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Das Testament  テスタメント  作者: Siberius
Das Testament Mayu
39/60

明日川 ヒロコ

看護師たちが横一列に並び、拍手で迎えた。

今日はミユキ――8歳の退院だった。

ミユキは車いすに座っていて花びらを浴びていた。

「ミユキちゃん、退院おめでとう!」

「ミユキちゃん、元気でね!」

ミユキは満面の笑みを浮かべる。

「ありがとうございます。雪之条ゆきのじょう先生、明日川あすかわさん!」

明日川 ヒロコは聖ミリアム病院の看護師で現在23歳。

長い黒髪を三つ編みにしていた。

ヒロコはミユキの担当看護師だった。

ヒロコはミユキの遊び相手も務めていた。

ヒロコはよくミユキに本を読んであげた。

ヒロコは胸に感慨深いものがあった。

「明日川さん、今まで娘をありがとうございました」

ミユキの父と母がヒロコに頭を下げてくる。

ヒロコは驚きつつ。

「頭を上げてください! 私は看護師として当然のことをしたまでですから!」

「しかし、明日川さんがいなかったら、ミユキがつらい時期を乗り越えられたかどうか……私たちは明日川さんにお礼を申し上げます」

「残念だなー! もう明日川さんと会えなくなるなんて……」

ミユキが残念そうな顔を向ける。

「ははは、明日川君とは会えなくなるが、学校に早く通いたいんだろう、ミユキちゃん?」

そこで水鏡みかがみ 雪之条先生がミユキに話しかける。

雪之条はミユキを治療したサイコセラピーの療法家だった。

サイコセラピーは心理学と神話、宗教が一つになったもので、神話や宗教を心の治療に応用した新しい分野だった。

ユング心理学とアドラー心理学、フランクル心理学の影響を受けている。

このセラピーは雪之条自身の壮絶な内面の体験から生まれた。

「ミユキちゃん、元気でね!」

「うん! ありがとう、明日川さん!」

ヒロコはミユキに花束を渡した。

聖ミリアム病院はおもに精神系の病院である。

雪之条はサイコセラピーの創始者で、同時にセラピスト、カウンセラーでもあった。

ミユキは黒のワンボックスカーに乗り込んだ。

両親が車いすを後ろに乗せる。

「さよーならー! 雪之条先生! 明日川さーん!」

「本当に、本当にありがとうございました!」

両親がお礼を繰り返す。

二人の目からは涙がこぼれた。

感極まったという感じだ。

車は発進した。

雪之条とヒロコは車が見えなくなるまで手を振り続けた。

「行ってしまったな……」

車が見えなくなると、雪之条は言葉を漏らした。

「いつも患者が退院するときは寂しいですね。今までいた存在がいなくなってしまうのですから……患者さんと長く付き添っていた時ほど、さみしく感じます」

「そうだな。特にミユキちゃんは明日川君になついていた。君も彼女と過ごせて楽しかったろう?」

「そう、ですね……まるで小さな妹ができたようでしたから……」

ヒロコは寂しそうな顔をした。

ヒロコは目から出てきた涙をぬぐった。

「おや、涙かな、明日川君? まあ無理もない。彼女と過ごせて私も楽しかったよ。彼女のようないい子に限って病気になるのかもしれないが……まあ、退院は喜ばしいことだ。さあ、明日川君、病院に戻ろう。それにあまり長く外にいると風邪を引くぞ?」

「はい、わかってます、先生」

ヒロコはもう一度車が去っていった方向を見た。

ヒロコはため息をはくと、病院の中に戻っていった。


ヒロコはアパートに帰ってきた。

ヒロコは一人暮らしだ。

ヒロコは自分でもわからないが、大きな悩みを抱えていた。

それはヒロコに中にある「虚無感」だった。

「はあ、どうしたんだろう? 仕事はうまくいっているのに、どうしてこんなに私は満たされないんだろう? 私も病気なのかな?」

ヒロコはいたってまじめな看護師だ。

そのため、この虚無感の正体を知りたいと思っていた。

この虚無感は何をしても消えないのだ。

いや、むしろ消そうとすればするほど、大きく深くなっていくようだ。

ヒロコは不安になった。

そこでテレビをつけてみた。

テレビでは日本が沈没するようなニュースを流していた。

日本は世界経済から取り残された。

日本の製造業中心モデルに固執し、その経済体制ゆえ、新しい時代に適応できないでいた。

いや、それどころか古いモデルにしがみつくような傾向もあった。

これはかつての日本経済の成功が「製造業中心モデル」によってもたらされたゆえであった。

その時代には確かに適応した。

それは日本に有利な風が吹いていた。

しかし、時代は変わるものである。

過去の成功体験が今では足かせとなっているのだ。

今現在の成功要因は「アイディア」そして「コト」である。

日本のお家芸は「製造業」と「モノ」だったが、これからはコトの時代なのだ。

歴史を学ぶとは、その時代を生きた人々に想いを起こすことでもある。

日本には変革が必要だった。

日本人は古い在り方に過剰適応してしまい、「日本病」にあえいでいる。

日本のGDPは下がり続けていた。

これからはハードウェアの時代ではなく、「ソフトウェア」の時代なのである。

ただ、日本に「ソフトウェア」というカード=強みはあるだろうか?

すべての民族が変化に適応できるわけではない。

日本人の長所が弱みになることもあり得る。

「コト」の時代とはアイディアがすべてである。

独創的なアイディアがマーケットを主導する時代なのだ。

おそらく日本人にこの変化への適応は不可能と思われる。

もちろん、一部の人はコト社会に適応するであろう。

だがそれは例外的日本人であって、一般の日本人にはつらい時代だと思われるのだ。

日本は世界的優位を失っていくであろう。

これは「有能な人材の質」が変わったということだ。

日本人は職業に職人的であろうとする。

それはハードウェアの時代、「モノ」社会では通用した。

だが、コトの時代に職人根性は役立たずなのだ。

求められているのは、独創的で理知的な個人、多様性を肯定できる人間である。

はたして日本人は変われるであろうか? 

変えるにしてもそれは日本人の本性ほんせいを変えることになるのではないか……。

今までの日本人らしさは失われるだろう……。

とまあ、テレビでは日本の未来は悲観的に描かれていた。

ヒロコはお酒を飲むことにした。

ヒロコは疲れていた。

看護師も体力を必要とする仕事だ。

ヒロコも当然疲れてくる。

ヒロコは酒はあまり好きではない。

だが、この虚無感に対して、何をしても無駄だった。

せめてもの抵抗はお酒を飲むことくらいだ。

いったい何をするのが正しいのだろうか?

ヒロコはビールを開けて飲んだ。

ヒロコは酔いに身をゆだねた。


「あの、雪之条先生……」

ヒロコが蒼白な顔で声をかける。

「? どうしたんだ、明日川君?」

雪之条がはっとして尋ねた。

「先生……私を……私を助けてください!?」

ヒロコは雪之条に抱きついた。

ヒロコの甘い匂いが雪之条の鼻をくすぐる。

「!? 明日川君!? どうしたんだ!? いったい何があったんだ!? 説明しなさい!」

雪之条はヒロコをまず、落ち着かせた。

ヒロコは泣き出してしまった。

「はあ……やれやれ……」

雪之条はため息を出した。

「初めから、説明しなさい。いったいどうしたんだい?」

「それは……」

ヒロコは下を向いた。

それから意を決して話し出す。

「私には胸の中に穴が開いているような感じがするんです。思えば、学生時代からそうでした。私はこれを「虚無感きょむかん」と呼んでいます。お酒でごまかそうとするんですが、いっこうにこの虚無感は消えないんです。先生……私を助けてください!」

雪之条はメガネを通して、ヒロコをじっと見つめていた。

「明日川君……それは君のたましいが救いを、癒しを求めているんだ」

「たましいですか?」

ヒロコはきょとんとした。

「そうだ。これは医術や、サイコセラピーでは治療できない。君の虚無感の正体は宗教への渇望だ」

「宗教、ですか……?」

ヒロコは目を丸くした。

「私から言わせれば、君は宗教的人間だよ。君のたましいは器を、宗教を求めている」

「そんな……信じられません」

「それも無理もない。多くの日本人は宗教とは密ではないからね。とりあえず、カルト宗教はすべて除外するとして、君は今度教会に行ってみるといい」

「教会……キリスト教の、ですか?」

「いや、違う。シベリウス教の教会だ。実は私はシベリウス教徒なんだ」

「先生が!? ……意外です……」

ヒロコは雪之条の告白に驚きつつ。

「まあ、私はセラピストだからね。自分のたましいの問題は探求してきたつもりだ。その経験からの助言だよ。シベリウス教の教会を訪れるといい。この梅園市にはあるからね。安心していい。強制的に、入会させられることはない。それはこの私が誓って言えるよ。さあ、それでは仕事に戻ろうか」

ヒロコは診察室から退出した。

雪之条はスマートフォンを取り出した。

「私です。ザドキエル様、近いうちに一人の女性がそちらの教会に行くかもしれません。強引に行けとは言えませんからね。はい、それでは魂の導師としてよろしくお願いします。ああ、名前ですか? 明日川 ヒロコさんです。若いかたですよ。はい、それでは……」

なお雪之条とヒロコはのちに結婚することになる。

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