菊の酢漬けのなます和え
その子と友達だったつもりはない。
が、こちらにそのつもりがなくてもクラスが一緒になったら全自動で友達扱いしてくる子がいた。まあ、クラスに一人や二人、それくらい極端にフランクなやつがいるのはあることだろう。
ただその子が珍しいのが、女子でありながら、派閥のための人脈、とかそういう策謀的なところがないことだ。本当に誰とでも喋り、喋った=友達になった、みたいな認識の緩い子だ。嫌いじゃない。
「そこは好きって言ってよ、めぐみん」
「ピ●ミンみたいに呼ぶな」
私は思わず突っ込んだ。これに対し、彼女は「ナイスツッコミ~」なんていう能天気ぶり。うちの母親を彷彿とさせる。
「というか、あなたのこと嫌いな人の方が少ないんじゃない?」
「え? そうかなー。そうだったら嬉しいな」
コミュ力お化けがなんか言っている。
私の隣に立ち、彼女は私の手元を覗き込んでくる。
「めぐみん何してるの?」
「これから帰ってくるであろう夏バテキャリアウーマンのために菊なます作るのよ」
「なます?」
「とても簡単に言うと大根おろしを菊で和えたやつね」
「菊って花の?」
それ以外に何があるというのか。
ああ、でも、文化的には廃れてきているから、知らなくても無理はないのか。私は冷蔵庫からタッパを取り出し、開けて見せる。中には目映いほどの色を放つ菊。食用菊を甘酢漬けにしたものである。
「食用花食用花って最近物珍しそうに言ってるけど、食用花なんて昔から存在してるのよ。これがその代表。美味しいのよ」
「へえ。菊のお酒くらいまでは聞いたことあったけど、菊そのものを食べたりするんだ」
「そうそう。もうすぐ重陽だし、厄払いね」
「ちょーよー?」
え、そこから、と私は珍妙な顔で固まったと思う。重陽とは五節句の一つなのだが、まあ、マイナーといえばマイナーな方なので知らない人もいるのか。特別祝うことのある行事でもない。他と比べて、だが。
「人日、上巳、端午、七夕、重陽。これが五節句ね。人日の節句は一月七日、七草粥を食べる日。上巳の節句は別名桃の節句。三月三日って言えばわかる?」
「雛祭り!」
「そうそう。で、五月五日の端午の節句。七夕の節句は読んで文字通り七月七日の七夕。最後の一つが重陽の節句。九月九日。別名菊の節句ってわけ」
「あれ? でも菊が咲くのって十月終わりくらいじゃなかったっけ? 桃は時期なのに」
「旧暦だと十月末くらいが重陽になるらしいよ。今年は何日だっけな」
私はタッパを置き、居間にある日めくりカレンダーをチェックした。今日日珍しいため、彼女にも驚かれた日めくりカレンダー、我が母の趣味である。趣味というか、一日のルーティンとして日めくりカレンダーを一枚ずつ破くことで、本人曰く「生きてる!」って感じがするらしい。
カレンダーにはご丁寧に赤口だのみずのえひつじだのと書いてある。意味はよく知らん。赤口は大安の親戚で、みずのえひつじは還暦辺りの知り合いだろう。
当然、旧暦も書いてあった。破れないように注意しながら、旧暦の九月九日を探していく。
「あれ、十月四日だ……」
「滅茶苦茶月始めじゃん!」
旧暦なんて、その年によって異なるのでこういうずれは仕方ないが。確か、旧暦だと、四年に一度、閏月が存在するのだ。八月が重複するという奇妙なものだが、昔はそれが当たり前で、それで私たちが今過ごす四年に一回の三百六十六日と釣り合いが取れているのだから不思議なものだ。
今年の旧暦重陽はさておく。
「雛祭りや七夕みたいに大々的に祝うお祭りがなかったり、七草粥とか鯉のぼりとか、象徴的なものが有名じゃなかったりで、重陽はあんまり祝われないのよね」
「日本人はイベント好きなのにねー」
「一応栗ご飯とか食べるものがあるらしいけど、栗ご飯は重陽じゃなくても食べるしね」
「不憫な節句……」
「言ってやるなよ」
私は台所に戻る。
「まあ、菊の節句って言われるだけあって、菊のお酒飲んだりとか、菊にまつわる色んなことするらしいよ。あー、栗ご飯食べたくなってきた」
「愛美ちゃんは栗ご飯作れるの?」
「作れるよ。叔母ちゃんのが美味かったけど」
「いいなー、ウチも食べたいー」
「親に言いなさい」
私は適当に切った大根をおろしていく。気持ちゆっくりめに。
「大根おろしっておろす速さで味変わるのよ」
「え、まじで?」
そそっかしくすりおろすと、えらく辛くなるらしい。逆にゆっくりおろすと甘いんだとか。うちの母は甘いのが好きなくせにそそっかしいので、なますを作るときは私に丸投げである。
「なんだかんだ、お母さんの好みに合わせて大根おろす愛美ちゃん素敵!」
「褒めても何も出ないぞ」
「ウチもお店の大根おろしとか辛くて駄目でさー」
「大根おろしって作り置きするようなもんじゃないだろうからね。注文受けて、急いでおろすのかも」
「大人は平気そうに食べてるから、味覚の変化かなあ、とか思ってたんだけど、コーヒーとかとはわけが違うんよね」
「コーヒー飲めるようになるのは、苦味を感知する味蕾がどうのって話じゃなかったっけ? 辛味はまた別の話でしょ」
ざら、ざら、ざら、とゆったりとした一定の音をASMR代わりに私たちは他愛もない話をしていく。
「愛美ちゃんは元々大人びてたけど、一年のときの年明けからぐっと大人っぽくなったよね。失恋でもした?」
「なんで振られた前提なんだ。……まあ、あれも失恋といえば失恋なのか?」
「してんじゃん!! っはあー、恋するって素敵だよねー」
私は沈黙する。失恋を言い当てられたからではない。
「色埜はどうなの?」
「へ?」
「島﨑」
「……えーと」
彼女──色埜美青の目が泳ぐ。
クラスメイト全員友達カウントするようなやつだ。クラスでは人気かどうかはさておき目立つ目立つ。色埜美青はわざとじゃないかというくらい人に印象を残す少女だった。
島﨑というのは色埜の幼馴染みらしい。よく登下校を一緒にしていた。島﨑もそこそこ変わったやつで、これがまあ、人と目を合わせない。つまり、コミュ力お化けとコミュ障の組み合わせなわけである。
コミュ障がコミュ障たる所以はきちんとあるようだが、コミュ障すぎる島﨑をいつも庇っていたのが色埜だ。カップルだなんて揶揄されているのも珍しくなかったし、不思議でもなかった。なんとなく、少なくとも色埜は島﨑のこと好きなんだろうな、くらいの想像はついた。
「香折ちゃんとは、そんなんじゃないよ」
男なのに女みたいな名前の彼女の幼馴染み。小学生でも高校生でも名前いじりは常套手段らしく、島﨑のことを女々しいやらなんやらと言う連中は跡を絶たなかった。
その一つ一つを庇っていたからこそ、色埜は島﨑に気があるのでは、という噂がまことしやかに囁かれたわけである。ただ、言い訳をしつつも、その目が私から逸らされることはない。
「もう家族みたいな感じ? 恋愛っていうよりは、親愛かな」
「ふぅん」
まあ、私は興味がない。おちょくってきたのでおちょくり返したまでだ。馬に蹴られて死ぬのは御免という主義である。
恋愛というのは複雑怪奇だ。うちの馬鹿母のようにでき婚したからアホみたいに言い寄って、挙げ句に逃げられる恋もある。私がいつぞやの冬にしたみたいに人間じゃないものにだって、恋心ははたらくことがある。色埜と島﨑のような周りから見たらそうとしか見えないあからさまな恋仲の本質がただの家族だったりするもんだから、世の中、わかったもんじゃない。
大根おろしのようなものだ。その人の気分次第で味が変わってしまう。ある日はゆっくりすれても、次の日も同じようにすれるかはわからない。それくらい複雑で妙味な人生の添え物。それが恋かもしれない。
そうしていると、がちゃりと玄関が開いた。阿呆が帰ってきた。
「め゛ぐみ゛ぃぃぃ゛~」
おお、随分と汚い声だな。私は玄関に向かう。
「おかえり、お母さん。今菊なます作ってたよ」
「さすが、愛美はわだしの天使だわ゛」
「はいはい。あ、友達呼んでるから」
「そう。じゃあ、お母さん着替えてくるから」
台所に戻ると、色埜がにこにこしていた。
「愛美ちゃんのお母さん、面白そうな人だね」
「んー、まあ面白いんじゃない? 旦那に一回逃げられてる女は一味違うよ」
「そうなんだ!」
「……っていうのがお母さんの口癖だから」
「あはははは!」
聞いた瞬間、色埜が高らかに笑う。無理もない。自分で言うな案件だ。
大根おろしと菊の甘酢漬けを和える。白雪の中に落とされた日だまりはぱっと散って全体を華やがせる。
「完成ー」
「結構簡単だね」
「大根おろすのと菊の漬物作ってみてから言ってな」
「愛美ちゃんはお嫁に行くのに困らなさそうだね」
「……色埜」
色埜を見る。私の知る色埜とは違った。容姿はほとんど同じだが、目が青い。面白味のないこの国では、黒髪黒目が普通だ。
色埜が泣き笑いで告げる。
「ウチはもうお嫁に行くこともできないから」
「そら、死んだらどうにもならんさ」
色埜は事故で死んだという。学校の色埜の席には、花瓶に花が生けてある。仏花だから、菊もあったはずだ。
私は幽霊とか、そういった類のものは見慣れている。これがいいことなのか、悪いことなのかはわからない。色埜がどうして死んだのかはわからないけれど、未練はあるのだろう。主に島﨑に。それが惚れた腫れたの話かはきっと色埜にしかわからない。
「重陽っていうのは陽の数字である奇数の中で最も大きい数字の九が二つ重なる日だから重陽って呼ばれるらしいよ」
「どしたの、いきなり」
「陽の気が多いと対となる陰の気も多く生まれやすいんだって。だから陰の気が災いを引き起こさないように厄払いをする。それが重陽の節句。元となった陰陽道に造詣はないけどさ……色埜が今ここにいるのって、色埜の分の陰の気ってわけだろ」
「ウチが災いになると?」
「災い転じて福と成せってことだよ。彼岸も近いし、会いたい人に会うくらいいいんじゃないの?」
色埜の目はそう言われるのを待っていたようだった。たぶん、島﨑のところじゃなくて、私のところに来たのは、ちょっと背中を押してほしいとか、そんなところだろうと思ったから。
「じゃあね、愛美ちゃん。ありがとう」
「おう。迷うんじゃねーぞ」
そんなやりとりをすると、色埜はどこかに行った。ふわっと消えた辺り、本当にこの世のものじゃなくなってしまったんだなあ、と思う。
私はタッパからひとつまみ、菊の甘酢漬けを持ち上げる。ぱくりと頬張ると鼻腔に抜ける芳醇な香りと、口内を満たす甘酸っぱさ。菊の花びらのちょっとの青臭さ。
「……酸っぱ」
堪能していると阿呆親がやってきた。
「それで、お友達はいつ来るの?」
私はへらっと笑って盛りつけた菊なますを差し出す。
「もう帰ったよ」
菊はさしずめ日常に溶けて消えていく非日常みたいな味、なんだろうか。
清涼感のある恋の、ちょっとしたスパイスにでもなればいい。
たぶん「なます」が「大根おろし」なのは方言だと思う……
春の七草の「すずしろ(大根)」を使用しました(物理)
食用菊まじで美味しいですっていう記憶を辿って書きました。