温かみと冷たさ
「ほら、朝だぞー! みんな起きた起きた!」
今日も、カリドの家に家主の太い声が響き渡る。
カリドが、一人ずつ寝藁を払いのけ起こしていくが、どうにも寝覚めが悪い。
「ほら、起きて、ジーナ嬢ちゃん、ティリア、マリさん、アリス嬢ちゃん!」
「おはようカリド」
そんな中、アリスだけがカリドの声に反応した。
それを見たカリドは、一瞬寂しそうな表情を浮かべたが、すぐさま口角を上げて、アリスの頭をそっと撫でた。
「おはよう、アリス嬢ちゃん」
アリスの頭に触れる手は優しく、朝だというのにとても温かかった。
アリスは、寝癖一つない頭を下げ、くまが出ているであろう、目元をそっと隠した。
(何してんだ? クリス、このおっさんとなんかあったのか?)
(別に、何もないよ)
(ん……? はっ! まさか……! クリス、おまえ、おっさんと……あんな事や、こんな事を……?)
(何わけの分からない事言ってんだよ! そんなわけないだろ!)
溜め息を深くつきながら、アリスはジーナを揺り起こす。
その隣でカリドがティリアを起こしているが、うわごとを言いながら絡まれており、悪戦苦闘していた。
「ふぁー……おはようございます、アリスお姉ちゃん」
「おはよう、ジーナちゃん」
ぴよぴよとそこら中に跳ね回る長い髪で、目を擦りながらしっかりと挨拶をするジーナ。
その鈴の様な声に呼応するかの様に、マリの上半身だけが、
むくりと寝藁から飛び出してくる。
「おはようございます、ジーナ」
「お母さん、おはようございます!」
嬉しそうに抱きつくジーナを恍惚とした表情を浮かべながら、膝の上に誘導し、髪を整える。
いつもの日課をこなしている二人を横目に、アリスは、カリドが、起こそうとしていたはずのティリアを再び寝藁に押し込んでキッチンの方へ歩いて行くのが目に入り、後を追いかける様にキッチンに入った。
「おう、アリス嬢ちゃん、朝ごはんなら今から作るから待っててくれよ」
「オイラ、手伝うよ」
「おぉ、ありがとな! なら、この野菜をそこの水で洗ってくれるか? なるべく水は節約でな」
こくりと頷いて、アリスは青々とした野菜達を抱えて、水場へと行く。
小さなコップの様な、水を掬う道具を見つけ、少量の水をそこに貯めて、野菜にかけながらもみほぐす様に洗っていく。
水を貯めてある場所に野菜を突っ込めればさぞかし楽だろうと考えたが、とてもじゃないが、アリスにそれを実行する勇気はなかった。
「洗えた野菜からこっちに持ってきてくれるかー?」
カリドが、スープの下ごしらえをしながら、アリスに呼びかける。
丁寧に洗い、カリドの元へと持っていくと、一つ持っていくごとに、嬉しそうに、にこやかにありがとうと言ってくれるので、アリスも楽しくなり、野菜を洗う手が弾んだ。
それと同時に、カリドはやはり大人だと、深く実感した。
あんなにも自分を責めていたはずなのに、他者を思いやり、優しく出来るというのは、アリスにとってはかなりの衝撃の事実だった。
少なくとも、アリスの知っている魔女の世界では、ありえない事だった。
(やはり、人間とは良いものだな)
(どこがだよ)
(理性的で、良いじゃないか)
(けっ、表に出さねぇだけだろ? 何が良いのかさっぱりだ。クリス、それはお前らしくねぇし、面白くねぇ)
言うだけ言って、コロは気配を消した。
野菜を全て洗い終わる頃には、マリのジーナの髪をとかすいつもの日課は終わっていて、ティリアも起き上がり、寝ぼけ眼を擦りながら、寝藁を部屋の隅に片付けていた。
「アリス、お手伝いしてたんですか、偉いですね。あとは私に任せて、あなたは座っていてください」
「ありがとう」
マリに任せて、アリスは席に着いた。
食卓には、もう準備を一通り済ませたのか、一足先に、ジーナとティリアが座っていた。
「おはよう、アリス」
「……おはよう……」
いつもの様にティリアから挨拶されているだけなのに、アリスはどこかぎこちない。
「ん? アリス元気ないわね、何か良くないものでも拾って食べた?」
「え! アリスお姉ちゃん大丈夫!?」
「い、いや、何も拾い食いなんてしてないし、元気だから……大丈夫」
普通にしないといけない、自分が気にしたところでどうにもならない、頭では分かっているのに、どうしても、ティリアの身の上を考えると、態度に出てしまう。
アリスは、それがまるで自身がティリアを憐れんでいるように思えて嫌だった。
「ふーん、そう、なら別にいいけど」
ティリアは、そっけない態度で、カリド達の方に体を向け、興味の対象を朝ご飯に切り替えた。
「アリスお姉ちゃん、本当に大丈夫? 大事ない?」
「うん、本当に大丈夫だよ、ありがとね、ジーナちゃん」
「本人が大丈夫って言ってるんだから、気にしなくていいわよ」
不安そうに顔を覗いてくるジーナに、アリスは、今作れる精一杯の笑顔で微笑みかけた。
自身の身を真剣に案じてくれるジーナの気持ちは素直に嬉しかったが、今は、素っ気なく接するティリアの態度の方が、アリスの心を軽くした。
「さぁ、出来ましたよ」
マリがいつもの無愛想な顔で、朝食のスープを順に並べていく、その横で、笑顔のカリドが、誰にいうでもなく、当たり障りのない言葉をふわふわと放っていた。
神に祈りを捧げ、特に何事もなく食事を終えた。
瞬く間に終えたその時間、食器を返そうとしたアリスは、会話の内容を、特に覚えていない事に気がついた。
考え事をしすぎていたからなのか、はたまた、上辺だけの会話しか成立していなかったのか、それすらも思い出せない程に、ボロ切れの様に希薄な時間だと感じていた。
それでも、一つだけ記憶にある事といえば、カリドがいつもと変わらずにみんなと接している事くらいだった。
普段通りに接しているカリドだけが、普段よりも強く、記憶に残っていた。
カリドと、マリに食器を返すと、みんなはもう行っておいでと、学校に行く様に促されたので、手伝いをせずにティリアとジーナと共に家を出た。
眩しいくらいに明るい日差しが降り注ぐ中、ティリアがこっそりとアリスに呟き微笑を浮かべた。
「ジーナちゃん、今日も大活躍しちゃったりしてね? うふふ」
ティリアの氷の様な心の通ってない芯の無い冷たさを孕んだその一言は、アリスの心を強くざわつかせた。
しかし、アリスは、そのざわめきや冷たさが何からくるものなのか理解するまでには至らなかった。
ただ、そう言ってにやりと笑ったティリアの顔がいつもよりも醜く見えた事だけは確かに感じとっていた。
しかし、アリスは、その醜ささえも、自分がかけてしまっている憐れみのフィルターのせいじゃないかと、あえて見ないふりをする事にした。
前を楽しそうに歩くジーナと、それを眺めるティリア。
太陽に照らされた二つの影が、アリスには、色濃く映った。
「気にしない、気にしない、人は美しいんだから」
まるで、言い聞かせるかの様に、アリスは呟いて二人の後を追った。
しかし、学校に着いた後も、特に大きな事件が起きる様な事は無かった。
神の教え、言語、自然と、何事もなく時は進み、ヘルヴィスの穏やかで分かりやすい授業が安穏と続いていく。
そして、時々リンナが泣き出し、ミーナがあやしに外に出る。
双子がチクリと刺す様な言葉を吐いて、テッドがいさめる。
そんな周囲に影響されず、ジーナは粛々と、真剣な眼差しで、静かに知識を己のものとしていった。
ご飯の時間になると、みんながみんな、似た様なボロボロの布切れに、一様に野菜炒めを包んでおり、アリスの心は少し揺らいだが、皆の顔からは笑顔が溢れていたのをみて、自然と頬が緩んだ。
そして、やはりその笑顔の中心にいたのはティリアだった。
というより、どんな時でもティリアはクラスの真ん中にいた。
誰よりも活発で、誰よりも勉強熱心で、誰よりも他者を思いやる行動を真っ先に取っていた。
良かった、これはきっと普段通りだろう。
アリスは、自身の疑いが杞憂だった事に深く安堵した。
ご飯を食べ終え、皆がうつらうつらとしだした昼休憩明けの授業は、算数だった。
ヘルヴィスが、ボロボロの黒板に数式を書いていく。
先程習った、足し算とかけ算を合わせた数式だった。
アリスは、生徒達の眠気を必死に堪える雰囲気を感じながら、更に眠気を煽る様な難解な数式に、もう勘弁してやってくれと思いつつ頭を悩ませる。
「それじゃあ、この問題分かる人いるかな?」
アリスは考えてみたが、正しい答えが導き出せているか分からなかったので、手は挙げなかった。
しかし、手を挙げなかった理由は分からないからというだけではない。
こういう時に、真っ先に手を挙げる人物がいる事をアリスは、みんなは知っていて、きっとその子が解いてくれるだろうと期待しているからだった。
「はい!」
「はーい!」
えっ、と誰かが言った様な錯覚にアリスは陥った。
「お! じゃあ、少し早かったから、ジーナさん! 前に出て解いてくれるかな?」
はいっ、とキレのある返事をしてどこで覚えたか綺麗な所作で黒板の前まで歩いていく。
真剣に黒板を見据えるジーナの目には、周りの事はどうやら見えていない様だった。
「はい! 正解です! ありがとうジーナさん!」
先生の声を音頭に、教室から手を叩く音が響いた。
ジーナは、ニコリと微笑みつつ、今まで受けた事がない賛辞の音に恥ずかしそうにそそくさと席に戻った。
アリスは、ジーナが褒められている姿を見て、嬉しく感じていたが、素直には喜びきれない所があった。
しかし、アリスの気持ちなど捨て置くかの様に、それからの算数の時間は、ジーナがこれからの学校で過ごす時間を決定的に変える事となった。
「おぉ! ジーナやるじゃねぇか! お前すげぇよ!」
「さすがですね……! 僕でもこれは分からなかった」
「意外とやるじゃん!」
「意外ともっとやれるかもね!」
続々とあがる賞賛の声に、ジーナは頬を赤く染めた。
「ジーナちゃんさすがね! 私よりも早く解くなんて!」
「ティリアちゃん! ありがとう!」
ティリアに言われたことが嬉しかったのか、ジーナはくしゃりと笑った。
それからというもの、ジーナは人が変わった様に積極的に授業に参加していくようになった。
真剣に授業を聞いていたジーナは、元々の頭の良さも相まって、次々と問題を答えていった。
みんなの分からない問題ですら、易々と答えてしまうその姿は、まさに神童と言っても過言ではなかった。
その証拠に、ヘルヴィスも、興が乗ってきたのか、明らかに少し難しい問題を出すようになっていた。
しかし、ヘルヴィスが、見繕った難易度を軽く超えていってしまう様なジーナの見事な解きっぷりに、クラスの皆は感服しっぱなしだった。
そして、その調子のままその日の授業は終わり、帰宅の途につく事となった。
「じゃあ、ジーナちゃん、ティリアちゃん帰ろうか」
本日、良いとこ無しのアリスが真っ先に音頭を取る。
「はーい!」
元気の良い返事をするジーナに対し、ティリアは黙ったままだった。
「どうしたの? ティリアちゃん?」
「ごめん、二人共、私寄るところがあるから先に帰ってて」
そういうなり、ティリアは真っ先に教室から飛び出して行った。
すると、一連の流れを見ていたのか、ティリアがいなくなり、会話にひと段落ついたタイミングで他の生徒達がジーナの周りに集まってきた。
「ジーナ、お前すげーな! そんなに頭よかったのかよ! どうだ、俺の子分にならねぇか? 今なら一番の子分にしてやってもいいぞ!」
「テツ君!? そんな!? 僕は!?」
「テツ君ありがとう、気持ちだけ頂戴致します!」
「出来る女……超可愛いです!」
「今度……勉強教えて下さい」
「タルトちゃん、ありがとう!ヒメスちゃん、喜んで!」
「ジーナちゃん人気出たね!」
「ジーナちゃん人気もっと出るかもよ!」
「ワーナーちゃん、ミルキーちゃんありがとう! でも、ちょっと注目され過ぎちゃうのは恥ずかしいかな」
「かっ……可愛すぎませんかー!」
「皆さんありがとうございます! もっと皆さんも話したいけど、そろそろ帰らなくちゃ! アリスお姉ちゃん、行こ!」
ジーナは、アリスにそっと微笑んでエスコートする様に教室からアリスと共に出た。
残された生徒達の名残惜しそうな声が聞かれる度に、アリスは何故か無性に自分があの子達よりも優位に立っている様に思えた。
「ジーナちゃん良かったの? みんなと話さなくて」
「うん! 早くお母さんに色々お話ししたいし、いいの! それに……」
「うん?」
「ティリアちゃんともお話ししたい!」
そう言いながらにっこりと微笑むジーナに、アリスは胸がぎゅっと締め付けられる感覚に襲われた。
あんなお母さんから、何でこんなに良い子が育つんだと、疑わずにはいられなかった。
「ジーナちゃん……!」
「あ、もちろんアリスお姉ちゃんともお話ししたいよ? 今からたくさん話そうね!」
「ジーナちゃん……! あんな母親から何て良い子が……!」
さっき感じた事を言葉にせずにはいられなかった。
「じゃあ、一緒に帰ろうね! そういえば、あの双子の見分けよくつくね? オイラ全く見分けがつかなくて……」
「あの子達、いつも並び順が一緒だから分かるの! 左がワーナーちゃんで右がミルキーちゃん!」
「そ、そうなんだ! よく見てるね! それに、名前覚えてるのもすごいね! いつ覚えたの?」
「一番最初! 名前聞いた時に覚えたよ! アリスちゃんのチームの人達は、他の人が名前呼ばれてる時とかに覚えたよ!」
この子はもしかしたら、俗に言う天才というやつなのかもしれない。アリスは、自身にかけられるその言葉の意味を、初めて目で見て捉える事に成功した気がした。
「君は本当にすごいなぁ」
しみじみとジーナの方を見ていると、ジーナは顔をくしゃくしゃにして笑いながら言った。
「アリスちゃんの方がすごいと私は思うよ! 私には分からないけど、きっと色んな事を知って、経験しているんだよね? だから、そうやって人の事を称賛出来るのだと思うのです。それに……」
ジーナは真っ赤に染まる空を見上げた。
「経験って良い事よりも、良くない事の方が多いとジーナは思うのです。だからアリスちゃんはとってもすごいと思います!」
「ジーナちゃん……」
ジーナは、そっとアリスの頭を撫でた。
その小さな手から伝わる温もりは、心の奥深くから、何かが溶け出す様な感覚にさせた。
「じゃあ、帰ろうか」
アリスとジーナはゆっくりと家路に歩を進めた。
二人が、カリドの家に戻ると、カリドとマリは、晩御飯の準備を進めていた。
ただいまと、勢いよく声をかけると、マリが重そうな石扉をいとも容易くこじ開ける。
「あぁ、おかえりなさい可愛いジーナ、アリス」
「ただいま! お母さん、今日ね、いっぱい褒められたんだよ!」
「そうですか、偉かったですね。後でお話をたくさん聞かせてくださいね。それで、アリスは何について叱られてきたんですか?」
「何で叱られた前提で話が進むんだよ。叱られてないよ」
「そうですか…………うん、まぁ、よく……頑張りました……ね?」
「何でちょっと残念そうなの? 何で疑問形なの? ねぇ、何で?」
「おう! おかえり……ってあれ? ティリアは一緒じゃないのかい?」
嬉しそうに抱きつき合うマリとジーナを微笑ましそうに眺めながら、台所から顔を覗かせたカリドは、時折り不思議そうな顔をしてアリスの方を見ている。
「あぁ、なんか用事があるって、一人でどこかへ行っちゃった」
「あぁ、そうか……」
少し黙った後、カリドは渋そうな顔をした。
しばらく、悩んだ後、少し申し訳なさそうに、口を開いた。
「すまないが連れ戻してきてくれないか? 何となくあてはあるから」
どうにも歯切れが悪そうにそう答えるカリドを見て、やはり何かがあるんだと、アリスは察した。
「私が行きます! ティリアちゃんを無事に連れ帰ります!」
そんなアリスの邪推をいつも容易く粉砕するのが、ジーナだった。
「ジーナ嬢ちゃんには、お使いはまだ少しだけ早いかなー?」
にこにこしながらカリドの方を見ているジーナに、カリドは苦笑いを浮かべながらやんわりと断りを入れた。
どうやら、カリドは、アリスに行ってもらいたいと思っているらしい。
「ジーナ、危ないですよ? ここはお姉ちゃんに任せましょう。お姉ちゃんは、身を守る術をちゃんと持っているので安心です」
知ってか知らずか、マリも過保護を発動させ、面倒事はアリスに任せるハラづもりのようだ。
「分かった。オイラがティリアちゃんを迎えに行ってくるよ」
「そうか、悪いね。ありがとう、アリス嬢ちゃん」
優しい父親の笑顔をアリスに向けた後、アリスを優しく手招いた。
側に行くと、アリスに今ティリアがいるであろう場所を耳そっと耳打ちした。
「何でそんなところに?」
アリスは、聞いた場所があまりにも不思議に思えて、つい声に出してしまった。
「……ごめんな、俺には分からない」
そう答えたカリドの顔を見て、アリスはその言葉を発した事に強く後悔した。
「わ、分かった! ちゃんと連れて帰ってくるね!」
「アリスお姉ちゃん行ってらっしゃい!」
ジーナの声への反応も程々に、アリスは足早に家を出た。
アリスは、扉を閉めた後、小さくため息を吐く。
「人間とは、大変なものだ」
魔女と人間には、大きな差がある。
魔力が通い、それぞれに合った力が使える者、それが魔女。
それ故に制約も多く、何かと不自由な点はあるが、人間よりも身体能力は高く、寿命も、食事さえ定期的に取れればある程度は長い。
そして、何より、魔力の影響で、欲求に正直になる事が非常に多い。
魔力の影響以外にも、魔女は子を産む事が無い。だから、魔女界では自分の子供という概念が無い為、他者を思いやる行動等、協調性に欠如している場合が非常に多いのだ。
サバトにもそういったメンバーが大半を占める為、各々がやりたい事をして、いつもまとまりがないというのが普通なのだ。
だからこそ、他人の事で強く思い悩む人間の世界をひとつまみ分でも触っただけで、アリスは、ひどく疲れ果てた。
本能で動けない分は、理屈で理解して対応するしかない。
人として潜入していくのに、バレたら終わりのこの環境で、人間の家族のイザコザに首を突っ込んで魔女だとバレない様に行動するのは、アリスには神経がすり減る作業であった。
「まぁ、それが人間のいいところでもあるんだけどな」
(へっ、まーたいってら)
(何を、思おうがオイラの自由だろ?)
(あぁ、構わねえよ、何も起こんなきゃな。人間がらみの面倒事は、ごめんだぜ?)
(勝手に入ってきて何を言うんだまったく。それに、オイラだって面倒事を起こすつもりはない。あの二人の行く末を見届けるまではな)
再び、消える様に気配を消したコロ。
どうしてそこまで、人間を毛嫌いするのか、少しだけ思いを巡らせたが、やるだけ無駄なような気がしてすぐにやめた。
そうこうしている内に、カリドから聞いたティリアの居場所への目印が目の前に現れた。
「おっこれかな? 大きな三角の石。そこを右に曲がって、雑木林に入る。右斜めに向かって生えている木を見つけたら、それに沿って歩いた先にある大きなほら穴にいる、かもと言っていたな」
夕暮れ時の雑木林は、普通の子供なら怖くて入れない様な空気の冷たさがあった。
どうしてこんなところに? 何の用事があって? 疑問は絶えなかったが、とりあえずカリドに言われた通りに、雑木林の中を歩いていく。
雑木林に入ると、途端に夕陽は量を減らし、風のざわめきに木々達が呼応し、入った者を妖しく迎え入れてくる。
やはり、一歩踏み入れただけでも、幼い子供には十分すぎるほどの怖さがある。
アリスは、そのままずんずんと進んでいくと、曲がった木が生えていた。
そして、それに沿って、歩いていくと、探していないと分からない様な、小さなほら穴らしき空洞を見つけた。
「これかな? おーい、ティリアちゃ――」
(おいおい、ちょっと待てクリス、何か、変な音が聞こえるぞー?)
軽い、どこかうわついた口調でコロが言った。
アリスは、素早く木々の中に身を隠し、周囲を警戒した。
目視する限りでは、何かがいるようには見えない。魔力による反応も感じない。そっと耳を澄ませてみると、確かに、一定のリズムで何かを叩いている様な、ごく小さな音がする。
ティリアがここにいるならば、早く連れ出した方が良い、そう思考した次の瞬間には、体は動いていた。
「ティリアちゃん、いる? 迎えに来たよ」
アリスは、ほら穴の中を映した自身の瞳が正常に動いているか真っ先に疑った。
中には確かに、カリドが言った通りティリアがいた。だが、明らかに様子がおかしかった、まるで、魔女と見まがい、魔力を解放させようかと逡巡してしまうほど、それは異質だった。
首を片手で締めながら、もう片方の手をひたすらに壁に強く叩きつけているティリアの姿がそこにあった。
その目は、明らかにどこも見ておらず、しかしながら力強く見開かれていた。
コロが言った音とは、ティリアが出していた音だった。
明らかに、正気じゃないティリアを前にアリスは、固まったまま動けなかった。
しかし、止めなければいけない。動揺しながらも、全くこちらに気付かないティリアから見えない様に体を引っ込め、勇気を振り絞った。
「ティリア……ちゃん、迎えに来たよ……」
続いていた、痛々しい音は止んだ。
しばらく、無音の世界が続いた後、ひょっこりと何事もなかった様にティリアが出てきた。
首には、赤いアザ、拳には、血が滲んでいるのが見えた。
「アリス! 迎えに来てくれたのね! もしかしてお父さんから?」
それは、いつも通りのティリアだった。
あたかも教室にいる様な、そんなテンションで、夜が近づく雑木林の中、ティリアは出てきた。
あまりにもいつも通り過ぎて困惑したアリスは、返事をするのがかなり遅れてしまった。
「うん、ここにいるかもしれないからって。迎えに行くのはオイラが引き受けたんだ」
「そっか! ありがとねアリス! おなかすいたなー! 今日の晩御飯は、何かなー!」
「なんだろうね?」
「あはは! 野菜炒めしかないじゃない! もう、ちゃんとツッコんでよね!」
「あー、そうだね、ごめんごめん! オイラとしたことが、がはは!」
乾いたアリスの笑い声を背に、無邪気にすたすたと雑木林を慣れた足取りで進んでいくティリア。
身構えながらも、アリスは、一先ずカリドの元へ連れて帰る事が出来たという安堵感で、少し肩の力が抜けた。
きっとほら穴で見たのは何かの間違いだろう、首が痒くて、少し搔いていただけだ。
きっと、強くなりたくて修行をしているんだ。あのパンチで、鉄拳制裁したい相手がいるんだろう、アリスはひたすら言い聞かせながら、ガサガサと落ち葉を踏みしだいて進んだ。
「ねぇ、アリス!」
弾んだ声でティリアが声を掛ける。
「なぁに? ティリアちゃん?」
「さっき、私が何してたか見た?」
「……!」
すっと振り向いた顔に、アリスは背筋が凍り付いた。
心臓が、止まった気がした。
体から、めぐる血液の脈動を感じ、魔力が、霧散していく様な、心地の悪さを感じた。
(ヒュー! さっすがぁー!)
嬉しそうなコロの声色に苛立ちが隠せない。もしかして、さっき音を教えてくれたのも、全部分かってやっていたのではないだろうか。
アリスは、コロとは、しばらく口を利かないことにした。
「見てないよ」
恐る恐る答えた。
アリスは、表情筋が強張っていて、今どんな顔をしているのか想像がつかなかった。
また、時が止まった様に音が消える。
緊張で何秒だったか分からない。永遠かとさえ思った。それでも、何とか誤魔化せたのか、ティリアはうっすらと笑みを浮かべながら、そう、なら良かったと小さく呟いて家の方へ一人で歩いて行ってしまった。
アリスは、しばらく呆然としていたが、足だけはきちんと動かしていた。
安堵を出すのは、嘘をついていると言っている様なものだと、体が勝手に判断していた。
ティリアのその目はまるで、闇そのものの様な奥深く暗い色をしていた。
にこやかに笑っているのに、ここじゃない、もっと深くを覗くような目。
恐らく、あれがカリドの言っていたティリアが抱えているものの正体なのだろう。
アリスはそれを強く感じ取った。
アリスは、体の内側から冷たい何かが迫ってくる様な感覚に襲われた。
ティリアが抱えているものは、嫌な予感がする。アリスは直感的にそう感じたが、何がそうさせるのか、どうその予感が働いているのかまでは理解する事ができなかった。
アリスは、こういう時、魔女じゃなく人間だったらと、つくづく思っていた。
アリスは、様々な感情がないまぜになったまま、すごすごと、ティリアの後に続いて家路についた。




