月を見上げて
夜、満月が夜空で輝いていた。
「夜空に輝く満月は美しいな」
ディックは満月を眺めながらそう言った。
ディックは「光の塔」の中央部手前に座っていた。
「光の塔」とはフランス・パリのエッフェル塔を模して作られたものである。
塔全体が金色だった。
これも梅園市のシンボルの一つであった。
ほかにも梅園市には独特のシンボルがある。
それはハギア・ソフィア大学と、聖ソフィア修道会だった。
とくにハギア・ソフィア大学は宗教の研究で有名だった。
ディック――フルネームはディック・ディッキンソン。
その正体は大天使ザドキエルである。
大天使ザドキエル――「犠牲」の天使ザドキエル。
ザドキエルにとって犠牲とは「自ら十字架を担うこと」である。
それは自分自身が重荷や苦しみを引き受けることを意味する。
ディックの仕事は「最前線」で悪魔と戦うことである。
それは戦士にとって最も「名誉」ある事であり、さらには「高貴」で「貴族的」でさえある。
ディックの特徴は子供の体、銀色の髪、黒い服、それにハーフパンツである。特に黒い帽子はディックのトレードマークであった。
「ここで何をしているの、アニキ?」
「? ミリエル?」
そこにミリエルが現れた。
ミリエルはディックの妹である。
ミリエルの髪は金髪だった。
ミリエルの服は青を基調とし、襟元が白い女子修道服である。
「何、月を見に来たのさ。洋館よりも、ここの方がより美しく月が見える。それに今日は満月だ。ここから見える月はひときわ美しい」
「そうね。本当にきれいな月ね。今日は星々が見えないのが残念だけど」
ミリエルは女性としてはやや長身だった。
何も知らない人がこの二人を見たら、姉と弟に見えるに違いない。
ディックが子供の姿をしているのは仮の姿にすぎない。
本来の姿を封じているのだ。
ミリエルがディックの隣に来て、塔に腰かけた。
脚をふらりとさせる。
夜の冷たい風が二人に吹き付けてきた。
別に寒くはない。
高いところを流れる風の冷たさはディックにとって自然に感じられた。
「我々は生きている。それは息あるゆえに生きている。息する、ゆえに生きている。我々が生きているのは息あり、息しているがゆえである。生きている、すなわち息ている。息ているがゆえに我々は生きている。生きる、生きること、それは息ているからにほかならない。神は人間を創造した。そのとき、神は人に息を吹き込んだ。それによって人は動くようになったという」
「さすがアニキね。よくそんなこと思いつくわね。まるで聖句だわ」
ディックは大きく息を吸った。
それからゆっくりとはき出した。
再び目を開ける。
ディックは気息に満ちていた。
「なあ、ミリエル、月は輝いていると思うか?」
「? え? どういうこと?」
ミリエルはきょとんとした。
ミリエルにはディックの言ったことが飲み込めなかった。
「そう、月はそれ自体が輝いているわけではない。なぜなら月は太陽の光を受けて『光っている』からだ。月は自ら光を発することができない。しかし、太陽や星々は違う。太陽や星々はそれ自体自ら光を発することができる。ゆえに『輝く』。
『輝く』とは自ら光を発することだからだ。だから『太陽の輝き』とか『星々が輝いている』とは言える。どちらもそれ自体が光を発しているからだ」
「そうね。確かにそう思うわ」
「つまりだ、『月の輝き』とか、『月が輝く』とかいうのは誤りなのさ。厳密にはそう表現することができない。月には『輝く』とか『輝き』といった単語を適用することができない。なぜなら、我々は科学的に天体としての月が光を発していないことを知っているからだ。月は自ら光っていない。だから本来的には月には『光』も『輝き』もない」
ディックは改めて突きを眺めた。
だが、今ディックが見ているこの月は光を発し、光っているのである。
ディックはポケットから缶コーヒーを取り出した。
ふたを開ける。
そしてディックは缶コーヒーに口をつけた。
「アニキって本当にコーヒーが好きね」
「コーヒーは『精神的な』飲み物なんだよ。俺にはコーヒーがない世界なんて考えられないね。俺にとってコーヒーは命の源だからな。月を見ながら、コーヒーを飲む……いいじゃないか、独特な美感がある」
夜の風が再び二人に吹き付けてきた。
だが、そんな冷たい風でも月見に情感を与えてくれた。
むしろ二人は全身で夜の風を感じた。
「ミリエル、人間は太古の時から天体の動きを観察してきた。天文学は古代から存在した。人間は古代からすでに天体の知識を持っていた。月は自ら光っていない。だから、あの光は幻だ。あれは存在しない光なのさ」
「なんだか、虚しいわね」
「そうだ。虚しい。それに何よりおもしろくない」
ディックは不敵な笑みを浮かべた。
「目を開いて、きちんと見てみればいいのさ。そうすれば思う。『月の光』は美しいってね。俺は科学的に不合理なことを言っているわけではないんだよ。ただ『神話の時代』であれば、もっと違ったまなざしであの月を見れただろう。今日のあの月はとても美しい。あの満月はその光で地上を薄明るく照らしている。これほどの光景を見て、美しい、きれいだ、そう思わないほうがどうかしている、俺にはそう思う。ミリエル、おまえはどう思う?」
「そうね。あたしもあの満月を見て、とてもきれいだって思うわ。月の光ってなんてきれいなのかしらってね。アニキの目にはどう映っているの?」
「俺には月は美しく、優雅で、優美でさえある。月は幻想的だ。それこそが月の美しさなのさ。なら『月の光』とか『月の輝き』とか表現するのはむしろ好ましいことじゃないか? 今、俺たちが見ている月、まさにそれは美しい。それなら『月が光る』とか『月が輝く』とか見なす方が美を感じる。俺はそう思うね。だから今のあの月は、あの満月は輝いているのさ」
「うふふふ、アニキってロマンチストね」
「何、ロマンがなかったら、何事も探求しようがない。ロマンこそ、人を探求に駆り立てるものだよ」
ディックはまたコーヒーに口をつけた。
「月にコーヒー……いいじゃないか。これは俺の美感なんだよ」
「ところで前から思っていたんだけど、どうしてアニキは梅園市に住んでいるの?」
「ここにはある、一種の、可能性があるからだ」
「可能性?」
「そうだ。可能性だ。今はまだ、小さくて、脆い。しかし、それは未知の来るべきものでもある。俺はこの町が好きだ。この町には個性がある。ハギア・ソフィア大学や、聖ソフィア修道会もある。それに教会の数も多い。将来的にはハギア・ソフィア大聖堂なんてものまで建つかもしれないな。そういう可能性や個性がこの町にはあるんだよ。俺はそれを守ってやりたい」
ディックは自分の視線を地上に移した。
住宅地からは明かりが漏れていた。
「ねえ、アニキ、個性って何なの?」
「個性とは集合的なものから斬り離されたものであり、それ以上分割できないものでもある。いうなれば個性とは『選択』だ」
「個性が選択?」
「そうだ。個性は選択の結果でき上り、形作られるものだ。選択とは何かを選ぶと同時に、何かを放棄することでもある。なんにしてもこの『個性』という概念がこの国の人間には全くわからないものらしい。こんな単純なものがどうして理解できないのか、俺には全くあきれるばかりだ」
ディックは手にしていた缶コーヒーを一気に飲み干した。
それから地上に目を止めた。
地上には空き缶用のごみ箱があった。
ディックはそれに狙いを定めた。
そしてごみ箱を狙って缶を地上に投げ落とした。
缶は見事にゴミ箱の中に入った。
「アニキ、お行儀が悪いわよ?」
「確かに、あまり褒められたこととはいえないね」
夜の梅園市は暗く、静かだった。
満月はその光を梅園市に注いでいた。
町は平穏に見える。
「最近、外国系マフィアがひそかに活動し、その勢力を拡大している」
「外国系マフィア?」
「ああ、そうだ。ここまで急に外国系マフィアが勢力を拡大できたのは、奴ら自身の独力によるものとは思えない。裏に悪魔がいる。俺の直観がそれを告げている」
ディックは海の方向に目を向けた。
ここから海そのものは見えなかったが、ディックは海の港に狙いを定めた。
「アニキ、どうする気?」
「奴らを叩くさ。もっとも犯罪者の摘発は俺の本来の仕事じゃないんだがな」
ディックは鋭利なワシのような目を見えざる海に向けた。




