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右腕

作者: 安岡 真澄

 私の主は知らない。私たちに、命があることを。主が生まれてから、私はずっと主を支えてきた。いや、支えてきたのはもっぱら足のやつらの方か。ならば私は、左のやつと共に、文字通り主の人生を「手伝って」きたのだ。

 私は、主の忠実な右腕だ。主が何を書き記し、何を描き、何に触れてきたかを知っている。秘め事を綴った日記も、描いた絵画も、それを送った愛しき者、その感触も。時には誰かを傷つけるために使われたこともある。元来私は争いを好まぬ気質であったが、それとは裏腹に私自身は強く、太く隆起していた。私の意志がどうあれ、私の存在は、主の忠実な右腕なのだ。右腕は、主の意志に属するもの。私はこれまで、全力で自らの存在を全うしてきたつもりだ。


                    *


 主が二十五になった年だ。主が愛する妻に宛てて、戦場に向かう旨の手紙を書き記し始めたとき、私の心は、喜びに打ち震えた。私に心臓があったならそれは高鳴り、口があったなら声の限りに叫んだだろう。私は心のざわめきが手の震えとなって、主の筆記を邪魔しないよう気を付けながらも、やはり喜びを隠せなかった。ああ、戦場! ひるがえる剣閃、容赦無き殺意の裂帛!

 それから主は、より一層剣の鍛錬に励み、情熱的に妻を抱いた。しかし剣でさえ、妻でさえ、私には遠く及ばない。剣は夜具の外に置かれ、妻は戦場から遠く思いを馳せるだけだ。私は常に、主と共にある。意識の外に置かれるほどの、この世で最上の信頼を置かれて。やがて、その日は来た。


                   *


 私は別段、争いに心躍らせているわけではない。他人を傷付けずに済むなら、それに越したことは無いし、私だって主と共に痛みを感じる。しかし、それ以上の夢が、以前より私にはあった。それは奇跡的な確率であり、所詮は夢想に過ぎなかった。だが、神は奇跡を、鋭き刃を私に遣わしたのだ。

 主は強かった。主の握る剣が何十もの敵の命を屠り、仲間の仇を取ると決心した、幾人かの視線を集めるほどに。やがて屈強な主にも疲れが見え始め、何の気なしに、戦場に同胞の様子を探した、一瞬。その一瞬の隙を逃さなかった者が一人、いた。その者の剣は鋭く主に迫り、主が辛くもその身を躱した刹那。そこに、私だけが残った。

 音はない。痛みは、後から来る。その瞬間を言えば、ただ出来事が、無音で成された。右腕が切断され、地に落ちる。そうしてから、時の流れと音が戻ってきた。

 私を切り落とした者が、私を踏みつけ、高らかに雄叫びを上げた。主は左腕だけで弱々しく剣を構えながら、苦悶の表情を浮かべて後退する。それを見つけた仲間が二人かけつけ、主の前に立ち並んだ。敵がそれに突っ込んでゆく。


                   *


 それからのことは、ただ私の上を煩雑としたことが通り過ぎるばかりで、これといった感想もない。男たちが、叫び、ぶつかり、死に倒れる。それが繰り返されるにつれ、やがては日の暮れと共に、静寂が訪れた。戦場には屍が残り、空には鴉が舞い狂う。

 もう、良いだろう。私は静かに身を起こし、五本の指を使って、ゆっくりと歩き出した。

 もう、良いだろうな。私は十分、主に仕えた。最後の瞬間だって、私自らの意志で刃に向かったわけでは決してない。主の反応が、私をあの場に取り残したのだ。その結果が、私をここに解き放ったのだ。主のためではない。私は私の意志で、私を動かすことができる。

 戦場には、いくつもの肢体が転がっていた。そのほとんどが、最期まで自らの主とともにあり、命を失っていた。いや、やつらはその瞬間に、真の意味で主と同じ魂になったのかもしれない。生まれてから死ぬ瞬間まで共にある命とは、最早それで一つの魂と言って差し支えないのではなかろうか。私にとって、それは一つの叶わぬ結末になってしまった。

 その代償は大きい。私は所詮、生命の残り香としてここに留まっているに過ぎない。主と切り離された今、私の魂などというものは、きっとどこへも行けないだろう。やがて命は、風船の空気のように抜けて無くなり、私の魂は、この世に散り散りとなって、跡形も残らないだろう。そういう結末なのだ。

 だがその対価として、私はこうして歩いている。血なまぐさい戦場の跡。美しい景色とはいえないが、そんなことは関係ない。私は今、自由を散歩しているのだ。

 やがて私は、一つの美しい手と出会った。今の私よりも短い、手首から先だけの手だ。まるで白蓮のような、細く白々しい、きれいな手であった。切断面を除けば、その手には傷一つついていない。女が、戦場にまぎれて戦っていたのだろうか。それとも、夫に着いて来た者か。しかし、そんなことに最早意味はない。私にも、彼女にとっても。彼女もまた、主から解き放たれた、一つの存在なのだ。

 私たちは指を絡ませて、深く抱き合った。冷たくなった皮膚の向こうに、微かな命のぬくもりを感じる。そのまま私は、時たまに主のことを意識によぎらせながら、やがては深い、深い眠りに落ちていった。

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