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黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 10

56


 ドニーは呆然として自分の身体を見下ろしていた。

 意識が遠のいていくせいか、どうも現実に起こったことだと思えない。しかし、ドニーは冷静に事態を整理し始めていた。


……背中の痛み、腹から噴き出す血。オレは背後から何者かに襲われ、剣のようなもので刺されたんだ。剣はオレの身体を貫通した。だから、背中に痛みがあり、腹から血を流しているんだ……。


 ドニーは背後に目をやった。さっきの衝撃で炎を消してしまい、廊下は闇に沈んでいる。近くに何者かがいるのは間違いないが、それが誰なのかわからない状況だ。


……強烈な一撃をくらったが、とどめを刺されなかったのは、明かりが消えたおかげか。この闇のなかじゃ相手も動けない。かと言って、オレに反撃の余裕はない。助けを呼ぶこともできない。身体が思うように動かないし、意識がもう飛びそうだ……。

 ドニーは腹に手をあてて、その位置を確かめた。

……左脇近くの腹をやられた……。……ここは、すい臓、腎臓がある……。重要な臓器をまとめて串刺しにされたな、これ……。

 ここで、ドニーは完全に状況を理解した。


……致命傷だ……。オレはもうすぐ死ぬ……。


 身体が左右に揺れ、今にもくずおれそうだ。いや、この深手を負って、まだ立っていられることが奇跡だ。どうして、オレは今も立ってられる?


 ドニーは腹を押さえながら、闇の奥に意識を集中させた。

 いる。間違いなくいる。自分のすぐ近くに、自分を刺したやつがいる!


 別に、ドニーの聴覚が相手の息遣いを聞き取れたわけではない。嗅覚が相手の匂いを感知したわけでもない。

 それでも、ドニーは自分が睨みつけている闇の奥に、自分を刺した者がいることを確信していた。


……さらに意識が遠のいている……。たぶん……、このまま意識を失ったら……、オレは二度と目覚めない……。このまま死ぬ……。そうか、死ぬのか、オレ……。


 ここに至って、ドニーの心は静かだった。諦めと言うより、どこか聖人の悟りのような、達観した感情が芽生えてきたのだ。


……このまま死ぬにしても、オレを殺すのが誰なのか知らないまま死ぬのは心残りだな……。


 「せめて、顔だけでも見せてもらおうか」

 ドニーは左手を床に向けた。「炎陣サークル・ブレイズ」。


 次の瞬間、ドニーを中心に半径2メルテに渡る炎の円陣が燃え上がった。炎は一瞬で闇を打ち払い、ドニーが立つ廊下を明るく照らした。


 急に明るくなったので、襲撃者は狼狽したようだった。片腕だけで自分の顔を覆っている。炎の明かりが眩しかったせいだろうが、それでも全体を隠すほどでもなかった。ドニーは相手の顔をしっかりと捉えていた。


 「……そうか、あんたが『妨害者』か……。しかし、なぜ、あんたが……?」


 襲撃者は槍を手にしていた。ドニーはそれに見覚えがあった。以前、城内を歩き回ったとき、偶然入った武器庫に備えられていたものだ。

 襲撃者はさらに一撃を加えようと、槍を構えている。その穂先は血に濡れて、少し血が滴っていた。


 「個人的な好奇心は満たされたが……、あんたをこのままにしておけないよな……」

 ドニーは襲撃者に語り掛けるように話し続けた。声を出さなければ、すぐにでも意識を失う予感があった。今、こうして意味のないことをだらだらと話すのは、ほんのわずかな時間でも生をつなぐためだった。しかし、そのことにドニーの胸に疑問の小さな火が灯っていた。どうして、オレはこんな時間稼ぎをしている……? もう無意味じゃないか……?


――無意味。


 この言葉が頭によぎった瞬間、ドニーは大きく目を見開いた。


 違うだろ。

 無意味かどうかはすべてオレ次第なんだ。

 このまま何もせずに倒れてしまったら、オレは無意味に死んでしまうんだ。

 だから、あがけ。


 オレを殺すやつに後悔させてやるんだ。


 生命の炎は燃え尽きようとしている。それでも、ドニーの心には切迫感とはかけはなれた、余裕とも思えるふてぶてしい思考が駆け巡っていた。


……オレは解呪の儀式が行えなくなっちまったが、まだ手が残っている。問題は、その「手」というやつをどうやって後につないでいくかだが……。


 そのとき、ドニーの頭にメルルの顔が浮かんだ。すねたような、怒っている顔。彼の記憶に残っているのはそんな表情だった。

……悪いな、お嬢ちゃん。オレの『最後のいたずら』に巻き込むぜ……。頼りはお嬢ちゃんしか残ってないんだ……。


 ドニーは足もとに顔を向けた。周囲に放たれた炎の壁が低くなっている。間もなく炎の壁が消滅するのだ。


……どうやら、とどめを刺されるほうが早そうだな。だったら、最後の悪あがき……、いや、こいつにも『最後のいたずら』ってやつを仕掛けてみるか……。


 ドニーの口のはしにわずかだが笑みがこぼれた。


……ほんっと、オレってやつは……。


 ドニーはゆっくりと顔をあげた。


……ひとに嫌われるのが得意なやつだな……。


 ドニーは右手をゆっくりと襲撃者に差し向けた。もう声を発する力を失ったのか、口をぱくぱくさせるだけだ。


 襲撃者は槍をかまえて数歩近づいたところだったが、ふいに目の前がまばゆい光に包まれて目がくらんだ。


 襲撃者は顔を片手で押さえながら、槍を振り回したが何の感触もない。おそるおそる片手を離してみると、ドニーはすでに血だまりのなかにうつぶせで倒れていた。槍先でドニーの肩を少し刺してみたが反応はない。呼吸している様子も見られなかった。さっきの行動で力を使い果たしたのだろう。ドニーがすでに死んでいることを襲撃者は確信した。


 襲撃者は槍をその場に放り捨てると、身に着けていたマントも脱ぎ捨てた。自分の服に血がついている様子がないことを確かめると、ドニーをそのままにしてそこから立ち去った。



57


 このとき、メルルが気になったのはレトの反応だった。

 自分でもおかしなことを気にすると思う。しかし、ドニーの遺体を前にして、メルルは悲しむことよりも、または状況を理解するよりも、先に頭をよぎったことだった。


 レトは静かに立っていた。そっとその場に置かれた人形のように、身動きもせず、ただ無言でドニーを見下ろしていた。そこに何らかの感情を示す行動は見られなかった。アルキオネでさえ身動きもせず、レトの肩の上で静かにとまっていた。


 レトとメルルの周りには数人が立っている。夜勤だったホプトとネッド、赤髪の兵士、それと執事のガッデスである。彼らもまた、ドニーを囲むように静かに立っていた。ただ、ネッドは落ち着かない様子で、あの特徴的な垂れ目をあちこちに向けていた。


 事件の一報を聞いたとき、レトはすぐに起き上がることができなかった。しかし、それでも誰の手を借りることなく自力で現場まで歩いてみせた。そのときまではどこか執念を感じさせる、鬼気迫るものがあったが、現場に着くや、レトの全身から発せられていた何かは消え失せてしまっていた。


 「発見したのはシャーリーです」

 赤い髪の兵士がレトのかたわらで説明していた。赤い髪――ドノヴァンだ。

 「ここから中庭寄りにある厨房へ向かっていたところ、廊下の先に誰かが倒れているのが見えた。少し近づいてみると、倒れている人物はどうも血まみれのようだと。そこで彼女は中庭へ向かい、夜警していたホプトとネッドに報せたのです」

 「シャーリーさんは今?」

 ようやくレトから言葉が出てきたが、それはかなりか細く、ここが静かでなければ聞き取れないほどだ。

 夜が明けてまもない城の廊下は、身体の芯まで凍りそうなほど冷え切っていた。冷え切った空気が周りの雑音さえも凍りつかせたかのように、あたりは静かすぎるほど静かだった。

 「彼女は気分が悪くなったとのことで自室に戻りました。こんな光景を見てしまったせいでしょう」

 ドノヴァンはシャーリーを慮っているようだった。


 レトの身体がゆらりと揺れた。メルルはとっさに身体を支えようと一歩踏み出したが、レトは屈みこんだだけだった。メルルは心のなかでほっと溜息をついた。


 「背中よりやや腰に近い位置を刺されている。細身の剣、あるいは槍。外傷はこれ以外に見当たらない。その場で絶命している様子を見るに、一撃で致命傷を負ったのだろう……」

 遺体の検分を始めたレトの声はどこか空虚で、下手な役者がセリフを棒読みしているようだ。メルルは慌ててレトのもとへ駆け寄った。「レトさん!」


 レトは片手をあげてメルルを制した。視線はドニーに向けられたままだ。「大丈夫だ。君は僕が口にしたことを書き留めてくれ」


 メルルはレトの横顔を心配そうに見つめていたが、「わかりました」と、メモ帳を取り出した。


 「遺体が冷え切っていることから、事件は昨夜起きたものだと推測される。僕たちがドニーと別れたのは午後11時ごろ。ドニーは自室に戻らず、1階のここまで降りてきた……」

 「ドニーさんが自室に戻らなかった事情については、私から後で説明します」

 メルルはレトのそばに寄って囁いた。今話したところで意味がないかもしれないが、それでも解呪の儀式のことは伏せておこうと思ったのだ。

 レトはちらりとメルルの顔に視線を向けたが、すぐに下に視線を戻した。「わかった」

 メルルが元の位置に戻ると、レトはドニーが倒れている廊下を指でなぞるように撫で始めた。

 「ドニーを囲むように焦げた跡がある。おそらく、ドニーは襲撃を受けたときに『炎陣サークル・ブレイズ』の魔法で周囲に炎の壁を作ったんだ。襲撃者に追撃を許さないために。しかし、傷があまりに深かったため、ドニーはその場で倒れて意識を失った。襲撃者もドニーが死んだことを確認して立ち去った」

 「どうして、そう思うのです?」メルルは尋ねた。

 「肩に小さく突き刺された跡が残っていた。血もわずかに出ている。襲撃者はドニーの肩を刺して、生命反応があるか確かめたんだ」

 レトはゆっくりと立ち上がると、周囲に少し下がるよう無言で促した。ホプトとネッドは、中庭で出会ったときはいかにも見下した態度を見せていたが、このときばかりはレトの無言の指示に逆らうこともなく、静かに数歩下がった。


 「犯人の足跡は残っていない。ドニーが死んだか確かめるために近づいたときも、血だまりに足をつけないように気をつけていたようだ。目に見える痕跡からは、どの方角へ立ち去ったか判断できない。ただ、ドニーがどちらに向いているときに襲撃を受けたのかはわかる」

 レトはゆっくりと歩きながら、ひとり言のようにつぶやいた。メルルはあとを追いながらレトに尋ねた。「それは、どういうことです?」


 「廊下に血が滴り落ちた跡が見える。ドニーはおそらく向こうからこちらに向かって歩いていたところ、突然背後から襲われた」

 レトは少し歩いたところで立ち止まると、床を指さした。そこには血の跡が点々と切れ切れの線を描いている。レトはその『線』の出発位置に立っていた。


 「ドニーは今倒れているところまでよろめき歩き、そして、振り返った。襲撃者と対峙したんだ。それから『炎陣サークル・ブレイズ』の魔法で抵抗を試みたが、致命傷だったためにその場で力尽きて倒れた。血の痕跡とドニーが倒れている状況から、そのように推察される」

 メルルはメモを取りながらうなずいた。レトの説明で、ドニーが倒れるまでの光景が目に浮かぶようだった。


 「犯人は、そいつから何も盗らずに逃げたのか?」

 沈黙を続けるのが苦しくなったのか、ホプトがレトに質問した。レトはホプトに視線を向ける。「あなたは、これが物盗りのしわざだと考えているのですか?」

 レトの声はあいかわらず静かなものだったが、ホプトは詰問されたように顔を引きつらせた。

 「だ、だってよ……。こ、この城で殺しをしようとするやつなんて……、いる、はずがねぇ。そいつは城に忍び込んだ外の誰かにやられたって考えられないか?」


 「仮に、犯人が城に忍び込んだ物盗りだとしても、その犯人はドニーから何も奪っていません。ドニーの周囲は広く血だまりが広がっています。近づけば、必ずこの血だまりに足を踏み入れることになるのです。さっきも言いましたが、ドニーの周囲には血のついた足跡はひとつも見られません。犯人がドニーに近寄らなかったことを示しています。せいぜい、ドニーの肩を刺すために少し近づいただけです。現場に落ちていたあの槍なら、離れたところからドニーの肩を少し刺すことはできたでしょうからね」


 レトの説明は明快だったが、ホプトは少し納得できないような、あいまいな表情で、「そ、そうかよ……」と、口ごもるようにつぶやくだけだった。


 「ですが、決めつけるのも良くないですね」

 レトはドニーのかたわらまで歩み寄った。血だまりに足を踏み入れたが、レトは気にする様子を見せなかった。そっと、ドニーのかたわらにしゃがみこむ。

 レトは丁寧にドニーの身体を仰向けにした。ドノヴァンがすぐ気づいて、彼も手伝った。

 レトは仰向けになったドニーの顔を眺めた。ドニーの顔はまるで苦痛がなかったかのように穏やかだった。事情の知らない者から見れば眠っているようにしか見えないだろう。


 「ドニー、少し失礼するよ」

 レトはドニーの顔に語り掛けると、ドニーの胸元のポケットやズボンのポケットなど、あらゆるところを探り始めた。

 途中、見つけたメモ帳やペンを血に濡れないように、そっと血だまりの外に置く。メルルはレトのそばに寄って、遺品となったドニーの私物を受け取ることにした。


 「財布が残っていました。現金も残っています。物盗りの線はかなり薄くなりましたね」

 調べ終わったレトはホプトに説明した。

 ホプトは「そうかよ……」と、さっきと同じ言葉を繰り返しただけだった。


 どかどかと複数の近づく足音が聞こえてきて、その場の者全員がそちらに目を向けると、レイ・ズルースが数名の兵士を連れて近づくところだった。兵士は担架を持っている。


 レイはレトの近くまでやってくると立ち止まった。無言でドニーを見下ろしていたが、やがて深々と頭を下げる。あとからやってきた兵士も同じように頭を下げた。


 「遺体をお運びしてもよろしいですか?」

 レイは穏やかな声でレトに話しかけた。レトはゆっくりとレイに顔を向けた。「どこに運ぶんです?」


 「城の東側に小さいですが教会がございます。そこは通常の礼拝のほかに、死者をしばらく安置させることができます。教会には強力な結界が張られており、そこでなら一週間過ぎても死者を屍霊化グールかするのを防いでくれます」


 「荼毘もそこで?」


 レイはうなずいた。「隣に火葬炉もあります」


 「わかりました。彼を運んでください」

 レトは立ち上がると脇へどいた。


 レイは背後に控える兵士たちに無言で合図すると、兵士たちはドニーの身体を担架に移した。さすがに見ているだけにいかなかったようで、これにはホプトとネッドも参加した。


 「ここの現場は改めて調査したいと思います。申し訳ありませんが、ここの清掃はしばらくお待ちください」

 ドニーが運び出されると、レトはレイに話しかけた。レイはその場に残っていたのだ。レイは廊下に残された血だまりに視線を向ける。「あれをそのままにと?」


 「なんらかの手がかりが残されているかもしれませんので」

 「了解しました。現場をこれ以上荒らさないよう、見張りもつけましょう」

 レイはうなずくとドノヴァンに顔を向けた。

 「君、ここの見張りを頼む」

 ドノヴァンはさっと敬礼して「了解いたしました」と応えた。

 レイは続けてホプトとネッドにも視線を向ける。

 「君たちは自室に戻り休みたまえ。ただ、部屋に戻る前に誰かをここに来させてくれないか。見張りをドノヴァンひとりにさせたくないんだ」

 ホプトはさっと敬礼して「了解しました」と応えたが。ネッドは狼狽した様子で敬礼さえせず、「え、しかし……」とつぶやいた。


 「どうした?」


 ネッドは左右に視線をうろうろさせながら、「あの、その、えっと、オレたちは……、いえ、我々は、何か処分を受けることに……」と声を震わせた。


 「なぜ、そう思う?」


 「た、ただの立ち番でしたが、こ、ここと、中庭は、その、近いので……」


 「また、警備の不手際だと指摘されると思ったか」


 「いえ、あの、はい……」


 「それについては探偵殿の捜査の結果から判断されるだろう。しかし、今は夜勤明けで疲れているだろう。少しでも睡眠をとっておくんだ。とは言っても事情を聞くために起こされるかもしれない。それは承知しておくように」


 レイの声は穏やかだが、ふたりはきつく叱られたかのように顔をひきつらせた。ネッドはようやく敬礼の姿勢をとると、「しょ、承知いたしました」と応え、ホプトとともに逃げるように立ち去っていった。


 「では、僕たちも少し、この場を離れます」

 レトはレイに頭を下げた。レイは不思議そうな顔になった。「どこへ行かれるのですか?」


 「急ぎ、確かめたいことがありまして」

 レトの答えは明快なものでなかったが、レイは納得したようにうなずいた。「了解いたしました」


 レトはふたたび頭を下げると身体の向きを変えて歩き出した。メルルは慌ててその後を追う。「レトさん、どこに向かうんです?」


 レトの歩みはまだ危なっかしいところがあり、回復したとはいえない様子だった。しかし、レトの歩みは誰にも妨げられないような力強さが感じられた。そこにはどこか意志の強さも感じられる。

 「ドニーの部屋だ」

 レトの答えも短いが、力がこもったものだった。



58


 疲れが残っているのかもしれない。

 ドニーの部屋に向かう階段を昇りながらメルルは思った。

 一段、一段、踏みしめる足が重く、先へ進むのがつらい。

 頭のなかでは、ある考えがぐるぐると回っていて、ほかのことが考えられない。ふいに浮かんだ考えに、メルルはがんじがらめに囚われてしまっていた。その考えに何らかの決着をつけないと、自分はドニーの死を悲しむことすらできない。メルルはそんな不安にも苛まれていた。


 階段を昇るのがつらそうなのはレトも同じようだ。

 レトはときおり身体をよろめかせながら階段を昇っている。身体の治療に全体力を使っているのだ。先日までのように軽々と昇れたときとは状況がまったく違う。レトは背中から大きく呼吸させるかのように肩を上下させていた。アルキオネはレトの肩の上でおとなしくしている。まるで置物のように身じろぎもしない。


 ふたりがドニーの部屋に着いたとき、ふたりとも疲れ切った表情になっていた。それでも、レトは立ち止まることもせず、部屋のノブに手をかけた。


 ドニーの部屋にカギはかかっていなかった。


 ふたりはドニーの部屋に入ると、ゆっくりとあたりを見渡した。


 窓には大きなカーテンがぶら下がっていたが、大きく開け放たれており、そこから外の景色が見えた。もっとも、外と言っても中庭をはさんで向かいの建物に景色のほとんどが覆われていたのだが。規則的に並んだ窓が、かえって景色の無機質な感じを際立たせた。


 「まぁ、階が違うだけだから景色に違いはないね……」

 レトはそんなひとり言をつぶやくと、ベッドのある壁に歩み寄った。壁にはドニーが着ていた外套が下がっている。


 レトは外套の内ポケットなどを探ったが、目的のものは見つからなかったらしい。無言で首を振ると、今度はベッドわきの大きなテーブルに向かった。そこには旅行用の大きなカバンが置かれている。


 レトは何の遠慮も見せずにカバンを開くと、なかの物をテーブルの上に並べ始めた。たいていは着替えで、ほかにはブラシやひげそりなど、身だしなみを整えるものばかりだった。例外的に数枚の紙きれが出てきたが、レトは内容も確認せずにテーブルに並べただけだった。


 「ここにもないね」

 「さっきから何を探しているんです?」


 レトは意外そうな表情をメルルに向けた。「魔法の黒水晶に決まっている」


 メルルは「あ」と小さく声をあげた。そうだった。解呪の儀式には、その術式が込められた黒水晶が必要不可欠なのだ。どうかしている。さっきから自分の頭のなかでぐるぐる回っていたのは、まさに解呪の黒水晶に絡んだことだったのに。


 「黒水晶は盗まれたんですか?」

 メルルは混乱する頭に、めまいに近いものを感じながら尋ねた。


 「どうだろう。その可能性は低いと思っている」

 レトはどこかのんびりしたような口調で答えた。


 「どうしてそう思うんです?」


 「この部屋にカギがかかっていなかった。ちなみにこの部屋のカギはドニーの遺体を調べたとき、ドニーのポケットに残っていた」

 レトはそう言いながら小さなカギを自分のポケットから取り出してみせた。

 「あの黒水晶は傷つけられるのはもちろん、絶対に無くなってはならないものだ。城内に妨害者が潜んでいると思われる状況で、ドニーが部屋のカギをかけ忘れるとは思えない。

 それに、この部屋の状況。ドニーの荷物は誰にも荒らされた様子はなかった。着替えもカバンのなかに整理して収められていた。

 もし、黒水晶がカバンのなかにあったとして、犯人が盗みに忍び込んだとき、その犯人は黒水晶を探し出したあと、着替えをきちんと折りたたみ、カバンに整理して収めるだろうか?

 ベッドにも乱れた様子も見られないし、この部屋には誰も足を踏み入れていないとみて間違いないだろう」


 「レトさんはさっきから何を言ってるんです?

 犯人の目的が黒水晶のはずがないです。なぜなら、黒水晶の話はドニーさんが私たちだけに教えてくれたものだからです。ドニーさんを殺した犯人が、そのことを知っているはずがありません。だから、犯人はドニーさんの部屋に足を踏み入れることもなかった」


 「そうかもしれない。しかし、ドニーを殺した犯人は、なぜ、急にそんな行動に出たのだろう?

 ドニーが解呪の儀式を進めていたのは秘密の行動だった。犯人は、昨夜になって急いでドニーを殺さなければならないと判断した。その理由は?

 僕には犯人が儀式の準備が進んでいることに気づいたからとしか思えない。そうであれば、黒水晶が狙われる可能性も出る。黒水晶の正体を知らなくても、ドニーの持ち物から見つかれば、儀式に使うものだと推測できるからね」


 「黒水晶は見つからない。でも、盗まれたとは思えないんですね?」

 メルルは暗い表情でつぶやく。どこか上の空のようにも見え、レトの説明に対し、反射的に疑問を投げかけているようだ。


 「もしかすると……。いや、可能性が高くなったと言えるかな。ドニーは黒水晶をどこかに隠したんじゃないかな? そうであれば、ドニーがこの部屋にあまり注意を払わなかった説明がつく」


 「そうでしょうか?」

 メルルの暗く、少し突き放した口調に、レトは思わず顔を見つめた。メルルはじっとレトを見つめている。その目には警戒心が強く感じられた。


 「どうした? どうして、そんな顔で僕を見ている?」


 「レトさん……」

 メルルは一歩、レトに向かって足を踏み出した。「どうしても拭えない考えがあるのです」


 「拭えない考え?」


 「レトさん……。正直に答えてください」

 メルルはさらに一歩、足を踏み出した。レトはメルルの真剣なまなざしに少したじろいだようにうなずいた。「ああ、わかった。何だ?」


 「レトさんが、ドニーさんを殺した犯人じゃないですよね?」



59


 ふたりの間にしばらく沈黙の時間が流れた。アルキオネもまた、レトの肩で身動きひとつせずに、じっとメルルを見つめている。


 最初に口を開いたのはレトだった。「そう考えた根拠は?」


 「レトさんは犯人がドニーさんを脅迫していた人物だと言いました。ただ、犯人が昨夜急に行動した理由と、黒水晶が無くなっている理由をきちんと説明できていません。犯人の行動には合理的な理由が見られないのです」

 「でも、僕が犯人であれば合理的な説明ができると?」

 「レトさんは、黒水晶に込められた術式のことを知っています。そして、レトさんがそれを欲しがる動機を持っています」

 メルルはレトの左手に視線を向けた。「レトさんの左手にかけられた魔法を解くことができるのは、おそらく、あの黒水晶だけじゃないですか?」

 「僕が黒水晶目当てにドニーを殺した……」

 「あの黒水晶は簡単に手に入れられる物ではありません。市場に出たとしても、私たちでは購入できる価格じゃありません。あの黒水晶を自分のものにするには、所有者であるドニーさんを殺して奪うしかない。そう考えたんじゃないのですか?」

 「なるほど。動機は説明できるようだね。では、なぜ、僕は昨夜、急にドニーを殺すことになったのだろう?

 そのことに合理的な説明はできるのかな?」

 「あの晩、私は階段でドニーさんと別れました。そのとき、私は階下へ降りるドニーさんにどこに向かうか、うっかり聞いてしまったんです。あんな開けたところで聞くべき話でありませんでした。ですが、ドニーさんも警戒心ももたずに魔法陣の最後の調整と点検をする、と話してしまいました。

 そして、翌日の夜にフロレッタさんの呪いを解いて城から『おさらばする』とも。

 そこはレトさんの部屋からあまり離れていませんでした。レトさんは私たちが話ながら廊下を歩いている内容が気になって聞き耳を立てていたのではありませんか? そして、ドニーさんが翌日に儀式を行なうつもりだということを知った。言い換えれば、黒水晶を手に入れるには、その夜に行動するしかない、ということをです」


 レトから反論の言葉はなかった。


 「レトさんがドニーさんを殺すことで都合が良いのは、レトさんがこの城に来る前に、何者かがドニーさんを脅迫していたということです。ドニーさんを殺したのが妨害者だと思われれば、脅迫状を送りつけるのが不可能なレトさんは容疑の枠から外れることができます。殺人の罪を、その妨害者になすりつけることができるのです。そういう心理的な利点をレトさんは利用した……」


 「なるほどね。よくできた推理だ」

 レトはようやく言葉を出した。低く、感情のこもっていない声だ。

 何かを感じたのか、アルキオネが突然レトの肩から羽ばたいて、部屋の隅に据えられたサイドテーブルの上へ舞い降りた。まるで、レトから距離を取ったようだ。


 「レトさん……」

 メルルは小さな声でレトの名を呼んだ。しかし、レトはそれに応えず、じっとメルルを見つめている。メルルはそれを見て全身が凍りついた。レトの身体からは、何かどす黒い空気があふれ出しているように見えたのだ。


 「メルル。君は本当にぬるい」

 レトはメルルに向かって一歩踏み出した。反射的にメルルは一歩下がる。


 「そこまで推理を進めていたのなら、まず、僕を拘束するか、または無力化すべきだった。

 君の考えるとおりであれば、次に命を狙われるのは君自身だと思わなかったのか?

 君の口さえ塞いでしまえば、誰も僕が犯人だと疑いはしない。

 君は現状を把握できているか?

 この部屋には僕たちふたりだけだ。と、言うより、この階層にふたりだけだ。この階は来客用で、ドニーのほかには君の部屋しかない。今、ここで君が助けを呼んだとして、誰の耳にその声が届くだろう?

 君は強力な攻撃系魔法が使える。でも、君が呪文を唱える猶予を僕が与えると思うかい?

 君が呪文を唱えるためにひと呼吸、そう、ほんのひと呼吸する間に、僕は君の喉をこの剣でかき切ってみせるよ」

 レトはスラリと剣を抜き放つと、その剣先をメルルの喉元につきつけた。


 「レトさん……」

 メルルの両目から涙がぽろぽろこぼれ出した。「本当にドニーさんを殺したんですね……」


 「君は本当にぬるいよ」

 レトはさらに一歩メルルに向かって足を踏み出した。


 「カァッ!」


 突然、空気を切り裂くような鋭い声が響くと、レトの頭めがけて黒いものが飛び掛かった。アルキオネだ。アルキオネは鋭いくちばしを突き刺さりそうな勢いでレトの頭につつきだす。

 「痛いっ!」

 レトは思わず大声をあげた。思わず手から剣が落ち、床に転がった。

 アルキオネの攻撃は止まらない。ナイフの切っ先のような爪をレトの肩に食い込ませ、さらに激しくつついている。

 「痛い、痛い! やめてくれアルキオネ!」

 レトは悲鳴に近い叫び声をあげる。必死でアルキオネを振り払おうとするが、アルキオネは執拗につつき続ける。レトの顔は苦痛で歪んだ。

 アルキオネの突然の介入に、メルルはその場で呆然と立ち尽くしているだけだった。


――アルキオネちゃんが私に味方してくれている?


 これまでずっとレトのそばにいて、レトの味方だったアルキオネ。そのアルキオネがメルルをかばうために戦っている。メルルにはその光景が信じられなかった。


 「痛い、痛い! わかった、わかったよ、アルキオネ! 僕の悪ふざけが過ぎた! 反省する! だからもう勘弁してくれ!」

 レトは自分の頭を両手でかばいながら叫ぶ。それを聞いて、メルルの目が丸くなった。


 「悪ふざけ……が、過ぎた……?」


 そこでメルルはハッと我に返った。「じゃ、じゃあ、レトさんは犯人じゃないんですか?」


 「そうだよ!」

 レトはアルキオネの攻撃を両手で防ぎながら大声で答えた。

 「ただ、君が、たとえ僕相手でも、自分の安全を省みないやり方で追及することに腹が立ったんだ。だから、少し脅かして反省させようかと……」

 「カァッ!」アルキオネはさらに大きく羽ばたかせてレトの頭にくちばしを叩きこむ。

 「痛いっ! だから、もうやめてくれアルキオネ! お芝居は終わりだ。彼女を脅すようなことはもうしない! 本当だ!」

 レトはようやくアルキオネから解放されると、床によつんばいになって大きく息を吐いた。

 アルキオネはさっきいたサイドテーブルへ舞い戻ると、大きく翼を広げて「カァー!」と威嚇するような声をあげた。


 「レトさん……。本当に、犯人じゃないんですね?」

 メルルはレトを見下ろしながら声を震わせた。レトは床に尻をつけた姿勢になると、メルルの顔を見上げた。「もちろん、僕は犯人じゃない」

 レトはそう言いながら左肩の鎧を外し始めた。すっかり鎧を取り外すと、異形の左手が姿を現した。


 「これを見てくれ。もし、僕が黒水晶目当てでドニーを殺したのなら、とっくに黒水晶を使っている。左手の魔法は解けているはずだ。でも、ご覧のとおり、僕の左手は異形の姿のままだ。

 ドニーを殺して黒水晶を奪うなら、僕は確実に手に入れてからそうする。どこにあるのか、ドニーが身に着けているのか、そんなことすらわかっていない状況で僕がドニーを殺すなんてありえない。後から探すなんて賭けをするにしても分が悪すぎる。どうだい? 僕が犯人ではない根拠になるだろ?」


 「たしかに、合理的なレトさんがそんな頭の悪いことはしませんよね……」

 メルルは納得したような声でつぶやいた。そして、くたくたとその場でへたりこむ。


 「メルル?」

 レトが不安そうな声で話しかけると、メルルはぐすぐす泣き出した。

 「ひどいです、ひどいですレトさん……!」


 レトはメルルに右手を伸ばしかけたが、その手を下ろした。顔だけをそむけるように横に向ける。「悪かった。すまない」


 「私、本当に不安だったんです。ドニーさんが倒れているのを見て、誰がこんなことをしたのだろうと思ったとき、ふっと浮かんだのが黒水晶のことでした。あれを誰かが狙ったのだろうかと。でも、黒水晶の存在を知っているのはドニーさんのほかには私とレトさんしかいません。だから、だから私は……」


 「その考えに囚われて、ほかのことが考えられなくなった、ということか」

 レトはやれやれというように首を振った。

 「あと少し考えを推し進めれば、僕が犯人でないと考えられただろうに」


 「どこがですか!」

 メルルは泣きべその顔でレトを睨む。


 「犯行現場は中庭とそれほど離れていない1階の廊下。あそこはたしかにひとの出入りが少なく、犯行を目撃される危険も少ない。でも、中庭には魔法陣を警備するための兵士がふたりもいる。万が一、ドニーに助けを呼ばれたら見つかる危険はあるんだ。ふいをつけるとしても犯行場所として適切とは言えない。そこには犯人の焦りがうかがえる。

 僕がドニーを殺すなら、そんな場所は選ばない。僕の部屋に招いて、無力化させてから殺す。君が使う『脱力の陣』。あれは僕も使える。魔法陣に誘い込めれば抵抗されずに殺せるからね。焦る必要もない。

 凶器に槍を選んでいることもそうだ。さっき話したように無力化させることができれば、あとはどのように殺してもいい。理想的なのは病死に見える方法だ。それなら、そもそも殺人の容疑者になることもない。だから、僕だったら無力化させたドニーの口と鼻をふさいで突然死に見せかけて殺すかな。暴力的な方法で、あからさまに殺人とわかる方法を採らない。

 つまり、わざわざ君に疑われるような方法でドニーを殺さないし、万が一、そんな事態になれば、君も殺して城から逃げ出すだろう。殺すのはドニーだけ、という状況にはならない。君に何ごとも起きていない時点で、僕が犯人というのはありえない話だよ」


 メルルは顔を覆ったまま何も返さない。レトは不安そうな顔になった。「メルル?」


 「本当に、レトさんって嫌なひとです。でも、おかげでスッキリしました」

 メルルは覆っていた手を離すと、怒った目をレトに向けた。

 「私の推理が足りないことはよく理解できました。だからといって、あんまりじゃないですか。私、ほんとに怖かったんですから!」


 「それは、君の浅はかさに腹が立ったからで……」

 レトはそう言いかけたが、背後から「カァッ!」とアルキオネの鳴き声が聞こえて背筋を伸ばした。

 「いや、たしかに悪かった。謝る。ただ、これだけはわかってほしい。たとえ、相手のことを信じたい気持ちがあったとしても、容疑者とふたりきりで推理を話そうとしないでくれ。追い詰められた犯人は大胆な行動に出る危険があるんだ。君は無策で僕を追及した。あれじゃもし、僕が本当に犯人だったら君は殺されても仕方がないと思うよ」


 「その教訓のために私を脅したんですね?」


 レトはまっすぐに見つめるメルルの視線が耐えられないように顔をそむけた。「すまない」

 「もういいです。レトさんが言うことももっともですから」

 メルルはゆっくりと立ち上がりながら言った。メルルの顔に泣きべその表情はすでになかった。

 レトが少しあっけにとられている間に、メルルは窓際のソファへ歩み寄って座った。この間無言のままで、ソファに腰を下ろしてからも無言のまま窓の外に視線を向けていた。

 レトも無言で立ち上がると、メルルの向かいに腰を下ろした。


 「レトさん」メルルは窓の外に視線を向けたまま話しかけた。

 「何だい」

 「さっき、私に対して怒っていたのは、レトさんのことを疑ったからではなく、私があまりに不用心だったからなんですよね?」

 「そうだよ」

 「容疑者扱いしたことには腹が立たないんですか?」

 レトは首を振った。「可能性があるなら、そういう考えは捨てないほうがいい。いや、捨てるべきでない、だな。探偵であればなおさらだ。

 それが、どんなに信じられない事実だとしても、推理が成り立つなら、もっと追及していくべきだ。たとえ、それが僕が犯人だと考えられることでもだ。その意味で、さっきの君の行動は正しい。ただひとつだけを除いてね」

 メルルはため息をついた。「レトさんって、ほんと、根っからの探偵なんですね」

 レトは顔をしかめた。「呆れたのか?」

 「そりゃあ呆れますよ。さっき、私はすごい覚悟をもってレトさんに尋ねたんです。見当外れの推理だったら、そのことを指摘されて怒られるぐらいの。

 でも、レトさんは、私の的外れの推理には腹を立てていないって言うんですから」

 「探偵であれば、すべてを疑ってかかるぐらいでないと始まらない。君はあれでいいんだ。今後も、何らかの事件で僕に疑わしいところがあれば、遠慮なく僕を追及するがいい。こんなことで君に委縮されるほうが嫌だ」

 「わかりました」

 メルルは顔をレトに向けた。「私からも謝ります。今後は自分の身の安全に注意を払いながら犯人の追及をしていきます」

 「わかったのならいい、謝らなくても。僕もどうかしていた。改めてごめん」

 レトは深々と頭を下げた。メルルは首を振る。

 「レトさんこそ謝らないでください。『おあいこ』ってことにしましょう」

 レトは頭をあげた。「わかった」


 「『おあいこ』で落ち着いたところで……。そろそろ、ここで仕切り直しませんか。一からやり直すんです。今度こそ、事件の真相をつかんで犯人を捕まえるんです」

 メルルはレトを正面から見つめた。さっきまで見せた感情の高ぶった様子は消え去り、新しい決意に満ちた強い光が、メルルの目のなかにあった。レトはその光に向かってうなずいた。


 「ああ、そうしよう。仕切り直しだ」



60


――仕切り直しだ――

……と宣言したものの、ふたりはしばらく無言で座っているだけだった。

 さきほどまでの気まずさは薄れてきたものの、何から話題を振ればいいか、いや、どちらが先に口を開くか、妙な探り合いのような状態に陥ってしまっていたのだ。


 レトは窓の外をずっと見つめている。表情は穏やかで、メルルを脅したときに見せた禍々しさはまったく見られない。もともと、そんなものなんて無いかのようだ。


……レトさんって不思議なひとだ……。


 レトの横顔を眺めながら、メルルはふとそんなことを考えていた。

 日ごろの口調は穏やかで、礼儀正しい。冷淡のように見えて、他人のことを思いやっているところがある。きっと、性格は優しいのだと思う。

 一方で、悪党を相手にするときはふてぶてしいとさえ思える態度をとり、発する言葉も辛辣なものになる。しかし、それは相手を怒らせたり、理性を働かせないようにするためで、犯人の裏をかくためにわざとそうしているのだとわかる。計算高いのだ。


 ひとを善人と悪人とに分けるのは簡単ではない。悪人も四六時中、悪行をしているわけではないからだ。悪人にも思いやる家族や恋人が存在することがあるし、悪行といえる行為にも、やむをえない事情が背景にあったりすることもある。レトが時おり見せる『悪行』は、犯人を捕らえるため、あえて『悪』寄りの行動をとっているようだ。レトが日ごろ見せる優しさと、時おり見せる『悪』は矛盾するはずなのに、どこか一貫性のあるレトの人間性でないかと思えるのだ。つまり、レトは『悪行』を含めて『善』のひとなのだ。


……でも、どうして、そんな、他人から誤解されそうな態度や行動をするのだろう? あれだけ計算高く行動できるなら、それこそ誰にも好かれるよう立ち回ることもできるだろうに……。

 メルルはレトのことを不思議だと思ったのはそこだった。事件をともに追う憲兵たちのなかで、レトのことを評価しているのはほんのわずかしかいない。多くはレトのことを煙たく、目障りだと思っているのだ。ただ、レト本人はそれをまったく気にしていないようだが……。もし、うまく立ち回れば、レトは憲兵隊に引き抜かれる可能性だってあるのだ。そうなれば、王国直下の兵士として栄達の道も開かれるだろう。レトはそうなれるだけの才能があるのだ。


 メルルがそんなことをつらつらと考えていると、いつの間にかレトがこちらを見つめていることに気づいた。メルルは慌てて居住まいを正す。

 「す、すみません。何か?」


 「犯人は、なぜドニーを襲うことにしたのか考えていた」

 レトはふたたび窓の外に目を向けた。


 「現場の状況から、あれが計画的でなかったことは確かだ。もし、襲撃中にドニーが大声をあげていたら、誰かに声を聞かれていた可能性が高い。声の届きそうなところ、つまり、中庭には夜警の兵士が立っており、現場の上階は兵士たちの部屋だった。変事に気づいた誰かが階下へ駆け下りたら、目撃されたかもしれないんだ。犯人はそれでも凶行に及んだ。そこには犯人の焦りが見える。なぜ、犯人は焦ってドニーを殺したのだろうか?」


 レトは無心で外の景色を見ていたわけでなかったのだ。メルルは自分の集中力の無さを反省し、すぐ思考を巡らせた。

 「ドニーさんは、魔法陣の修復に手をつけず、まるで儀式を行なうつもりがないかのようでした。犯人がドニーさんをそうするように脅迫したからです。ですが、ドニーさんは犯人の脅迫に屈したふりをしているだけだった……。もし、ドニーさんの意図に気づかなければ、犯人はドニーさんを殺そうと思わなかったのではないでしょうか?

 つまり、犯人は、ドニーさんが密かに儀式の準備を進めていたことに気づいた……」


 「そうだろうね。僕もそう思う。じゃあ、次の問題だ。犯人はどうして昨夜になって自分が欺かれていたことに気づいた?」


 「それは……。もしかしたら、私がレトさんを容疑者と考えた状況がそのまま犯人に当てはまるのじゃないでしょうか?

 犯人は、階段の踊り場で話している私とドニーさんの会話を耳にした。あのとき、ドニーさんは魔法陣の最後の点検を行なうことを口にしていたんです。それを聞いて犯人はドニーさんに欺かれていたことを知った……」

 「たしかに可能性はある。でも、君たちの会話が聞こえる範囲に誰かいたかな? 会話を盗み聞きするためにはある程度距離を詰めなければならない。君やドニーに気づかれず、死角に身を隠せる場所なんてあったかな?」


 レトの疑問に、メルルは考え込んだ。たしかに、あたりは暗かったとはいえ、メルルもドニーも炎の魔法であたりを照らしていた。物陰の、とくに暗いところはなんとなく怖いので、そこには明かりを向けて誰もいないことを確かめながら歩いていたのだった。

 「……たしかに、周囲に誰もいませんでした。だからこそ、私もドニーさんも、あんな不用心な会話をしていたんです……」


 「つまり、誰かに盗み聞きされたわけでないと考えられるわけだ」

 「そうですね」

 メルルは頭を抱えたくなった。じゃあ、なぜ、犯人は……!


 「メルル。窓の外には何が見える?」

 レトの質問で、メルルは我に返った。「え? 窓の外、ですか?」

 メルルが窓の外に目を向けると、どんよりとした空を隠すように、無機質な壁が全面に広がっていた。中庭を囲むように、向かい側にも城の建物がそびえているのだ。

 「向かいの建物が見えます」

 「ドニーはその建物の1階で殺された。つまり、上階にいくつか見える窓は、兵士たちの部屋の窓だということだ」

 レトに指摘されるまでもなく、メルルも知っていることだ。メルルはゆっくりとうなずいた。「そうですね……」


 「もし、犯人がそれらの窓から、こちらを監視していたらどうだろう?」


 メルルは驚いてレトに振り返った。「え?」


 「この城は特殊な体制下にある。つまり、基本的に城は明かりを点けず、真っ暗な状態だ。明かりを点けるのは必要に応じて最小限にとどめている。たとえば、僕たちが部屋で話していたときとか、移動するときとか。それ以外は明かりが無いんだ」

 レトの言いたいことがわかった。


 「犯人は向こう側からこちらの様子を、明かりを頼りに監視していたんですね? 私たちが自分の部屋にいるかどうかは明かりでわかる。あの晩、私たちはレトさんの部屋に集まっていました。レトさんの部屋だけ明かりが灯った状態です」

 「遠目でも、そこに君やドニーがいたのは確認できただろう。やがて、ふたりは僕の部屋から出て、自室に向かった……はずだった。だが、メルルの部屋は本人が戻ったときの明かりが灯ったが、ドニーの部屋に明かりは灯らなかった。それどころか、階下からどこかへ向かう明かりが見えた……」

 「犯人は、そこでドニーさんが密かに魔法陣の構築を進めていたのだと気づいたんですね!」

 「あるいは、その疑いを濃くしたか、だ。ドニーの行動は不審だが、確信が持てるものでもない。そこで、犯人は階下へ降り、ドニーの行方を追うことにした。

 あのとき、ドニーがどのような行動をしていたのかわからない。だが、犯人は疑惑を深めたようだ。ドニーの最後の行動は階下の道具入れから、今僕たちがいる棟へ戻る途中だと思う。犯人は同じく階下の武器庫から槍を持ち出し、柱の陰に身を潜ませてドニーを待ち伏せた。おそらく、犯人はドニーが儀式をいつ行なうつもりかわからなかっただろう。だからこそ、犯人はドニーを殺すことを急いだ。あのとき、あの瞬間に、犯人は決断し、行動を起こした。だから、犯行現場があんな場所だったんだ」


 「計画的ではなく、さらに犯行現場で判断した、とっさの行動だった……」

 メルルは顔をうつむかせると、復唱するかのようにつぶやいた。たしかにそうなのだと思う。だからこそ、犯行が目撃されそうな場所だったのだ。犯行は大胆であるが、その一方で犯人の焦りらしいものが垣間見えた理由はそれだったのだ。


 「僕たちがしなければならないことが増えたね」


 メルルがレトに視線を戻すと、レトはテーブルの上のアルキオネの頭を撫でていた。いつの間にかテーブルに舞い降りてきたらしい。

 アルキオネは目を閉じてレトのされるがままになっている。どうやら、レトとアルキオネはすでに仲直りできたようだ。


 「レトさん、それは何ですか?」


 レトは人差し指をあげてみせた。

 「ひとつ。兵士の宿舎棟に向かい、彼らに聞き取りをすること」

 次に中指をあげる。

 「ふたつ。僕たち3人の部屋を監視するのに最適な場所を探す」

 レトはさらに3本目の指をあげた。

 「みっつ。行方不明になった黒水晶を探し出すこと。これは、おそらく君でないとできない」

 メルルは目を丸くした。「どうしてそう思うんです?」


 「黒水晶について、ドニーは僕に何も教えなかった。僕は、君ほど術式魔法に詳しくないし、万が一、ドニーが儀式を行なえなくなったとき、代理を任せられるほど魔法使いとしての資質に恵まれてもいないからだ。

 でも、君は僕よりもドニーと行動をともにしてきた。それに、魔法使いとして彼から信頼もされていた」


 「でも、ドニーさんは黒水晶をどこに隠したか、私に教えてくれませんでしたよ」


 「話題にもしなかった?」

 「ええ」


 「だけど、もし、ドニーが後事を託すとしたら君しか考えられない」

 レトは腕を組んだ。

 「何も残さずに彼が死んだとは思えないんだ……。ドニーは、妙なところでこちらをハメようとする男だった。

 万が一の代理として、君に何かを預けるなり、あるいは何か手がかりになるようなことを言い残したりしたと思うんだが……」


 「でも、それは、自分がもう死ぬとなったときのことじゃないですか? 階段で私と別れたときのドニーさんは、自分の身に危険が差し迫っていたなんて気づいた様子もありませんでした。

 レトさんの言うように、私に万が一の代理を任せたいと考えていたとしても、あくまで考えの段階で、私に話そうと思わなかったんじゃないでしょうか」


 「そうかもしれない」レトは認めた。「それでも、黒水晶の行方は君がカギを握っていると思う。ドニーから思わせぶりなことを聞いたとか、いかにもなことを思い出せと言うんじゃない。これまで、君とドニーとの間で交わした会話のなかに、その場所を暗示するものがなかったか思い出してみてほしい」


 レトの言いたいことはわかるが、「そう言われても……」メルルは困惑の表情を浮かべるだけだった。


 「まぁ、黒水晶の件は後にしておこう。まずは兵舎棟に向かわないと」

 レトは話を打ち切るように立ち上がった。

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