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黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 14

72


 メルルの目に映った村人たちの姿はおとなしい印象だった。

 最初、正門に押し寄せて来たときのような熱や狂騒は見られない。


 ひとは一定の危機感を超えてしまったら感覚が鈍くなってしまうのだろうか。

 メルルは彼らを見ながらそんなことを考えた。


 しかし、村人たちは平静であったわけではない。

 誰もが不安そうな表情を浮かべ蒼ざめていた。

 本来なら山へ向かっているはずの木こりたちの姿もある。めったに人里に現れないライラプスが堂々と村の周囲をうろついているのだ。誰も山に入ろうとは思わなかったに違いない。


 村人たちは城の正門の手前にある坂道の一番下に集まっていた。

 レトに気圧されたことが効いているのか、正門までは向かわなかったようだ。


 「ヒューズさんよ。

 おれたちはどうなっちまうんだ?

 このまま家に閉じこもっていろってか?

 それで魔犬どもから身を守れるのか?」

 木こりと思われる男のひとりが声を震わせながらクルトに尋ねた。クルトは村人たちの前に立って、彼らの話を聞いていたのだ。


 「そうしてもらうしかない。

 だが、心配するな。村は俺たちマイエスタ騎士団が守ってみせる。誰も魔犬のエサになんぞさせるもんか」

 クルトは笑顔を一方に向けた。


 メルルがそちらに視線を向けると、そこには若い女が小さな女の子の手を握って立っているのが見えた。

 女の表情は不安で曇っていたが、クルトと視線が合うと、少しほっとしたような笑顔を見せた。


……あれがヒューズさんの家族か……。


 マイエスタの騎士たちのなかで、クルトだけが村に家庭をもっていると聞いた。クルトにすれば、家族のいる村を見捨てるなどできるはずもない。

 だが、この場にいるのはクルトだけではない。数人の兵士も軽装ながら武器を装備して立っていた。村人たちを囲んでいるが、村人たちを背にして立っている。村人たちが魔犬に襲われないよう周囲で守っているのだ。


 メルルは少し安心した。城を支配しているのはオブライエン候だが、城の者たちは誰も村人たちを見捨ててなどいない。


 「この村は俺と、ここにいるマイロ、モートン、エイモス、オーガスタスで守る。

 人数的には心もとないが全員魔獣退治に実績のある手練れだ。安心してくれ。エイモスとオーガスタスの同室の者は体調を崩して今ここにいないが、今夜までには合流してみんなを守ってくれる。今後も人数を増やすつもりだ」


 クルトは胸を張って堂々とした様子だ。力強く張りのある声は、村人たちを安心させる効果があった。ようやく、村人たちから笑みを浮かべる者が現れた。


 「いえ、この村に留まってはいけません」


 クルトは突然響き渡った声に少し飛び上がった。声のしたほうにくるりと顔を向けたが、その顔は怒りで真っ赤だった。

 「誰だ、そんなことを言うやつは!」


 「僕です、ヒューズ隊長」レトが進み出た。


 レトの顔を見ると、クルトはあからさまに顔をしかめた。「あんたか、探偵」


 「どうか、皆さん。聞いてください。

 魔犬たちは徒党を組んで、ここを襲おうとしています。

 まだ一匹も姿を見せていないのは数が揃っていないからです。充分な数が揃えば、やつらは一気に襲いかかってきます。

 そうなったら、ヒューズ隊長や兵士の皆さんがいくら強くても敵いません。いえ、たとえ負けることがなくても皆さん全てを守り切るのは不可能です。どうしても犠牲が出ます」

 レトの説明は残酷と言えるほど『現実』を突きつけていた。

 せっかく笑顔を取り戻した村人たちはふたたび重苦しい表情に戻ってしまった。


 「ば、バカ! お前は何てこと言いやがる! そ、それにやってみなければわからないだろう!」

 クルトは両腕をぶんぶん振りながら叫んだ。


 「ヒューズ隊長。あなたがたはひとりで何頭のライラプスと戦えますか?」

 レトは一歩も引く様子も見せずに尋ねた。

 「な、なんだと……」


 「あなたがたはこれまで、どのようにライラプスを退治してきたのですか?

 それは数人で一頭のライラプスを取り囲み、壁役タンクがライラプスの攻撃をしのいでいる間に、周囲から距離の取れる槍で攻撃するという戦い方ではないですか?

 あらかじめ申し上げますが、僕はそれを臆病な戦い方などと批判するつもりはありません。むしろ合理的で賢い戦い方だと思っています。

 ただ、あなたがたは一対一でライラプスと戦ってきた経験が豊富ではない。そうでしょう?」


 「む、むう……」クルトは顔を真っ赤にしたままだったが反論しなかった。いや、できなかったのだろう。


 「今回、襲ってくるライラプスの数は予想できません。

 下手をすると数十頭のライラプスが押し寄せるかもしれません。一方、こちらの数は限界がある。防御柵すらない村を拠点に戦うには戦力が足りなすぎるのです。

 今回、囲まれて攻められるのはこちらなんですよ」


 「じゃあ、どうしろと?

 オブライエン候は村人を城で保護することを拒んでいるんだぞ!

 だからといって放っておくわけにいかないじゃないか!」


 「一時的にこの村から離れていただくのです」

 レトは静かに返した。クルトは顔を背ける。

 「そんなこと簡単にできるか。

 村を出て、どこへ行けってんだ。隣り村までは半日以上は歩かなきゃならない。今はもう昼を過ぎている。着くころには夜になっている。夜道を進むのは体力のある大人だけではない。ここには老人も幼い子どももいるんだ。彼らにはけっこう過酷なことを強いるんだぞ。

 それに、隣り村で全員受け入れてもらうのは人数的に無理だろう。けっきょく行き場がないんだよ!」


 「離れるといっても一時的にと言いました。

 今日だけ、いえ、今夜だけここを離れてくれればいいのです」


 「今夜だけだと?」


 レトはうなずいた。「今夜中に魔犬を引き寄せる原因を取り除きます。そうなれば、翌日からこの村は日常を取り戻せます」


 「バカ言え。信じられるか、そんなこと」クルトの表情はレトの言うことを信じていないのがありありとうかがえるものだった。


 レトが話している間、メルルはかたわらの木のことが気になっていた。その木の幹には何かがぶら下がっていた。それは長方形をした黒いもので、今にも落ちそうにぶらぶらと揺れていたのだ。

 気になっていたのは、それの不安定さからだけではない。どこか見覚えがある、いや、大事な何かだという予感を抱いていたのだ。


 我慢できずにメルルはその木に近づいた。ぶらぶら揺れる黒いものを手にしてよく見てみる。

 それは文字や記号が刻まれたプレートだった。


――そうだ!――


 メルルは目を見開いた。


 「レトさん! 西の山です! 西の山に避難してもらえばいいんです!」

 メルルは大きな声で叫んだ。


 「西の山?」レトはメルルを振り返った。


 「これです、レトさん」

 メルルはプレートを木から外して高く掲げてみせた。

 「魔獣除けの術式が施されたプレートです!」


 「魔獣除け……。それが西の山にも?」


 メルルは強くうなずいた。

 「ガンズさんは術式に精通した方でした。

 村人たちには内緒で、この村にも魔獣除けのプレートを設置していました。ただ、村にあるプレートは『討伐戦争』のときに効果を失ってしまいましたが……。

 ですが、西の山のプレートはまだ生きているんです!」

 「どうしてそれを知っている?」

 「西の山に入ったとき、これと同じプレートをいくつも見つけてたんです。

 私はそれらをたどってガンズさんの家まで行けたんです!」


 レトはメルルの手にある、すっかり黒ずんだプレートを見つめた。

 「それが、いくつも山にあるのか?」

 メルルはうなずいた。「ええ」


 「ライラプスたちは西の山には現れなかったと聞いている。

 それはそのプレートのおかげということか……」

 レトはひとりつぶやくとクルトに顔を向けた。


 「皆さんを西の山でキャンプしていただくことは……?」


 クルトは、メルルのやや興奮した『横やり』で呆気にとられていたが、レトの問いかけで我に返った。


 「え? あ、ああ、そりゃあ、西の山を登る程度なら時間もかからない。陽が暮れるまでには全員避難させることもできるだろう。

 今は寒い季節だが、今夜だけならこちらで使っているテントで寒風をしのいでもらうのも可能だ」


 「急いで手配できますか?」


 「お、おい、勝手に決めないでくれ……」

 突然、横から声が飛んできた。見ると、そこに立っていたのはレギストだった。


 「お、おれたちはどこに行くとも承知していないぞ。

 に、西の山だって? あそこに住んでいた者は全員絶えてしまった不吉な場所だ。

 誰もあそこには行きたがらないぞ」


 メルルはガンズの小屋を思い出した。ガンズがここで暮らしていたのは長くない。もともと王都で暮らしていたのだから。それなのに、あの小屋は何十年も前から建っていたかのように古びていた。おそらく、もともとは誰かの小屋だったものをガンズが住居にしたのだろう。

 つまり、かつては西の山にも住人がいたのだ。

 そして、今は誰も住んでおらず、村の者は誰も近づこうとしない。その理由がそれか。


 「長く住むには適さない場所かもしれません。ですが、今回は、ほんの一時いっとき、魔獣から身を隠していただくだけの話です」

 レトは説得するようにレギストに言ったが、レギストは頑なに首を振る。

 「よそ者は何もわかっちゃいない。誰もあの山には行かねぇぞ」


 メルルはレギストのもとへ駆け寄った。

 「そんなこと言わないで! 今は皆さんの安全が大事。そうでしょう?」


 「お嬢ちゃんか……」

 レギストはメルルを見て顔をしかめた。レトには強気の態度を崩さなかったが、若い女性に詰め寄られるのには耐性が低いようだ。


 「皆さん、どうか冷静になって。

 不吉な場所なんてありません。たとえ、そこに不幸な出来事があっても、それは歴史の一部、単なる過去の話なんです。

 ひとの数だけいろんな歴史があって、それらには幸せだけではないものもあって……。

 でも、不幸な出来事があったから、そこは呪われてるなんてことになったら、王都なんて呪われまくりの場所になってしまいます。今、繁栄なんてしていません。とっくに滅んじゃっています。

 もちろん、都市の繁栄は永続的なものでもありません。いつか衰退したり、滅んだりすることもあります。ですが、それは不吉とはまったく関係のないところの話です。

 西の山が不吉なんてことはありません。ただ、今は誰も住んでいない、それだけです。

 どうか、皆さん。今回は西の山へ避難してください。

 私たちが何とか明日には村へ帰るようにします!」


 「お嬢ちゃんが何とかするって言ってもよぉ……」

 村人たちから男の声が聞こえてきた。

 「お嬢ちゃんにそんなことできるのか?」


 そうだ。そのとおりだ。


 自分の手もとには今、黒水晶がない。

 今のままではフロレッタにかけられた呪いを解くことはできないのだ。

 自分にあるのは、黒水晶は失われていない、必ず手にすることができるという「希望」しかない。


 だから、不安があることを正直に言う?

 でも、それは違う。それは『誠実』と違うと思う。


 「皆さんの不安はわかります。

 でも、私はやり遂げます。必ず」


 メルルは力強い声で言った。それは、まさに決意の宣言だった。言ってしまってから、自分の顔が熱くなってくるのがわかる。急に居心地が悪くなってもじもじしていると、レトがそばに寄ってメルルの肩に右手を置いた。優しく、温かい手だった。

 レトの肩に乗っていたアルキオネもメルルの帽子の上に飛び乗って「かぁあああ」とひと声高く鳴いた。「よく言った」と言っているようだ。


 クルトは完全に沈黙している。どうも、彼の心の内では腹が決まったようだが、最終的には村人たちの意志に委ねるつもりらしい。


 村人たちはメルルの言葉を受けてざわざわしていた。

 互いに小声でささやきあっている。「どうする?」「どうしよう?」そんな声がメルルにも聞こえてきた。ここまで言っても彼らは決断できないようだ。


……私じゃ、みんなを説得できない……。

 メルルは無力感と敗北感でうなだれそうになった。自分はどこまでいっても「足りない」のだ。


 「わたし、お姉ちゃんを信じる!」

 村人たちの間から小さい手があがるのが見えた。メルルは反射的に顔をあげると声の主を確かめた。


 それは、カイナだった。カイナは小さい手を思いきり高く伸ばして顔を輝かせている。隣にはポッチの姿もあった。


 「そうだよ。お姉ちゃんならきっとやってくれるよ。ボクは見たんだ。お姉ちゃんがすごい魔法を使うところ!」


 それは小さな、とても小さな援護者だった。しかし、メルルにはこれ以上にないほど頼もしいものだった。


 「カイナちゃん。ポッチくん……」思わず涙がこぼれそうになる。


 カイナとポッチはメルルのそばまで駆け寄った。

 「ボクは西の山に行くよ。大人が誰も行かなくても」

 ポッチは迷いのない声で言った。そのポッチの手をカイナは握った。

 「わたしだって行く! 一緒に行こ!」


 「このわんぱくどもが……」

 レギストは自分の髪をくしゃくしゃとかき回しながらぼやいた。やがて村人たちに身体を向けると、

 「おい、みんな。ここは、あのお嬢ちゃんの言うことを聞いてみないか?

 別にずっとあそこに避難するわけじゃない。今日だけ、今日だけなんだ。

 今日一日だけだったら我慢できるんじゃないか?」

 すっかり腹のくくった迷いのない声で言った。


 レギストの言葉に、村人たちはふたたび互いを見やった。しかし、今度聞こえてくるのは、「そうする?」「まぁ、今日だけなら……」と、肯定的なものに変わっていた。


 レギストはふたたびレトたちに顔を向けた。

 「決めたよ。今回はあんたたちの提案に乗る。あとのことを任せてもいいか?」


 メルルはレトと顔を見合わせた。レトは無言でうなずく。

 メルルは一歩前に進み出ると、「では、皆さん、西の山へ! 夕方までに拠点を作りましょう!」元気な声をあたりに響かせた。



73


 「結果的に自分を追い込むことになったな……」

 村人たちの背中を見つめながらレトがつぶやいた。村人たちは西の山で寝泊まりする準備をするべく、村へ戻ることになったのだ。アルキオネはふたたびレトの肩に戻っている。


 「追い込む、ですか……」

 メルルも小声でつぶやいた。レトの言うとおりだ。自分たちは今、とんでもない切迫した状況に自らを追い込んでいる。


 これから、黒水晶を見つけ出し、フロレッタにかけられた呪いを解く儀式を成功させなければならない。

 ただ、ドニーを殺した『妨害者』の正体は今もつかめていない。ドニー殺害の動機が儀式の妨害であれば――ほぼそれに間違いないのだが――、『妨害者』はメルルも攻撃するだろう。

 攻撃されないためには、儀式までに『妨害者』を見つけ出し、確保しなければならないのだ。


 しかし、こうも慌ただしく落ち着かない状況で、捜査は遅々として進んでいないのが現実だ。朝にほとんどの兵士から証言を取れたのがせめてものだ。ただ、それらから何か真実がつかめたわけではない。

 ふたりの立場は圧倒的に不利と言えるのだ。


 「ただ、希望はある」

 レトは話を続けた。

 「君は黒水晶のありかに見当がついたんだよね?」


 メルルはうなずいた。「おそらく、なんですけど」


 「すぐに取っていけるところかい?」

 この問いにメルルは首を振った。「すぐ、というわけにはいきません」


 「そうか……」

 レトは自分のあごをつまんだ。

 「君ひとりに任せても大丈夫かい? つまり……、黒水晶もそうだが、村人のことも……」


 「ええ、それはもちろん。でも、レトさんはどうするんです?」


 「僕は事件の捜査に戻る。

 たとえ君が黒水晶を見つけても、犯人を野放しにしていれば儀式を妨害される危険が高い。

 僕は犯人を抑えるほうに集中したいんだ」


 時間のない状況ではそれが一番効率のよい選択だろう。しかし……。


 「私より、レトさんはひとりで大丈夫なんですか?

 今朝、あんなに具合が悪かったのに……」


 レトは笑顔で首を振った。「もう大丈夫だ。動いている間に自分が不調だったことを忘れたぐらいさ」


 たしかに、今のレトは足もともたしかだし、体調に不安な様子は見られない。


 「わかりました。事件のことはお願いします。私は私にできることに集中します」

 メルルは村に向かって走り出そうとした。

 「あ、ちょっと待って」

 レトがメルルを呼び止める。

 「何ですか?」


 「君にこれを渡そうと思っていた」

 レトは小さなロープをポケットから取り出した。両端がつながって小さな輪になっている。


 「これは……?」


 「離脱魔法イクストリケーションの術式を埋め込んだ腕輪だ。急ごしらえだから材料が粗末なんだけど」


 メルルはそれを受け取ると腕にはめてみた。白いロープで造られた紐ブレスだ。アクセサリーとしては地味すぎる。


 しかし、メルルはレトに笑顔を向けた。「ありがとうございます」


 「進行方向に腕輪を向けてから、魔力を込めて『離脱魔法イクストリケーション』と唱えるだけでいい。飛距離は最大でだいたい500メルテ。それ以内なら自分の魔力で調節可能だ。

 ただ、腕輪の向きには注意するんだ。地面や水平に向けていると、地面とかどこかに激突してしまうから」


 レトがこれを渡したのは、メルルが自分で身を守れるようにと思ってのことだ。メルルはレトの心遣いが嬉しかった。


 「気をつけます。じゃ!」

 メルルは元気よく手を振ると駆け出した。今度は、レトは呼び止めることもなくメルルを見送った。


 メルルはすぐに村のなかへ姿を消した。メルルの姿が見えなくなるとレトは村から背を向けた。レトの目は城に向けられている。


 「さて、僕は僕にできることに集中しないと……」


  レトはそうつぶやくと正門に通じる長い坂を登りはじめた。しかし、すぐにうずくまる。「く、ううう……」歯を食いしばったレトの口もとからうめき声が漏れる。


……ちょっとした拍子に痛みが全身に走る。完全に回復したとは言い難いか……。


 しかし、だから足を止めていいという理由にはならない。レトはそう思って立ち上がった。アルキオネはレトの横顔を見つめていたが、何も反応を見せない。静かにレトの肩にとまっているだけだ。


……強がりだろうと、やせ我慢だろうとどちらでもいい。全身がバラバラになっても僕はやり遂げる。やり遂げてみせる!


 レトは大股で坂を登りながら思った。


 曇り空からときおり姿を見せる陽はすでに傾きかけていて、時刻は夕方へ進もうとしていた。

 すでに暗くなった森からは、レトをじっと見つめる一対の目があった。その目を持つものは全身を赤い毛に覆われた、大きな一匹の獣だった。

 少し開いた口からは太くて鋭い牙がのぞいている。

 しかし、その獣は坂道へ飛び出してレトに襲いかかろうとしなかった。ただ、じっと見つめているだけである。

 やがて、レトの姿が正門に隠れて見えなくなると、その獣も身体の向きを変えて森の奥へと消えていった。



74


 正門を抜けて中庭へ通じる道を歩きながら、レトはこれまで見聞きしたことの整理をしていた。アルキオネは正門をくぐるとレトの肩から飛び立ち、城の真上へ飛んでいってしまった。レトは「アルキオネ」と声をかけたが、カラスはそれに応えることもなく飛び去った。レトは首を振ると、自分の仕事に戻ることにした。

 レトは捜査に行き詰まると、自分の記憶の整理をするのがくせだった。いや、どちらかというと信念に近い行為だ。と言うのも、これまでもそうすることで事件の手がかりに気づいたり、新たな発見につながったりしたからである。レトのくせは経験に基づくものだ。


……関係者、というより、大まかに容疑者と言える人物にはかなりの人数に会っている。

 それでも証言を得られていないのはマイロ、モートン、ドノヴァン、ディエゴ、ランス、そして、クレイトンの6名。

 クレイトンとは顔を合わせているが事件について話の聞ける状況じゃなかった。

 ヒューズ隊長とレイ・ブルースは伝聞的に事件当日の証言を得ているが足りない。

 捜査はかなり中途半端になっている。急いで証言を集めなければ。

 それと現在、推測できていること、把握していることと言えば……。

 僕たちを監視していたのが彼らの誰かであり、そして、その場所が別棟の柱の陰だったということ。そこから新しく導き出せる事実は何だ?

 僕は何かを見落としていないか……?


 気がつけばレトはすでに中庭を歩いていた。中庭に見張りの姿はない。ドニーが死んで、中庭の魔法陣を見張ることは無意味だと判断されたのだろう。実際はすでに無意味であり、『妨害者』を欺くための、ただの目くらましだったのだが。


 「ちょっといいかね」

 レトはふいに呼び止められた。振り返ると庭師の姿があった。

 「どうしましたか、ガルドさん」


 「あの庭に描かれているものなんだが……」

 ガルドは魔法陣を指さした。

 「あれはもう消してもいいのかね?」


 ドニーがいなくなってしまえば、牽制役だったこの『偽』の魔法陣も不要だ。レトは小さくうなずいた。「かまいませんよ」


 ただ、中庭の芝生を枯らすことで描かれた魔法陣だ。簡単には元に戻せない。


……ドニーはつくづくひどいやつだったな……。


 レトは中庭に足を踏み入れるガルドの背中を見つめながら思った。なりふりをかまわない、目的のためなら手段を選ばない。ただ、その行為には稚気というか、いたずら心が見え隠れしている。

 悪辣と非難できない無邪気さがあるのだ。

 だからこそ、レトは『ひどいやつだ』と思いながら、口のはしに笑みが浮かぶのだ。


 ドニーは自分の最期をどんな心で迎えたのだろうか?


 レトはふいにそんなことを考えた。さすがにそのときは必死に抵抗を試みただろう。


 違う。


 レトはかぶりを振った。ドニーの遺体の状況は、そんな悲壮感を抱かせなかった。誰にも邪魔のされない炎の円陣のなかで、穏やかに息を引き取ったのだ。自分が死ぬことを受け入れた、真に悟った者の最期……。


 これも違う。どこか違和感がある。


 しかし、このときのレトに違和感の正体を突き止めることはできなかった。この違和感が事件解決の手がかりになるかの自信もない。


 レトは苦いものを飲み込んだような表情をしながら城に入った。


 廊下を歩いていると、盆を手にしたあばた顔の若者に出会った。普通の服装から見て兵士ではない。城勤めをしている者で、レトは一度会ったことがあった。


 「こんにちは、トーマスさん」レトはあいさつした。


 「あ、ど、どうもです……」トーマスはどもりながらひょこんと頭を下げる。レトはトーマスが手にしている物に目を向けた。

 「お薬ですか?」


 「え、あ、はい。そうです。

 おふたりほど急に頭痛を起こされて寝ているんです」


 たしか、クルトが村人に説明していたなかに不調者の話があった。そのことだろう。

 「まぁ、大したことはないと思います。おふたりとも日ごろ鍛えていますからね。でも、ゲハンさん、書きもの仕事中に寝落ちして風邪ひいたって……。

 油断すると、頑丈な方でも風邪ひくんですね。ぼくも気をつけないと」

 廊下に立っているのはレトとトーマスのふたりだけだ。そのせいだけではないだろうが、ふたりの間を抜けていく風が冷たく感じる。


 「薬の運搬もされるんですね」

 トーマスは食堂の給仕係のはずだ。この城の人手不足は、ひとりにいろいろなことを強いるのだろう。


 しかし、トーマスは苦笑しながら首を振った。

 「これ、本来はシャーリーさんの仕事です。でも、彼女、ここを逃げ出したから……」

 そうだった。

 「シャーリーさんはけっきょく……?」

 たしか、騎馬隊の誰かに追わせる話だったが……。


 「タンドリさんとタイラーさんが馬で追いかけたんですが、捕まえられなかったそうです。なんでも、駅馬車には追いついたけど、彼女は途中で降りてしまっていなかった、て……」


 レトはため息をついた。思っていたより、あの娘は手ごわかったようだ。追手をまくなら、距離を稼いだあとに特定されない場所で方向転換する。常套だが、これを実践できるのは慣れた人物でなければ難しいのではないか?


 もしかすると、シャーリーは密偵だったのではないか?

 レトはそう考えたが頭を振った。

 可能性はある。しかし、それを考えるには材料が足りない。それに、シャーリーの正体が密偵だったとして、それがドニー殺害の事件とつながるだろうか?

 むしろ、シャーリーが無実である可能性のほうが際立つ。

 もし、シャーリーがドニー殺害の犯人であれば、ドニーの遺体の第一発見者としてホプトたちに通報などしない。朝、門が開くときを見計らって逃げ出すはずだ。あのとき、気分が悪くなったからと現場を退出できていたが、もし、そのことを疑われて監視されることになれば逃げ出すことが不可能になる。つまり通報者になるには危険リスクがあるのだ。

 さらに自分の正体を探られることにもなればやぶ蛇もいいところだ。

 シャーリーに後ろ暗いところがあればあるほど、ドニー殺害の犯人たりえない。


 シャーリーはドニーの遺体を見つけて動揺したのは間違いないだろう。彼女に事件を通報することが危険であるという自覚がなかったのだから。現場を去って、心が落ち着いたところで自分の状況を悟り、身の回りのものすべてを持って逃げ出したのだ。

 もちろん、単純に嫌気がさして逃げ出した可能性はあるし、むしろ、そちらのほうが高い。その場合はもっと単純にシャーリーが容疑者からはずれるわけだが。なぜなら、この状況で逃げ出すことは自分に容疑をもたれることになりかねない。そんなことに気を回すことなく行動できるのは、自分は無関係だ、関わりたくないという強い拒絶の意志の表れだ。


……まぁ、ドニーに致命傷を負わせた槍の一撃が、女性の腕力では無理だとわかるから僕も容疑者に入れてなかったんだ。


 ドニーを死に至らしめた一撃は急所を完全に刺し貫いていた。偶然にしてはできすぎの場所だ。あれは日ごろから槍を使っている者でしかできない一撃だ。シャーリーの華奢な身体つき、細い腕、武術を心得ているとは思えない歩き方……。そのすべてが彼女の犯行とするには無理があることを示している。


 「すみません、長話しをして……」

 トーマスがすまなさそうに頭を下げた。だが、引き止めたのはむしろこちらのほうだ。

 「いや、こちらが呼び止めたんです。お邪魔して申し訳ありません」

 レトはトーマスに頭を下げると、その場を去った。


 少し歩けば騎馬隊員の控室兼事務室に着く。

 レトは扉をノックすると、その部屋に入った。


 「何の用だ?」

 席に着いていたのはクレイトンだった。好都合だ。


 「ドニー・メンデス氏が殺害された事件の調査です。少しお時間いただいても?」

 レトが丁寧に事情を説明すると、クレイトンは面白くもなさそうな表情で小さくうなずいた。「そこに座りなよ」


 レトはクレイトンに示された椅子に腰を下ろした。

 「で、聞きたいのは?」

 クレイトンは話を促した。


 「お聞きしたいのは昨夜11時ころのあなたの行動です。その時間、あなたはどこで何をしていましたか?」


 「俺か? ここにいたよ。この椅子に座ってな」

 クレイトンは今座っている椅子を指さした。

 「深夜にお仕事ですか」


 「何もおかしいことはないぜ。

 隊長とブルースさんだって、その時間は会議ミーティングしていたんだぜ。

 ほら、ちょうどこの奥の部屋だ」

 クレイトンは親指で後ろの扉を指さした。


 「俺やブルースさんは役付きじゃないが、この城じゃ古株だからな。まぁ、ブルースさんは実質的には副官といってもいいんだがな。

 隊長とのつきあいも俺たちふたりが一番長い。そういうわけで俺たちが隊長の支援サポートを受け持っているのさ。

 この騎士団は小さいからよ。待遇もそうだが、将来性に不安をもって抜けるやつが後を絶たないんだ。ま、意外でもないだろ?

 だから、こんな退屈で深夜残業になっちまう用事なんか、俺たち以外に引き受けられないのさ」

 「辞めようとは思わなかったんですか?」

 「何度もあるさ。だがな、街じゃゴロツキでしかなかった俺を騎士にまでしてくれたのは先代のフィリップ様だ。

 ろくに恩を返せていないのに辞めるわけにはいかないわな」

 「忠誠を誓っているのですね」

 「そこまでご立派じゃないがね。ただ、ゴロツキの世界にも仁義ってのはある。通す筋ってもんもある。そういう意味じゃ、あまり無理はしていないし、らしくないってものでもない」

 「なるほど」

 レトは入ってきた扉を振り返った。

 「ここでの仕事中、この扉は開いていましたか?」


 「冗談はよせよ。そこの廊下は外気が直接入り込むんだぜ。

 そこを開けっぱなしにしてたら寒くっていけねぇじゃないか」

 「そうですね」

 つまり、この部屋の前を誰かが通ってもわからないということだ。この部屋には廊下側に窓がついていないのだから。


 「残業はどのくらいまで?」


 「うーん、そうだな。正確じゃないが12時を過ぎていたのはたしかだ。

 書類を片付けて部屋に戻って、服を脱いでベッドにもぐり込んだのが1時より少し手前だったことは覚えている。俺たちの部屋には柱時計が据えられているからな。時間はわかる」


 「ここから自室までまっすぐ戻りましたか?」

 「そうだ。……あんた、俺が道具部屋に向かったとか考えてるのか?

 たしかに、あの廊下をまっすぐ歩けば呪術師が死んでいた場所に行きつくが、俺はその手前の階段から自室に戻ったんだ。道具部屋の方角には便所もないから行く理由もない。

 あそこには近づいてもいないぜ」


 「わかりました。ところで、帰りはレイ・ブルースさんとご一緒でしたか?」

 「いいや。ブルースさんはもっと後だと思う。

 俺がベッドに入ったときには戻っていなかった。こっちはすぐに寝入ってしまったから何時に戻ったかは知らない」


 おそらく、レイ・ブルースが自室に戻ったのは1時を過ぎたころだっただろう。

 応接間でクルトが説明したのは、レイ・ブルースと打ち合わせをしたのは午後10時から翌1時ころまで、ということだったから。

 クルトの証言とクレイトンの証言が一致した。


 クルトとクレイトンが口裏を合わせた可能性はない。

 なぜなら、口裏を合わすには、事件が発生した時間をレトが見抜くことが前提になる。そんな不確実なことを前提に、わざわざ口裏合わせをする必要はないのだ。


……この証言は、隊長を含めた3名が犯人でないことを示している。ただ、念のための確認は必要だ。


 「最後に、ヒューズ隊長とブルースさんのどちらかが、午後11時前後にこの部屋を出たことはありましたか?

 また、奥の部屋はほかに外へ通じる扉はあるのですか?」


 レトの問いにクレイトンは首を振った。

 「どっちの質問にも答えは『ない』、だ。

 おふたりとも便所にさえ行かなかったよ。出入りがあったら、必ず俺の前を通ることになるから見逃すはずはないさ。

 奥の部屋に窓はついてるが、この部屋と同じように鉄格子がはめこまれている。俺に見られないよう窓から出入りするなんて出来ねぇぜ。

 ここは1階だからな。敵に侵入されやすいところはこうするもんだろ?」

 「そうですね」

 レトは無表情にうなずいたが、心のなかでは大きな収穫に手ごたえを感じていた。犯人に直接近づいてはいないが、捜査が前進している実感を得られたのだ。


 「参考になりました。

 お時間いただき、ありがとうございます」

 レトはクレイトンに礼を言うと部屋を出ていった。



75


 メルルが村に入ったとき、あたりは忙しない雰囲気だった。

 村人たちの姿があちらこちらから見られ、彼らは家から出たかと思うとすぐに戻ったりと落ち着かない様子だ。

 西の山へ避難することを決意したが、どう行動すればいいかわからないなど、困惑し戸惑っているのだ。メルルはそう思った。


 「あ、お姉ちゃん」

 大きなリュックを背負ったポッチがメルルを見つけて声をかけた。笑顔でそばまで駆け寄ってくる。


 「大荷物だねぇ……」

 メルルはポッチの背中を見ながら言った。ポッチはそれを聞くと、リュックを持ち上げるように揺すってみせた。


 「仕方ないよ。西の山は寒いからね。毛布だけじゃ寒いだろって、おばさんがありたっけの服を詰め込んだんだ。それをいっぱい『重ね着』しろってさ」


 ここは王国内でも寒い地域だ。本格的な寒さはまだでも、ここの夜はかなり冷え込むだろう。ポッチのおばの判断は間違っていないと思う。


 「ごめんね。ほんとは城に避難させてあげたかったけど……」

 メルルは小声で詫びた。

 実のところ、レトからあることを言われなければオブライエン候に談判して村人の避難を認めてもらうつもりだった。しかし、レトから、

 「ライラプスの最終的な狙いは城だ。万が一、ライラプスたちに城へ侵入されると村人たちに危険が及ぶことになる」

 とささやかれていたのだ。

 たしかに「万が一」の話ではあるが、これが「万が一」じゃなかった場合のことを考えると、村人を城へ避難させることを強引に進められなかった。

 レトがメルルにだけささやいたのは、村人に城も危険であると報せるのはいたずらに不安を煽ることになりかねなかったこと。それと、城内にも不安と混乱をもたらしかねなかったこと。このふたつの理由があったからだ。


 レトが懸念していることを伝えずとも城は防衛態勢を整いつつあるのだ。変に不安をかきたてることを言う必要はないだろう。それでなくとも、すでに1名、城から逃げ出しているのだ。


 「でもさ。みんなとどこかお出かけって、何かワクワクしない?

 ボク、さっきからドキドキしてるんだ」

 ポッチの顔はだいぶ紅潮して、この避難に興奮しているようだった。

 子どもからすれば、この避難は生命を守る切迫したものではなく、冒険と同じようなものらしい。


 「ポッチ、来たよー」

 ポッチを呼ぶ声がすると、カイナが手を高く挙げながら駆けてくるところだった。彼女も大きなリュックを背負っている。


 「ポッチ、今夜は一緒に寝ようね!」

 ほんの子ども同士だからいいが、それでもドキッとすることを言う。


 「い、嫌だよ……」ポッチは顔を真っ赤にして顔をそむける。


 何だろう、この空気感。

 メルルは生暖かい笑みを浮かべてふたりを見つめた。


 そんなやりとりの間に、村の中央にぞくぞくと村人が集まってくる。

 狭い広場は村人でいっぱいになった。


 「みんな集まっているか? 隣で来ていない者はいないか?」


 レギストが村中に響きそうな大声で聞いた。彼は木材や木切れをいっぱい背負っている。キャンプ地で囲いを造る考えのようだ。おそらく、目的地で木材を調達するのは時間的に難しいと考えているのだろう。正しい判断だ。


 「誰もいねぇようだぜ、レギスト」

 集団の一番はしから答えが返ってきた。レギストは大きくうなずく。

 「よし、行くか!」


 一行は、ポッチとメルルの先導で山へ入った。

 「最後まで歩けるかねぇ……」

 食堂のおかみ、マッタが心配そうな声をあげたが、

 「山頂まで行くわけじゃないよ」

 と、ポッチが安心させるように答えた。


 そのポッチの姿を見て、『この子はやっぱり優しい子だ』とメルルは思った。


 実際、山道はほとんどなだらかで、一行はまもなく開けた場所にたどりついた。

 扉の壊された小屋が、丘を登りきったところに小さく見える。


 「ここなのか?」

 レギストはメルルに尋ねた。メルルは少し悲しい面持ちでうなずいた。「ええ」


 屍霊グールと化したガンズを自分の放った「聖天炎柱ホーリー・フレイム」で浄化したことを思い出したのだ。仕方がなかったこととはいえ、今でも気持ちが沈む記憶だ。


 「よし、ここでキャンプだ。みんな始めよう!」

 レギストの号令で村人たちは荷物を降ろし、ここでキャンプするべく行動をはじめた。

 少しでも風よけにしようと、囲いやテントの設置をはじめる者、石や岩などを集めてかまどを造り始める者、たきぎを拾いに森へ入る者……。それぞれが自分の役割を心得ているのだ。


 「そちらも忙しいだろうに、ありがとうねぇ」

 マッタがメルルに労いの言葉をかけた。メルルはマッタの言葉が嬉しかった。

 「いいえ、私にできるのはこれぐらいでしかないので……」


 メルルは元来た道に向かって歩きはじめていた。その背中にカイナが声をかける。「もう、行っちゃうの?」


 「うん」

 メルルは顔だけ振り向いて笑顔を見せると、村人たちと別れて山を下る道に入った。


 陽はだいぶ傾いていた。日暮れまでには時間がまだあるが、黒水晶を手に入れて城へ戻るのは夜になるかもしれない……。

 メルルは少し焦りの気持ちを抱いて早足になった。



76


 メルルが西の山から村へ戻る道に着いたとき、あたりはまだ明るかった。

 しかし、陽は赤い夕方の色に変わり、冷たい風が少し火照った頬を撫でていく。日暮れがだいぶ近づいているのだ。


 「急がないと」


 メルルは例の『裂け目』の鉄板を渡ると、山の斜面側に足を踏み入れた。色を失った枯草をかき分けると、ぽっかりと口を開いた洞窟に着いた。カイナに教えてもらった、崖下へ通じる洞窟だ。


 メルルは手のひらの上に炎の明かりを灯すと、洞窟へ入っていった。ふたたびこの洞窟に潜ることになるとは。メルルは不思議な気持ちになった。この数日の出来事はとても目まぐるしく、自分がこうも冒険するようになるとは思ってもみなかったのだ。


 洞窟の底からは冷たい風が吹きつけてくる。

 メルルは風で炎が吹き消されないように気をつけながら、それでも急ぎ足で洞窟を降っていった。帰りはここを登らなければならないのだ。行きよりも帰りは時間がかかってしまう。

 メルルは自分の脚の短さを恨めしく思いながら先を急いだ。


 どのぐらい歩いただろう。暗い洞窟では時間の経過がわからなくなる。しかし、洞窟の底に着いたとき、前方から明るい光が見えてメルルはほっとした。まだ、陽は落ちていない。出口から夕暮れの光が射しているのだから。


 メルルが立っているのは、魔素の結晶体が洞窟一面を覆っている場所だった。長い時間をかけて造られた、天然の奇観。本当であれば、ここはそっとそのままにしておきたかった。

 「でも、ごめんなさい。

 私、どうしてもあれを見つけたいの」


 メルルはポケットからステッキを取り出すと、くるんと大きく輪を描いた。

 「ネヌファ・ディオン・エアル・ラ・シル。我、風の精霊に請い、願うは強き御手のひと振り。優しくも猛々しきひと振りにて、我が眼前を遮るものを吹き払いたまえ……」

 メルルは目を閉じると呪文を唱え始める。メルルのステッキの先端に光が灯り、それは徐々に強くなっていった。

 「我が手に力を添えるかりそめの名は……」

 メルルは光るステッキを高々と掲げた。

 「旋風魔法エアリアル!」


 メルルがステッキを振り下ろすと、ごおっとメルルから強い風が吹いて彼女の帽子を吹き飛ばした。

 風は洞窟内に沿うように、うねり、大きく回転しながら出口まで吹き抜けていった。それは同時に洞窟を覆っていた魔素の黒い結晶体を粉々にした。わずかな衝撃でも簡単に崩れる結晶体は欠片よりも小さくきらきら光る黒い粒子と化し、これもまた洞窟の外へと飛び去っていく。夕暮れの日の光を浴びた結晶体の粒子は、まるで光の粒のようになって輝き、そして、消えていった。


 結晶体が消え失せた洞窟内は、武骨な岩肌がむき出しの、ごくありきたりの洞窟になってしまった。

 しかし、完全に結晶体が消え失せたわけではない。

 一か所だけ、メルルの魔法に砕けることなく結晶体の姿を保ち、黒く光り輝くものが残っていた。


 「ここを見ていないレトさんにはわからないはずの場所。ドニーさんが私なら気づくだろうと考えた場所……。天井に残された『O』はここのことも暗示していたんだ。『O』が象徴するのは洞窟……」


 メルルは『それ』に歩み寄りながらつぶやいた。「そして、『黒水晶』を隠すならこれ以上にない隠し場所……」

 メルルが足もとから拾い上げたのは、まさに『黒水晶』だった。


 「ドニーさん。魔素の結晶体が黒水晶にそっくりだから、ここに隠そうと思いついたんですね。たぶん、この間ここを通ったときに」

 メルルは黒水晶を手に微笑みを浮かべた。しかし、その微笑みは少し苦笑に近く、泣き笑いにも近かった。


 「ほんと、ドニーさんって食わせ者なんだから……」


 メルルは黒水晶を見つめたまま、しばらく呆けたように立っていたが、急に我に返った。

 「急いで戻らないと。夜になってしまう!」

 くるりと向きを変えて、こんどは上り坂と化した洞窟を登っていく。


 村人たちを西の山へ避難させることが決まった直後、メルルはレトと「これからのこと」で話していた。


****************************************


 「おそらく、ライラプスたちの襲撃は夜からだ」

 「わかるんですか?」


 「今言った通り、『おそらく』だ。

 ただ、僕は魔獣たちが夜に活動が活発になることを経験で知っている。かつてミュルクヴィズの森で行軍していたときがそうだった。僕たちは昼の敵の襲撃よりも、夜の魔獣からの襲撃を一番警戒していた。やつらは森の闇から忍び寄ってきて、背を見せたとたんに襲いかかるんだ。油断、そのときの判断や行動ミス。それらが一瞬で僕たちの生死を分けた。

 ライラプスはやはり魔獣だよ。やつらの行動原理は、森の魔獣たちとかなり似ていると思っている」


 メルルの田舎には魔獣はめったに現れないが、普通の獣でも夜に遭遇するのは危険だと教わっている。メルルはレトの説明に納得した。


 「わかりました。では、夜までに黒水晶を持って帰り、すぐ解呪の儀式をはじめましょう。フロレッタさんの呪いが解ければ、犬さんたちは襲ってこなくなりますよね?」


 「正直わからない。ただ、賭ける価値は高い」


 「それだけでも充分です!」


****************************************


 そう、充分だ。自分が一所懸命になる根拠には。


 メルルは息が切れそうになりながらも黙々と坂道を登り続けた。今、自分の手には黒水晶がある。

 これがこの悪化した状況をひっくり返す最後の希望だ。必ず城まで持って帰る。そして、フロレッタの呪いを解いてあげるのだ!


 昼から歩きどおしで、体力的にきつくなっている。両脚のふくらはぎがしびれるように痛い。すでに筋肉痛がメルルの身体を襲っているのだ。

 それでもメルルは歩みを止めなかった。

 今、自分が果たすべきこと。その使命感がメルルの背中を押し続けている。休んでなどいられないのだ。


 帰り道は思っていたより難物だった。

 ちょっとした段差で踏み外したり、ずり落ちたりしてしまう。右手で黒水晶を持ち、左手で炎を操っているという不安定な状態のせいではと考え、メルルは黒水晶をポケットにしまった。少し歩くと、今度は少しの弾みで黒水晶がポケットから落ちそうになる。

 メルルは慌てて黒水晶を受け止めると、しばらく思案した。ようやく心を決めると、服の首もとから黒水晶を服のなかにすべりこませる。

 黒水晶の金属のような冷たさがメルルの胸元を冷やしたが、メルルはかまうことなく歩き出した。片手が自由になってバランスがとりやすくなったせいか、さっきよりも歩きやすくなった。


 ずいぶん歩いたと思ったが、洞窟の出口にはまだ着かない。

 目に入ろうとする汗を右のこぶしで拭いながら、『この洞窟、こんなに深かったっけ?』と不安が頭をよぎった。

 この洞窟は魔の洞窟で、自分を永遠に閉じ込めてしまうのではないか?

 こんな妄想としか思えない考えでさえ、『もしかすると』と思ってしまう。

 「弱気になるな、メルル! とにかく足を動かせ!」

 メルルは自分自身を叱咤しながら歩を進めた。脚の痺れはふくらはぎだけでなく全体に回っているし、足の甲がズキズキ痛む。


 でも休めない。休んじゃいけないんだ……。


 今、自分の脚を動かしているのは、誰にも求められていない義務感だ。

 下手をすると、『単なる自己満足』だ。

 それでも、メルルはかまわないと思った。


 内容なんてどうでもいい。私は『私のやりたい』に責任を持ちたいんだ!


 冷たい空気が頬を撫で、メルルは目を開いた。いつの間にか、目を閉じて歩いていたのだ。

 メルルが立っているのは洞窟を出たところだった。ようやく外へ着いたのだ。


 陽は落ちて、あたりは暗くなっている。それはどんなに曇り空だったとしても違いはわかる。

 いや、今は曇り空ではない。昼間は雪でも降るのではと思えるほどの曇天だったのが、今は満天の星空がメルルの頭上に広がっていたのだ。


 「晴れた……」

 メルルはまたたく星空に呆けて思わず声を漏らした。夜の寒気が雲を吹き飛ばしたのだろうか?


 それは違った。


 ふと城の方角へメルルが目を向けると、城のあるあたりに星空はなかった。代わりにどす黒い雲が渦を巻いて集まっていたのだ。ところどころ小さな稲光が雲のなかを駆け抜ける。


――魔の力が、このあたりの雲を集めているの?

 ぞくりとする感触を背中に感じながらメルルは思った。フロレッタを呪う力がいよいよ増して、天気さえも影響するほどになったというのか。


 「急がないと!」

 メルルは痺れる脚を鞭打つように叩くと道に向かって歩き出した。しかし、すぐに草むらにしゃがみこんで身を隠す。


 目の前の道を大きなものが駆け抜けていったのだ。それもひとつではない。馬ほどの大きさがあるものが何頭もだ。


――ライラプスの群れ!

 メルルは額に新しい汗を浮かべた。

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