第四十五話 意外な事実
『雪のいと高う降りたるを』かの有名な清少納言が書いた『枕草子』の中のエピソードの一つ。今回のテスト範囲。あと、漢詩がいくつか。
土曜日の昼下がり。我が家には穏やかな時間が流れていた。まり姉は昼前にはどこかに行ってしまった、友達と遊びに行くとかで。明城にかまえないのを残念がっていたが。とにかく天敵が一人減ったので気分は非常に楽。
母さんが用意してくれた昼食を済ませて、自室でこうして試験勉強をしているわけだった。題目は古典。教科書本文と自作ノートタッグと睨めっこ対決を実施中。
正直、古文は苦手だ。それでもある人によれば、『定期テストなら、対策の立てやすい科目の一つだぞ』とのこと。とてもそうは思ない。しかし明城も『訳と文法覚えれば簡単ですよー』と言っていた。それで出やすいポイント中心に教わっていたわけだが――
『後は暗記だけですね。頑張ってください、ユキトさん! 小テスト、作っておきますから』
彼女による解説もほんの一時間ほど前に終わってしまった。今、あの女はテレビの前を占拠してゲームのコントローラーを握っている。昨日の夜、俺がやっていたやつだ。それを最初から始めている。
『実は、恥ずかしながら、わたくしゲームが好きで……。あれ、やらせてもらってもいいですか?』
などと、おずおずと可愛らしいことを供述してきたのは、俺の風呂上がりの二度目の合流の時。その時に、やり始めたものの続きを今もやっている。
『色々やるんですけど、やっぱりこういう王道RPGが一番ですね。前世のことを思い出してからは特に』
前世云々の件はよくわからなかったものの、なんとなくその見かけに似合わない趣味に驚いたのは事実。初め少し見守っていたが、本人申告のように結構慣れているみたいだった。
「おい、あらかた覚えたぞ」
「はいはい、ちょっと待ってくださいねー」
俺は少し呆れながら、くるりと椅子を回転させた。見ると、液晶の中を紫づくめの男の子が闊歩している。どうやらまだ、序盤も序盤らしい。
「しかし、お前は勉強しなくていいのか?」
「ええ、まあ。今日帰ってから頑張るので大丈夫です!」
これがもし、一夜漬けで何とかなる、とか言われたらかなり凹んだが。彼女もちゃんと試験勉強をやると聞いて少し安堵した。やらなくてもできる天才タイプじゃないんだと。
そして、もう一つ。今日は帰るつもりらしいという事実にほっとさせられる。さすがの明城アリスもそこまで図々しい――積極的じゃないということか。
彼女はコントローラーから手を離すと、傍らに置いた一枚のルーズリーフを差し出してきた。適当な間隔を取って、お手本のような奇麗な文字が羅列してある。
剛とは大違いだな……あいつの字はとても汚い。『俺が読めてればいい、文句あるか?』なんてトンデモ理論を掲げているが、テスト返却の度に英語の教師に怒られてるのは周知の事実。
とりあえずそれを受け取って、机に向きなおす。ぱっぱと答えを書き込んでいった。文法事項の説明、古文単語、訳出、文章の出店と作者――事前にどこ出るかわかっていたようなものだから、空欄はない。しっかり覚えた甲斐があるというものだ。
「うん、オーケーですよ。よくできました」
丸つけを済ませた彼女は紙の右上にさらっとハナマルを書くと、そのまま右手を俺の頭の上に置く。
「ナチュラルに頭を撫でるな!」
「ご、ごめんなさい、つい無意識に」
真っ赤な顔して慌てて腕を引っ込めたところを見るに、本当にそうらしい。
ここ連日の経験が彼女を優秀な家庭教師に変えてしまった。そんなところだろうか。こっちとしたら溜まったもんじゃないが。
「しかし、たかが雪ごときで日記を書かないで欲しいもんだ」
「そうですか? わたくしは、雪のほとんど降らない街に住んでましたから、気持ちはわからないでもないですけど」
「そうなんだ。知らなかった」
「転校初日の自己紹介の時に、どこ出身か話したと思いますが……」
ちょっとむくれてみせる明城。
あの時は衝撃が強すぎて、そんなこと全く聞いちゃいなかった。前日に街中で声をかけてきた女が、翌日自分の高校に転校してくる。それに驚かないものがいるだろうか、いやいまい。そのうえ、自分の前世の恋人だとか名乗ってくるし。
それから思えば、ずいぶんと仲良くなったもんだ。友達……それが今の関係を定義づける言葉。向こうは一貫して先に進めたがっているけど、俺は――
「どうかしましたか、ユキトさん?」
「……記憶を辿ってた。お前が自己紹介した時の」
二人のこれからを考えていた、なんて気恥ずかしくて口が避けても言えない。動揺を悟られまいと、ぶっきらぼうに応えてちょっと視線を外す。
「なんだか照れますね……」
彼女は軽く頬に手を当てて顔を背ける。
「どこに照れポイントがあったかわからないんだが。……まあいいや、家族も向こうにいるのか?」
朝気になったことを訊くのにちょうどいいと思った。
「ええ、お父様とお母様、あとお兄様とお姉さまが一人ずつ。あの時は嘘をつきましたが」
確かに担任の溝口が、父親の都合で越してきた、とか言ってた様な。そこまでは記憶にある。
「……俺を探すために一人で来たのか。よく許してもらえたな」
「そこはそれ、ガッツと気合と根性です!」
どこでそんな言葉覚えたんだか……。俺はちょっと呆れていた。
「うちの両親、わたくしに甘々なんです。去年家族旅行で来た時に、気に入ったからここに住みたい! って言ったら、納得してもらえました」
彼女はニコニコとほほ笑んでいる。
……そんなことありえるのだろうか。高校に上がる時や学年が上がる時ならわかるが。こいつがやってきたのは、五月の大型連休が終わった後の時期。タイミングとしては、非常に微妙。
明城については、腑に落ちないことがまだまだあるものの、たぶん聞いてもちゃんとした答えが返ってこないと思う。一番の謎である前世の話は依然不明だし。俺も思い出さねーかな、なんて。
「わたくし、何か変なことを言ってしまいましたでしょうか?」
彼女は不安そうに顔を覗き込んでくる。遠慮なく顔を近づけてきたため、黒目がちな瞳とばっちり視線がぶつかった。
無意識の内に考える顔つきになっていたのかもしれない。とりあえずちょっと恥ずかしくて、右側に腰をずらした。
「いや、何でもない。で、仲はいいのか?」
「ええ、ちゃんと週に一度連絡しています。……あっ、ここに泊まることもお母様には伝えてありますから、ご心配なく!」
そんなこと全く心配していなかった。でも確かに、無断外泊は問題だ。一人暮らしなら、バレないと思うけど。その辺り、許可を取るところはさすが明城、といったところか。
でも親もよく許可を出したもんだ。クラスメイトの男の家に泊まるなんて、親にしてみればとんでもない事実だろうに。その辺りのことを尋ねるのはやめておこう。不都合な真実、というやつである。
「でも、ユキトさんもお母様や麻理恵さんと、仲良しじゃありませんか」
「仲良し、ねえ……」
まあ、あの二人とは特に問題はない。
「お父様とは、そのぎくしゃくしてるみたいでしたけど……」
「明城さんは、遠慮というものを知らないのかな?」
「す、すみません、口が滑りました! 許してください、わたくしにできることならなんで――」
「ストップ。それ以上はよくない。気にしてないから、いいよ別に。それに事実だからな」
親父が帰ってきたのは、昼食のちょっと前だった。部屋にいて勉強に集中していたから、気がつかなかったけど。泊まり込みで仕事した件については、俺が危惧したような争いにはならなかったらしい。まあ、基本的に母さんは大らかだし、俺も本気でそうなるとは思ってなかった。
それで、昼飯も一緒になったわけで、それまでの二回の食事の時とは違って静かだった。親父殿が発した言葉は明城と会った時の『息子が世話になってます』という毒にも薬にもならないものだけ。以降は粛々と、四人オムライスに舌鼓を打っていた。こいつもその時に何かを察知したんだろう。
「……その何か事情とかはあるのでしょうか?」
おずおずと訊きにくいことを訊いてくる明城。無遠慮なのを治すつもりはないらしい。
「思春期において、親との衝突なんて珍しくないだろ? そういうこと、経験ないか?」
「いいえ」
ぶんぶんと首を横に振る明城。どこまでも無邪気な感じ。
まあ確かに、誰かに腹を立てるこいつの姿は……一度、雪江と争っていたっけ。と、とにかくそれを抜きにすれば、基本的には温厚で落ち着いているし。物腰は穏やかだし。
「普通はあるんだけどな……。お兄さんがいるとか言ってたな。そっちはどうだ?」
「うーん、そうですねー、揉めていたかもしれませんけど、十年くらい前の話なのでよく……」
「前世のことは覚えてるのに?」
「あれは別です!」
ふんす、どや顔をして見せる明城。おまけに胸まで張って。ふくよかな膨らみが強調されて、どうにも居心地が悪い。なんだその態度は。
中学一年の秋ごろ、部活を辞めた辺りから、あんまり親父と話さなくなった。それは向こうに問題があるわけじゃなくて、完全にこっちの問題。幼稚園の頃からスイミングスクールに通わせてもらったのに、それをこんなところで投げ出してしまうという罪悪感、負い目。
『なにかやりたいことでもあるのか?』そう訊かれた時に、何も答えられなかったことがまずかったかもしれない。一応、勉学に力を入れようとしてみたが、思うような結果は出ず。そして、今に至る。
「とにかく別に何が、ってことはないんだ。昼飯の時、不愉快にさせたのなら謝る」
そんなことをこいつに説明する気にはなれなくて、俺ははぐらかした。
「いえ、そういうわけではないので。ただ気になっただけというか……。わたくしの方こそ、プライベートに顔を突っ込んでしまってすみません。ちょっと舞い上がってたのかもしれません」
「舞い上がってた?」
「はい、朝の、その、結婚うんぬんが……」
一瞬にして、この部屋に静寂が訪れる。恥ずかしそうに顔を背ける明城と、それを呆れた思いで見つめる俺。ここに騒がしい従姉が来たら大変なことになるだろうが、今家にいないのは幸いだ。
「さーて、次は化学でもやるかなー」
俺は聞かなかった振りをして、身体を机に向ける。
「もうっ、ユキトさん!」
「あと質問あるの、これだけなんだって」
「そうなんですか。でも、わたくし流石に教えられませんよ?」
「はい?」
全く予想外の返事が返ってきて、思わず俺は彼女の方を見た。
「だって、地学選択ですもの」
それは完全に青天の霹靂、というやつだった。
*
その日の夕方。閑静な住宅街が橙色の光に照らされている。黄昏時というのだろう。物悲しい雰囲気が辺りには満ちている。
家に帰るという明城を、俺と母さんは玄関先まで見送ることにした。厳密にいえば、言い出しっぺは母で、彼女に言われて俺もここまで来た、という次第。
「えー、今日も泊まっていけばいいのに~」
「流石にそれは厚かましいですから」
「そうだぞ、母さん。無理強いはよくない」
「まあそうか。二日連続なんて、親御さんも心配しちゃうだろうしね」
「いえ、家は大丈夫なんですが……」
「じゃあ――」
「母さん!」
ちょっと大きな声で、お節介おばさんの声を遮った。あわや、会話がループしてしまうところだった。
俺としては、明日はゆっくりしたいと思っていたので、それは渡りに船だった。家でゆっくり過ごす、これ休日の最大の楽しみ。やはり明城が傍にいると落ち着かない。……悪いわけじゃないんだが。
俺はもちろん、明城も明日のことについては特に何も言ってこなかった。もしかしたら、一緒にいすぎて少し飽きたのかもしれない。あるいは、幻滅されたか。どこか寂しく感じてしまうのは、きっとあいつにいいようにやられているのだろう。
「それじゃあユキトさん、また月曜日に」
「おう、じゃあな」
「まったくあんたはもう少し気の利いたことが言えないのかしらね。――また来てね、アリスちゃん。いつでも歓迎だから!」
ぺこりと頭を下げると、彼女はゆっくりと歩き出した。大きな荷物を抱えて、凛とした姿で足を進めていく。背中では、あの美しい銀髪が夕焼けの中に踊っていた。
遠ざかっていくあいつの後姿がとても儚なげに俺の目に映った。喪失感に似た何かを感じて、落ち着かない気分になる。彼女の姿が完全に見えなくなるまで、俺は魔法にかけられたかのように動けなかった。
連日、ブクマ、ポイント評価、ありがとうございます!
四桁に達して、ただただ感謝の気持ちしかありません!
次話からは話が動き出していく予定です。
冗長に感じていられたら、申し訳ありませんでした。




