ネギモト
この男はストーカーだった。
カメラを構えて、陰からマユを盗撮しようとしたのだ。
男の名は「ネギモト」。
「うーん、マユちゃんの姿が見えないなあ……あのチビといっしょに教会に入ったところまでは確認できたのだけど……」
ネギモトは自称パパラッチだったが、実態は完全にストーカーだった。
この男は「井上 マユ」の熱心なファンでもあった。
「おい、こんなところで何をしている?」
「ぼくはねー、マユちゃんの追っかけだ! 通称マユラーって言うんだぜ? って、誰だよ、おまえ!?」
ネギモトがおかしいことに気づく。
ネギモトはメガネをかけて、太った豚のような体型をしていた。
ブ男であることに間違いはない。
「俺はマユの友達だ」
「マユちゃんの友達だって? このチビ助が! ウソついているんじゃねーよ!」
ネギモトは激高した。
とにかくディックのことが気に入らないと言わんばかりだ。
「やれやれ……こいつは見たいと欲することしか見ないタイプか。Libenter homines ,id quod volunt , credunt.(人は自分が信じたいことを喜んで信じるものだ)。おい、おまえ! 死にたくなかったらとっとと失せろ」
ディックが黒いレイピアを向けた。
「はっ! 暴力か! ぼくはカメラマンだ! 公正と真理の使者なのさ! 脅しには屈しな……い!?」
ディックはレイピアを振るった。
ネギモトには速すぎて知覚すらできなかった。
ネギモトのカメラが一刀両断にされた。
レイピアで斬り裂いたのだ。
「ぼ、ぼくのカメラが! なんてことをするんだ!」
ディックはドスの効いた声で。
「いいか、よく覚えておけ。死にたくなかったら、とっとと失せろ」
ディックは凄みのある声でネギモトを脅した。
ネギモトはすさまじい恐怖感に襲われた。
顔を盛大にひきつらせ、震える。
「ぼくは……ぼくは脅しには屈しない! アディオス!」
ネギモトはすさまじいスピードで去っていった。
「……もう出てきてもいいぞ?」
そこに壁の陰から、ミリエルとマユが出てきた。
二人は一部始終を見ていた。
「あれはそう簡単には引き下がらないタイプね。きっとここにまた、来るわよ? それに教会の場所も知られてしまったし、ね?」
ミリエルが懸念を表明した。
ディックはその懸念を打ち消すように。
「そうだな、安心しろ、マユ。おまえには俺たちが付いている。おまえを危険な目には遭わせはしない。必ずだ」
「うん、ありがとう、ディック」
マユはかすかな不安を覚えたが、ディックの強い言葉で安心した。
「それにしても、元アイドルなだけあって不快なファンもいるんだな?」
「私だって知らないわよ」
「まあ、元アイドルならあの手のやからには困らないだろうな」
夜、ネギモトの自宅にて。
ネギモトの親は経営者だった。
そのため、ネギモトは親と同居し、親からカネをもらって、アイドルの追っかけなどをやっていたのだ。
パパラッチとかカメラマンとかいうのはあくまでネギモトの主張である。
ネギモトはマユが所属していた「シャイニングスターズ」の熱狂的なファンだった。
ネギモトはライブには必ず行った。
マユは覚えていないが、握手会に参加したこともある。
ネギモトの部屋はアイドルのグッズであふれていた。
その中には特大タペストリーや抱き枕などもあった。
「くそ! くそ! くそ! あのチビガキめ! よくもぼくのカメラを壊してくれたな! これは裁判だ! 裁判であのガキを訴えてやる! ぼくに暴力を振るったことを後悔させてやる!」
ネギモトは怒気を部屋にぶちまけた。
ネギモトの親は高齢になった時にできた息子だったため、ネギモトを甘やかした。
ちなみにチビガキとはディックのことである。
「へっへっへ! 見てろよお! マユちゃんの友達だか何だか知らないが、このぼくに刃を向けたことを後悔させてやる!」
そこに赤いマントの男が現れた。
「なっ、なんだ、おまえは!?」
ネギモトは窓際まで下がった。
怖気ずいたのである。
「力は欲しくないか?」
「力?」
ネギモトがその言葉に反応する。
「そうだ。力だ」
「その力があればぼくに何ができる?」
「そうだな。そのチビガキとやらを打ち負かせるであろう。おまえは選ばれた存在だ。どうだ? 力を欲するか?」
ネギモトはその養育環境上、自己中心的に育てられた。
まるで小皇帝だった。
赤マントの男がネギモトの自尊心を刺激する。
自分は選ばれた人間だ。
自分は特権階級なのだ。
あのチビガキをぎゃふんと言わせ、マユちゃんと結婚してみせる!
待っててね、マユちゃん!
「悪魔を崇拝するのなら、力を与えよう」
「あなた様のお名前は?」
「私か? 私はブラッツォ(Brazzo)だ」
「おお、ブラッツォ様! 私はあなたを信仰いたします!」
「ふむ……では力を与えよう」
ブラッツォが手をかざした。
「おおおおお!? おおおおおおおおおお!? おおおおおおおおおおおおお!?」
ネギモトの体が膨張し、膨れ上がった。
ネギモトは異形の化け物と化した。
それからマユは毎日教会を訪れた。
マユは本が好きだった。
自然とアヴェシュタを読むようになった。
アヴェシュタは物語で構成されている。
アヴェシュタはシベリウスによって書かれた著作集である。
マユは小説を読むような感じでアヴェシュタを読むことができた。
アヴェシュタの中では最大の分量を誇るのがヘルデンリートであった。
教会は静かだった。
この状態こそが、教会のあるべき在り方なのである。
「よお、アヴェシュタの読書は進んでいるか?」
長いすに腰かけていたマユに、ディックが声をかけた。
「ディック……ええ、おもしろいわ。宗教書なのにこんなに面白いなんて初めて。主にファンタジーが多いのね」
「そうだな。シベリウスはファンタジー作家でもあったんだ」
本当に静かな時だった。
不意にそれが破られる。
「!? 何か、来る!?」
ディックは何か悪意の塊のようなものが近づいてくるのを感じた。
「ディック?」
「マユ、気をつけろ!」
ドカーンと扉が強引に開けられた。
そこには一匹のイノブタがいた。
体は大きく膨れ上がり、目は血迷っていた。
「マユちゃーん! 迎えに来たよー! ぼくと結婚しようねー!」
「!? こいつはネギモトか!?」
「い、いや、来ないで!」
マユは盛大に顔をひきつらせた。
ディックは黒ワシのレイピアを出した。
「安心しろ、マユ! おまえは俺が守ってみせる!」
ネギモトは下品な顔をして、よだれが垂れていた。
「おまえはあの時のチビガキ―! もーぼくは負けないぞー! ぼくは『力』を手に入れたんだー!」
「『力』? その代償に怪人化したということか?」
「フハハハハーー! 力が、力がみなぎる! このすばらしい全能感! これこそが『力』だ!!」
「違う! それは力じゃない! ただの狂気だ!」
ネギモトは右手に棍棒を出した。
「へへへへー! これで打ち砕いてやる! 死ねえー!」
ネギモトが棍棒でディックに打ちかかった。
ディックはあっさりと回避する。
「フッ、そんな大振りな攻撃が当たると思うなよ?」
「あれー? おかしーなー? 今度こそ!」
ネギモトは下品な笑みを浮かべた。
ネギモトの棍棒が振り落とされる。
ディックは横にスライドして、紙一重でネギモトの棍棒をよけた。
「これでもくらえ!」
ディックはレイピアでネギモトを斬りつける。
ネギモトは大きな隙をさらしていた。
「ぐぎゃああああ!?」
ディックは確かにネギモトを斬った。
しかし、ネギモトの体は傷がふさがっていく。
ネギモトの体は再生した。
「再生だと!? ちい! 厄介な能力だ!」
「フハハハハー! ぼくは悪魔から力を手に入れた! その力の前に敵はない! くらえ!」
ネギモトが下から振りかぶって棍棒を叩きつける。
ディックはそれを受けてはじき飛ばされた。
ディックは祭壇にぶつかった。
「ディック!」
「フヒャッハハハハ! さあ、マユちゃん! ぼくといっしょに行こうねー!」
「い、いや!」
マユは全身をわなわなと震わせる。
恐怖と悪寒で足が震えた。
「やれやれ……こんな奴ごときに真の姿をさらすことになるとはね……」
そこには銀髪に黒い服、黒い翼に黒曜石の大剣を持った男がいた。
「!? なんだあ!? おまえはいったいどこから出て来たんだー!?」
「!?」
マユも息をのんだ。
それは、その姿は天使だった。
彼の背には黒い翼があった。
彼は造形の美の極致ともいうべき美しさを持っていた。
「ああ、まだ名乗ってなかったな。俺はザドキエル。漆黒の天使ザドキエルだ」
「ザドキエル?」
マユはザドキエルに魅了されたように見つめる。
「ザドキエル? なんだか面倒だ。まあいい。おまえもあのガキのように始末してやる。くらえ! そして死ねえ!」
ネギモトが棍棒から衝撃を飛ばしてきた。
これには家の壁をぶち抜くほどの威力がある。
「無駄だ」
ザドキエルは左手を前に突き出し、その衝撃を抑え込んだ。
ザドキエルはあっさりとこの衝撃を無力化した。
「バカな!? このぼくの一撃だぞ!? ええい、これは何かの間違いだ! これでもくらえ!」
ネギモトは盛大にこん棒を振りかぶる。
ネギモトはザドキエルに棍棒を振り下ろした。
ザドキエルはこの攻撃をかわすこともできた。
だが、ザドキエルは格の違いを思い知らせてやるためにわざとこの攻撃を受けることにした。
ザドキエルは左手を上に上げた。
ただ、それだけだった。
ネギモトの太い棍棒を、ザドキエルは左手だけで受け止めた。
「なっ!?」
ネギモトが驚愕の表情を浮かべる。
ネギモトは棍棒に力を入れる。
ネギモトの上腕がプルプルと震えた。
しかし、氷が固まったように、ザドキエルの手は動かない。
「くっ、くそ! こんな! こんな、バカな!」
ネギモトが再びザドキエルを打撃しようとする。
「そいつは一般人には危ないんでな。折らせてもらうぜ?」
ザドキエルは黒曜石の大剣を振るった。
強力な斬撃が風のように放たれた。
ネギモトの持っていた棍棒が切断された。
「グペッ!? バ、バカな!?」
「さて、お仕置きの時間だ。その醜い姿、もはや見るに耐えない」
「おまえ! おまえはいったい何なんだあ!?」
「俺は天使だ。漆黒の天使ザドキエルだ。さあ、これで終わりだ!」
ザドキエルが黒曜石の大剣に黒いオーラを注ぎ込む。
その力は邪悪さではなく、高貴さを見る者に思わせた。
ザドキエルが黒い大剣を振り下ろす。
黒い刃が風のように通り過ぎた。
一撃だった。
たった一撃でネギモトは葬り去られた。
「べひょ……」
ネギモトは左右に分断された。
ネギモトの体が二つに割れた。
ネギモトの体は黒い粒子と化して消えていった。
「……」
マユは息をのんでこの戦いの光景を見守っていた。
「どうやら、マユに手を出されることはなかったな」
「あ? え? はい……」
マユはどぎまぎした。
このザドキエルという青年を前にすると胸が熱くなる。
そしてザドキエルはニヤリと笑った。
マユはそれに既視感を覚えた。
「あ!? そう言えばディックは!? ディックはどこ!?」
「安心しろ。ディックなら無事だ」
「ディックはどこにいるんですか?」
「ここだ」
ザドキエルは全身から黒いオーラを出して変身した。
ザドキエルの姿がディックに戻った。
「え!? うそ!? ザドキエルはディックなの!?」
マユは混乱した。
無理もない。
ディックとザドキエルではギャップがありすぎる。
「ああ、俺はディック・ディッキンソン。そして大天使ザドキエルだ。言っただろ、マユ? 俺がおまえを守って見せるってな?」
「はう……」
マユは赤面した。
その後マユはシベリウス教に体験入会した。
やはりザドキエルに助けられたことが大きかった。
マユの体調は緩やかに回復に向かって行った。
この体調不良はその人自身が無意識的なその本性的な宗教性を抑圧するがゆえに起きた。
宗教は人にとって生きるための指針になるが、宗教的人間には実存そのものなのだ。
マユはシベリウス教の体験入会を通して、シベリウス教について深く学ぶことにした。
ミリエルがよく教えてくれた。
のちにマユはシベリウス教の信徒になる。




