黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 1
1
――これは、――
理不尽によって傷つけられ、打ちのめされた者たちが
さらなる理不尽に血の涙を流しながらも
抗い続けようとする者たちが奏でる狂想曲……
****************************************
「その」城は、うっそうとした森に囲まれた丘の上にあった。
古ぼけた石造りの城壁に守られているが、広大な森のなかでは、まるで小さく見える。城の四隅には細長い尖塔がそびえているが、強い風でも吹けば折れてしまうのではと思えるほど弱々しい。
今の時刻は夜半を過ぎたころ。城は月明かりに照らし出され、弱く、青白い光を放っていた。
城の一室では、メイド服姿の女たちが慌ただしく出入りしていた。そこにはメイドだけでなく兵士など鎧を身に着けた男たちの姿も混じっていた。
彼らが出入りしていた部屋は高価な調度品がそろえられた豪奢なところで、ベッドも大きい。
ベッドにはひとりの若い女性が横たわっていた。
大人になりきっていない、まだ少女とも呼べるほどに若く、そして、美しかった。ただし、その美しい顔は苦悶の表情を浮かべており、閉じられた両目からは血の涙がにじみ出ていた。身をよじらせながらうめき声とも悲鳴ともつかない声をあげている。
「お嬢様! どうか、気をしっかり!」
彼女に仕えているらしい年老いたメイドが彼女の肩を懸命にさすりながら必死に声をかけていた。
年老いたメイドは、肩をさする手を休めることなく後ろを振り返り、「シャーリー! 早く、お薬を!」と大声をあげた。
年老いたメイドの背後には、同じメイド服に身を包んだ若いメイドが控えていたが、こちらはまるで慌てる様子も見せず、「お薬って、どのお薬をお持ちいたしましょう、ロッタさん?」と落ち着いた声で尋ねる。
ロッタと呼ばれたメイドは忌々しそうにシャーリーを睨んだ。医学の知識に明るいわけではないロッタに、この質問は愚問だった。
シャーリーはロッタの表情を見ると、ため息をつくような表情で頭を小さく下げた。
「とりあえず薬箱を取りに参ります」
シャーリーはロッタに背を向けて部屋から出て行った。入れ替わりに鼻眼鏡をかけた老いた男が部屋に飛び込む。
「ロッタ! お嬢様のご様子は?」
この城の執事と思われる老人は、息せき切った様子で尋ねた。
ロッタは困惑した表情で首を横に振る。しかし、その間もさすっている手を休めることはしない。
「わからないんです、ガッデスさん。何も。ただ、急にお苦しみになって」
「痛い、痛い、痛い……」
少女の口からは弱々しい声が漏れる。彼女はベッドに顔をうずめるようにして苦しんでいた。
「お嬢様……。おいたわしや……」
老執事はつぶやきながら、彼女のベッドに近寄った。苦渋の表情で主人である少女を見つめる。執事の目は少女の首もとに向けられた。苦しみもがいている少女の寝衣から白い首があらわになっている。
「……これは!」
老執事の鼻眼鏡が光ると、彼はベッドに駆け寄ってロッタの手を取った。
「ロッタ。悪いが手をどけてくれませんか?」
ロッタは目をぱちくりとさせて手の動きを止める。「はい?」
「お嬢様。失礼をいたします」
老執事はロッタと場所を替わると、彼女の金色の髪をかきあげて首もとをさらにあらわにした。
彼女の首の後ろには黒くて丸いものが浮かんでいた。
複雑な文様に縁どられた幾重にも構成された円形の模様。「それ」は自然にできるような痣とはまるで異なるほど人為的な形をしていた。
「これは……」
老執事の額から、ひとすじの汗が流れる。
「呪いの魔法陣……!」
2
「おじさん、ありがとうございました」
ひとりの少女が、魔法使いが被る三角帽子をぴょこんと下げてお辞儀した。
頭を下げられた行商人風の男は馭者台の上から鷹揚に手を振って応える。
よく晴れ渡った空の下。
彼女は行商人の荷馬車から降り立ったところだった。
「ここがレドメイン領マイエスタ、城下の村、か……」
同じように荷馬車から降り立った若い男がつぶやいた。彼は皮の胸当てや皮のズボンなど一般的な冒険者のいでたちだが、なぜか左腕だけ白銀の鎧に覆われていた。身体には似合わないほど大きなものだ。そして、さらになぜか、肩の上に一羽のカラスがとまっている。
「ようやく着きましたね、レトさん」
三角帽子の少女は若者に笑顔を向けた。彼女は黒い魔法使いの服装で身を包んでいる。
「着いたというには、まだ早いよ、メルル」
レトと呼ばれた若者は苦笑いを浮かべて歩き出した。一方、メルルと呼ばれた少女は少し不満そうに頬をふくらませた。
「もう。レトさんって、いつも嫌味なことを!」
『レドメイン家次期当主に呪いをかけた人物を探り出してほしい』――
メリヴェール王立探偵事務所にそんな依頼が届いたのは、王都でも寒さが厳しくなる霜輝期に入ったころのことだった。この時期になると温暖な王都でも霜が降りるようになり、朝の光に照らされた霜が銀色に輝くのだ。
メルルは寒いのは苦手だが、この季節は美しい季節だとも思っていた。『霜輝期』という呼び名も詩情があるように思われた。もっとも、メルルは自分に詩心があるとは思っていないのだが。
メルルは熱々のお湯で淹れたカント茶にふぅふぅ息を吹きかけて、コップの温もりで手を温めながらこの異端の依頼を聞いた。
「『呪い』ですか?」
メルルはぽかんとした表情で聞き返す。実際、理解ができていない。
「まぁ、あなたにとっちゃ『呪い』なんてバカバカしい話って思うわよねぇ」
探偵事務所の先輩であるヴィクトリアはメルルと同じようにカント茶を口にしながら言った。
「そもそも、『呪い』なんて、迷信でもなんでもなく、魔法の術式であることがわかっちゃってるからね。『呪いをかけられた』ということは、すなわち『状態異常の魔法にかけられた』って話だから。でも、そうなると、今回の依頼は迷信うんぬんの話じゃなく、誰かが状態異常魔法を誰かにかけて害そうとしているってことになるわけ」
ヴィクトリアの説明で、メルルは「ああ」と納得した声をあげた。
「じゃあ、今回は魔法による、いわゆる『傷害事件』なんですね?」
「そういうこと」
「じゃあ、今回はヴィクトリアさんが捜査に行くんですか?」
事務所では、いつからか得意分野のすみ分けが出来上がっていた。
凶悪で暴力的な事件であれば、最強の武闘派コーデリアが担当する。
彼女は体格が一番小柄でありながら、素手で魔獣を倒せるほどの実力者だ。探偵になる前は王国軍の兵士だった。彼女は今、ふたりと同じようにカント茶を口にしながら窓の外に目を向けていた。黒と白を基調とした少女趣味にあふれるドレスに身を包んでいる。なんでも年端のいかないころに軍の幼年学校へ入り、除隊するまで軍服しか着たことがなかったそうだ。除隊したことにより、自由に着たいものが着られるということで、今のような恰好をするようになったと聞いている。顔も幼いので、何も知らないものであれば10歳ほどの少女にしか見えない。しかし、見た目で侮ると痛い思いをすることになる。彼女は軍隊時代、『ギデオンフェルの雌豹』という字で呼ばれていたほどなのだから。
魔法関係の事件であればヴィクトリアが適任者だ。彼女はかつて、王立魔法学院の研究員だったのだ。
当然、魔法については一番通じている。特に、魔法でしかけられた罠の解除は彼女の独擅場と言っていい。こちらは無造作に白衣をまとっただけの姿だが、大人の女性の色気にあふれており、実際に言い寄る男は多いそうだ。本人は恋愛相手に困ることはないと語っていたが、現在のところ交際している男性はなさそうである。
そして、レトは総合的な探偵としてさまざまな事件を担当している。
手がかりをひとつひとつ分析し、推理を組み立てていくのが得意だ。また、コーデリアほどの強者でないにしても剣の腕前は上級者のそれであり、魔法にもいろいろと通じている。事務所のなかでは事件の解決数が最も多い。メルルがこの事務所に入ろうと思ったきっかけの人物であり、目標としている人物でもある。
探偵事務所は、この3人のほかには所長であるヒルディー・ウィザーズと探偵助手見習いのメルルしかいない。
『適材適所』として考えるのであれば、ヴィクトリアが担当するのが自然だと思ったのだ。
しかし、ヴィクトリアは首を横に振った。「今回はレト君の出番よね」
「え? どうしてです?」
メルルは事務所を見渡した。しかし、事務所にはレトの姿はない。彼はとある事件の後処理のために早朝から憲兵隊本部へ出かけているのだ。アルキオネの姿もない。彼女はいつもレトの肩や頭にとまっているカラスで、今日もレトにくっついているらしい。
「レトが魔法に詳しいのは知っているな?」
ヒルデイーが話に入ってきた。メルルは黙ってうなずく。
「レトが魔法を使えるようになったのは、『討伐戦争』で魔族と戦っていたころだ。レトに魔法を教えていた師匠はけっこういいかげんな人物だったようで、レトは魔法のことをろくに知らないうちに高度な魔法を習得させられたそうだ。戦争が終わると、レトはあまりに魔法のことを知らなすぎると考えたようで、王立の図書館に通い詰めて、独学であれだけの知識を身に着けたということだ」
その話は知っている。立身出世に興味がないはずのレトが上級市民になったのは、王立図書館に通うためだそうだ。そこでは、魔法に関する書籍は上級市民以上でなければ閲覧できない決まりになっている。レトは王立図書館の魔導書などが閲覧できる立場になるため、上級市民になったのだ。もっとも上級市民にはなりたいからなれるというものではなく、さまざまな条件を達成しなければならないのだが。
「レトは一般的な魔法の知識を深めるために通っていただけではないらしい。彼が一番関心を持っていたのは『呪い』、さっきヴィクトリアが説明した『状態異常魔法』に関することだった。おかげで、ヴィクトリアよりもその方面に明るいというわけだ」
そうか。メルルは思い当たるところがあった。
レトは左腕をいつも大きな鎧で覆っている。戦争で左腕に深い傷を受け、今でも直接空気にさらすと古傷が悪化するから――それが、レトがメルルに説明した鎧を身に着ける理由だった。
しかし、本当の理由は別にあるとメルルは思っていた。その古傷というのは、本当は『呪い』を受けたものであり、レトが『呪い』の研究をするのは、自らにかけられた呪いを解くためだと考えたのだ。
「それと、今回の依頼は『呪い』を解く話じゃない。『呪い』をかけた者を探し出す、というものだ。犯人追跡の任務であれば、レトが最適じゃないか?」
「納得です」
メルルは素直にうなずいた。
「何が最適で、何に納得したんだ?」
急に背後から声が聞こえ、メルルは飛び上がって振り返った。事務所の扉が開いて、レトがアルキオネを肩にのせた姿で入ってきたところだった。レトは事務所を見渡すと、ふたたびメルルに顔を向けた。「で?」
メルルは苦笑いを浮かべた。
「レトさん、次の仕事の話です」
……こうして依頼のあったレドメイン領へレトが向かうことになったのだが、メルルも助手見習いとして同行しているのだ。
「ここはまだ城下の村だからね。依頼者のいる城まではまだ距離がある」
歩きながらレトはメルルに話しかけた。メルルは小さな身体には不似合いなほど大きなカバンを手に、急ぎ足でついていく。
村は大きな樹々にぐるりと囲まれたところにあり、閑静な雰囲気だ。道は大きな石の砂利で自然の舗道になっている。
ふたりは道をじゃりじゃりと音を立てながら進んだ。
「レトさんはここをご存知なのですか? 以前に来たことがあるとか」
レトの声に違和感を抱いてメルルは尋ねた。レトの声には暗い響きが感じられたのだ。ひょっとして過去に何か嫌な思い出でもあったのかと、メルルは想像してしまっていた。
「……いや」
レトは否定したが、その声も暗く低い。そして、いつも以上に小声だ。
メルルはレトの声がもう少し聞こえるよう、少し駆け足でレトに追いつくと並んで歩いた。
「顔をあまり動かさないようにしてあたりを注意してくれ。村人たちが僕たちを監視している」
レトの言葉にメルルは驚いたが、レトの忠告に従って目だけを動かしてあたりをうかがった。状況を理解すると、メルルは心に刃を突きつけられているような気持ちになった。
村に入ってから何人もの村人とすれ違ったりしていたが、彼らの表情まで見ていなかった。改めて注意してみると、多くの村人がこちらに視線を向けていたのだ。
何かを問いたげな目。
感情をまったく感じさせない虚ろな目。
警戒心を隠そうとしない目。
『悪意』とは違う。しかし、メルルは自分たちが歓迎されていないことを視線だけで感じ取った。
「……レトさん、これって……」
レトはメルルに顔を向けることなく首を振った。「ここで話すのはよそう」
ここへ来る前に、レトはメルルに自分たちが探偵であることは伏せて行動しようと話していた。ここでの会話は避けたほうがいい。メルルは黙ってうなずくと、顔を伏せて歩こうとした。そのとき、目のはしに動くものが見えて、つい、そちらに視線を向けてしまった。
メルルが見たのはひとりの少年だった。10歳あたりになるのだろうか。痩せて、着ている服は泥だらけだった。泥は顔にもついていた。少年は同じ年齢ぐらいの少女をともなって、道のはしに駆け寄ってきたのだ。少女は地味な色合いの服とスカート姿だった。
少年はメルルと目が合うと表情をこわばらせた。どこか怒っているような表情に変わると、少年は無言のまま背を向けて駆け出した。かたわらに立っていた少女もメルルに背を向けると、「待ってよ、ポッチぃー」と少年に呼びかけながら走り去ってしまった。
……子どもにさえ、警戒されている……。
メルルは暗い気持ちになった。
ふたりはしばらく無言のまま歩いていた。空気は冷たく、身体が冷えてくる。メルルがどこかで暖を取れないか考えだしたころ、レトが急に足を止めた。
「あそこに入ってみよう」
レトは右手をあげて村の一角を指さしていた。
レトが指さしたのは一軒の小屋だ。軒先からは板でこしらえた看板がぶら下がっている。それには『お食事処』と読める。
「一応、城下の村だ。旅人向けに商売しているはずだよ」
一時避難先としては最適かもしれない。メルルは小さくうなずいた。
「行きましょう、レトさん」
ちくちく刺さる視線を振り払うように、ふたりは食堂のなかへ入った。
食堂はどこかでストーブを焚いているかのように温かった。
季節の寒さだけでなく、村の冷たい雰囲気を味わっていたメルルは部屋の暖かさにほっと息を吐いた。この温もりを得るためだけでも食堂に逃げ込んだ甲斐はあった。そう思えた。
「おや、いらっしゃい」
奥から柔らかい声が聞こえると、大柄の中年女性が姿を見せた。頭には格子柄のスカーフが巻かれているから、おそらく食堂のおかみだろう。大きな身体を揺らしながら、丸々した手を大きく広げる。
「どこでも好きなところへ座っておくれ。今なら選び放題さ」
おかみはそう言うと大きな口を開けて笑い声をあげた。店にはおかみをのぞけば、レトとメルルのふたりだけだった。
店内は思った以上に狭く、4人掛けのテーブルがふたつあるが、それで店内の大部分を占めていた。奥にはカウンターと丸椅子が4つ。椅子の間隔は狭く、そこでは隣の客同士で肩のぶつけ合いになりそうだ。
レトとメルルはテーブルのひとつに向かい合わせで座った。
そこへおかみが水の入ったグラスを盆に載せてやってきた。グラスは3つある。
「こんな寒いところへわざわざお越しになりましたね。何か冒険の話でもあったのかい?」
おかみは気さくな口調で話しながらグラスをテーブルに置く。おかみは2つのグラスをレトの前に置いた。「ひとつは肩のお連れさんに」
おかみはレトの肩にとまっているアルキオネに視線を向けて笑みを浮かべた。
日頃のレトは笑顔を見せることはあまりないが、おかみの気遣いにレトの口もとがほころんだ。「ありがとうございます」
「最近はここに立ち寄る冒険者が減って、冒険者の流行り廃りはわからなくなってね。最近の冒険者はカラスを飼うようになったのかい?」
おかみの質問はとりとめがない。どうやらレトたちのことを知りたいというより、ただ会話したくて話しかけているらしい。最初の質問に答えてもいないのに、次々と質問をしてくるのだ。
「僕の肩にとまっているのはアルキオネといいます。僕は彼女を飼っているわけじゃありません。ついでに言えば、今のところ冒険者にカラスを飼うことは流行っていませんね」
「へぇ、そうかい」
おかみはすでに興味を失くしたかのような薄い反応を示すと、腰のポケットから紙切れを取り出してテーブルに置いた。
「本日のおすすめはシチューだよ」
テーブルに置かれた紙切れはメニュー表のようだ。
メルルはメニュー表を手にすると、何を頼もうか真剣に考え始めた。勢いで入った店だが、今は本当に何か食べたい気持ちだ。実のところ、食事を摂る機会の少ない長旅でお腹はペコペコなのだ。
「僕はおかみさんおすすめのシチューを」レトはメニュー表を見ることもなく注文した。
「添えるのはパンだけでいいかい?」おかみさんはニコニコ顔で尋ねる。
「ええ。それと食後に温かいお茶はいただけますか?」
「外は寒いからね。ショウガ茶でいいかい?」
「それでお願いします」
レトと一緒に食事に行けばいつもこうだ。レトはすぐに注文を決めてしまい、メルルは焦る羽目になる。店員をあまり待たせていないつもりだが、自分だけがぐずぐずしているように思えてしまうのだ。
今回も同じ状況だ。メルルはメニュー表をおかみに返した。「私も同じものを」
「あいよ。特製シチュー2人前!」
おかみは奥に向かって声をあげた。メルルはそちらに視線を向けたが、そこには誰もいない。奥に厨房の部屋でもあるのかと思ったが、おかみはカウンター裏に回るとそこでカチャカチャ音を立て始めた。どうもそこが調理場のようだ。
「おかみさんはここをひとりで切り盛りされているのですか?」
レトが話しかけた。
おかみは顔もあげずにうなずく。「そうさ。ずっとひとりさ」
レトの視線はカウンターの上に向けられている。
そこには細い花瓶が置いてあり、黄色い花を咲かせていた。
……スイセンだ……。メルルは花の種類を推察した。黄色いスイセンはこれまで見たことがない。このあたりでは珍しくないのだろうか。
レトはそれ以上質問をしなくなった。静かな表情で小屋を見渡している。
おかみは食事の用意ができると、さっきと同じ盆にシチュー皿を載せて戻ってきた。
「お待ちどうさん」
おかみのシチューは美味しかった。
羊肉を使ったシチューで、煮込みにワインをぜいたくに使ったのがわかる。ほかに材料は茸と玉ねぎぐらいだが、メルルには豪華な食事に思えた。少なくとも実家で食べたシチューよりも美味しかった。もっとも、実家のシチューは家族6人でもたくさん食べられるよう粗末な材料を集めてこしらえられた「なんちゃってシチュー」だったのだが……。
レトはパンをちぎるとシチューにそれを浸し、肩にとまっているアルキオネに与えていた。アルキオネはくちばしで器用にパンをつまむと、くいっと頭を振り上げて口のなかに放り込んでいる。
羊肉もアルキオネに与えているようだ。
改めて見ると、レトは甲斐甲斐しくアルキオネの面倒をみているようだ。食事については自分よりもアルキオネを優先させているとメルルには思える。
以前ではあるが、アルキオネを甘やかせてはいないか――レトに問いただしたことがある。そのときは「え、そうかなぁ?」と、はぐらかされてしまった。
あの質問を蒸し返すつもりはないが、「やっぱり甘やかしているなぁ」と、メルルはパンを頬張りながら思った。
「あんたたちはご領主様に会いに行くつもりかい?」
食後のショウガ茶を運びながら、おかみが尋ねてきた。だいぶ気持ちが緩んでいたメルルは内心ドキリとしてしまった。もちろん、ここには探偵仕事をしに来たなんて言えない。「え? どうして、そう思うんです?」そう答えるのがやっとだった。
「どうしてって? そりゃあ、こんなへんぴな村に、用もないのに来る冒険者なんていないからさ。昔は『魔の森』を目指して、この村を通る冒険者もいたけど、『あの戦争』以来、誰も立ち寄らなくなったからねぇ。そうなると行き先はご領主様の城に行くぐらいしかないからねぇ」
おかみは特に深い考えで質問したようではないようだ。どこか他人事のような口調で話している。
「ここのご領主様って、どんな方なんですか?」
レトは初めて関心を持ったように尋ねる。
――日頃はまじめな顔をしているのに、ところどころでこういう抜け目ないことをするんですよね、レトさんって……。
メルルは内心舌を巻いていた。もちろん、今回の依頼先であるレドメイン家のことは前もって調べているので、たいていのことはわかっているのだ。
「おや、知らないのかい? ここのご領主様はレドメイン家のフロレッタ様だよ。
とは言っても、フロレッタ様はまだ成人されていないので、正式には次期領主であって、まだご領主様ではないんだけどね。なにせ、17歳でいらっしゃるからねぇ。現在は叔父にあたるオブライエン候が後見人としてここを治めてらっしゃる。実質的に現在のご領主様さ」
「オブライエン候ってコリントあたりに領地のある方じゃなかったですか? はるか南方に住んでいる方が、こんな北方の領地を治めることができるんですか?」
「へぇ、あんた物知りだねぇ。そうさ、オブライエン候はコリントよりも南のバイエルのご領主様さ。でも、姪っ子の後見人をするために、わざわざこんな北の辺境までやってきなさったのさ。姪っ子が成人するまでここにいるつもりだってさ」
「コリントでは経済に明るい貴族だと評判ですからね。オブライエン候であれば、うまく治められるかもしれませんね」
「領主代行様の腕前は今のところ耳にしないね。なにせ、ここに来られてまだふた月ほどだからね」
「なるほど」レトはうなずくと、「お嬢様や領主代行様は領民に慕われているんですか?」質問を変えた。
レトの質問は、おかみの雰囲気を急激に変えた。おかみはこれまで浮かべていた笑みを引っ込めたのだ。
「さぁねぇ。あたしにはわからないねぇ」
おかみはテーブルの皿を盆に載せてカウンターに戻ってしまった。
カウンターでは洗い物を始めたようで、皿がぶつかり合う音と、ざぶざぶ水が流れる音が混じり合って聞こえる。
メルルは驚いた。さすがにこの程度の質問で態度が変わるとは思えなかったのだ。メルルにしてみれば、まだ世間話のレベルだった。
しかし、レトは意外と思っていなかったようで、表情に変化はなかった。レトはメルルにちらりと視線を向けると小さくうなずいた。『店を出よう――』レトの視線はそう伝えているように見えた。
メルルもうなずくと席から立ち上がった。「ごちそうさまです」
「ありがとうございました」
おかみは声を返したが、最初のような陽気さは影をひそめてしまっていた。
支払いを済ませて店を出ると、村から人影が消えていた。もともと寂しい雰囲気の村だったが、まるで滅んでしまったように見える。
今はまだ昼を少し過ぎたほどで、村人が家に引っ込むにはまだ早い。たまたまなのか、それとも村を覆う暗い空気がそうさせるのか……。
メルルは暗い気持ちになって表情が曇った。
「何か、ここは……」
「行くよ、メルル」
メルルの言葉をさえぎるようにレトが声をかけた。そして、メルルの返事を待たずに歩き出す。
ほんの少し、メルルはレトの背中をぼんやりと見つめていたが、急に我に返ると荷物を持ち直してレトの後を追った。
3
ふたりはあれから声を交わすこともなく歩き続け、やがて村のはずれにたどり着いた。
そこからは少し開けた急な坂道になり、その先には大きな石造りの城門が見える。
「もうすぐ目的地だ」
レトはメルルに振り返ると門を指した。
メルルは長い坂道を見つめ、少しうなだれた。レトは「もうすぐ」と言ったが、メルルには「まだ、この坂道がある」という気持ちのほうが強かったのだ。
「どうした?」
レトの問いかけにメルルは首を振った。「いいえ。先へ進みましょう」
城門前の坂道は硬い土の道だった。村のような砂利道でないので、メルルにとっては少しありがたかった。砂利道はけっこう足をとられて転びそうになったからだ。
足の裏が痛くなってきたなと思ってきたころ、ふたりはようやく城門の前にたどり着いた。城門は太い鋼鉄製の格子で閉ざされて訪問者が入るのを拒んでいた。拒んでいるのは扉だけではない。はるか見上げるほどの高さもある城壁がふたりを威圧するように立ちはだかっていた。何メルテあるのか見当もつかないほどだ。
「ここは領主様の城だ。何の用でここまで来た?」
城門には鎧で身を包んだふたりの兵士が守っていた。太くて丈夫そうな槍を手にしている。もし、メルルが怪しい動きを見せようものなら、天に向けられた矛先が自分に向けられる――。メルルはそんな想像をして身体がこわばった。
「いいんだよ、このふたりは。オレが呼んだんだ」
格子の向こう側から声が聞こえ、兵士は姿勢を正した。「これは、メンデス様」
メンデスと呼ばれた男は少し背の高い、ほっそりとした男だった。年齢は30代半ばか。目立つほど大きな鉤鼻に、鋭い眼。角ばった頬は少しこけているように見えた。寒さをしのぐために白い毛長羊のコートを着ている。
「よく来てくれたね。ようこそ、北方辺境領『マイエスタ』へ」
男はいんぎんなあいさつとともに深々と頭を下げた。
4
「メンデス。依頼者はオブライエン侯だと聞いていたのだが」
レトは前を歩く男の背中に声をかけた。あいさつもそこそこに城門をくぐると、すぐ高い塀に阻まれてしまい、そのまま奥へは進めない。3人は塀に沿って時計回りに歩いているところだった。
メンデスと呼ばれた男は顔だけをこちらに向けた。「以前と同じように『ドニー』でいいですよ、レトの旦那」
「レトさんはドニーさんとお知り合いなのですか?」
メルルはふたりに遅れまいと早足で歩きながら尋ねた。
「彼は呪術師を称して魔法で商売しているんだ。以前、彼に詐欺の疑いがあったので彼を調べたことがある。彼とは、それがきっかけで知り合ったんだ」
「……詐欺ですか?」
メルルが疑わしい声をもらすと、ドニーは歩みを止めて振り返った。
「おいおいお嬢ちゃん。オレは今もこうして大手を振って歩いているんだぜ。詐欺の疑いは濡れ衣なんだよ」
「現在では呪いは魔法の一種だと証明されている。それでも、呪いを恐れ、自分が得体のしれないものに呪われているのではと悩むひとは多い。ドニーはこうしたひとたちに高額で『解呪の儀式』を行なっていたんだ。
その儀式がインチキでないかと疑う者が現れて、ドニーは密かに告発された。僕が調査した結果、たしかに高額の報酬を手にしていたが、儀式そのものに問題はなかった」
レトが説明すると、ドニーは自分の胸に手を当てた。
「こうしてオレは『無実を証明して』今も呪術師でいられるってわけさ」
「『有罪が証明できなかった』、だ」レトは修正した。
ドニーはレトにむくれた表情を向ける。「言い方!」
「儀式に問題はなかったんですね?」メルルの声はまだ警戒心が抜けていない。
「お嬢ちゃん。オレがやってきたのはたしかに『儀式』じゃない。正しくは『解呪の術式の発動』。つまり、呪い系の魔法を術式魔法で無効化しているのさ。だから、『儀式』みたいに結果の見えない怪しいことをしているわけじゃない。まぁ、だいたいのひとをオレの魔法で助けているのさ。その成功報酬が少々お高いってだけで、それって問題かい?」
ドニーは堂々と自分を擁護することを言っているが、メルルは一部に引っかかった。
「……だいたいの人って……。全部じゃないんですか?」
それを聞いたドニーは笑みを浮かべたまま首を振った。
「お嬢ちゃん。『呪い』とひと言で言っても、実際は全部が呪いじゃない。なかには原因不明の病気を呪いだと思いこんでいるひとだっている。そういうのはオレの専門じゃないし、対処もできない。そういうひとには呪術師じゃなく医者にかかれって正直に教えているさ」
そう聞くとドニーは悪い人物でないように思えてくる。むしろ誠実な男かもしれない。
「……でも、報酬は高額なんですよね……?」
ドニーの笑みは苦笑に変わった。「こだわるね、お嬢ちゃんも」
「すみません。でも、ひとの弱みにつけこんで商売しているように思えて」
メルルの発言に、ドニーは笑い声をあげた。
「ハハハ。すごい正直だねぇ。でも考えてくれよ。『解呪の儀式』の適正価格っていくらだい? もし、数千リューほどの金額で引き受けたとしよう。それで呪いから解放されたひとはどう考えるだろう。
『自分を苦しめた呪いが、こんなに安い値段で解けるなんて信じられない。こいつは自分をだましているのではないか?』
そう考えるひとが現れても不思議じゃないよね?」
メルルは何も言えなかった。ドニーはうなずくと話を続ける。
「オレがお高めの価格設定にしているのは、依頼者の『安心』にも配慮しているからさ。自分を苦しめている呪いを解くにはこれぐらいの費用がかかって当然だ……ってな具合に依頼者が自分自身を納得させられる価格にしたわけ。もっともレトの旦那に調べられたときは、その『安心』の提供をしくじったことになるんだがね」
「『無料』じゃいけないんですか? ひとを救うのであればそうすればいいのに」
メルルは最後の抵抗のように言葉を絞り出した。何か、ドニーの言葉をそのまま受け入れるのに抵抗感があったのだ。
「お嬢ちゃん。オレは人を救う奉仕活動家じゃない。まぁ、オレは専門の大学は出たが、魔法使いとしては大成しなかった三流の男さ。だからって、そのまま三流として生きるのはまっぴらだ。オレはオレのできることで自分の生を全うしたい。オレの知識や技術を商売に活かしたい。それを実現できるのが、たまたま呪術師だっただけさ。これは、れっきとした『仕事』なのさ」
「まったく効果のない偽の『解呪の儀式』を行なって金品を巻き上げたら、それは間違いなく犯罪だ。でも、ドニーの場合は曲がりなりにも効果があるんだ。倫理的にはともかく、現時点で彼を取り締まる法律はないんだよ」
まだ納得しきれていないメルルに、レトは話を終わらせるかのように口を挟んだ。
「ところで、さっきの答えをまだ聞けていないんだけど」
「実際の依頼者はオブライエン候じゃないかって話だね。
もちろん、探偵事務所に依頼をしたのはオブライエン候さ。ただ、依頼するよう話を持ち掛けたのはオレなんだ。今回はいろいろと厄介な問題をはらんでてね。解呪の儀式だけで解決するようなヤマじゃないんだよ。こちらの仕事の完遂に、どうしても助っ人が必要だったんでね。それで、もっとも信頼のおけるレトの旦那に登場を願ったわけだ」
「僕は指名されて来たわけじゃないよ。ほかの者が来るかもと考えなかったのかい?」
「オレをあまり見くびるなよ。『呪い』がからむヤマであれば、必ずレトの旦那が担当していたじゃないか。レトの旦那の評判はちゃんと知っている。今回のようなヤマを依頼したら、間違いなくレトの旦那が担当するはずだって思っていたさ。実際、そうだったろ? それに、探偵の指名なんて受け付けてくれる事務所だったかい?」
この返事にはレトも苦笑を浮かべるしかなかった。メルルも『この人はいろいろと抜け目ない』と思うようになった。ただ不思議なのは、初めよりはドニーに対する印象が悪くないことだ。
それは、ドニーが良いことも悪いことも包み隠さず話すからだろう。『誠実』とは違うと思うが、少なくとも『嘘』はつかない人物のように思えてきたのだ。
「たしか、『呪いをかけた犯人を捜してほしい』だったね。
わざわざ呼びつけるってことは、多少は犯人に思い当たるところでもあるのかい?」
ふたたび歩き出したドニーに、レトは話しかけた。
ドニーはすぐに答えず、無言で道の先を指さした。ドニーの指先は、ずっと続いていた塀の切れ目からのぞいている植木を示している。どうも、そこが城の庭園らしい。
「正直なところ、呪いをかけた人物に思い当たるのは全くない」
ドニーは城の庭園に足を踏み入れた。レトとメルルもドニーに続く。
城の庭園は城と城壁にぐるりと囲まれた空間にあったが、かなり広く感じられた。円型の花壇が中央にこしらえてあるが、それほど大きいものではなく、大部分が芝生に覆われていたのだ。
「今回、大規模な術式が必要だと考えて、城内で一番広い場所に魔法陣を設定したんだ。オレが展開できる、もっとも大きい魔法陣さ。だがね、まぁ、ご覧のとおり……」
ドニーは芝生の中央を指さした。そこには白い塗料らしいもので何か円型のものが描かれていた。しかし、その芝生の一部が大きく掘り起こされて、茶色の地面が無残にさらされている。魔法陣が描かれているはずが、破損しているのだ。
「どうも、こちらを邪魔しようとするやつが近くにいるようなんだ」