ディックとイノリ
イノリはディックの洋館に案内された。
黒いアンティークの調度品が目立った。
イノリは部屋のソファーに座った。
「ね、ねえ?」
「何だ?」
「さっきの『あれ』は何なの?」
「『あれ』か。『あれ』は悪魔という奴だ。もっとも下級だったがな」
「あ、悪魔!? それって架空の存在じゃ……」
「悪魔は実在する。おまえが狙われたのは宗教的なたましいをしていたからだろう」
「え? 宗教的? 私が?」
「違うのか?」
ディックは確信に満ちたまなざしをした。
まるでイノリのことをもうわかっている……もうすでに見抜いているかのように……。
イノリはしばらく絶句した。
そしておもむろに言葉を紡ぐ。
「そうね。私は今宗教を求めているわ。それは確かよ……それであなたは何者なの?」
イノリが興味の目を向ける。
「俺か? 俺は天使だ」
「え? 天使?」
「天使……つまり神のみ使い……精神生命体だ。イノリ、おまえは招かれている。おまえは生きていくために宗教を必要としている」
「……」
「どうだ、この手を取るか?」
イノリの前にディックの手が差し出された。
この手を取るか、拒絶するかでイノリの今後の人生が決まる。
イノリはそう思った。
しかし、イノリは最初、躊躇した。
イノリは精いっぱいの勇気を出して、その手をつかんだ。
ディックは笑った。
「ようこそ、シベリウス教の世界へ」
「う、う、うううう……」
イノリは泣き出してしまった。
イノリは今まで理知的過ぎたのだ。
それがイノリを信仰から遠ざけていた。
今、イノリは真に宗教を持つ道へと歩み始めた。
「明日、時間は空いているか?」
「ええ、休みを取ることはできるわ」
「明日、聖ソフィア教会に行こう。そこに、おまえが求めているものがある」
「ええ……うっ、ごめんなさい……涙が止まらなくて……」
「気にするな。それだけおまえの想いが強いということだ。ここには俺とおまえしかいないんだ。存分に泣くといい」
「ええ……ううう……」
イノリは今まで泣きたかったのだ。
泣きたくても泣けなかった。
イノリは教師という職業上、人に弱みを見せないようにしてきた。
それはイノリを精神的に武装させた。
イノリは思えば、小さいころから武装してきたような気がする。
イノリは教師になるため、あえて弱さを隠してきたのかもしれない。
「おまえは宗教的人間だよ。宗教という光を必要としているんだ」
そう語るディックの声は子供のものだが、ディックが語る内容は大人のそれだった。
イノリはディックのこのギャップに気づいた。
まるで大人が子供の姿をしていると感じた。
「あなたはいったい何者なの?」
「俺か? さてそれが分かれば俺も苦労しないんだがな……シベリウス教の大天使は知っているか?」
「いえ、知らないわ」
「シベリウス教には七人の大天使がいる。ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエル、スラオシャ、レミエル、そして、ザドキエル――俺はそのうちの大天使ザドキエルに当たる。それが俺の真の名だ」
「ザドキエル……」
イノリがつぶやいた。
「俺は子供の姿をしているが、これは自分の存在を封印するためだ。その精神は大人なんだよ」
「どうしてそんなことを?」
「天使が地上をその姿で好き勝手に歩くことは禁止されている。今、梅園市ではブラッツォという悪魔公が暗躍している。ブラッツォの目的はわからない。ただ、宗教的人間のたましいを必要としているのは確かだ。奴らはそれゆえに宗教的人間を狙っている。梅園市は現在、天使と悪魔が戦う最前線にあたる。だから、俺はおまえのような人間を守り、助け、救い、導くわけだ」
ディックが不敵な笑みを浮かべる。
これはディックの癖だった。
「じゃあ、そろそろおまえの家まで送ろう。おまえはどこに住んでいるんだ?」
「マンションよ」
「じゃあ、俺がそこまで今日は送ろう。明日は俺がおまえを迎えに行く。昼の11時30分くらいに俺はやってくる。それまでに準備しておいてくれ」
翌日ディックはイノリのマンションにやって来た。
「よお、準備はできているか?」
「ええ、大丈夫よ」
「ふうん……」
ディックはイノリの服装をまじまじと眺めた。
服の露出は少ない。
「教会では服の露出が少ない方がいいって聞いてこの服装にしたんだけど……」
イノリは白いセーターに青いロングスカートを着用していた。
素材を見ても高級感があるわけではなく、ごく標準的なものだ。
「ああ、OKだぜ。じゃ、行くか」
ディックが昼の時間に合わせたのは昼の祈りをイノリに見せたかったからだ。
ディックはシベリウス教聖ソフィア教会の扉を開けた。
イノリは一瞬にして引き込まれた。
それは教会では祈りの最中だった。
多くの信徒たちが神に祈りを捧げていた。
日本人は祈りとは何か知らない人が多い。
祈りは神とのコミュニケーションである。
一人、自分の心と向かい合い、神と対面して言葉を交わすのだ。
ディックはイノリを長いすまで導いた。
祈りが終わると次は讃美歌の時間だ。
この讃美歌も日本語なら、作曲家も日本人だ。
「ねえ、ディック?」
「どうした?」
イノリが小さな声で尋ねてきた。
「聖職者はどこにいるの?」
「聖職者? あそこだ。祭壇の前にいる女性だよ」
「え!? 女性が聖職者になれるの!?」
ディックはニヤリと笑った。
「ああ、シベリウス教は女性も聖職者になれる。今はまだ数は多くないがな」
讃美歌が終わると、カリナ牧師の『アヴェシュタ』朗読が始まった。
「ディック、これは何?」
「これは『アヴェシュタ』の朗読だ」
「『アヴェシュタ』?」
「シベリウス教の聖典だ。それを『アヴェシュタ』と呼んでいる。『アヴェシュタ』の由来はゾロアスター教の聖典『アヴェスター』にある。
教会内での司牧は祈り、讃美歌、朗読、説教の順で進んだ。
カリナ牧師の説教が終わると、人々は教会から去り始めた。
カリナはディックの姿を見つけると、ディックのもとにやって来た。
「ごきげんよう、ザドキエル様。本日はどのような理由で当教会に来られたのですか?」
カリナはほほえみを浮かべる。
「ああ、このイノリという人物をシベリウス教の世界に連れてきたんだ」
「まあ、そうでしたの……さすがザドキエル様。魂の導師ですわね」
カリナは心から嬉しそうだった。
「初めまして、カリナと申します」
「あ、はい。私は光村 イノリです」
「イノリさんと言いますのね」
「『祈り』と重なりますね。どうして当教会にいらしたのですか?」
「私はディックを信じているからです。私はディックに助けられました。だから、ディックの世界を見てみたいと思うようになったのです。牧師様、私はたましいの救済を求めています……シベリウスの宗教は私に救いをもたらしてくれるでしょうか?」
「イノリさん、今すぐ神を信じることはできないでしょう。ですが、神は必ず、私たちを見ていてくださいます。ほほえみのある時も、悲しんでいるときも神はあなたと共に在るでしょう。神はあなたのことをきっとお救いになられます。ほかならぬ、ザドキエル様があなたと共にいるのですから。シベリウスの宗教があなたに救いをもたらすことを私は『祈って』いますよ」
「カリナは女性の牧師だ。女性特有の相談も、カリナにならできるだろう。もし、気になるようであれば、また教会に来ればいい」




