第五十三話 遺恨
しっかりと顔を拭き終えると、少しはしゃきっとした顔の男が目に入った。夜遅くまで根を詰めるということを無くしたため、ここ数日の目覚めはすっきり。起床時の日課にしている日本史の用語チェックもようやく効果が表れてきた。俺の中間テストに向けての日常は至極順調。
リビングに入った時に、少し気後れを感じてしまった。キッチンのカウンター越しに親父殿がこちらを向いて座っているのが見えた。彼の前には目玉焼きとウインナーが乗った皿と、味噌汁ようのお椀。右手に箸、左手にご飯茶碗と伝統的な和食スタイルがそこにあった。
母さんは早番らしい。彼の正面に同じ主菜と、伏せられた二つの椀を見つけてたちまちに察する。母が朝いないのはよくあることだが、代わりに父がいるのはここ最近にしては珍しい。仕事が一段落した、ということか。
「おはよう」
「……おはよう」
いつまでも入口で様子を窺っているわけにもいかず、俺はやむを得ず食卓へ。茶碗を持ってすぐにキッチンに避難する。
「さっき作ったばかりだから」
「ありがと」
鍋の蓋を開けると、すぐに湯気が立ち込めた。その言葉は真実だったらしい。具材はなめこと豆腐。お玉でバランスよくよそう。そして流れるように炊飯ジャーからご飯を盛りつけた。
「いただきます」
戻ってすぐに箸を手にする。父が使わないはずのソースが卓上に出ているのは、息子のことをよくわかっているアピールか。これが昔だったら、一々反感して素材の味を楽しむところだが。
しかし、もはやそんな時期は卒業した。ソイソース……醤油さしを手にした時、ピクリと正面のおっさんが反応した気がしたから、結局いつも通りにすることに。
気まずい静寂が続くことはわかっていたため、初めリビングに入った時にテレビをつけておいたんだが、あまり効果はなかった。俺も親父も一言も発さないままに箸を進めている。沈黙が鋭く突き刺さる。
「……今日は早くないんだ」
「……ああ、やっと忙しい時期を抜けたから」
会話終了。しばらくまともな話をしてないから、ついぎこちなくなってしまう。……この人が何の仕事をしているのか、いまいち知らなかった。サラリーマン、それなりに出世はしているらしい。それくらいか。あ、あと、若干ワーカーホリック気味。この間みたいな泊まり込みは珍しくない。
だが、それは向こうも同じだと思う。彼も息子のことをあまり知らないだろう。どういう友達がいて、どんな風に学生生活を過ごして、成績はどれくらいで、とか。俺からそうした話をした覚えはない。
早いとこまり姉起きてこないかな……。奴がいれば多少はこの雰囲気も和らぐというのに。だらしなさデフォルト装備のあの大学生は、朝の占いに間に合う時間ギリギリに起きてくる。一限がある時は別だけど。
ということで、俺にできることは、そんな叶わぬ願いを胸に抱くことくらい。後は、心なしか手早く朝食を済ませにかかるだけ。しかし、先に食べ始めていたのは親父殿。そんなに俺は早食いは得意じゃないから追い越すのは難しい。
そしてこのままだと――
ピンポーン! それを思い浮かべた瞬間、リビングに響くインターホンの音。ぴくりと、親父がまず反応を見せる。だが、それよりも素早く俺は腰を上げた。
「俺出るよ」
相手はわかっているので、そのまま玄関へ。道すがら、インターホンのカメラを消しながら。惜しかった、あともう少しでごちそうさまだったのに。
手近にあったサンダルを履いて扉を開ける。そして、そのまま俺も外に出ることに。
「ユキトさん、おはようございます」
どこか間延びした感じに挨拶の言葉を口にする明城。どこぞのお嬢様よろしく手を前のところに持ってきて、奇麗に腰を折った。陽光に煌めく銀髪が鮮やかに宙に舞う。
「おう、おはよう。すぐ準備済ませるから、悪いんだけどここで待っててくれないかな?」
「それはいいんですけれど……どうかしたのですか?」
「父親がいるんだよ」
「まあっ! それは是非とも挨拶を――」
「お前も俺と親父のぎくしゃくしてるのは知ってるだろ? ということで、そんなにかからないと思うから」
ぷんぷんと張り切っているやつを押し返しながら、俺は家の中に戻った。そして、素早く扉に鍵を掛ける。勝手に中に入ってくることを警戒して、ではなく。ただの拒絶の意思表示だ。
リビングに戻ると、あの仕事大好き人間はすっかり朝食を済ませ、新聞に目を通していた。その姿はソファに移っている。俺が近づくと、ちょっと視線を上げた。眼鏡の奥には無機質な瞳が揺れている。
「誰だった?」
「別に何でもないさ」
不愛想に答えながら、食事に戻る。
「明城さんだな。母さんに聞いてるぞ。ずいぶん仲良くしているとか」
不意の一言に、あわや食べ物を吐き出すところだった。あの従姉といい、この人の家系の特徴なのか? 食事中の人間を強襲するっていうのは。
気を取り直して、とりあえず麦茶をいっぱい飲み干す。それにしても、あのお喋りおばさんめ……一体どんなことを話しているのやら。全く落ち着かない心持ちで、俺は白米をかき込んでいくのだった―ー
*
「湊のことを聞きたいって?」
「はい。生い立ちとか、性格とか、あの方のことに関することを色々と」
長い束縛の果てに、自由を手にすることのできる昼休み。学生たちは今までの鬱憤を一気に解き放ったごとく、めいめいに騒いでいる。中には体育館にバスケしにいく男子たちも。テスト前だってのに、よくやるもんだ。
つい先日から、いつもの四人に一人新しい仲間が加わっていた。言うまでもないことだが、吉永、である。本当は前から明城とご飯を食べたかったらしいが『白波君が独り占めしてるから』という謎理論で遠慮していたらしい。
「いや生い立ちって、結構重いね、明城さん……」
「まあ言葉選びはともかくとして。いきなりどうした? あいつのこと嫌いだったんじゃないのか?」
「違います、苦手なだけです。――昨日の帰り道、色々とお話しさせていただいたものですから。興味がわいて、といいますか」
ちょっと狼狽えて見えるのは気のせいだろうか。心なしか目が泳いでいる。
「だったら本人に訊けばいいだろ」
「大力君って、いつも正論だよね……」
「馬鹿だからな」
「バカだからね」
吉永の少しひき気味の一言に、長年の付き合いである俺と学が応じた。すると、彼女はまばたきを繰り返しながら、微妙な感じにおずおずと頷いた。
「それはそうなのですけど。今さら、聞きづらいといいますか」
「昨日の帰り道、そういう話はしなかったのか? なんか熱心に話し込んでたみたいだけど」
「わたくしのことを訊かれただけです。あと最近のユキトさんのことも」
「俺?」
俺は思わずスプーンを空中で止めた。今日の昼食はオムライス。明城は『たまには趣向を変えてみました』と言っていた。うんそれはいい。だが、ハートマークと『ユキトさんLOVE』はやめろ。またしても友人二人にきつい視線と、吉永のどうしようもないため息をぶつけられた。
しかし、それはいったいどんな話題だったんだろう。この期に及んで、あいつが俺の何を知りたいというのか。ちょっとなんともいえない表情になってしまう。
「教えません!」
一応尋ねてみたら、激しく却下された。まあいいか。
「湊のことって言ってもぁ」
中学以降は付き合いがないから、という言葉は飲み込んだ。厄介な気配を感じたからだ。
「私、クールで落ち着いている子って印象しかないや。あと、すっごい奇麗で頭いいくらい?」
「昔はもっと快活だったんだがな、アレ」
「そっか、幸人だけじゃなく、剛も小学校一緒か。俺は中学からだからね~、印象は吉永さんと一緒」
「……湊さんも三人と一緒なんだ。同じクラスに揃うって、凄い偶然だね! 素敵だな~」
なぜか吉永は変なところに感心していた。夢見る少女なのかもしれない。
「でもお前は部活、同じだったろ?」
剛はさっと学に顔を向けた。
「男子と女子だよ? あんまし話したことないなぁ。それこそ、幸人が部活やめるま――」
もうそこで止めても手遅れだと思うが。それでも、学はしまったという顔で慌てて口を閉じた。ちょっと女が見開いている。剛も同じようにどこか気まずい表情を浮かべた。露骨に目を逸らす。
事情を知らない女子二人だけがちょっとぽかんとしていたが――
「ユキトさん、帰宅部だったんでは?」
やがて、明城の顔が怪訝そうなものに変わった。
「帰宅部って……高校はまだしも、うちの中学はみんな何かの部活に入ってなかったらダメだろ?」
剛が苦々しげに言葉を吐いた。自分でも余計なことだとはわかってるのかもしれない。
「……そうだよ、一年のことはちょっとだけ水泳部やってた。辞めた後は、文芸部に籍だけ置かせてもらってた」
「どうして言ってくださらなかったのです?」
「別に、実質的にはやってないのと同義だからだよ。深い理由はない……というか、今は湊の話だろ?」
「そ、そうでした、すみません。でも最後に一つだけ。どうしてお辞めに?」
「……あ、明城さん。それは――」
「いいよ、学。だいたいお前らが気にし過ぎなんだって、いつも言ってるだろ」
俺はおどけた感じの言い方をして、ちょっと笑ってみせた。そしておどけた感じに肩を竦める。……それは剛の得意とするところでもあるけれど。
そんな俺の対応に、気のいい友人たちはどこか複雑そうな顔をした。学は気まずそうに首筋に手をやり、剛はぎゅっと目を閉じて腕を組む。
「申し訳ありません。わたくし、また……」
「他人のことが気になるのは仕方ないことだろ。それに湊のことも関係するから、一石二鳥ではある」
そう、俺が雪江のことを語るならあのことは避けては通れない。当人たちにとっては重大で、でも周りの人間には取るに足らない些細な出来事を。
ふと、俺は教室前方の壁時計に目をやった。まだまだ休み時間が終わるまでには充分時間がある。昼の与太話としてはちょうどいいかもしれない。
「あれは夏の日だった。こんな北の大地でも真夏日を記録する程にとても暑い一日だった」
ふと、天井を見上げて俺は過去へと思いを馳せることにした――




