黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 13
68
ふたりが着いたのは、ドニーが倒れていた回廊だった。
レトの指示で血だまりが残っている。昼に近い時間ではあるが、血はまだ乾ききっていないようだ。
「大ざっぱにしか検証していないからね」
レトはメルルに現場へ戻った理由を説明した。
レトは血だまりのそばでかがみこむ。レトは人差し指で床の焼け焦げた跡をなぞった。
「やはりそうか」
「何がです?」メルルはレトの肩越しにのぞきながら尋ねた。
「ここを見てごらん。焦げた跡が二重になっているだろう?
今朝、これを見たとき、焦げ跡が妙に太く感じてたんだ。
今、改めて見てわかった。
ドニーは『炎陣』の魔法を2回使ったんだ。
一度目は襲撃されてすぐ。背中を刺されてここまでよろめき歩いた後だ。
そして、二度目はおそらく、この魔法の炎が消えかかったころ。
でも、これがわからない」
「わからない? 何がです?」
「『炎陣』を使った理由。
どうも、2回目はドニーが死んでしまったために魔力の供給が切れてすぐ炎が消えてしまったようだ。だから、最初の焦げ跡より薄く、細いんだ。
ドニーは死に瀕してもなお、『炎陣』を使うことにこだわった。
本来、『炎陣』は魔獣など炎を恐れる獣を牽制するための魔法だ。人間相手には効果が弱い。なにせ、今回の相手は槍を持っている。『炎陣』の外側から攻撃するのが可能なんだ。
最初の場合は緊急の防衛と、明かりを必要としたからだと想像できる。だが、なぜ、二度目もこの魔法を使ったのか」
「冷静な判断ができなかったのでは?
だって、致命傷を受けて意識だってもうろうとしていたはずです。
今のレトさんのように『炎陣』では相手の攻撃を防ぎきれないと考えられたか……」
「たしかに、その可能性はある。
でも、ドニーは相手を見ている。相手が何者か、しっかりとね。逃げようと背を向けてもいなかった。ドニーは相手を見据えながら『炎陣』の魔法を使ったことになる。
だが、ドニーが何の策や考えもなく、効果に期待できない魔法を使ったのか疑問だ。
魔法道具だって無条件に使えるわけじゃない。魔法道具は使用者の魔力や体力を消費することで発動する。
魔法道具を使えばその分、自分の生命力が奪われるだろうことはドニーだってわかっていたはずだ。彼はいろいろ魔法道具を身に着けていた。当然、それらの扱いの注意点は熟知していただろうし。実際、ドニーは二度目の『炎陣』の使用中に命が尽きてしまった。『炎陣』がドニーの生命力を使い切ってしまったんだ」
「ドニーさんは、自分がもう死ぬことを自覚していた……?
だから、残った力すべてを振り絞って、わざわざ『炎陣』の魔法を使った……。最期に何かをするために」
「そう考えるのは僕の弱さだろうか」
「弱さ?」
「ドニーの強さを信じたいから、淡い期待に近い考えを推理だとする……」
メルルは首を横に振った。「いいえ。私もドニーさんが簡単に死ぬひととは思えません。死に際に、犯人が嫌がりそうなことのひとつやふたつ仕掛けそうです」
メルルはそう言いながら首をかたむけた。「だって、そういうひとでしょ?」
泣き笑いの表情になってしまう。
涙がこぼれないようメルルは天を仰いだ。そのとき、メルルの視線が一点に留まった。
「レトさん……」
「何?」レトは床の焦げ跡から視線をそらさずに聞き返した。
「ドニーさんが最期に仕掛けたこと、わかりました……」
レトはメルルに振り返った。「何だって?」
「あれです……」メルルは天井を指さし、レトもその先に視線を向けた。
天井は漆喰が塗られて白かったが、一か所だけ黒ずんだところがあった。まるで炎がそこだけを焦がしたようだ。
その焦げ跡は、「O」と刻まれていた。
69
「……ドニーが倒れていた真上だな……」
レトはゆっくりと立ち上がると、天井を見上げながらつぶやいた。
「おそらく、二度目に魔法を使った際、天井にも魔法を放ったんだ。床に燃え上がった炎をめくらましにしてね。それなら、なぜ、『炎陣』の魔法を二度も使った理由になる」
レトは納得したようにうなずいた。
「丸……、いえ、『O』の文字でしょうか」
「文字、ね……」
メルルは目を少し細めて天井に刻み込まれたものをさらによく見ようと試みた。もしかすると、ほかに刻まれたものがあるかもしれないからだ。
やがて、「あるのは『O』だけですね……」と疲れたような声を出した。
「記号、符号……、あるいは何らかのしるし……」
レトは天井を見上げながらつぶやいていた。思い当たるものがないか、順に手繰っているようだ。
「……または『O』がつくもの」
「名前ですか! ドニーさんは犯人の名前の頭文字を刻んだと」
「どうだろう……。
今回の事件で頭文字に『O』がつくのはオブライエン候ひとりだけだ」
「オーガスタスさんは?」
「オーガスタスの頭文字は『A』だ」
「そうでしたっけ」
メルルは自分の手帳を取り出すと、オーガスタスの綴りをこっそりと直した。
「頭文字でなければ名前に『O』が含まれる者はけっこういる。僕だってそうだ」
「だから、あれは頭文字を指していて、犯人はオブライエン候で決まりじゃないんですか? あれはドニーさんが魔法で刻んだもので間違いないですよね? きっと、ドニーさんが最期に残した犯人を示す手がかりなんです」
「たしか、『妨害者』は誰かを議論したとき、君はオブライエン候は容疑者から外せられないと言っていたね。
フロレッタさんが呪いから解放されるのを望んでいないのではと。それが妨害者としての根拠だと」
「ええ」
「でもね。オブライエン候はドニーとの契約をいつでも解除できるんだ。今まで成果をあげてこなかったとか勝手に理由をつけてね。なにせ、ドニーの雇い主はオブライエン候なんだから。強力な権限でドニーを簡単に排除できる人物が、わざわざ脅迫状を送ったり、ドニーを殺したりするだろうか?
ドニーがオブライエン候の弱みを握っていて、契約解除されないよう脅迫でもしていれば別かもしれないが」
「ドニーさんがオブライエン候を脅迫?」
メルルはびっくりして目を大きく見開いた。とても信じられない話だ。
だが、推理に感情的な例外は禁物だ。メルルは心を落ち着かせて、その可能性の有無を考えた。
「その可能性は考えられません。
なぜって、ドニーさんは妨害者から身を守るため自ら魔法陣を壊したりしています。
儀式の遅延は自分の評判を下げるリスクがあるんです。自分が損する状況を作ってオブライエン候を脅迫することって何の得にもなりません。だから、ドニーさんがオブライエン候を脅迫したなんてありえません」
「そのとおりだ。つまり、オブライエン候にドニーを殺す理由がない。犯人にはなりえない」
メルルはレトにうまく誘導されたのだとわかったが、言い返すことができなかった。このやりとりで『オブライエン候犯人説』は完全に否定されることがわかったからだ。
「じゃあ、この『O』は何なのですか?」
メルルは半ばやけ気味に尋ねた。
レトはしばらく天井を見つめ続けていたが、目を閉じてあごに指をかけた。レトが沈思黙考するときのくせだ。
「……メルル。君は覚えているかい?
ドニーと魔法陣について話していたとき、ドニーが魔法陣の象徴効果について説明していたことを……」
メルルは小さくうなずいた。
「覚えてます。たしか、文字はその文字そのもので何かを表していたって……。たとえば、『A』は『牛』の顔をさかさまにした形が文字になったとか……」
そこまで答えて、メルルの両目は大きく開いた。
「たしか、『O』は洞窟、坑道を表してるって!」
「そう、それだ」
レトは目を開くとメルルに振り返った。
「端的には『穴』そのものを表す。
ドニーは天井に『穴』があるところを示したかったのじゃないか?」
メルルは目をぱちくりとさせた。「天井に穴が空いているところ?」
「ドニーは君に解呪の儀式を引き継がせたいと言っていたが、その引き継ぎのやりとりはできなかった。
だから、今の僕たちは黒水晶を持っていないし、そもそも儀式を行なうべき魔法陣の場所も知らない」
儀式を行なう場所。たしかにそうだ。メルルはその場所のことも知らされていない。
「ドニーが考える犯人に対する最大のいやがらせ。それは実行不可能となったはずの儀式が無事行なわれることじゃないか? 犯人の名前を残すだけではフロレッタさんの呪いを解くことにつながらないからね。
死期を悟ったドニーは、自分を殺してまで得ようとした犯人の『利益』を失わせようと考えた。ありえない話ではないだろ?」
ふいに、メルルの頭のなかにドニーの顔が浮かんだ。満面の笑み。しかし、それはメルルをおちょくったときの笑顔だ。
「……考えられないことではないですね……」
「ドニーは最後の力を振り絞って、儀式を行なう場所、最後の魔法陣が描かれた場所を教えようとした。ひょっとすると、黒水晶もそこにあるかもしれない。
君がそれらを引き継ぎ、フロレッタさんの呪いを解くことができれば、最低限の勝利を得ることができる」
「犯人の逮捕は?」
「それは僕の仕事だ。ドニーなら、犯人の名前を残さずとも僕が犯人にたどり着けると信じていたさ。だから、犯人につながる直接的な手がかりは残さなかった。いや、優先順位として後回しになっただけだろう。そして、そこまで残す時間は残っていなかったんだ」
「……そうかもしれませんね、ドニーさんの性格なら……」
かなり直感的な推理だと思ったがメルルもそうだと思い始めていた。ドニーと過ごした時間は短かったが、ドニーのひとを食った性質は死に際でも変わらなかったと確信的に思えるのだ。
「だとすると、天井に穴が空いているところって、どこを指すんですか?」
メルルはレトに尋ねたが、その答えが自分の頭にひらめいた。
「このお城の最上部、鐘のあるところ!」
1階から最上階まで吹き抜けになっており、一番上からぶら下がる大きな鐘。思い出してみれば、階段から天井を見上げて見えたのも丸――、『O』だった。
レトの考えもそうだったらしい。レトは強くうなずくと、「行ってみるか」と言った。
延々と続く階段を登ると、ふたりは小さな部屋にたどり着いた。部屋の中央には大きな鐘がぶら下がっている。
「……ここ、ですよね……?」
メルルは自信なさそうな声でつぶやきながらあたりを見渡した。
床には魔法陣らしいものは見当たらなかったのだ。
「ここは鐘をつくためにひとの出入りがある。
床に魔法陣を描いたりはしないさ」
レトは予想通りと言わんばかりの反応で何も心配していないようだった。
アルキオネはレトの肩から飛び立つと、しばらく部屋のなかをくるくる飛んでいた。メルルがどうするのかと思って見ていると、やがて鐘の上に降り立ち羽を休めた。
「じゃあ、どこに魔法陣を描くんです?」アルキオネから視線をはずすと、メルルはレトに尋ねた。
「ドニーの性格を考えてみれば想像できる。正確に円形を書く道具などなしに円陣を描くことができ、いかにもひとを食った発想で魔法陣が隠せる場所と言えば……」
レトは鐘に向かって歩き出した。鐘の真下は大きな穴が空いており、そこからは冷たい風があふれ出している。
「え、レトさん。危ないですよ……」
メルルはレトの足もとを心配した。レトが完全に歩ける状態なのか、メルルは確信が持てなかったのだ。
「気をつけるよ。ありがとう」
レトはそう言いながら穴のへりで腹ばいになると、鐘のなかをのぞきこんだ。
「器用だな、彼は」
「え、え、まさか!」
メルルも慌てて腹ばいになって、鐘のなかをのぞきこんだ。
「鐘は円型だからね。魔法陣を描くのであれば、そこが一番だと思ったんだ。鐘の形に沿って術式を描けばいいだけだからね」
ふたりが目にしているのは鐘の内側にびっしりと描かれた文字や記号の羅列だった。それらが鐘の中心から円形に並んでいる。その秩序だった形は、まさに魔法陣に描かれる術式だった。
「墜落する危険もある鐘の内側をわざわざのぞこうとする者はいない。
密かに魔法陣を用意するのであれば、ここほど見つかりにくい場所はないよ」
レトは落ち着いた声で言った。
70
「……呆れました……」
身体を起こしたメルルはひとこと、そうつぶやいた。
「呆れた?」
レトも身体を起こすとメルルに顔を向けた。
「ドニーさんの抜け抜けとした魔法陣の隠し方と、それに気づくレトさんにです」
「気を悪くしたのかい?」
レトの問いにメルルはかぶりを振った。
「いいえ。でも、らしいなぁと思いました。特にドニーさんには」
「そうだね」
レトはそう言いながら立ち上がると、パンパンと服についた汚れを払った。
「かぁあああ」
頭上からアルキオネの鳴き声が聞こえる。見上げると、アルキオネが鐘から飛び立ってレトの肩に舞い降りた。
「どうも鐘の上にもなかったようだね」
レトの声は少し沈んでいた。メルルはその声で『あっ』と思った。「黒水晶は……」
「ここにはない。鐘のなかはもちろんだけど、僕たちからは死角にあたる鐘の上にもね……」
もし、鐘のなかに隠したとしても、鐘をついたときの衝撃で落下する恐れがある。隠し場所としては不適当だ。それは鐘の上も同様だろう。
しかし、この部屋には物を隠せるような箱やチェストの類は見られない。調度品のひとつもないただの部屋だ。鐘以外に物を隠せる場所はないのだ。
窓は四方についており、現時点では南面だけ開かれていた。窓からは曇天の空の下、『西の山』がやや煙っているように見えた。村人が『西の山』と呼ぶ山は、城からは南西に見えるのだ。レトは窓から身を乗り出してあたりを見ると、残りの窓も開けて外の様子を探った。やがて、レトは無言で首を振りながら最後に開いた窓を閉めた。
この部屋に黒水晶はなかった。
「簡単にはいかないな……」
レトは頭をかいた。
「ドニーさんは魔法陣の場所だけ示して力尽きてしまったんでしょうか……」
「その可能性はある。ただ、希望もまた残っている」
「それはどんな?」
「天井に残された『O』。あれが、魔法陣の隠し場所のことだけを意味する伝言だったのかどうかってこと」
「あの『O』に二重の意味が込められてるってことですか?」
「ドニーに時間や体力は残されていなかった。残りわずかな体力で、短時間に伝言を残すとなれば、どうしてもひとつの言葉でいくつかの意味を込めるしかない。
黒水晶の隠し場所も『O』で示した。
そうは考えられないだろうか?」
たしかに、それは希望的な予想だ。確信をもって言える考えではない。
しかし、メルルはそれに賭けてみたいと思った。ついさっき、あの『O』から魔法陣の隠し場所にたどり着けたからだ。
「考えてみる価値はあると思います」
メルルの力強い声に、レトはうなずいた。「よし」
レトは例のあごをつまむ姿勢になって目を閉じた。
「さて、『O』から次は何が導き出せるか……」
メルルも同じ姿勢になって考えを巡らせる。
「城内にあった丸いものと言えば……」
「酒樽。ワインの底に沈めておくとか……」
「いくらワインに色がついているといっても、樽の底に異物があったらわかってしまう。誰かに見つかる危険は高い」
「ほかは……、お風呂場は四角、食堂のテーブルも四角、お手洗いは四角じゃないけど『O』でもない。部屋に掛けられた大鏡は楕円形……」
メルルは指折り数えながら、思いつくものを口にしていく。しかし、なかなか『O』を示すものは思いつかない。
やがて、メルルの考えは尽きてしまった。「……ありません……」
「誰かに黒水晶を預けた可能性はないかな?」
レトは目を閉じたままつぶやいた。
「私たち以外にですか? ありえません。ドニーさんは城内に信頼のおけるひとがいなかったんですから」
「村人ならどうだろう」
「ドニーさんはここに来てからずっと城にこもって儀式の準備を進めていました。村人と接点はありませんでした」
「あの子はどうだろう。たしか、カイナって名前だったか。食堂で出会った女の子」
「カイナちゃんですか?」
メルルはカイナの顔を思い浮かべた。それから、食堂で出会ってから崖の上で別れるまでの光景を順に思い出した。
「カイナちゃんに預けたとは考えられないですね。
ドニーさんはカイナちゃんとふたりきりで話す時間がありませんでした。当然、何かを頼む時間的猶予もです」
それに、カイナの名前には『O』がないのだ。
「……だろうね。誰かに預けるつもりなら、最初から君に預けるほうがいい」
レトは納得したようにうなずく。
「じゃ、誰かに預けてないかなんて言わなきゃいいじゃないですか……」
メルルは呆れたように言った。ただ、わかりきったはずのことも一度は検討の俎上に載せないと気がすまないのがレトなのだ。この姿勢だからこそ、他人が見落とした真実もこれまでレトが見つけ出したことをメルルは知っていた。
ツッコんでおきながら、メルルはレトの姿勢を間違ったものとは思えなかった。
そう、わかりきったはずのことも検討の俎上に載せる……。
わかりきったはずのこと?
メルルの頭のなかはいろいろなことが急に渦巻きはじめた。
レトがメルルに言った言葉――。
……ドニーは、妙なところでこちらをハメようとする男だった。
万が一の代理として、君に何かを預けるなり、あるいは何か手がかりになるようなことを言い残したりしたと思う……。
ドニーがメルルに言った言葉――。
……誰にも秘密にしている策だがな。
でも、お嬢ちゃんにオレの策は意味がないか。お嬢ちゃんだけはナゾにならないからな……。
そうだ、あの言葉。
あれはいつ聞いたんだっけ。
たしか、レトさんがケガをしたとき、翌朝ポッチくんを探すことにしたときだった。
ドニーはたしかにメルルには謎にならないと言っていた。
でも謎だ。
なぜ、ドニーは『メルルには』謎にならないと言ったのだろう?
レトさんは? レトさんには謎になる? なぜ?
ふいに、メルルの頭に答えが浮かんだ。
――私とドニーさんだけ一緒だった時間があった!
それはレトが崖から墜落し、意識を失ってからの時間。レトを救出し、ベッドに寝かし、看病し続けていた時間だ。
そのときのできごとは、レトにとって知らないことばかりなのだから当然『謎』になる。
そのときのできごと、会話……。
メルルはめまいに近い感覚を覚えながらも必死で記憶をたぐった。
きっとそこだ。そこに答えがあるんだ!
そして――、
「わかった……」
メルルはぽつりとつぶやいた。
思い出してみればわかりきったことだった。ドニーは『あそこ』に黒水晶を隠したのだ。
おそらく、レトの救出に向かったときに。それまでドニーは黒水晶をずっと身に着けていたのだ。紛失や、特に盗難を恐れて。しかし、黒水晶を隠すのにおあつらえ向きの場所を見つけて、そこに隠したのだ。
そうだ。メルルにだけは謎でもなんでもなかった。
ただ、ドニーの言葉を覚えているかどうかだけのことだった。
「黒水晶の隠し場所がわかったのか?」
レトの問いに、メルルは強くうなずいた。「ええ」
「それはいったい……」
レトが続けて尋ねようとしたが、その言葉は途中で止まった。
突然、あたりいっぱいに獣の吠え声が聞こえてきたのだ。
――ウォオオオオオ……ン、ウォオオオオオー……ン……。
それは遠吠えだった。しかも、それはひとつではない。
最初に聞こえた遠吠えに呼応するように、あちらこちらからいくつもの遠吠えが響き渡ってきたのだ。
――ウォオオオオオ……ン、ウォオオオオオー……ン……。
――ウォオオオオオ……ン、ウォオオオオオー……ン……。
――ウォオオオオオ……ン、ウォオオオオオー……ン……。
遠吠えは一定のリズムを保ちながら、城全体を包み込むように響いてきた。
「な、なんです、これ……」メルルは身体を震わせながらつぶやいた。獣の遠吠えでどうしてこうも身体が震えるのだろうと思いながら。
メルルに自覚はなかったが、それはまさに『戦慄』だった。
「ライラプスの遠吠えだ」
レトは短く答えた。「一頭やそこらのものじゃない。何頭もの遠吠えだ」
「それってどういう……」
「メルル、かなりまずい状況になってきたようだ」
レトの声に緊張の響きが感じられた。
「まずいって……」
「やつら、ここを襲う意思表示をはじめているんだ」
71
レトたちが応接間のある階まで降りてくると、ちょうどレイ・ブルースが駆けつけてきた。
「こちらでしたか」
レイの表情にも緊張が見られた。
ライラプスたちの遠吠えはいつの間にか聞こえなくなっていた。しかし、静かになったわけでなく、城内はざわざわした声や何かをぶつけるような音があちらこちらから聞こえている。
「ライラプスの遠吠えを聞きましたか?」
レイはレトとメルルに尋ねた。ふたりはうなずく。
「これまでもライラプスが遠吠えすることはあったのですが、夜間に一頭鳴くぐらいで。しかも、遠くからかすかに聞こえる程度なんです。
今回のように、こうも近くで何頭もの遠吠えが聞こえるなんて異例です」
「でしょうね。ですから僕たちもここへ駆けつけました」
レトは少し早口だった。
3人はそろって応接間に足を踏み入れた。
「おお、ブルース君。いったい、これは何ごとなんだ?
魔犬どもは何を騒いでいたのだ?」
待ち構えていたアーネストが苛立った声をぶつけてきた。
アーネストは今朝、レトたちと話していたときと同じソファに座っているが、落ち着かない様子で腰を浮かしたり降ろしたりしている。
「正確にはわかりません。私がここにお仕えして以来、初めてのことでございます」
レイが落ち着いた声で答えていると、
「失礼します」
太い声が背後から聞こえ、振り返るとクルトの姿があった。
「申し上げます。また、村人たちが騒ぎだしています」
「またか……」アーネストはいまいましげに息を吐いた。「すぐに追っ払え」
クルトは動かない。直立不動の姿勢でアーネストを見つめている。アーネストは片側の眉をあげた。「どうした?」
「お願いします。村人たちをここに避難させてください」
「何を言い出すかね、君は!」アーネストは苛立った声をあげる。「村人どもをここに、だと!」
「ライラプスは基本、個で活動する魔獣です。集団で行動する性質ではありません。
ですが、さきほど、やつらは遠吠えで互いに声をかけあっていました。
まるで合図をするかのように……」
「何の合図だ?」
「ここを襲う合図です」
クルトはレトが考えていたことと同じことを口にした。
「ば、バカバカしい! やつらが集団で襲ってくると言うのか!」
「やつらは今、仲間を集めています。
あの遠吠えを聞く限り、やつらはそれぞれ呼応しているようです」
「そ、それは、あくまでお前が勝手に想像しているだけのことだろう!
犬が遠吠えすることなど、あたりまえのことだろうが!」
ついさっき、ライラプスの遠吠えで動揺していたのに、アーネストは必死でクルトの発言を否定しにかかっていた。
クルトが言うことの意味をわかっているのに、どうしてもわかりたくないと言い張りたいようだ。
「私の勝手な思い込みかもしれません。
ですが、我々はこの地を守るために働く者です。
想定される最悪の事態に備えるのは我々の義務なのです。
もし、私の思い込みではなく、やつらが本当に襲ってくれば、何の防備もないふもとの村は壊滅します。
村人の安全を確保するために、どうかこの城への避難をお許しください」
「ダメだ、ダメだ! あんなやつらを城に招き入れるなど!」
アーネストは顔を真っ赤にさせて怒鳴った。
「そんなに村人が心配ならば君が村へ行って見張りをすればいい。
今、この城を管理しているのは私だ。
私が認めないかぎり、下級の者どもは誰も入れさせない。わかったか!」
メルルはクルトの顔に視線を向けた。クルトの家族は村に住んでいる。家族を「下級の者」と蔑まれて怒りだしはしまいか心配になったのだ。
しかし、クルトの表情は平静そのものだった。アーネストの発言を気にする様子は見られない。
「では、ご指示されたとおりに」
頭を下げて退出しようとする。
「おい待て。どこへ行く気だ?」
不審顔のアーネストが呼び止めると、クルトは顔だけを向けた。
「候のおっしゃるように、村の守備に就くのでございます」
そう言い終えると、そのまま立ち去ってしまった。
「ば、ば、馬鹿者が!
わ、私に逆らいおって、このままですむと思うなよ!
村の守りなぞについて、何ができると言うんだ!」
アーネストは顔を真っ赤にして、すでに閉じられた扉に怒鳴りつけた。
「たしかに、クルト隊長の判断は間違ってますね」
レトがぼそりとつぶやいた。
すると、アーネストが我が意を得たりと顔を輝かせた。
「ほう、君は道理がわかっているな!」
しかし、レトはちらりとアーネストに視線を向けると、すぐにあさってのほうにそむけた。
「僕が言っているのは、村で村人を防衛するという考えです。
あの村は魔獣たちの襲撃に対応できるような戦術的な備えはありません。つまり、あの村で防衛戦を試みても防ぎきれるものではないということ。
あそこではどうしても犠牲者が出てしまうのです」
レトは身体ごとアーネストに向けた。アーネストはその顔を見ると少し蒼ざめた。レトの顔は戦慄を覚えるほど冷たいものだったのだ。
「クルト隊長は何が何でもオブライエン候を説得するべきだったのです。
村人から犠牲を出さないためには、村人の避難は必須なのですから」
「お、お前まで言うか!」
ふたたびアーネストは色をなして怒鳴り声をあげた。
「オブライエン候、よろしいですか。
フロレッタさんが呪われたのは、魔候軍に村を襲撃され、大事なひとを失った人物から恨まれたことによるものです。
フロレッタさんご自身に責任のある話ではありませんでしたが、レドメイン・ノーズ家の一員であるという理由だけで呪われました。
これが何を意味するかわかりますか?」
「な、なんだ?」
レトの質問がわからないというようにアーネストは聞き返した。頭に昇った血はいくぶん下がったと見え、平静な様子になっている。
「あのときと同様に村人から犠牲者を出せば、今度はあなたが呪われるかもしれないのですよ」
「ハッ! 私が呪われる? 馬鹿も休み休み言いたまえ。
君たちが報告してきたんだぞ。
フロレッタを呪った人物はすでに死んでいるとな。
つまり、あの村にはもう呪術の使える者はおらんということだ。
私が呪われる危険などない。
それとも、闇討ちなど仕掛けられるとか命を狙われるとでも?
やつらにそこまでする度胸も力もないよ。
なぜなら、やつらは下級市民だからだ。
下級の者が、上の者に逆らうことなどあってはならんのだ。
だからこそ、我々はやつらを管理し、余計な力をもたぬようにしてきた。
下級の者に、富だの権利だの与えてやる必要はない。
当然、安全に生きる権利もだ。それは我々のためだけにある。
やつらには最低限の権利を与えてやるだけでいい」
「最低限の権利とは?」
「我らに仕えるという権利だ!」
アーネストは叫ぶように言うと立ち上がった。
「我らに仕えてさえいれば、生きるだけの金はくれてやる。
それ以上は望むな!
最近、王太子は下級市民にも我らと同じ権利を与えようなど血迷ったことを始めたが、誰もそんな世の中など望んではいないし、望んでもいけない。
王太子が変な思想にかぶれたりするから、あのクルトのような『はねっかえり』まで出てくるのだ。
だが、階級とは神が与えたもうた摂理だ。
摂理によって、この世の中は保たれるのだ。平和で安全にな」
「あなたの言う『摂理』は、平和も安全も、あなたがた一部の者にしかもたらしません。
神が本当に、そんなことを『摂理』とするのでしょうか?」
「呆れたね君は。教会に行ったこともないのか。
私が言ったことは聖典に書かれた真理なのだ。だから、私が言ったことは神の言葉と同じなのだよ。
神の立場でものを言っている私に誰が呪いをかけるだと?
誰が私を害そうとするだと?
もし、そんなことを企む者がいれば、そいつもまた、あのガンズと言ったか……、あの愚か者と同じように悪魔に魅入られた呪われた者だ。罰が当たっていずれ地獄へ落ちることになるだろう。
神の罰を恐れなければならないのは私ではない。村人どものような高望みの許されない者たちだ。
やつらが魔獣のエサになろうと、私が気にせねばならない理由などない。
それがやつらに対する神の思し召しなのだからだ!」
アーネストは堂々と宣言するように言い放った。
……これが、貴族主義の考え方なんだ……。
メルルは暗い気持ちで思った。
貴族のすべてがそう考えているわけではない。だが、一部の、特に由緒ある『お貴族様』と呼ばれる者たちはアーネストと同じ思想であることが多い。
『階級』という、ひとを上下に分ける制度を作ったのはひとそのものだ。それを神による摂理だと主張して正当化する。聖典にそんなことが書かれていたなんてウソだ。聖典には貴族という存在を認め、それが一方的に支配することを『是』とするなんて一行も書かれていない。
『魂の高潔なる者に導かれるべし』と書かれていた程度だ。
貴族たちはそれを『身分の高い者に支配されるべし』という解釈に置き換えたのだ。一方的に。
人間たちが持つ優越感、驕慢、それがもたらす『もたざる者』への蔑み……。
人間には相手より優位に立とうとして相手を迫害する傾向がある。優越感を得るために。驕慢の感情で心を満たすために。迫害される者は逆に屈辱と怨嗟の念をつのらせていくだろう。
そして、ある者はその怨嗟の念を『呪い』によって相手に返すのだ。
屈辱を晴らすために。あるいは、そう。『楽』になるために……。相手を呪うことができれば、これら負の感情も和らいでくれるかもしれないから。
メルルの心にドニーの言葉が甦ってきた。
――ま、けっきょくのところ、オレの考えに行きつくだろうがね……。
ドニーの言ったことはある意味、真理だった。
ただ、あのとき議論したように、苦悩、苦痛から逃れるために、そんな『楽』だけを望むわけでもなかった。
どこに吐き出したらいいかわからないほどの『怒り』、『哀しみ』、『軽蔑』……。
メルルの心に渦巻いている感情が、『呪い』の存在を肯定するのだ。
『オブライエン候のような人物は呪われてしまえばいい』、と……。
そこに『楽』への渇望はない。
レトはどう考えているのだろうか?
メルルは気になってレトの顔を見つめた。
レトの表情には怒りも侮蔑の感情も見られなかった。ただ冷たい目でアーネストを見つめるだけである。しかし、レトは視線をレイ・ブルースに移した。
「ところで、フロレッタさんは今どちらに?」
レイもまた、完全に感情を消した様子で立っていたが、レトの質問に目をぱちぱちとさせた。
「え? あ、はい。姫様は現在、自室で休んでおられます。
昼に外へ出た影響で、そうとう苦しんでおられまして。
ロッタがつきっきりで看病しています」
「そうですか、わかりました」
レトはくるりと向きを変えると、クルトと同じように部屋から立ち去ろうと歩き出した。
「おい、今度はお前も村へ行くのか?
さっきも言ったが村人は誰ひとり城に入れさせないからな。
無理やり村人を通そうとしたら、お前を拘束させるぞ。場合によってはその場で処断する」
アーネストはレトの背中に低い声を投げつけた。
「そういうことはしません。
ですが、村へ向かうことにします。一刻も早く村人を逃がさなければなりませんから」
レトはそう言うとメルルに視線を向けた。
メルルは少し呆けた感じで立っていたが、レトの視線に気づくと、「あ、私も行きます!」と駆け出した。