ディック
学校――いつものように詩音は一人で学校から帰った。
今日は特に誰からも声をかけられることはなかった。
道路を一人で歩いていく。
詩音はふと違和感を感じた。
今までいたはずの風景が歪曲した。
「え? これは何?」
詩音は警戒感を持った。
いつしか風景は荒野になっていた。
空は紫色だった。
「いったい何なの!?」
詩音は動揺した。
詩音は気配を感じて、背後を振り返った。
そこには異形の存在が立っていた。
詩音は自分が狙われていることに気づいた。
一歩、また一歩と後ずさる。
「ほしい……」
「何が!?」
「おまえの命が欲しい……」
異形の存在は詩音の命を狙っていた。
詩音は怖くなった。
怖くて体が動かない。
「やめて! 来ないで!」
詩音の声に震えが伴う。
異形の存在は突然、指を伸ばしてきた。
詩音を触手でからめとる。
「ああ!?」
詩音は触手で宙に浮いた。
苦しい。
「おまえの命、いただくぞ」
「そいつはどうかな」
ふと、詩音をからめとっていた触手が切断された。
「何!?」
詩音は触手から解放された。
地面に落下し倒れる。
「はあ……はあ……」
詩音と異形の存在のあいだにディックが割り込んだ。
ディックは短めの刀を肩にかけて、立った。
ニヤリと笑う。
「はあ、はあ、あなたは?」
「俺か? 俺はディック。ディック・ディッキンソン。危ないところだったな。こいつは俺の獲物だ」
ディックは余裕たっぷりに言った。
「あれは、何?」
「そっちが先になっちまうか。まあいい。あれは『悪魔』だよ」
「ウソ……悪魔だなんて信じられない……」
「まあ、信じる、信じないは個人の自由だ」
悪魔アザート(Adzaath)は自分の指を見た。
すると指が再生した。
「へえ、再生できるのか」
ディックは悪魔を恐れていないようであった。
詩音にはあれが悪魔であることが信じられなかった。
確かに聖書で読んだことはある。
ただそれは観念的なもので、実在するとは夢にも思わなかった。
ふとディックが詩音に言った。
「なあ、天使って信じるか?」
「え?」
詩音は地面で横になりつつ、ディックの言葉を聞いた。
悪魔アザートは指を爪に変えて、ディックめがけて長く伸ばしてきた。
ディックは涼しくよけた。
爪を連続でアザートは繰り出してきた。
しかし、ディックにはかすりもしない。
「おまえ、邪魔だ!」
アザートは長い爪で薙ぎ払った。
ディックは刀でそれを受け止めた。
「ふうん、なかなか鋭そうだな、その爪」
アザートは長い爪を上から振り下ろした。
その刹那、ディックの一閃が決まった。
アザートの右腕が切断された。
「グアアアアアアアア!?」
アザートが苦悶の声を上げる。
「天使の仕事は人間を守ることだよ!」
ディックが詩音に向けて言った。
「なんだ、てんで大したことないんだな。行くぜ!」
ディックはアザートに急接近し、体を斬りつけた。
「グオオオオオオオ!?」
アザートは左の爪で攻撃してきた。
しかし、ディックは器用に刀で裁いていく。
「どうした、もう終わりか?」
ディックはアザートを刀で貫いた。
「ギイヤアアアアアアアア!? なんだ!? おまえはいったい何なんだ!?」
「俺か? そうえばまだ名乗ってなかったな」
ディックは刀を地面に突き刺した。
「俺はザドキエル(Zadkiel)。大天使ザドキエル」
「ザドキエル……」
詩音が口にした。
「死ね! 天使!」
アザートが左腕を繰り出そうとした。
しかし――
「遅い」
ディックは刀を一振りした。
その時、アザートの動きが止まった。
アザートの頭が地面に転がった。
アザートの体も倒れた。
アザートの首はディックによって切断された。
アザートは死んだ。
「いっちょ上がり。さて」
ディックは刀を地面に突き刺した。
異質な空間が消えて、日常の風景に戻った。
ディックは詩音の前に来て、手を差し出した。
「ほら、立てるか?」
詩音はディックの手を取って立ち上がった。
道路を車が往来していく。
まるで今まで何もなかったかのように。
「どうした? 気が動転したか? それとも何が起こったのかわからないか?」
「ええと……」
詩音は困惑した。
今までのできごとは何だったのか。
理解ができなかった。
自分は夢か、幻を見ていたのか。
このできごとで、詩音の常識は崩壊した。
「わからないなら、わからなくていい。信じられないなら、信じなくていい。何事もなかったと考えるのも一つだ。じゃ、そういうことで」
ディックは詩音に背を向けて歩き出した。
ディックは黒い帽子をかぶりなおした。
「待って!」
詩音が叫んだ。
ディックは背を向けたまま、立ち止まった。
なぜそう言ったかはわからない。
気づくとそう言っていた。
わからないことばかりだった。
頭が混乱している。
でも、一番わからないのは目の前の男の子だった。
この時、詩音は他者の存在に本気で興味を持った。
この男の子は何者なんだろうか。
ディックは自分の住まいに詩音を案内した。
そこはイギリス貴族風の洋館だった。
「そういえば、迷える子羊、人間を案内するのも天使の仕事だったな」
詩音は洋館の執務室に招かれた。
ディックは執務机のイスに腰かけた。
「まあ、座れよ」
「ええ」
ディックの勧めに詩音は応じた。
黒いソファーに座る。
ディックは机の上に置いてあった缶コーヒーを開けた。
コーヒーを口にする。
「やっぱりコーヒーはいいねえ。おまえも飲むか?」
「いえ、私はいいわ」
「そうか」
詩音は部屋を見わたした。
この部屋は黒で統一されているらしい。
「黒なのね、この部屋」
「ああ、俺は黒が好きなんだ」
ディックは窓を開けた。
風が入り込んでくる。
「今どんな気分だ?」
「正直混乱しているわ。あと困惑している。何が何だかわからない感じ。うまく、説明できない」
ディックイスにもたれかかった。
「ま、すぐに理解できたら苦労はないわな」
ディックが開けた窓にカラスが止まった。
詩音は驚いた。
カラスは人間を警戒しているからめったに近づかないのに。
「うちにカラスはよく来るんだよ。カラスに好かれているらしいな」
ディックは詩音の方に向きなおって。
「それで、何から聞きたい?」
「あれが悪魔なの? 悪魔は実在するの?」
ディックはほおづえをついて。
「ああ、あれが悪魔だよ」
ニヤリと笑ってディックが答えた。
詩音は額に手を当てた。
荒唐無稽すぎる。
今でも全部、夢か幻の類と信じたい。
「もっとも、悪魔ってのは色々いるんでね。ひとくくりにできないんだよ。Polykratia 多頭制といってね。あいつらには唯一、絶対の神のような存在はいない」
「わけがわからないわ。理解できない」
「もっとも、細かいところはおいおい理解して行けばいいさ」
「あなたは何者なの?」
「俺はディック。ディック・ディッキンソン。同時に大天使ザドキエルでもある」
「あなたは天使なの?」
「そうだ」
ディックはにやにやしながら答えた。
まるで詩音の答えを笑うかのように。
詩音はため息をついた。
悪魔の次は天使だなんて。
「だから、順番が逆になったって言ったろ?」
詩音には信じがたかった。
どちらかといえば目の前で詩音の困惑を見ているディックの方が悪魔に見える。
「で、おまえは?」
「私?」
詩音は混乱した。
「だから、自己紹介だよ。自己紹介!」
「あ、私は緑川詩音」
ディックは両手を組んでその上にあごを置いた。
「緑川詩音ね、きれいな名前じゃないか」
詩音はさきほどまでのできごとを整理しようとした。
だが、うまくいかなかった。
それは信じられないというより、信じがたいということだったのだから。
「ざっくばらんに言うと、天使と悪魔は敵対関係にある。天使は人間を守る。悪魔は人間を害する。そんなところだ」
ディックは完結明瞭に答えた。
「つまり、おまえは悪魔に狙われて襲われた。それを俺が助けた。それが客観的事実だ。以上だ」
正直詩音にはついていけなかった。
ただ、あの異形の存在に襲われて味わった苦痛や怖さが強烈に現実感をもたらしていた。
ディックはイスを回転させて、横を向いた。
俺のことはディックと呼んでかまわない。代わりに俺もおまえを詩音と呼ばせてもらう。いいか?」
「え、ええ」
詩音は頭がめちゃめちゃだった。
「あの、ええと、ディックはどうして私を助けてくれたの?」
「人間を悪魔から守ることは天使の仕事でね。それにおまえには不穏な影が付きまとわっていた」
「そう、ありがとう」
「まあ、すぐには理解できないだろ。今日はこのくらいにしておくんだな。もう、今日は帰れ」
「ええ、そうするわ」
「この洋館に来たいのなら、また来るといい。入口は開いているからな」
詩音はソファーから立ち上がった。
「それじゃあ、失礼するわ」
「ああ、じゃあな」
詩音の後姿を、ディックは見送った。