結局はどちらかを選ぶしかない
「君が訪ねてくれるなんて、嬉しいよ」
用意されていく紅茶と、お菓子の数々。ご機嫌なシャノワールを前に、マートルは軽く目を伏せる。並べられたお菓子は、彼女が「美味しかった」と話した事があるものばかりだ。
(きっと、私の為に用意したのね)
城を訪れたマートルは、少し緊張した面持ちでシャノワールの執務室にいた。
最後くらいは自分から会いに行こうと思い、手紙で約束を取り付けたのは数日前だ。
ちらりとシャノワールを見ると、彼は「遠慮せずに食べてくれ」と目を細めて微笑む。マートルの心臓が、僅かに跳ねた。
シャノワールは、いつもそうだ。マートルと一緒にいる時、幸せそうな表情を見せる。想いの塊がなくとも、目から「愛しい」と伝わってきた。
「……殿下、隣に座っても良いでしょうか?」
近づかなければ、想いの塊を回収できない。
目論みがあるマートルの申し出に、シャノワールは「もちろんだ」と嬉しそうに頷いた。長椅子に座っていた彼は、右に寄る。
「失礼致します」
マートルはシャノワールの隣に腰をおろすと、軽く息を吸った。心の準備は、とっくにできている。
「……シャノワール殿下。殿下は、私をまだ婚約者にと望まれているのでしょうか」
マートルは、まっすぐシャノワールを見上げた。淡い水色の瞳には、緊張した面持ちのマートルが映っている。
「……あぁ。私は、君が良い」
真剣な顔で、シャノワールは頷いた。ころんっと、シャノワールからピンクのハートが転がり落ちる。
マートルの膝の上に落ちたそれは、いつもより少し大きかった。マートルが両手でそれを包むと、シャノワールの想いが伝わる。
『初めて会った時から、好きなんだ』
純粋なまでに向けられる好意に、マートルは揺らいだ。唇を僅かに振るわせながら、ぐっと力を加える。
(これを……)
柔らかいものが潰れる感覚が、手に伝わった。
これさえ壊せば、シャノワールの恋は終わる。そうしたら、ヴィオラとの未来があるかもしれない。
「……っ」
シャノワールとヴィオラ。二人が寄り添う姿を想像して、マートルは胸が痛んだ。痛い。苦しい。それでも、気付かないふりをして更に力を込める。――が、ハートは一向に壊れる気配がなかった。
(なんで……?)
母親の怒りはガラスのように簡単に砕けたのに、シャノワールのハートは柔らかいせいか壊れない。
『指輪が警告しない人間は、君にとって良い縁なんだよ。だから、大事にした方が良い』
不意に、フェルマの言葉が過る。ふっと力が抜け、マートルの手から想いの塊が床に転げ落ちた。潰していたそれは、未だに綺麗な形を保っている。
(好意は壊れないのね……)
どうやら、壊せるのは負の感情に限られるらしい。それとも、指輪はシャノワールとの縁を良いものとして守っているのだろうか。
(……もしかしたら、私が殿下に惹かれているから壊せなかったのかも)
――きっと自分は、ずっと前から彼が好きなのだ。それは、思ったよりすんなりとマートルの胸に落ちる。
(私はヴィオラの為だと言い訳をして、殿下の気持ちを無視していたわ)
マートルは、冷静になった。思い詰めて考えた末の行動だったが、人の気持ちをどうにかしようとしていた己を恥じる。
誰かの気持ちを優先させても、誰かは傷付いてしまう。自分だけなら良いと独りよがりの自己犠牲は、結局は何も解決しないのだと悟る。
(私、薄情な人間だわ)
恋とはなんて厄介なのだと、マートルは思った。ヴィオラの顔が浮かんでくるのに、心配そうにマートルを見つめるシャノワールに胸が熱くなる。じわり、涙が込み上げた。
「マートル嬢? どうしたんだ、どこか痛いのか?」
「……違うんです。私が、私自身に失望をしているだけ」
結局、自分の幸せを選ぼうとしているのだ。マートルは、良心の呵責と自覚してしまった気持ちに苦しくなった。
すると、シャノワールの手がマートルの右手をそっと包み込む。
「……君が何を悩んでいるのか、私には分からない。もし、私の事で悩ませているのなら、申し訳ないと思う」
ころんっ、青い雫がシャノワールから落ちる。
「それでも、君を諦めてやれない。君を知る度に君が私の隣で笑ってくれる未来を、何度も想像してしまう」
熱の籠った眼差しに、マートルは息を呑んだ。この先を聞いてしまったら、きっともう後には引けない。そんな予感がした。
「好きだ、マートル。君を幸せにする努力は惜しまない。私は――」
――君がいてくれれば、幸せになれる。
そうシャノワールが言葉にした瞬間、ポロポロとピンクのハートが溢れでた。
シャノワールには決して見えないそれは、マートルの頭や膝の上に転がっては想いをぶつけてくる。
「……完敗です」
こんなに自分を愛してくれる相手が、他にいるだろうか。マートルは力なく笑うと、握られていない左手をシャノワールへと重ねた。
「……私は多分、ずっと前からあなたに惹かれているんです。それを認めたくなくて、意地を張っておりました」
ごめんなさいと、マートルは謝罪をする。
「マートル嬢……」
「ですが、やはり今はまだお待ちいただけますか? 個人的に義理を通さねばならない相手がいるのです」
「それは、どういう意味なんだ? 私の気持ちは受け入れてはくれているのだろうか?」
「はい。殿下のお気持ちは、受け入れております」
「そうか……。それなら問題はない、のか?」
シャノワールは、受け入れられた嬉しさとまだ待たされる状況に混乱した。しかし、嬉しさが勝っているのが、未だにピンクのハートが出てきては転がっている。
「その義理を通す相手とは、誰なんだ?」
「それは――」
マートルが口を開けたその時、執務室の扉がノックされた。誰かが訪ねて来たようだ。
「良いところだったのだが……」
舌打ち混じりに、シャノワールが扉を見た。「入れ」と声をかけると、返事もなく勢いよく扉が開く。
「シャノワール様、聞いてくださいな!」
そこにいたのは、顔を真っ赤にさせるヴィオラだった。




