死にたかったか、龍馬 その二
与頭(くみがしら、と読む)の佐々木唯三郎様が我々肝煎(きもいり、と読む)を集め、このように話を切り出された。
「坂本の潜伏先は?」
今井がよく通る声で、静かに訊ねた。
「増次郎の調べによれば、醤油商、近江屋に下宿している才谷梅太郎という土州人が、坂本とのことである」
「近江屋と申しますと、土佐藩邸の前の土佐藩御用商人の近江屋でございますか?」
私の問いに与頭が頷かれた。
「それでは、奉行所の捕方を使う訳にまいりませぬな」
私が更に問うと、与頭は眼を鋭く輝かせ、軽く頷かれた。
「左様。桂君の言う通りである。坂本は土佐藩士である故、公然と捕方を使う訳にはまいらぬ。秘かに捕縛するか・・・、手に余る時は、斬るしかあるまい」
「坂本を斬って、土州の鼻をあかすのも面白い。いや、これは愉快、愉快」
渡辺一郎が若々しい顔を紅潮させて言った。
「今後、増次郎は乞食となりて、近江屋を日夜監視することとなる。時期をみて、近江屋を襲い、坂本を捕縛するか、外出した折を狙い、彼の者を召し捕るか、いずれにしても、この京都見廻組で実行するものとしたい。ご一同の手をお借りすることとあいなる」
与頭の声は些かうわずっておられた。
剛勇で知られた坂本を捕縛か、斬る!
一同の顔に緊張が疾走った。
同年十月二十四日
終日曇り。
諜吏増次郎より連絡有り。坂本、出京す。福井との由。入京まで、暫時休養。
何処かで三味の音がする。
粋なものだ。
三味に合わせ、近頃流行りの端唄を口ずさみながら、俺は窓辺に凭れ、酒を飲んでいる。
薄暗く湿っぽい部屋の中から、暮れていく空を見ながら、ふと、早苗さまを想った。
剣の師匠、大野先生の一人娘である早苗さまとはあまり話をしたことがない。
道場の上座に黙然と座り、門弟の稽古を見ておられる大野先生に、時折お茶を運んで来られる早苗さまは 我々年若の門弟の憧れの的であった。
先生には少しも似ておられず、早くに亡くなられた奥様に生き写しとのことであった。早苗さまが道場に入って来られると、門弟の稽古は一段と活気を帯びたものとなった。無論、俺もその例に洩れず、矢継ぎ早に連続技を仕掛け、稽古相手を辟易させたものだ。桂、そう攻め立てるな、と何度朋輩に苦情を言われたことか。
しかし、早苗さまは昨秋、会津様のご家中に嫁がれ、大野道場から去られた。
それ以来、俺は道場に顔を出す気にもなれず、勤務非番の時はこうして色街で酒を飲むようになってしまった。
俺も、気が弱いものよ。
「あら、いやだ。わたし、いつの間にか眠ってしまって。はやさま、ごめんなさいねえ」
「いや、いいんだ。そのまま寝ていてくれ。俺は、少し、飲んでから、帰るから」
「そんな、水くさい。お酌ぐらいはさせて下さいな」
敵娼(あいかた、と読む)のおゆきが気怠そうに起き上がりながら、甘えた声で囁いた。
おゆきは馴染みのおんなだった。
生まれは江戸で、清河の浪士組に参加した侍の後を追って、この京都まで流れてきたと、いつか寝物語に語ったことがあった。
もっとも、その侍は先年薩摩か長州の者に斬られて死んだとのことであったが。本当かどうか・・・。
あてにならぬは、女郎の証文。
「はやさまは、どんなお仕事をなさっていらっしゃるの。教えて下さいな」
「なにに見える?」
「そう、京のお方だから、壬生のお侍さまか、どこぞのお公家のお供のお侍か、・・・」
お酌をするおゆきの豊かな胸乳が目に入った。
俺は手を伸ばし、おゆきを抱き寄せた。
坂本の居ぬ間の命の洗濯か。
俺は薄く笑った。
同年十一月五日
坂本帰京す。増次郎より与頭に連絡有り。増次郎の働き、まことに結構。
「坂本は、五尺八寸の大男と聞いている。そう、背の高さは、桂君、貴君と同じぐらいだ」
渡辺吉太郎が刀の目釘を調べながら、私の方を振り返って言った。
「与頭が清河八郎を斬った時の話を聞いたことがあるが、与頭はあの通り小柄な方故、坂本同様、六尺近い大男の清河を斬るには、一工夫されたとのことであった。その工夫とはこうじゃ。江戸、赤羽橋で行き遭うた際、与頭は笠を取り、丁寧な会釈をされたとのことだ。これが、工夫よ。清河は大分酩酊しておったとのことだが、顔見知りで旗本の与頭に先に挨拶され、これはこれは、とばかり、自分も挨拶を返そうとして頭を下げた瞬間、与頭が抜き打ちに清河の首に一本入れた。さすがは、神道精武流随一の剣士、見事、清河の首を皮一枚残し、断ち斬ったというではないか。それが、四年前の文久三年。不意を衝かれては、北辰一刀流免許皆伝で、且つ口八丁手八丁の清河といえども、ひとたまりもないわ」
私も、愛刀の越前国兼則の手入れをしながら、吉太郎の話を聴いていた。
清河を斬った時の与頭は三十歳。
与頭と新選組の近藤勇は同年と聞く。
私は今、二十八。
清河を斬ったことで、与頭は伝説的な剣士となった。
私も坂本を斬り、伝説となりたい。
坂本! お主を斬るのは、この俺だ。
同年十一月十一日
雨少々。
増次郎より、良馬儀、永井玄蕃頭様を密かに訪問す、との報入る。
良馬真意不可解。画策や如何。
「どうも、坂本、奴の動きはよう解らん。先年、薩長の周旋をしたと思ったら、今度はこちらに寄ってくる。今日は、永井様を訪問したとのことだ。永井様も永井様だ。坂本をそのまま帰すなどとは。坂本も豪胆な奴だ。ご公儀重臣の屋敷を平気で訪問するとは。奴は敵か、味方か。どうも、腑に落ちない動きをする。それに、桂殿、ここだけの話に留めて戴きたいが、増次郎の話によると、坂本の動きは時折与頭のもとに、然る筋から秘密裡に知らせが入ってくるらしい」
「それは、密告、ということか」
私の問い掛けに、伍長の高橋安次郎が大きく頷いた。
「坂本の動きが密告されているというのか」
私は繰り返した。
意外だった。
坂本が売られた!
「どうも、そうらしい。増次郎が苦労して、坂本に関する情報を与頭に入れても、どうも与頭の反応が妙だと言うのだ。既に、知っている、そういう感じを受けることがこの頃多い、と増次郎が不思議そうに呟いていた。奴を密告しているのは、薩摩、長州、・・・、それとも、土佐、かも」
「奴は、仲間から捨てられているというのか」
坂本の動きを逐一、京都見廻組の与頭に知らせる者は、坂本を殺して欲しい者に他ならない。
坂本は、恐らくはこのことを知らない。
奴が近江屋を移る気配は全く無いのだ。
坂本の命運は尽きた。
坂本は、確実に殺される。
殺すのは、我が見廻組か、それとも、新選組か。
或いは、然る筋の暗殺者か。
坂本が哀れに見え、俺は薄く嗤った。
同年十一月十四日
終日曇り。増次郎より報入る。数日来、坂本動き無し。
与頭、来たりて言う。明日、決行と。成否、何処にかあらん。
「明日、坂本を殺る。それがし、桂君、今井君、渡辺両君、高橋君、桜井君、土肥君、世良君の九名でこの任にあたる。坂本は、近江屋の裏手の土蔵に起居していたが、ここ数日は近江屋二階で起居しておる。どうも、風邪をこじらせているらしい」
与頭がニヤリと笑った。
「風邪をこじらせているのですか」
私が思わず訊き直した。
「そうだ。風邪をこじらせて二階に移った、と書いてあった」
やはり、密告の噂は本当であった。
坂本は、売られたのだ。私の背筋に冷たいものがはしった。
同年十一月十五日
夜半まで氷雨。
寒さ殊の外厳しき。
本日、坂本他二名を斬。極めて愉快也。快挙、快挙。
与頭佐々木様御指揮、八名の隊士により遂行せり。
即ち、与頭 佐々木唯三郎様 歳三十四 江戸
肝煎 桂 隼之助 歳二十八 京都
肝煎 今井 信郎 歳二十七 江戸
肝煎 渡辺吉太郎 歳二十七 江戸
肝煎 渡辺 一郎 歳二十五 京都
伍長 高橋安次郎 歳二十八 江戸
組並 桜井大三郎 歳三十 江戸
組並 土肥 仲蔵 歳三十七 江戸
組並 世良 敏朗 歳 不知 京都
昼、与頭、佐々木様の旅宿に集合し、支度をした。
その後、佐々木様故郷の会津の酒を戴く。
美味とのことであったが、味判らず。
一刻ほど、時を過ごし、先斗町の料亭に赴き、昼食を摂りながら、増次郎からの連絡を待つ。
時折、乞食に変装せる増次郎が来、一言二言、与頭に耳打ちす。
坂本は確かに二階に居る様子。
時折、障子が開けられ、重ね着をしてふっくらと太って見える坂本が顔を覗かせ、降り止まぬ氷雨を眺めている、との連絡も有り。
皆、言葉少なく、酒を飲み、箸を動かすのみ。
暮六ツ(午後六時)、夜食。酒、控える。
暮五ツ(午後八時)、料亭を出て、ゆるゆると河原町通りを歩く。
氷雨、漸く止みたり。
闇の中、庇より落ちる霙混じりの雨水の音、心無しか高く聞こえる。
四条通りで右に折れ、四条大橋のたもとで増次郎を待つ。
待つこと少し、増次郎が闇の中より現われ、与頭に報ず。
六ツ半(午後七時)近くに、武士が一人坂本を訪問、その後、少年一人と若い武士が一人、時を前後して近江屋を訪れた由、報告す。
「すると、三名、中に居るのか」
与頭が少し苦い顔をした。
「いえ、子供とその若い武士はすぐに近江屋を去りましたので、今は六ツ半近くに訪れた武士が一人残っているだけでございます」
与頭は少し躊躇されている様子であったが、やがて意を決し、皆に告げられた。
「その武士が去っていれば良し、去っていなければ、構わぬ、その武士も坂本同様、斬れ!」
皆、粛然と歩み始めた。
途中、鳥新という軍鶏肉屋で、増次郎が囁いた。
「店の中の、あそこにいる少年がその子供でございます」
与頭は店の中に、鋭い一瞥を送ったが、そのまま無言で歩かれた。
近江屋の前に出た。
右手には、豪壮な造りの土佐藩邸が重々しい風を見せていた。
与頭は立ち止まり、懐から名刺を取り出した。
そして、おもむろに、近江屋の戸を叩いた。
一同、固唾を呑んで、その戸を瞠つめた。
戸が緩やかに開かれ、恐ろしく背の高い若者が太った姿を覗かせた。
坂本の下僕の元相撲と思われた。
「拙者は十津川の者にてござ候。坂本先生、ご在宿ならば、ぜひお目通り願いたく罷りこしてござ候」
与頭は、謡で鍛えた渋い声で、面会の旨を告げ、予て用意した名刺をその下僕に渡した。
下僕は名刺を受け取り、暫くお待ちを、と言い、家の奥に引き返して行った。
与頭が軒下に佇む我々に目配せをした。
坂本は間違いなく居る。
私の心は躍った。
与頭が音もなく入り、予て打ち合わせの如く、私と今井の二人が与頭の後に続いた。
与頭、私、今井の三名が斬撃隊、渡辺吉太郎、渡辺一郎、高橋の三名が後詰め、桜井、土肥、世良の三名が見張りという必殺の布陣であった。
階段を登って二階に向かう、下僕の巨大な後ろ姿が目に入った。
与頭が素早く階段を駆け上がり、階段の昇り口で、背後の音に気付いた下僕が振り向いたところを袈裟に大きく斬った。
血が噴き出し、下僕は鋭い悲鳴を発した。
私と今井が、下僕に二の太刀を加えている与頭の脇を擦り抜け、部屋に入った。
坂本は奥の八畳に居る筈。
小走りに走り、襖を開けた。
二人、居た。
驚愕の眼差しをこちらに向けた。
私は右側の床の間を背にして座っている男に突進し、今井は火鉢を近付け座っていた左側の男に向かった。