ディックとアカリ
ディックはアカリ洋館に連れて行った。一時保護が必要だと判断したからだ。
それにアカリの目の前で起きたことをアカリに説明する必要性も感じていた。
ディックはアカリを部屋のソファーに座らせた。
「コーヒーを入れるが、飲むか?」
「は、はい」
アカリは緊張して、「はい」と答えてしまった。
ディックはドリップコーヒーを用意する。
「まずは自己紹介するとしようか。俺はディック。ディック・ディッキンソン。おまえは?」
「わ、私は秋山 アカリです」
「……おい、おまえ、緊張しているのか? もう少し、リラックスしろ。俺のことはディックと呼んでかまわない。その代わり、俺もおまえをアカリと呼ばせてもらう。いいか?」
「う、うん。わかった、ディック」
「じゃあ、それではコーヒーができるまで、質問に答えようか」
ディックは黒いイスに座って、脚を組んだ。
アカリはすぐにさきほどの戦いのことが気になった。
「ね、ねえ……」
「何だ?」
「さっきの『あれ』は、いったい何なの?」
「『あれ』ね。あれは『悪魔』という奴だ」
「『悪魔』!?」
「そうだ」
ディックは不敵な笑みを浮かべた。
どこか楽しそうだ。
「『悪魔』がすべてあんな姿をしているわけじゃない。恐ろしいのは人の姿をした悪魔だ。あいつはある悪魔の手下にすぎない」
「ディックって、天使なの?」
アカリは恐る恐る聞いてみた。
本当はアカリが一番聞きたかったこと。
「ああ、俺は天使だよ」
ディックが会心の笑みを浮かべる。
アカリは一つ気になることがあった。
「翼はないの?」
「翼?」
「天使って、翼を持っているんでしょう?」
アカリは知識で天使に翼があることを知っていた。
「まあ、確かにそうだが、俺のこの姿にはないな」
「ディックはどうして悪魔と戦っているの?」
「俺が戦うのはシベリウス教の世界を守るためだ。それと同時に新しい信徒候補を守るためでもある。そう、おまえのようにな」
「私も?」
アカリは軽く驚いた。
「おまえは宗教的人間だよ。そういう本性をおまえは持っている。少しは自覚しろ」
ディックが突っ込んでくる。
どうやらディックに遠慮はないらしい。
「私が宗教的人間?」
アカリが大きく目を見開いた。
意外、とアカリは思った。
「そうだ。だから、悪魔に狙われた。『覚醒者』とは奴らの言葉で『宗教的人間』を指す言葉だ」
「私は宗教を求めているのは確かよ。でも、わからないの……今日私はシベリウス教の教会に行った。でも入れなかった。怖かったから……」
アカリはそのまま下を向いた。
「まあ、始めのうちはそうだ。いきなり教会に入るのは難しいだろう。現代日本人は宗教を持っていないからな」
「宗教ってどうして必要なの?」
アカリは確信的なことを尋ねた。
その時、ドリップコーヒーが止まった。
どうやら、抽出が終わったらしい。
「宗教ね……これは人に力を、目的を、方向性をもたらす。宗教は主に人の生き方にかかわるものだ。およそ、宗教を持たない人間の人生は虚しい。それに宗教は人に救いを与える。人を救う、それが宗教だ。そしておまえのたましいを救済するのもまた同じ宗教だ。おまえは今心に穴が開くような空虚感を感じたことはあるか?」
「う、うん。今感じてる……」
「ならそれはおまえのたましいが宗教を求めているからだよ。おまえが求めているもの……それは究極的にはたましいの救済だ」
「たましいの救済?」
アカリは雲が晴れるかのような衝撃を受けた。
「そうだ」
ディックがドリップコーヒーをアカリに勧める。
アカリはそれを受け取った。
コーヒーに口をつける。
ディックもまたコーヒーを飲む。
ディックの飲み方には品があった。
「人に救いをもたらすもの――それが宗教だ。だが、魂の救済という概念は神道や仏教にはない。神道は祭儀の方向に特化したため、思想性がない。仏教は葬式のための仕事と化した。キリスト教は日本人の問題にかかわる気がない。これでは日本人は救われない。そこで、第四の選択肢だ。つまりシベリウス教」
「シベリウス教……」
アカリは小さくつぶやいた。
アカリはシベリウス教について本では読んだことがなかったが、『シベリウス教聖道会ネットワーク通信』というサイトで、シベリウス教についてイロハを習っていた。
「シベリウス教とはシベリウスの宗教という意味だ。ユダヤ教、キリスト教、イスラームに続く、第四の宗教だ。シベリウス教はセム的一神教の系譜を受け継ぐ。アカリ、おまえは聖書を読んだことがあるか?」
アカリは首を縦に振った。
それは肯定。
「聖書? 読んだことはあるけど、よくわからなかったよ」
ディックもうなずいた。
「当然なんだよ。あれはユダヤ人とキリスト教徒の記憶だ。聖書は大きく二つに分けられる。旧約聖書と新約聖書だ。旧約聖書はユダヤ人の記憶だ。こちらは古代オリエント史の知識がなければ意味が分からない。もう一方の新約聖書は古代ローマ帝国の知識がなければ分からない。この二つとも、古代の歴史だ。現代人にはピンとこないのは当然だ。聖書を理解するためには事前知識を
必要とする。たとえば、アッシリアとかバビロンとか言われてもわからないだろう? さらにセンナケリブとか、ネブカドネツァルとか、捕囚とか、キュロスとかはさらに分からない」
「そ、そうなんだ。知らなかった」
「これをおまえに貸そう」
ディックは本棚から分厚い、青い色の本を取り出して、アカリに見せた。
「これは?」
「これは『アヴェシュタ』。シベリウス教の聖典だ。主に小説が収められている。ゆっくりと読むといい」
「ありがとう」
ディックはアカリを家まで送った。
アカリは母親と二人暮らしだ。
アカリの母親は夜遅くまで働いている。
ただ、最近は定時で上れるようになってきたらしい。
長時間労働に否定的な立法が為されたからだ。
長時間労働=悪という認識である。
アカリはそれも自分という娘を育てるために母親が長時間労働をしていることを知っていた。
それが分かってからはわがままを一切言わなくなった。
アカリの母親だってアカリといっしょの時間を作りたい。
しかし、正社員という立場ではなかなかそれもできなかった。
日本人は善悪で物事を斬りさばくということをやっていない。
善は推奨し、悪は否定し排撃するという姿勢である。
『我々、シベリウス教徒』から見たら、長時間労働は『悪』として排撃される。
労働には『尊厳』が必要だとシベリウスは考えた。
ただ働けばいいのでもなく、また悪しき働き方をしてもいけない。
人間は働くことによって社会性を得る。
働くことは人間のアイデンティティーなのだ。
失業者に無いのは、この尊厳なのである。
彼らをいくらカネや社会保障で扶養しても、彼らは救われない。
真の救いは、職を与えることによる。
仕事を持つことこそ、社会性の獲得なのだ。
アカリは帰って、おふろに入った。
「ディック・ディッキンソン……それに『アヴェシュタ』か……」
アカリはおふろから上がると、パジャマに着替えて『アヴェシュタ』を読んだ。
「これ、小説なんだ……」
アカリはよく小説は読んだ。
だから『アヴェシュタ』にはシベリウスが書いた小説が収められている。
アカリはゆっくりと『アヴェシュタ』を読んでいった。
アカリは『アヴェシュタ』に引き込まれた。
アカリは気が付くと、夜の12時まで『アヴェシュタ』を自分の部屋で読んでいた。
アカリは『アヴェシュタ』に魅了された。
『アヴェシュタ』にはバトルや恋愛、ファンタジーやアクションなどの要素があった。
とその時、アカリの母親が帰ってきた。
「ふう、ただいまー!」
アカリは部屋を出た。
「お帰り、お母さん」
「あら、アカリ。まだ起きていたの?」
「うん、本を読んでいたんだ」
「そう、本を読むのもいいけどあまり夜更かししないようにね」
「お母さん、ご飯は?」
アカリは母親の心配をした。
「コンビニで買って食べたわ。じゃあ、私はおふろに入るから」
「うん、おやすみ」




