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交換留学生に立候補するつもりはないですか、というのが呼び出しの用件だった。

やはり叱責ではなかったことに、晶は胸をなでおろす。なでおろすということは今までそれだけ数多く叱られるようなことをしてきたということなのであるが、学年主任は申し込み書類を一式晶に差し出して、微笑みながら言った。

「行くつもりがあるなら、学校としては喜んで推薦するつもりでいますから、よく考えて決めてください。決まれば出発は学年末になります。尾崎さんは語学の成績もいいし、外交的な性格ですから、いいと思いますよ。……どうですか?」

「はぁ……」

「尾崎さん?」

晶がいかにも気乗りしない様子で返事をしたので、女教師は少し首をかしげた。意外そうに言う。

「気が進みませんか?」

「あ、いえ。決してそんなことは」

晶はあわてて首を横にふった。留学の話を聞いて一瞬ためらってしまったことに、自分でも驚いたのだった。


今までの自分なら、嬉しいはずの話であった。

今いる場所を離れる寂しさよりも、新しい世界、見知らぬ街、これから出会う人々への期待のほうが大きくて、ふたつ返事で飛びついたことだろう。

旅立ちはいつも、新しい映画のオープニングを見ているような気分にさせられる。それは晶にとって嬉しい出来事だった。


今は亡き晶の父は画家で、放浪癖のある人だった。

物心ついたときに母は既におらず、父とふたり家族だった晶は、父にくっついて世界各地を旅してまわっていたものだ。

父が死ぬまでの15年間、晶の人生は出会いと別れの連続だった。

父は、その土地で充分絵を描いたと思うと、その日の夜にはもう荷造りをはじめているような人だったからだ。

もっとずっと小さいころ、子どものころは泣いて駄々をこねた覚えがある。

その土地でできた友人たちと離れるのが嫌だといって晶が泣いてもわめいても、父は動じなかった。小さな晶を荷物のようにひょいと肩に担ぎ上げて、ぎゃあぎゃあ泣くのをそのままにその土地を離れたものだ。

そんなことを繰り返すうちに、晶は少しずつ現実と折り合いをつける術を身につけた。

泣いてもわめいてもそこにとどまることができないのなら、できた絆を絶やさない努力をしよう。

そういうふうに方向転換したのだった。

今までの土地や友人と別れることはそれを失うことだと思うのではなくて、旅するごとに自分の世界は広がってゆき、友人も思い出も経験も増えるのだと考えること。

幼いながらも懸命に考えた末、晶はそうやって自分を納得させるようになった。そしてそれは今も変わっていない。

今はもう、今までの経験から、別れがすべてを終わりにするものではなく、また悲しいだけのものでもないと思っている。


それなのに、今自分はこんなに動揺していると思いながら晶は言った。

「気が進まないということではないです。急なことだったので動揺してしまって」

学年主任が安心した表情でうなずくのを見ながら、更に言う。

「お返事はいつまでにすればよろしいでしょうか」

「そうですね……今週中に」

女教師は卓上カレンダーを見ながら答える。

「保護者の方と相談を……あ、尾崎さんは御家族は」

言いさして、途中で晶の両親がいないことに気づいた彼女は口ごもったが、晶は気にしなかった。あくまで朗らかに言う。

「はい、保護者代理人と相談して決めさせていただきます」

それじゃ、と深く一礼すると晶は職員室をあとにした。




晶はその足でオープンカフェではなく、まっすぐ寮の自室に帰った。妃穂も茨木もそちらへ戻っている筈と思ったからだ。

聖葉は初等部から高等部まである全寮制の女子校である。

基本的に部屋は三人部屋で、等部ごとに寮の建物はわかれている。妃穂たちの住む建物は芙蓉寮といい、その四階に部屋はあった。

「おかえり」

思ったとおり、二人は部屋にいた。晶はただいまと言って自分の机に申し込み書類を投げ置いてから、制服のボタンをはずしはじめる。

ひざ掛けを編んでいた妃穂が編み棒を置いてたずねた。

「お話、なんだったの」

「留学だって」

ベージュのジャケットを脱いでハンガーにかけながら言う晶に、妃穂は息をのんで大きな瞳を見開いた。

そのまま晶の背中を見つめて固まってしまった妃穂を見て、茨木が助け舟を出すように口を挟む。

「で、行くんですか?」

「いやあ、保留にしてきた。返事はすぐでなくてもいいって言うからさ」

ブラウスのボタンをはずしながら言う晶の台詞で、妃穂はやっと金縛りがとけたというようにゆっくり吐息を漏らした。一拍おいてから口にした言葉はかすれてもおらず、震えてもいない。まったく普段どおりの妃穂のものだった。

「何故保留にしたの? 迷っているの?」

だが晶はあっけないくらいずばりと、妃穂の動揺の核心を突く。

「あたしがいなくなったらあんたが寂しいと思って」

「……まあ」

妃穂はゆっくりまばたきしていたが、やがて手の甲をやんわりと口元に当ててほほほと笑った。

「笑ったね?」

シャツを脱いで上はブラ一枚、下は制服のスカートという姿になった晶が勢いよく振り向いて、妃穂に向かってびしりと指を突きつける。

「あんたが『あら』とか『まあ』とか当たりさわりのない返事をしたあとで、そうやって時間稼ぎみたいに笑うときっていうのはね。なにかが図星だった時なんだよ」

茨木が吹き出した。妃穂ににらまれてあわてて向こうをむく。時間割を指でなぞって明日の時間割を確認しているふり。

「しかもそれを認めたくないときなんだよ、そうやって笑ってごまかすときっていうのは」

「ごまかすために笑っているわけじゃありません!」

「そう。で、言い当てられると怒る」

妃穂は一瞬言い返そうとして息を吸い込んだ。

なにか言おうと口をあけたが結局言葉は出てこなかった。

茨木は背中を向けて時間割を眺めているふりをしているが、その肩は小刻みに震えている。妃穂はしばらく口をパクパクさせていたが、やがて眉をひそめて聞き返した。

「わたくしって、そんなにわかりやすい?」

晶が即答する。

「相当スケルトン」

「茨木! わたくし相当スケルトン?!」

「……ノーコメントです」

茨木は背中を向けたままで答えた。晶がさらに追い討ちをかけるように言う。

「茨木がね、充分考える時間があったくせにはっきりものを答えないときっていうのはね、言いづらい答えが出たからだよ」

茨木は我慢できなくなったらしくて低い笑い声をもらしている。妃穂はしばらく晶と茨木を交互ににらんでいたが、軽く咳払いして仕切りなおした。

「……で? そうなの?」

「なにが」

「わたくしが寂しがったら留学しないつもりでいるの?」

晶は部屋着に袖を通すと、あごの下まで一気にファスナーを引き上げて言った。

「試しに言ってみたらは、寂しくなるから行かないでって」

「誰が」

即答する返事は短い。

「意地っ張り。それから」

晶は呆れたように妃穂を見下ろすと、三段ベッドの一番下に腰掛けた。そこは妃穂のベッドであるが、そんなことはお構いなしで足を組んでぶらぶらさせる。

「自分で言うのもなんだけど、あんた、あたしと仲良くなってからちょっとガラが悪くなったんじゃないの」

晶はベッドスペースの都合上、やや前傾姿勢をとりながら親指で茨木の背中を指した。

「ホラ茨木もうなずいてる」

「茨木!」

叱責されて茨木は主に向き直った。椅子に横座りして言う。

「悪いとは言っていません。出るべきところへ出た時にちゃんとしていてくれたらいいんです」

「今はちゃんとしていなくて悪かったわね……」

妃穂が恨めしそうに上目遣いで言うのを、茨木はさらりと流した。

「学校では、いいんです」

茨木は銀縁メガネ越しにやさしく微笑んだ。妃穂はほっと肩の力が抜けたように微笑する。

「まあ、そうね。ここでは少しくらい羽を伸ばしても構わないわよね。わたくしたちにとって、聖葉は家ですもの。ね、茨木」

「そうですね。私もむしろ実家よりここのほうが落ち着きます」

「嘘よ晶。この人どこへ行っても変わらないのよ。このまんま」

だろうねえ、と晶があいづちをうつ。

「せいぜい高橋の本家に来たときくらいかしらね、もう少し改まるの」


妃穂の実家はもうかれこれ600年も続く旧家だ。

歴史ある名家だというだけでなく、たいそうな資産をも併せ持ち、この聖葉女子教育学園も元はといえば高橋家が創設したものだというから、妃穂がここで特別扱いされているのも頷ける。

当時の当主は自家の子女を安全かつ優雅に教育する場所を探していたのだが、その眼鏡にかなう学校はなかった。それで自らつくることにしたのだと言う。高橋妃穂はその創設者の直系の子孫にあたる。


高橋本家の長女であり、あとを継ぐことを義務付けられている妃穂が聖葉にいるのはある意味当然なのだが、妃穂とその実父との間は決してうまくいっているというわけではなかった。

父が一人娘を疎んじて聖葉に押し込めたというのは学園内ではほぼ暗黙の了解事項で、それが知れ渡っていながらかつて取り巻きが大勢いたのは、妃穂の父が政財界に多大な影響を持っていたこと、その関連企業重役の子女が聖葉内には多かったこと、そして親子の不仲は別にしても妃穂の機嫌を損ねることで、自分の学園内での居心地だけでなく、自らの父の立場までも悪くすることにつながると、生徒のそれぞれが考えたからだった。


彼女たちは争って高橋妃穂の機嫌をとり、女王さまででもあるかのように扱い、妃穂はうわべの華やかさとは裏腹に孤独になった。

世慣れた振る舞いだけがなめらかに得意になり、本心を見せられるものは茨木をおいていなかった。

そこへ、尾崎晶が編入してきたのである。

晶はそのとき既に庇護してくれる保護者もなく、高橋家ともその関連企業とも関わりがなかったので、聖葉内での派閥争いからは自由でいられた。

当時茨木とふたり部屋だった妃穂の部屋に晶を入れたのは、晶に対する学校側の配慮だった。晶が早く学園になじめるようにとの。


代理人を間に挟んでとはいえ、父の遺産を自分で管理し自分の人生を自分で決めている晶に、妃穂は自分が将来こうありたいと思う姿を見た。

また晶も、高橋家のひとり娘という重責に押し潰されることなく、自分とはまったく異質な形の覚悟でもって人生に臨んでいる妃穂に、対等ではあるが尊敬するという態度で接した。

話せば話すほど二人が惹かれあっていくのを、茨木も止めなかった。


晶がベッドに腰掛けたままで思い出すような目になった。

「妃穂の実家、すごかったよねえ。お正月行ったとき、正直びっくりした。格式高いってああいうことを言うんだね」

「だだっ広いだけ。そして古いだけ」

妃穂のコメントはあくまでさばさばしている。

「わたくしも茨木も、初等部からここですもの。お互い実家に帰ってもなんだか家って感じがしないのよ」

「茨木といえば。妃穂の実家ですごかった」

私ですか、と茨木が無言で首を傾げる。なにがですか?

「侍女って感じだった。しかも隙のない」

「おや、そうでしたか」

どこか嬉しそうにそう答える茨木に、妃穂が肩をすくめた。

「いいの。この人のこれはもう直らないの」

「私の美学とでも申しますか」

言われてなおさら嬉しそうに茨木は言った。

「そんな時代じゃないし、そこまでしなくていいと言ってるのに」

「好きでやってるんですよ」

「おかげで高橋本家での受けは非常に良いのだけれども」

だから茨木と一緒だと私も実家で少しは気が楽なのだけど、と妃穂はため息混じりにつぶやいた。

「茨木は父のお気に入りでもあるし」

と、茨木は少し眉をしかめて静かにたしなめた。

「そういう言い方はよして下さい妃穂さん。私はあなたの父上に仕えているのじゃなくて、あなたに仕えているつもりでいるんですから」

「茨木って、小さい頃から今とおんなじ?」

晶が聞くと妃穂がうなずいた。そう、昔からおんなじ。

茨木がやわらかく笑って言う。

「代々高橋に使える家系でもありますし、DNAに組み込まれているのかもしれませんね」

「わたくしに忠誠を誓っているのよね」

「そうですよ」

「一生?」


晶が聞くと、茨木は当然という顔でうなずいた。

「一生です」

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