第五十五話 対峙
ピタン――雫の滴る音が静寂の中、やけにはっきりと響いた。それで、俺は我に返る。少し激しく呼吸を繰り返す。魅せられていた……幼馴染の脈絡のない言葉に完全に面食らっていた。
「……からかってんのか?」
俺には奴の言葉がとてもまともなものには思えなかった。目を細めて、疑わしい感情をむき出しにして彼女の顔を睨む。透き通るような肌によって、表情の無機質さがより強調されていた。
人形を相手にしているみたいだ。奇麗な顔立ち、鈍い光を宿す瞳、艶やかな黒髪、力感のない立ち姿。合わさって、底知れなさを醸し出している。
「――どう? わたしのこと、好きになった?」
俺の疑問なんかまるで聞こえなかったみたいに、彼女は平然と意味深な言葉を繰り返す。顔の筋肉を特に動かすこともなく、ゆっくりと首を傾げた。
やはり真剣さは感じられない。仕草はけれんみが強すぎる。こいつの意図がわからないものの、俺はとにかくかぶりを振った。
「……いや全く」
「そんなにはっきりされると、ちょっとへこむわね」
とか言いながらも、雪江に落ち込んだ様子はない。相変わらず鉄の仮面をかぶったまま。強いて言えば、顔の角度を戻しただけ。
いったいなんなんだ。話が見えてこなくて、さすがに少し苛立ちを感じ始めた。表情が曇るのを止められない。一つ鼻を鳴らして、腕を組む。
「でもこれから毎日あなたを好きだって言ったらどう? 好意をぶつけ続けたら少しは心が揺らぐでしょ」
「……明城がしたみたいに、か」
「わかってきたみたいね、幸人にも。あの子に好きだって何度も何度も言われたから、あなたも心惹かれたんじゃないの?」
それは力づよい口調だった。またしても、彼女の中に感情が戻ってきたらしい。きっちりと俺のことを見据えてくる瞳は、鋭い光を宿いている。その姿に昔の勝ち気でお節介なあいつが透けて見えた。
――まただ。抽象的な言い方をしたと思えば、いきなり俺の中の真実に切り込んでくる。飾り気のない言葉と気持ちを刀のように振りかざしながら。そして、容赦なくこちらの心を抉る。
誰にも話したことのない本心にもかかわらず、どうしてこいつはここまで言い当てられるのだろうか。幼馴染だから? 今は殆ど交流がないというのに。その事実に、俺は少し不気味さを感じてしまう。
初めは意味不明な言動を繰り返す明城のことを、鬱陶しく思っていたのは事実だった。正直、薄気味悪さを感じていた。でも、彼女は必死だっただけなんだ。性急すぎただけなんだ。付き合いを深めるだけで、段々と俺もあいつに慣れてきた。それは情に絆されたともいえるかもしれない。
しかし――
「だとしても、それの何がいけないんだ? 好きって言われるうちに……っていうのもありがちな話じゃないか」
「そうね。でもそれって、相手は誰でもいいってことだよね。自分を好きって言ってくれるなら」
軽い口調だったけれど、その目は笑っていない。
――それであんなことを言いだしたのか。ようやくこいつの真意にちょっとだけ届いた。それにしてはやけに飛躍し過ぎだと思うけれど。現に俺は雪江にそんなことを言われても、少しも心は揺るがなかったし。
でも、そんなことはないとすぐに反論することはできなかった。俺にも思い当たる節があった。もう少し、雪江の言葉を聞こう。そう思って、態度で話の続きを促す。
「わたしからすれば、明城さんも幸人も同じ。彼女は前世のあなたしか見てないし、あなたも自分を好きと言ってくれる彼女しか見ていない。一方向的、二人の感情が交わることはない」
「あいつのことは置いておいて、俺の方はそんなことない。ちゃんと相手のことを見てる」
「でもさ、もし向こうから来なかったら、決して自分から近づこうとはしなかったでしょう?」
彼女はまたしても刀を振るってきた。
俺は必死に頭を働かせた。ゆっくりと、でも着実に雪江の言いたいことがわかってきた気がする。それが形になるまでもう少し。
明城アリスは前世の恋人の生まれ変わりである白波幸人に恋をした。白波幸人は自分を好きだといってくれる明城アリスに恋をした。――心の中で、改めてその事実を浮き彫りにしてみる。
じゃあその余計な修飾語を取っ払ったらどうだろう? きっと俺もあいつも相手のことになど決して目を向けはしなかった。俺たちにとって重要なのは、相手本人ではなくそのバックグラウンドにあるものだ。
その感情を好き、と呼べるのか。そんな関係を愛、と名前を付けられるのか。それは違うでしょ、と彼女は言いたいのかもしれない。そこはいい。個人の考えだ。問題なのは――
「わかんねーな。雪江、どうしてお前はいきなりこんな妙なことを言ってくる? ずっと俺から遠ざかってたじゃないか」
「遠ざけてたのは、幸人の方でしょ!」
俺の言葉に激しく雪江が噛みついた。
久しぶりにこいつが叫んだ姿を見た気がする。いつもの切れ長の目は大きく見開いて、その小さな形の良い鼻を少し膨らませて、か細い肩が激しく上下した。怒りを噛み殺すように、きつく口元を結んでいる。今までの冷静さが一気に激しい情熱に変わった。その姿には鬼気迫るものがあった。
地雷を踏んだ、たちまち俺は実感する。ボロボロと、さっきまでのあの鉄仮面が崩れ落ちるのがわかった。ほぼいつも平静としたあの顔の下には、ちゃんと血が通っていたんだ。
その剣幕に、俺は少し気圧されてしまう。あの時と同じだ。涙こそ流していないものの、俺に対する深い失望を思うがままに振り回している。
……そうだ。ずっとわかっていた。俺たちの仲がぎくしゃくしたのは、自分のせいだって。でもそれを顧みることはなかった。だったらそれでもいいか、って思ってた。あんなに仲が良かったのに、俺にとって湊雪江という女子はそんなに強い存在ではなかったんだ。
「自分では気づいてないかもしれないけれど、あんたは周囲の人間に無頓着すぎるのよ! いっつも自分のことばかり。そのくせ、やたらと上ばっかり見て勝手に自分のことを決め付ける。救いようのない大馬鹿よ!」
原石のままの感情をぶつけられて、俺には成す術はなかった。棒立ちで全てを受け入れる。反撃する気力は起きなかった。
幼馴染の言葉はとてもよく身に染みていた。それは付き合いの長さゆえか。今まで知らなかった自分のことが白日の下に曝け出された気分だ。
「あんたは愚かなことを繰り返そうとしている。また高みに挑んでる。明城アリスっていう、雲の上の存在に手を伸ばそうとしている。やめたんじゃなかったの? そういうのは無駄な努力だって。自分は努力するのに値しない人間じゃなかったの?」
雪江の氷のベールはすっかり剥がれていた。不気味なまでに、沈着冷静な少女はもうどこにもいなかった。あれはたぶん作り物だったのだ。この生々しい感情をずっと彼女は抑えてきたのだろう。だから、不自然とも思えるまでに、俺の前では特に凄然だった。俺はようやくそのことに気付かされた。
雪江の言うことは正しい。俺は決して一番にはなれない。だから、勉強はそこそこに。水泳はやめた。毎日、普通の人間として分相応に過ごしてきた。
明城のこともそうだ。初めあいつと距離を置こうとしたのは、前世云々を掲げての攻勢が煩わしかったからだけじゃない。心のどこかで、その容姿に気後れしていた。こんな美人がどうして俺にって。その困惑は今も多少は残っている。
「……じゃあ明城のことは諦めろ、そう言いたいのか、お前は?」
「それはあなたが決めることよ。わたしはただ忠告がしたかっただけ。あなたの主義とはかけ離れているけれど大丈夫? って」
彼女はまた飄々さを取り戻していた。淡々と言葉を紡ぐ。息遣いも穏やか。さっきまでのあの姿は幻のようにかき消えていた。
「忠告? 大丈夫? そんなことお前に言われる筋合いはない。なんなんだよ、ほんと! お前は俺のことをとてもよく知った風に話す。でも俺はお前のこと、全然わかんねーよ! いったい、どういうつもりなんだ!」
あの時もこうして雪江に苛立ってたっけ。余計なお節介がウザかった。水泳を辞める、なんてこいつに関係ないだろって、本気で思ってた。……心配してくれてるのも伝わってきたけど。自分の感情を優先した。
しかし今は、本当にこの幼馴染のことがわからない。いきなり感情をぶつけてきたと思えば、今はこうしてまた俺から距離を取ろうとする。断片的に俺の真の気持ちを突きつけてくるくせに、肝心のこいつ自身の想いは伝わってこない。こんなことをする動機が全く不明なんだ――
「……好きな人が堕ちていくのを、また見たくないだけよ」
「好きなって……お前、さっきのは本当に――」
「安心して。それは恋愛感情じゃないから。あなたと明城さんの仲を壊す気もない。ただ昔の名残で気にかけてただけよ」
ここにきて、初めて雪江は頬を緩めた。目尻が少し下がっている。それはとても柔らかくて優しい微笑みだった。だが、どこか寂しげで、儚い。奥底にある感情の全てを、俺には読み取ることはできなかった。
「昔の名残……」
気になって思わず繰り返してみたものの、やはり意味は感じられない。
「わからないわよ、あなたには。自分のことしか見てないくせに、その肝心の自分も見間違えてるんだから。わたしの気持ちを感じ取らせることはできないし、そうもさせない」
ちょっと勝気そうな笑みを浮かべると、雪江はいきなり踵を返した。その髪と制服が華麗にはためいた。凛として堂に入った振る舞いだった。
「先、教室戻ってるわ。それじゃあね、幸人」
冷たく告げると、彼女はゆっくりと歩き出した。水飲み場の出口を曲がって、その姿が俺の視界から完全に消える。代わりに、コツコツと遠ざかっていく足音が嫌な感じに身体に響いてくるのだった。
それでも、やがてその音は薄れていく。完全に消えた時、不気味な静けさが辺りに戻ってきた。廊下の空気はとてもひんやりとしている。
俺は未だにその場から動けないでいた。やがて冷静になっていく中で、ただひたすらにあいつに言われたことを何度も思い返しては煩悶する。
俺は明城のことが本当に好きなのだろうか。今の俺の努力に、果たしてどんな素晴らしい意味があるのだろうか。誰もいない薄暗い廊下の中で問いかけてみても、その答えが返ってくることはない――




