水と鏡
鏡を題材にした怪談は数多い。
それは、鏡の持つ神秘性と、向こう側に映るもう一つの世界に人が魅入られるからだ。
湿った空気の中、二人の女学生が談笑しながら学校へと向かっていた。
昨日降っていた大雨は夜のうちに消え、所々に水溜りを残して晴天が顔を見せている。
「げっ」
ふと、女学生の片方が足元に広がる水溜りに顔をしかめた。
軽く跨げる程度の大きさではあったが、その女学生は道の端をわざわざ通って水溜りを避ける。
「大げさね、あんた」
もう一人の女学生はケラケラと笑って、自分は歩幅を大きく水溜りを跨いだ。
「……なにかあったの?」
からかうような口調だったが、視線を向けると相手は怯えるような様子で水溜りを見つめていた。
浮かびあがったんのは困惑と心配の入り混じった感情。
つい、質問の声も囁くような、ゆっくりとしたものになってしまう。
「――怖いのよ」
ただ一言。
水溜りを怖いと、その女学生は言った。
放課後。
女学生は一人、帰路に着く。
朝の水溜りは殆ど蒸発して消えていたが、日陰にはポツポツと残滓が残っている。
壁際に残った小さな水溜りを視界の端に捕らえ、女学生は友人の言葉を思い返していた。
「怖い、か」
嫌いでも、不愉快でもなく。
ただ、怖い。
ふと、足を止めて水溜りをじっと見つめる。
どれだけ見ても、それはただの水溜りだ。
昨日降った雨が残っているだけの、水溜り。
ただそれだけの存在に、あの子は恐怖を感じたという。
「うーん……」
考えても理解は出来ない。
彼女にとって、水溜りはただの水溜りでしかないから。
軽く伸びをして、再び歩き始める。
分からないものをどれだけ考えても、時間の無駄だと言うかのように。
そういえば。
昔、友人が言っていた。
それは、親戚から聞かされたという怪談話。
よほど怖かったのか、珍しく涙を流していたから今でも記憶に残っている。
確か、内容自体はありふれたもの。
夜中に鏡に触れると、鏡の中に吸い込まれるというものだ。
「あっ――」
道の中央に残った水溜りの前で、つい足が止まる。
波一つ立たない水溜りは、まるで大地に作られた鏡のように空を映し出していた。
「…………」
嫌なことを嫌なタイミングで思い出してしまったと、女学生は頬を掻いた。
別に微塵も信じてなどいないが、つい水溜りを避けてしまった。
「ああ、だからか」
きっと彼女も、昔のことを思い出したのだろう。
そう結論付けて、女学生は再び歩きだした。
「違うわよ」
夕食を終えた夜。
女学生は友人と電話で他愛もない話に明け暮れている。
しばらく話した後、帰り道でふと思ったことを伝えてみたのだ。
だが、帰ってきたのは否定の言葉だった。
「確かに今でも鏡は怖いけど、鏡を思い出して怖くなったわけじゃない」
半分正解、程度のことだったのだろう。
少し不機嫌な口調に、電話越しの声は感じられた。
「じゃあ、なんだってのよ」
洗面台の端に置いたスマートフォンから聞こえる声に、女学生は眉を顰める。
洗面器に張った水で化粧を落としながら、答えを待つ。
「――波が、立ってたの」
返答は短く、そっけないものだった。
「覚えてる? 昔の怪談話」
「そりゃあ……確か、夜中に鏡を触ると吸い込まれるって」
「違うわよ」
「あの話はね。両手が吸い込まれた状態でパニックになった人が、鏡を蹴り壊したの」
ゆっくりとした、染み入るような声。
「当然、鏡は割れて粉々になった。するとその人の両手は向こうの世界に取り残されて、綺麗さっぱり消えてしまったって話」
「あー……そうだっけ? よく詳細まで覚えてるねぇ」
軽く合わせていた女学生だが、そこで異常に気づく。
友人の声が、先ほどまでの軽口とはまるで違う、真剣なものになっていたのだ。
「あの水溜りも、風のせいで波が立ってたの。だから、怖かった」
ポタポタと、濡れた顔から水滴が落ちる。
洗面器に張った水に落ち、波紋が小さく広がっていく。
「ねえ。もしも水溜りに足が吸い込まれて、その水溜りに波が立ったら」
吸い込まれた足は、無事なのかしら。
「――ひっ」
咄嗟に水から離れようとして、女学生は仰け反った。
バランスを崩した体は無様に転倒し、尻餅をつく。
「や、やめてよそんな、冗談」
「あなたは、怖くないの?」
洗面台の鏡が、見上げた視界に入る。
吸い込まれそうな感覚が、全身を支配した。
怖い。
なんでもないはずのただの水や鏡が、急激に恐怖の対象として湧き上がる。
一度恐怖に支配されるともう駄目だ。
鏡や水を避けて、人は生きることが出来ない。
彼女の人生は、この瞬間に明確に狂ったのだ。