第五十六話 覚悟
「――み! おい、白波!」
不意に近くで誰かが俺の名前を叫ぶ声が聞こえてきた。完全に、意識が他に向いていた。俺は慌ててその声の主――柳井の方を向く。
彼はとても怪訝そうな顔をしていた。よく整えられた細い眉が不自然に中央に寄っている。深く刻まれた皺は、その強面の迫力を倍増させていた。
「どうした?」
「教えて欲しいとこがあるんだけど」
どこかその声は不機嫌そうだ。
俺がすぐに反応しなかったことへの苛立ちか。答えがわかり切っている質問をされたことへの煩わしさか。そのどちら、あるいはそれ以外だったとして、これ以上時間をかけるのは得策ではないな。
俺はややくたびれた思いを感じつつすっと腰を上げる。その時にいくつかの視線がこちらに向いているのに気が付いた。剛と明城だ。二人ともパートナーに何かを説明しながらも、器用にこちらの様子を窺っている。
とりあえず、話し込んでいる雪江と寒河江の後ろを通って、柳井の元に歩いていく。彼は腕を組んで、ちょっと偉そうな感じに待っていた。
「お待たせしました、柳井さん」
「おう、悪いな。……しかしお前、大丈夫か?」
慇懃無礼に下げた頭を戻したら、今度は心配そうな級友の顔がそこにはあった。こいつ、表情豊かだな。……いや普通かも。表情をコロコロ変える奴と、ほとんど変えない奴、両極端な二人を知っているからそろそろ感覚がおかしくなってきた気がする。
「いやなんでもない。ちょっと頭を使い過ぎて、ぼーっとしただけというか」
「おいおい、もっと心配になるんだけど。――無視、したわけじゃないんだよな?」
「はい?」
一瞬何を言われたかわからなくて、俺は思わずまじまじと彼の顔を見つめてしまった。
「いや、その、な。俺、前変なこと言っただろ?」
「変な、じゃなくて悪口、だけどね」
「うるせーぞ、宗一郎!」
口を挟んできた真島――宗一郎君は怒鳴られてしまった。しかし彼は、はははと軽く笑って受け流す。悪びれたところはどこにもない。
たぶん、先週の月曜日に揉めた時のことだろう。意外と、この男繊細なのかもしれない。表面上はものすごく粗暴な感じがするけど。
「悠斗、昨日だいぶ気にかけてたからね~」
「よ、余計なことを……」
「いいよ、別に気にしてないし」
ある種のきっかけになったから、むしろ感謝するくらいだが。
「おう、そうか……一応謝っておくわ。でも勘違いするなよ? 俺はアリスちゃんのことを―ー」
「ごめんなさい、興味ないです」
対角線上の位置にいた明城は少し大きめな声で割り込んできた。いつも通りの声音だったが、とても素っ気なく響いた。こちらを見るその顔に浮かんでいたのは、明らかに作り物と分かる笑顔。
その一言に、すぐに笑いが起こった。俺も合わせて控えめに笑う。しかし、当事者の一方はしれっとした顔になり、もう一方はほとほと困り顔になるのだった。
その後、俺は柳井の質問の場所を解消して席に戻る。何のことはない、簡単な生物の問題だった。ちらりと右に目を向けると、明城は熱心に吉永に指導している。
「うんうん、だいぶできるようになってきましたねー、唯さん」
「ほんと? よかったぁ、アリスちゃんと大力君のお陰だよ」
「いえいえちゃんと唯さんが頑張ったからですよ。大力さんもそう言うと思いますよ?」
「そんなことないよ~。二人の教え方がいいからだよ~」
耳を澄ませていると、謙遜合戦が始まった。まあ二人とも落ち着いた性格だからな。お淑やかな明城と、控えめなところがある吉永。物腰が柔らかいところはそっくりだ。
俺が教室に戻る頃には、すでにみんな勉強を始めていた。先に戻っていた雪江もひっそりとした雰囲気でペンを走らせていた。
席に着いた時、正面の剛はちらりと顔を上げただけで何か言ってくることはなかった。明城は『どうしたんですか?』と尋ねてきたが『何でもないよ』と言葉を返したらそれ以上追求してくることはなかった。
そして、それからずっと、俺は明城のことがどうにも気にかかって仕方がなかった。こうして、古典のワークに目を落としながらも、つい彼女の様子を窺ってしまう。
さっき柳井に呼びかけられた時なんかは、ちょうど深い思考に浸っていた。果たして、隣にいる俺のことを彼女はどう見ているのだろう、と。
「――ねっ、白波君もそう思うよね?」
「は、はい? 何の話だ?」
またしてもいきなり誰かに話しかけられて、びっくりしてしまった。
「アリスちゃんって、面倒見がいいよね~、って話。お姉さんみたい」
「そうだな、明城は色々と世話焼きではあるな。俺も助かってる」
「ユ、ユキトさんまで! ……恥ずかしいから、やめてくださいよぉ」
明城は顔を真っ赤にして俯いてしまった。それを見て、嬉しそうににっこりとほほ笑むのは吉永だ。二人とも、かなり仲がいいんだろうな、と思う。
「いちゃついてるところ悪いんだけど、明城さん、ちょっといいかしら?」
「はい、何でしょう? 聞きたいところがあるんだけど……」
「ユキトさんじゃダメなんですか?」
「地学の話なの」
「わかりました~」
のほほんとした声を出して、明城は雪江たちの方へ。
明城と雪江はなんの軋轢もないように見えた。というか、ちょっとだけその仲が近づいているような気さえする。いったい昨日、何があったというのか……。
こうして、明城のことを観察してみても、俺が一体彼女の何に惹かれているのかはいまいち見えてこなかった。やはり雪江の言うように、俺のことが好きだから気になっているんだろうか……。
そんな迷いを振り切るように、俺は集中して勉強に取り組むことに。とりあえずやるしかない。あいつに振り向いてもらいたい、そう感じているのだけは、ただ一つの事実だから。
*
午後十時。夜も更けてきた。俺は日本史のノートまとめの手を止めて、ワークと不要プリントを取り出した。もちろん、その裏が白い奴を。用語チェックの時間だ。後は風呂入ってさっさと寝よう。
しかし、どうにもワークを開く気にはならなかった。ここまで勉強に全く身が入ってなかった。それでもなんとか騙し騙しやってきたものの、正直進捗具合は最低レベル。
言いようの知れぬ心もとなさをずっと感じていた。それはたぶん、水飲み場での雪江と対峙した時からずっとそう。夜中という時間も相まって、不安が過剰に増幅している気がする。
机に向かっているのが疲れて、俺はふらふらとベッドの方に。そのまま身体を投げ出した。ちょうど、右手のところにスマホがあった。
たぶん、電源を入れればあいつからの連絡がたくさん来ていることだろう。その事実がまた、俺の胸をきゅっと締め付けるのだ。
このまま続けて、俺のことをあいつは見てくれるのだろうか? 雪江の奴め、本当に余計なことを言ってくれたものだ。それがずっと頭の中をぐるぐる巡って仕方がない。
幼馴染の言うように――いや、いつかの自分が悟ったように、努力なんてしても無駄かもしれない。明城みたいな女性に俺は相応しくない。前世というアドバンテージがなければ、スタートラインにすら立てない。
『なあ今の俺って滑稽か?』
勢いに任せて、俺はスマホを開いてそんなメッセージを送りつけていた。明城のメッセージは後で見ることにして。かけがえのない友人――剛と学の二人に。
何をやっているんだ、俺は。いきなりこんなことしても、あいつらだって困惑するだけじゃないか。送信を取り消そう。画面を強くタップしたら――
『やっぱり湊となんかあったんだな?』
剛からメッセージが入った。
『別にあいつは関係ないさ』
『ふうん。まあそういうことにしてやるさ』
『いきなりどうしたのさ、幸人?』
『不安になったんだよ。いつか明城が俺のこと見てくれるのかなって』
『恋煩いだな』
『だねー』
こいつらに相談したのは失敗だったかもしれない。付き合いが長くて深い二人だから、雪江みたいに何か役に立つ助言があるかと思ったんだが。
『お前は結果が保証されてないと、頑張れないもんな』
カバーを閉じようとしたら、スマホの画面にそんなメッセージが表示された。ストンと、矢が的を射抜くみたいに、俺の心に深く刺さった。
『ちょっと剛、そういう言い方は……』
『いや、大丈夫だ、学』
『学はなんで水泳やってんだ?』
『好きだから、かな』
『俺も勉強が好きだからやってる。わかるよな、幸人? 大事なのは、自分の気持ちだ』
そうか、やっとわかった。俺が勉強と水泳を諦めた理由が。結果が出ないとわかったからじゃない。そこまで大事じゃなかったんだ。だから、勝てないやつがいるんならやめようとスムーズに思えた。
『なにかやりたいことでもあるのか?』
あの親父の言葉がふと脳裏を過る。あれは水泳を辞めたことに対する非難ではなく。ただ、息子を案じての言葉だったんだろう。あの人は、俺のこんな浅はかな考え方を見抜いていたのかもしれない。
俺はどうしようもなく明城が好きだ。始まりは確かに歪だったかもしれないけど、この想いは本当だ。ちゃんとした恋人関係になりたい、と思ってる。
そのためにも、あいつに相応しい自分を目指す。ベストを尽くして、それでもダメだったら――それはそれでいいじゃないか。今から考えるべきことじゃない。その努力は決して無駄なんかじゃない。周りがどう思うが関係ないんだ。
諦めない。俺はこの恋だけは諦めない。最後まで挑戦するんだ。
『サンキュー』
改めて、決意を固め直した。俺はそっけない返事を送って、スマホの電源を落とす。再び机に向かった。一つ深呼吸をして、俺はワークを開いた。
明日、あいつに宣言しよう。俺はあることを決めて、日本史の問題に没頭していく。
その後、大量に溜まった明城への返信作業が大変だったのは別の話だ。




