第七十三話 募る思い
アリスを家にあげるのは随分久しぶりな気がする。最近では、長く学校に残ることが増えたので、そのまままっすぐに帰ることが多い。うちの母さんが待望にしている食事会も一向に開催されていない。
しかし、それは今日行われるらしい。帰宅すると、母がいた。今日は早番らしかったから、それも納得だ。母は俺の恋人の姿を認めると嬉しそうに「晩御飯食べてって」と誘った。もちろん、彼女もそれに了承したわけで。
「まっ、テキトーなとこ、座ってくれ」
ぽんと俺はクッションを床に放り投げた。この間まり姉が持ってきたものだ。これからもあの子を呼ぶんならちゃんとしなさい、と初めて放課後に連れ帰った日に忠告を受けた。
そそくさと、彼女はそこに腰を下ろす。そして、足を軽く崩した。それを見て、俺も近くに座椅子をよせて座る。二人の間に、ずっと手に持っていたお盆を置いた。麦茶の入ったグラスが二つ載っている。
「幸人さんって、いつもお部屋を奇麗になさってますよね」
「まあそんなに物もないしな。……近くに反面教師がいるし」
「あっ、わたくしもおんなじです。実は父や兄が結構おおざっぱな性格で……男の人って、みんなそうなのかと思ってました」
「まあそれはわかるよ。俺の友達にもそういう奴多いし。――ま、俺の場合、まり姉がそうだけどな」
「麻理恵さんが? なんだか意外です……」
「お前、この間止まったのまり姉の部屋だったよな?」
「はい。とてもよく整頓されてましたけど」
言われて俺は、あの部屋には便利な収納スペースがあることを思い出した。きっと無理矢理に詰め込んだに違いない。堪らず俺は苦い顔になる。
一口薄茶色の液体を口に含んだ。少し喉が渇いていたから、それはほどよく身体に浸透していく。緊張していないと言ったら嘘になる。向こうから雑談の話題を提供してくれて、本当に助かった。
俺は改めて、その銀髪の少女に向かいなおした。向こうも真面目な雰囲気を感じ取ったのか、その口元がきゅっと引き締まった。
「それで本題なんだけど――」
その時、たったったと階段を上る音が聞こえてきて、俺はたちまちに言葉をしまい込んだ。誰かが突撃してくる予感がある。とにかく少し待ってみることに。
「アーリースちゃーん!」
妄言と共に、勢いよく従姉がやってきた。予想通りだ。噂をすればなんとやら。大学から帰ってきたばかりらしく、余所行きの格好をしている。
「なんだ、あんたもいたの」
彼女はあからさまなため息をついた。
「元々ここは俺の部屋なんだけども」
「冗談だってば、そんなむすっとしない。――はい、おばさんが持ってけって」
すると、まり姉から大福を二つ渡された。お茶菓子にしろ、ということかもしれない。だったら、さっき渡してくれればいいものを。
受け取りながら「ありがとう」と返すと、その騒がしい女子大生はにっこりと満面の笑みを浮かべた。どうして、この人が得意げになるのか、俺は理解に苦しむ。
「ほら、もういいだろ。さっさと出て行った」
「えー、いいじゃん。あたしだって、アリスちゃんとお喋りした―い!」
「……とか言ってるけど?」
俺は今度はアリスの方に顔を向けた。
「それはとても嬉しいです。今日、お夕飯をご馳走になる予定なので、その時にぜひ!」
淀みない素晴らしい返答だと、俺は思った。
すると、ようやくまり姉も引き下がってくれた。心残りがありそうな顔をしながらも、彼女は部屋から出て行った。そっと扉を閉めたのは、せめてもの気遣いだろうか。
部屋の中に、静寂が広がる。居候が立ち去る音が廊下からよく聞こえてきた。それが消えるのを待って、今度こそ、と俺はアリスに向かいなおした。
「実は、前世のことを思い出したみたいなんだ――」
初めにそう告げた時、彼女は一瞬目を丸めた。しかし、すぐに嬉しいような悲しいようなそんなよくわからない複雑な表情をするのだった。
*
俺は自分の身に起こったことを、包み隠さず、すでに前世の記憶を有している少女に伝えた。最近夢を見ること。それはとても不思議なもので、それこそ前世の記憶じゃないのかって思ってること。
確かめる意味もあった。俺はあれこそ、前世の自分の身に起きた出来事だと確信している。しかし、それでも気のせいという可能性はある。そもそも、アリスと見ているものと違うのでは、ということもありかねない。
「どうだ? これは前世であったことなのか?」
「――はい。少なくとも、わたくしたちの認識は一致しております」
アリスの口調はどこか重々しい。思えば聞き終えた瞬間から、あまりその表情は芳しくなかった。浮かない顔で、床の一点をただじっと見つめていた。
「あなた様は世界を救いました。魔王を倒して、故郷に凱旋し、その後奥方と穏やかな生活を送っていたのです」
「だがそこまでだ。俺が覚えているのは。その後は? そもそも」
俺は一つ言葉を呑んだ。何かとんでもないことを訊き出そうとしているんではないか、と不安になる。
それでも――
「お前はいったい誰なんだ?」
明城アリスは以前から一貫して、自分が俺の前世の恋人だと主張している。そして、俺たちが覚えている内容は共通のものらしい。となれば、彼女の主張も本当だということになるが……。
あの後に何があったのか。俺はスノーと――王女様と暮らしていたのではないのか。 そこに謎の恋人が挟み込んでくる余地はない。元々いた節もなければ、そもそもとして色恋に興味はなかった。
目の前の銀髪少女はすぐには何も言わない。改めてその日本人離れした美貌が、ことここにいたって、なんともファンタジーの中のお姫様じみて見えてくる。
だが、やはり記憶の中でその姿に見覚えはないのだ。
「……あなた様が覚えていないということであれば、お話ししたくありません」
やがてもたらされたのは、そんな拒絶の言葉だった。口調は穏やかだったものの、しかしそこにははっきりとした強い意志が込められていた。
この娘に意外と頑固なところがある、というのは、これまでの付き合いでよくわかっていた。俺としても、話したくないというのならば、訊く気が失せるというものだが……。
「どうしても教えてくれないのか?」
「はい。他でもない幸人さんでもダメです。……誰だって、恋人には汚いところを見せたくないものでしょう?」
彼女は薄い自虐的な笑み浮かべた。
「……俺はこの間、盛大にそういうところを見せた気がするがな」
ぽつりとそう言うと、彼女は少しだけ目を細めた。
「冗談だよ。――ああ、わかった。じゃあ俺はもうこれ以上訊かない」
「いいのですか?」
「だって言いたくないんだろ。過去に何があったとしても、別にいいさ。俺は今のお前が好きだから」
真剣な顔で俺は恋人の瞳を覗き込んだ。その言葉に嘘はなかった。昔のことはどうであれ、それが原因で彼女のことを嫌いになることはない。それは絶対に揺るがない。
でも、好奇心は別だった。俺の記憶に、前世のアリスが登場していないことに何か強い意味があると思っている。きっと、あの物語にはもう一波乱があるんだろう。未だにそれを知りたいと思っている。いつか思い出せる日を、俺は待つことにした。
「幸人さん……!」
感極まった顔をしているアリスの身体を、俺はぐっと引き寄せた。彼女が放つ甘やかな香りが鼻腔をくすぐる。俺はその背中に手を回した。そして、あの絹のような手触りの髪も含めて、そっと撫でる。
「ごめんなさい、ごめんなさい。何も話せなくて、ごめんなさい」
その声色には涙が混じっている。おれはもっと強く彼女を抱きしめた。
「何謝ってるんだよ。俺の方こそ、すぐに話さなくて悪かった。余計な心配かけて、ごめんな」
「……いいのです、それは。ちょっとだけ、そうじゃないかなって思ってましたから。でも、言い出せませんでした。あなたがいったいどこまで思い出してしまったのか、そう考えると不安で仕方がなかった」
彼女が鼻をすする音だけが、この静かな部屋の中に響く。俺はそれ以上、自分の恋人にかける言葉を持っていなかった。ただじっと彼女が落ち着くのを待つだけだ。
この腕の中にある確かな実感を味わいながら、ふと思う。アリスがここまで頑なに口を噤むなんて、いったい俺とこの娘の間には何があったのだろうか。
それを思い出せない自分に腹が立つ。本当は心の底から言ってやりたい。そんなこと、大したことじゃあないって。別に俺の気持ちは揺るがないって。
でもそれは、今の俺が放っても虚しく聞こえるだけだろう。そのことだけは、深く強く思い知っていた。
 




