった? 犯人がわかったんですか?」
レトは無言でうなずいた。
メルルは目を丸くした。「で、で、それで、ドニーさんを殺したのは……」
しかし、レトは首を左右に振った。
「悪いが落ち着いて説明する時間がない。
君にはすぐ、解呪の儀式をおこなってもらいたい。
フロレッタさんたちにはひと足先に儀式の場所へ向かってもらっている」
「鐘楼のある屋根ですか?」
「そうだ。正確にはその屋上にね」
ザクザクと砂利道を踏みしめる音が聞こえ、鋼鉄の鎧に身を包んだ騎士たちが近づいてきた。全員兜を装着し、面あても着けているので顔の半分以上が隠れて人相がわからない。
「今の光は何ですか?」
先頭の騎士が話しかけてきた。聞き覚えのある声だ。メルルはすぐに声の主がレイ・ブルースだとわかった。
「彼女が魔法で飛んできたのです。このとおり無事です」
レトはそう説明したが、メルルは少し不満だ。こういうのって無事って言うんですか!
「魔法で……、さすがですね」
レイが感心したような声をあげたので、メルルも少し機嫌が直った。「さすがなんて、そんな……」
「先ほど、ざっくりとお話ししましたが、ブルースさんはメルルと一緒に儀式の場まで向かってください。そこでフロレッタさんやメルルたちの護衛をお願いします」
「え?」
メルルは驚いてレトの顔を見上げた。「レトさんは儀式の場に来ないのですか?」
すると、レトはメルルの耳もとへ顔を近づけてささやいた。
「僕の左手は魔に属する存在だ。儀式の魔法陣にとって、僕の左手が雑音となって障害になるかもしれない。僕は儀式の中心にいないほうがいいんだ」
レトにすれば、自分にかけられた呪いを解く機会にだってなりうる。それは大きな誘惑だ。もしかすると、土壇場でその誘惑に負けることがないよう、自らを遠ざけるつもりなのではないか。メルルは一瞬だが、そんなことを考えた。
「しかし、俺たちも儀式の場の警備につかなくていいのか?」
知らない声の騎士が手をあげて尋ねた。
「クレイトンさん。さきほども説明したとおり、僕たちは魔犬が万が一城内へ侵入したときに備えなければなりません。
正門、裏門、北の城壁、それと、西の城壁。僕は、鐘楼の間へ通じる唯一の階段がある1階の入り口を守ります。
各面を守るのが3名というのはきついでしょうが、どうか儀式の場へライラプスが踏み込むことがないよう警戒してください」
「1階部分はおひとりで守られるのですか?」
別の騎士が手をあげて尋ねる。レトは静かな表情でうなずいた。「そのつもりです」
「ブルースさん。1階の守りに私もついちゃいけませんか?」
「君が?」
レイはその騎士を見つめた。何か言いたそうだが、すぐにうなずいた。
「いいだろう。カーペンター殿の背中を守ってくれたまえ。君は経験豊富な歴戦の騎士だ。きっと役に立つ」
レイはそう言いながらレトに顔を向けた。「よろしいですか?」
「願ってもないことです。ありがとうございます」
レトは素直に頭を下げて礼を言った。
「よし、全員、配置につくぞ。一匹たりとも犬公を姫様に近づけんじゃねぇぞ!」
クレイトンが剣をかかげて檄を飛ばした。
「任せろよ」
太い声が返ってきた。メルルはその声も覚えていた。タンドリだ。それぞれの部屋で会ったときは体格や人相もバラバラだったのが、騎士の鎧を身に着けると誰も同じように見えてしまう。声を発さない残りの騎士がそれぞれ誰なのか、顔半分しか見えない状況で見分けるのはメルルには無理だった。
クレイトンの檄とともに、騎士たちはバラバラと解散するように去っていった。気がつけばレトも騎士をひとりともなって中庭を歩いていく。すでに行動を開始しているのだ。
メルルだけが置いてきぼりみたいに突っ立っていた。いや、すぐそばにはレイ・ブルースが立っている。
「さ、メルルさん。我々も行きましょうか」
レイは右手を胸に当てて声をかけた。まるでメルルが騎士に守られるお姫様のようだ。
メルルは少し顔を赤らめて「ええ、参りましょう」と答えて歩き出した。
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「く、クソッたれ……」
アッシュは城壁から見下ろしながら悪態をついた。
ライラプスの群れが現れてから、すでに1時間は経とうとしている。ライラプスたちはうろうろと城の周囲を駆けまわり、時おり、壁に飛びついたりしていた。
初めは近づくライラプスにボウガンの矢を射かけたりしたのだが、すぐに諦めてやめてしまった。彼らの動きがあまりに速く、命中させることができないのだ。やみくもに矢を放ったところで、ただ無駄になると思い知らされたのだ。
その代わり槍を手にし、壁をよじ登ろうとするものを上から突き刺そうと構えていた。ライラプスはかなり大きな獣なので、思った以上に壁をよじ登ってくるのだ。
しかし、この城の壁はかなり高いものだった。ほとんどのライラプスは半分あたりまでしか届かず地面に降り立つしかなかった。そのことがわかり、アッシュは安心できるようになったのだが……。
基本的に、獣は諦めのよい生き物だ。獲物を追いかけても、なかなか追いつけない場合は早々と追いかけるのを諦める。元気な獲物に体力を使うより、弱っている獲物を狙うほうが確実で、体力も温存できるからだ。獲物を追いかける体力さえ失うと、今度は彼らの生命が危うくなる。彼らの『狩り』は常に自分の体力と相談のうえで行なわれるのだ。
この原則はライラプスにも当てはまる。彼らも無駄に体力を消費しない。自分の弱体化が即、自らの死につながることを理解しているのだ。それはどんなに獰猛な獣であっても同様だ。それが自然界の『常識』なのだ。
今、城を取り囲んでいるライラプスたちは、まるで疲れを知らないかのように囲みを解くことなく徘徊している。少しでも隙を見せれば城壁を乗り越えるつもりでいるかのように。簡単に乗り越えられないとわかっていても、諦めることなくこちらをうかがうライラプスたちに、アッシュは苛立ちを覚えていたのだ。
「いいかげんに諦めろ、犬っころ! お前たちのエサはここにはないんだ!」
アッシュは城壁から怒鳴ったが、当然というか、まるで効果がない。
ただ、アッシュの悪態に吠え返すことも唸ることもしないライラプスたちに、アッシュは苛立ちだけでなく恐怖を感じ始めていた。
……何だよ、何だよ、こいつらぁ……。こっちが断然有利なのに、あいつらのほうが余裕な感じじゃないか……。
正門にはアッシュのほかに、3名、騎士が守りについている。彼らもまた槍を手に城壁からライラプスの動きに注意を払っている。事前に多くの薪を用意してあるので、かがり火の明かりを絶やす心配はない。何も不安があるはずもない。
しかし、今夜ばかりは胸の奥がぎゅうとつかまれるような苦しさがある。これが本当の『恐怖』なのだとアッシュはそのとき初めて知った。
……ビビってんのかよ、この俺が。ゴブリンたちが押し寄せたときだって、俺は冷静に戦えたのに。
むしろ、ゴブリンたちを相手にしているほうがやりやすかった。彼らはどう城を攻めようとしているか、腹の内が『バレバレ』だったからだ。
今、こうして何頭もガリガリと音を立てながら壁にとりつくライラプスの行動は愚かに見える。
しかし、アッシュはそう思えることができなかった。その理由に、彼はふいに気づいた。
……そうだ。こいつらは飽きもせずに壁に飛びついてきやがるが、そこに『必死さ』がないんだ。ゴブリンたちが見せた、あの必死さが。ただ、淡々と壁にとりついて、淡々と落ちていやがる。何なんだ。こいつらは何か狙っているのか?
「おい、誰か。ライラプスはいつもこんな行動をするのか?」
アッシュは近くを守っている騎士に声をかけた。声をかけられた騎士は無言で首を振るだけだ。やはり、初めてのことらしい。
アッシュの疑問――懸念は、急に明らかになった。
あたりに「ウォオオオーン」と遠吠えが響き渡ったのだ。
「な、何だ?」
アッシュは槍を構えながらあたりを見渡した。合図? 何か合図を送ったのか?
ザザザと規則正しいリズムで地面を駆ける音が聞こえると、今度はどおんという衝撃が城壁に響いた。
見下ろすと、何頭ものライラプスが壁にとりついている。
「ケッ、バカが。また同じことしてやがる」
先ほど声をかけた騎士が嘲るような声を放った。しかし、アッシュの耳は違う音も拾っていた。
「また来るぞ!」
アッシュの声と同時に暗闇からライラプスが横一列になって坂を駆け上ってきた。あっと思う間もなく、彼らも宙を飛び、壁にとりつく。
「まさか!」
アッシュは目を見張った。
続いて壁にとりついたライラプスたちは、実際には壁にとりついたのではなかった。彼らは壁を駆け上ると、すでに壁にとりついている仲間の頭を踏み台にして飛び上がり、さらに壁をよじ登りだしたのだ。
「嘘だろ!」
騎士も驚愕の声をあげる。
みるみる壁をよじ登ったライラプスたちは、ついに城壁の上にたどり着いた。
「まさか、まさか、仲間を行かせるために自分が踏み台になるなんてこと、こいつらがするなんて……」
アッシュは目の前に降り立ったライラプスを前にして慄いた。ライラプスはどう壁にとりついたら仲間を行かせられるか、それを測るためにずっと壁にとりつき続けていたのだ。
今回ばかりは彼らの知恵が人間の知恵を上回っていた。アッシュはそれを思い知った。
「ウォオオオオオオ!」
ライラプスの咆哮があたりいったいに轟き渡った。
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ピィイイイイ…………!
呼子の笛の音が響き渡っている。
城の者にはその音の意味がわかっていた。
「まさか……」
レイ・ブルースが足を止めてつぶやいた。「正門が突破されただと?」
長い階段を顔を真っ赤にさせながら登っていたメルルも立ち止まった。「門が破られたのですか?」
レイは首を振った。「信じられない。あの鉄格子はどんなに大きな攻城突きで突かれてもびくともしない代物なんだ」
「攻城突き?」
「門を突き破るときに使う、丸太みたいなものです」
メルルはそれを聞いて攻城突きの形は想像できたが、ライラプスの体当たりで、あの格子扉が破られる情景は浮かんでこない。
「でも、あの笛の音の意味はそういうことなんですよね?」
「そのとおりです。ただ、アッシュもペインも熟練の門番です。
間違いで笛を吹くなんて考えられません。メルルさん、急ぎましょう。悪くすると、ここまでやってくるかもしれません」
レイは先に立って階段を登りはじめる。メルルも慌てて後を追った。
「で、でも、それじゃ、城に残っているひとたちが危ないんじゃ……。ガルドさんや料理長のグーラックさん、それにトーマスさん。この城には非戦闘員の方もまだ残っているのでしょう?」
「彼らには地下牢に避難してもらっています」
「地下牢?」
「もちろん、カギは彼らが保有して、いつでも自分で出られます。
地下牢の鉄格子も正門の格子扉並みに頑丈ですから、魔獣相手に避難するのであれば、実は牢にこもるのが一番安全なのです」
メルルはなるほどと思ったが、同時に皮肉な話だとも思った。
「歩けますか?」
レイの声にメルルは我に返った。レイはすでに次の階の踊り場に立っている。レイのほうが重装備で階段を昇るのは苦労するはずだ。メルルは自分が足を引っぱってはいけないと気を引き締めた。
「もちろんです。急ぎます」
メルルは二段飛びに階段を駆け上がった。
城の階層は6層までだが、それぞれ天井が高く、実際にはもっと高く感じる。メルルは鐘のある部屋に着いたときは汗だくになっていた。
……昼来たときって、こんなだったっけ?
一瞬、新しい呪いかと思ったが、慌ててその考えを振り払う。今日は一日駆けまわっている。ここにきて疲労が全身を覆っているのだ。そのせいで階段が昼より辛かったのだ。
鐘の部屋は明かりが灯っておらず暗い。ここには誰の姿も見えない。しかし、窓から外に明かりが灯っているのが見えた。
「ここから外に出られます」
レイは窓枠に足をかけてメルルに振り返っていた。どうも窓から外へ出るらしい。
メルルはどこか背徳感に近いものを感じながら窓から外へ出た。
鐘楼の外は城の屋上となっていた。足もとに自分の影が映ったので仰ぎ見ると、鐘楼の屋根からかがり火の明かりが見える。
「こちらです」
レイが先に立って壁に掛けられた梯子に手をかける。メルルが屋上の高さに足がすくんでいる間にレイは簡単に梯子を登ってしまった。
「さぁ、こちらへ」
梯子の上からレイが手を伸ばしている。メルルは身体がガタガタ震えるのを感じながら梯子に手をかけた。
両足が屋上から離れ、梯子の細い板に乗ると、さぁっと冷たい風がメルルの身体を横殴りに吹き抜けた。梯子がぐらぐらと揺れて、メルルは目をつむって梯子にしがみついた。梯子は重量感のない軽いもので、屋上を吹き抜ける風で簡単に吹き飛びそうだ。もし、強い風が吹いて梯子が横倒しになったら……。
そっと脇へ目をやると、屋上の切れ目からは黒々とした空間しか広がっていなかった。そこへ落ちたら、一瞬で漆黒の闇に飲み込まれてしまうだろう。メルルはこれ以上梯子を登ることができなくなった。
「メルルさん、どうしたのです。さぁ、早く」
レイの声が頭上から聞こえるが、メルルは目を開けることもできず、梯子にしがみついたままだった。
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ライラプスの侵入を告げる笛の音は、レトが守るところにも届いていた。
レトが守っているのは、鐘楼へ通じる階段の手前にある小部屋である。そこは部屋と言っても扉はひとつしかなく、ほかの三方は口の開いた状態になっていた。構造上、ここは正確には部屋ではなく、三方から伸びてくる廊下の合流地点であった。
レトは剣の柄に手をかけたまま、静かに立っていた。しかし、両目は油断なくあたりに向けられ、耳はわずかな音さえ聞き逃すまいとしているようだった。レトと同じように守る騎士はレトの緊張感に満ちた様子に声をかけづらくなったのか、ずっと無言で立っていた。
ただ、この騎士も太い鋼鉄製の槍を手に、油断なくあたりをうかがう姿勢が見られた。当然、笛の音の意味は彼が一番理解しているのだ。
「気をつけてください。近づいています」
ふいにレトは騎士に声をかけると剣を抜いた。そして、南に面した入り口に向かって剣を構える。
そこは本来、中庭へ通じる道が伸びているはずだが、そこにはかがり火の明かりが届かず、闇に溶け込んでいた。しかし、その闇から青白い小さな光がポツリポツリと灯りだした。その小さな光はいずれも対になっている。
「あなたは両脇の出入り口を警戒してください。ライラプスは身体が大きいので、この部屋に全員で襲いかかることができません。この狭い出入り口では一頭ずつしか入れないのです。ですから一頭ずつ入ってきたところを各個撃破するのです」
「ここで守るとおっしゃったのは、ライラプスが動きにくい場所だからでしたか」
騎士は思わず感心したように言った。
「ライラプスは力も強い。まともに数を相手できるものではありません。
僕にできるのは地の利を活かせる場所で待ち構える程度です。策と言えるほどではありませんが、これでようやく五分に近い状況に持ち込めるというところです。まぁ、三方開いているのが難点です。時間があれば塞いでおいたのですが」
「ここには私もいます。あなたはどうか正面の敵にだけ集中してください」
騎士は槍をぐるんと回しながらレトに言った。レトは騎士に振り返ることもなくうなずいた。
「こちらこそよろしくお願いします」
城に入り込んだライラプスたちは、どこにも目もくれず正確にフロレッタのもとへ通じる部屋に近づいている。
ほとんど確信していたことだったが、ライラプスの狙いがフロレッタにあることをレトは改めて確信した。
「さぁ、この部屋は狭くて窮屈ですよ。ここに入ることができますか?」
レトは挑発するように青白い光に声をかけた。レトの声に反応したのか、光のあるところから「ウウウウウ」と唸り声が聞こえてくる。
……来る!
レトが思った瞬間、青白い光がゆらりと揺れた。がさがさと音を立てながら光が近づいてくる。それはやがてかがり火に照らされてライラプスの眼となった。一頭のライラプスが鋭い牙をむき出しにしてレトに突進しているのだ。
レトは姿勢を低くすると片手で握った剣を前に突き出した。同時に鞘を左手でぐるんと身体の後ろで回す。
剣の切っ先はライラプスの顎を貫き、レトの背後へ突き出された槍の穂先は鞘で弾かれた。
「なにっ!」レトの背後から驚いた声があがった。「どうして防がれた? それに、あなたはケガをしてあまり動けなかったのではないのか?」
「別に驚くほどでもありません」
レトは剣についた血を振り払って、剣を構え直した。あいかわらず騎士には背を向けて、室外をたむろしているライラプスを警戒している様子だ。
「詳細は教えられませんが、僕の身体は魔素を自分の力にすることができるんですよ。まるで魔族みたいですが。で、この土地は魔の森に近いだけあって魔素が濃い。おかげで日が暮れるころには、僕はおおよそ元どおりと言えるまで回復できたのです。
それと、最初の質問、なぜ、あなたの攻撃を防げたのかというと……。
僕はあなたに背後から襲われるかもしれないと、ずっと警戒していたからです。来るとわかっている攻撃ならなんとか防ぐことができます」
「しかし、なぜ? なぜ私があなたを襲うとわかるのです?」
騎士は槍の穂先をレトに向けたまま尋ねた。動揺しているのか、その穂先はぶるぶると震えている。
そこでレトはちらりと横顔だけを騎士に向けた。
「それはですね。僕はドニー・メンデス氏を殺したのがあなただと考えているからです」
レトは半ば呆然としているマイエスタ守備隊の騎士、ヒギンスに向かって落ち着いた声で答えた。