天国と地獄
「鳳梨 月」としての処女作。
『天国と地獄』 鳳梨 月
オルフェンバック作曲の楽曲のそれではない。
人類の有史以来、それぞれの信仰にのっとった死生観が創り出す死後の世界のことである。
持論から結論付ければ、先立った人達に残された人間が思いを馳せるために想像を巡らせたものである。先にその世界に逝った人々に対して、その世界で安らかに、楽しく、又は、恨みの対象なら永久の苦しみを感じていてほしいと、半ば一方的に願い、依存しているのである。
そう、それはまさに、残された人間自身の精神衛生の保全のためともとれるが、その存在は極めて不確実である。
日本古来の仏教信仰では、天国、または極楽浄土として呼ばれる世界がある。阿弥陀仏が「生きるものすべてを救いたい」と説法と説き続け開いたとされる。そこでは、桃源郷で酒の流れる滝があり苦のない世界が広がっているという。
一方、272もの部署に細分化されて、定められた期間責苦を受け続ける地獄がある。
天国は、良く表せば現世のような生きることに対する悩みや苦しみがなく、悪く言えば何の変化のない自堕落な世界だと言えるだろう。大切な存在ならば、そこで笑って過ごしていてほしいと願うばかりだ。
しかし、私のもっぱらの興味は、地獄の世界観だ。
そこは、八大地獄と八寒地獄に分かれ、272部署に分かれた地獄の中で現世で犯した罪の大きさに合わせて、送られる地獄の部署が決定する。そこで、獄卒と呼ばれる執行官から「転生」が許可されるまでの期間まで責められる続けるのだ。
例えば、強盗殺人や強盗傷害致傷を犯したものが堕ちるのは、黒縄地獄だ。何とそこでは、焼けた鉄の地面に倒され、焼けた縄で身体を縛られ縄の火傷跡を、さらに焼けた斧や鋸で削ぎ落とされるのだそうだ。
人のものを盗んだ上に人を殺めたその罪はあまりにも罪深いのだから、この責苦は仕方ない。
一方で、興味深いのは、この地獄に堕ちた亡者でも、約13兆年で「転生」できるのだそうだ。生前罪を重ねた分だけ厳しい地獄に堕ち、転生できるまで339京7386兆2400億年かかるものもあるそうだ。これは、宇宙が誕生し消滅するまでの時間とされている。
しかし、地獄に堕ちた亡者でも「転生」ができるという考え方が、地獄であっても救いを見出せる点である。
個人的には、後悔の多かった人生で、死後地獄に堕ちるだろうと覚悟はしている。その中でも、責苦を負った後に転生が許されるなら粛々と甘んじて責苦を受けるだろう。現世においても、辛く苦しいことの連続で八方塞がりな状況が続くと逃げたくなるからである。そう例えば、自殺などの現実逃避である。そうなると逃げたことに自己嫌悪し、後悔を重ねるだけで、本質的な救いには至らない。しかし、そこで一筋でもすがれる希望があれば、逃げずに現実を直視して踏ん張れるものである。愛する者の存在や他者の助けが、それに当たるだろう。
地獄での転生も救いのそれに当たるのではないだろうか。責苦を負っている間、果てしない時の流れの中で永久に責苦を受け続ける状況が続くのだとしたら―。恐らく早い段階で絶望に変わり、惰性を感じ地獄でさまよい逃げたくなるだろう。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のカンダタが縋ったのがまさにそれである。
しかしそこで、もう少し耐えたら転生できますよ、となれば―。ならば絶望せず逃げずに耐えてみようと、そこに救いを見出すのではないだろうか。
間違っても罪を犯して地獄に堕ちても、いつか転生できるから現世で何をしても救われるという話では決してない。そもそも、前述したように地獄の存在が不確実なため、確実に生まれ変わって清算となるかも不確定なのだから。
現世の我々も神社仏閣に詣で、偶像であるることで、願い助けてほしいと祈りを尽くすことがある。 現世でも死後地獄でも、救ってほしいなどおこがましいことなのかもしれない。
オルフェンバック作曲の天国と地獄をBGMに運動会の徒競走に臨んだ私たちにも、最後はゴールという救いが待っている。
天国と地獄。
そこではいずれも救いが待っている。
1作目にしては、ギリギリ発表できるかと思い、反応に半信半疑で世に送り出す。
頭の中に細切れで、箪笥にソートされずに散らばっていた雑念を雑記としてつなぎ合わせるとこんなものが出来上がった印象です。
私という人間性が垣間見ていただけたら幸いです。