02
「東頭開化」
突然名前を、それもフルネームを呼ばれたものだから、驚いてすごいスピードで声の主を探してしまった。
5月4日。ゴールデンウィークの真っただ中。やることもないので、学校の図書室へ本を借りに行った帰り道いのことだ。
振り返ると、声の主は案外近くに立っていた――無表情で。
八頭木麒麟だった。八頭木麒麟が偶然にも、僕を突然フルネームで呼び止めた声がした方に立ってい
たのだ。いやあ、偶然だなあ。
なんて、馬鹿なことを言っている場合ではない。
もしや今しがた僕をフルネームで呼び捨てたのはこの八頭木麒麟なのだろうか?
どうでもいいことだけれど、そういえば僕は、八頭木麒麟のことを勝手にフルネームで呼んでしまっているな。まあ自分の心の中のこととは言え、仮にもクラスメイトをフルネームで呼ぶというのはどうなのだろうか。
試しにどう呼べばいいか聞いてみようかな。ちょうど本人も目の前にいることだし。
「なあ、突然なんだが、僕はお前の事をなんて呼べばいい?」
……うむ、チャレンジすることはいいことだ。
現に僕は今、非常に貴重なものを見ている。
八頭木麒麟の驚いた顔という、一級品のレア映像だ。
しかしこんなにあっさりと表情が変化するなんて思わなかったな。
こんなことならもっと早く話しかければよかった。
「おーい。八頭木さん。八頭木麒麟さーん」
八頭木はハッと顔を戻した。
「そうね、キリンちゃんとでも呼んでちょうだい」
「お、おう……」
……なかなかどうして、面白い奴なのではないか?
しかし、こんな唐突かつ相手の意向を無視した質問に答えてくれるなんて、ひょっとして八頭木さんってとっても優しい方でもあるのかしら?なんて……
いやいや、そんなことよりも、だ。
なんか今、彼女、喋ってませんでしたか……?
「ちょっと、聞いているのかしら。聞いていなかったのならもう一度言うわ。私のことは、キリンちゃんとでも呼んでちょうだい」
「いや、あの……」
僕が疑問を口にするよりも早く、と言うより、僕が疑問を挟む余地すらなく、八頭木麒麟は言葉を重ねる。
いや待ってくれ。こんなのはおかしい。あってはならない。落ち着け。状況を整理するんだ。
「何をぐずぐずしているのかしら。東頭開化が私に要求したことでしょうに。それともあれかしら、東頭開化の前世はナメクジだったのかしら。それならあと三秒ほどあなたに猶予を与えてもいいのだけれど。」
「なんで反応が遅い人間の前世がナメクジになるんだよ!ふつう亀とかだろ!」
いかん、つい怒鳴ってしまった。
っていうかこっちは色々と混乱しているのにツッコミに脳細胞を使わせるのはやめていただきたい。
そんな僕の心中はおそらく察していないであろう八頭木麒麟は、僕の言葉に得心がいったように頷いていた。
「ふむ。それもそうね。」
鷹揚に頷くさまに強烈な納得のいかなさを感じたが、ここは冷静に話を合わせてこちらのペースに引込むに限る。
僕もうんうんとうなずき返して同等の知的生命であることをアピールすることにした。
「理解していただけてなによりだ。」
「では東頭開化。あなたのあだ名が鈍足カメムシに決まったところで、」
「やっぱり何も理解してないじゃねえか!だいいちカメムシじゃなくて亀だ!」あ、だめだこれ突っ込まずにはいられないわ。
「あら?さっきのはあなたが呼ばれたいニックネームをリクエストしてくれたのではなくて?」
「断じて違う!」
「うるさいわね東頭開化。ここまで来るともはやヒステリックの域ね。いちいち文章の最後に『!』なんか付けちゃって。これだからゆとり教育というものは。感情を単調でつまらない方法でしか表現できないとはね。恐れ入ったわ。」
「おまえもゆとり世代だろうがあああああああああ!」
ダメだこの女、煽りに関して僕を圧倒的に凌駕している!
僕の思考はこの時完全に停止した。
まあそれはどうでもいいが、この流れるような会話術は一体……もしかして僕が知らなかっただけで、
じつは彼女、とってもおしゃべりなんてことは……
「無いわね。」
「あれ。僕ったら口に出してしまっていたかな?」
「ええ、出ていたわよ。全く、そういう大事なことはきちんと面と向かって自分の言葉で伝えてちょうだい。さあ言ってごらんなさい。」
なんだろう、八頭木は何かを盛大に勘違いしているんじゃなかろうか。
というか、嘘ついたんだな、こいつ。
「無いっていうのはどういう意味だ?」
「あら、スルーするなんて非道ね。八つ裂きにしてやろうかしらこのナメクジ男」
「ねえ君情緒不安定なんじゃない!?」
まるで息をするように暴言を吐いてみせた八頭木。この会話の流れの中で、一度も表情を変えていないのだから恐ろしい。
本当に情緒不安定と言うわけではないだろうから……ただ単に僕をからかいたいだけとか?
八頭木とはまだ少ししか話していないが、彼女ならあり得そうだと思った。
て言うか本当にそうなんじゃないか?
そういえば、彼女はどうして、わざわざ僕に話しかけてきたのだろうか。
僕が見る限り高校生活二年一ヶ月目にして初めてのクラスメイトとの会話のはずだし……その相手が僕だというのはすこし気になるな。
「なあ、キリンちゃん」
「あら、東頭開化。やっと私を名前で呼ぶ気になったのね。それで?何の用があって今私の名を呼んだのかしら?」
「そんなにおおげさなりゆうがないと名前を呼ぶことすら許されないのか……。」
うんざりする話だ。
「いや、なんでぼくの名前を呼んだのかなって。最初にさ、呼んだでしょ?」
「別に大げさな理由なんてないわ」
僕は大げさな理由なんかなくたって名前を呼んでもらうことくらい気にしないわい!――――とは言わなかった。
だって、僕の名前を呼んだのは、そこらへんの女子や男子ではなく、あの八頭木麒麟だったのだから。
『八頭木が話しかけてくる』という事象そのものが、大ごとなのだから。
「じゃあその大げさではない理由ってなんだったんだ?」
「つまらない理由よ」
「そんな言葉が聞きたいわけでは……」
「逆に聞くわ。あなたはなぜ、私の呼びかけに応じたの?」
変な質問だ。そんなもの呼びかけられた(、、、、、、、)から(、、)答えたに決まっている。のだが……なぜだろう、彼女は何かを伏せている?ような気がする。
「なぜって……君が僕の名前を呼んだからだよ」
至極真っ当なことを言ったつもりだった。しかし、
「……………そう」
八頭木はたちまち思案顔になると、そのまま動かなくなってしまった。
彼女の発言には、なんというか、引っかかる部分が多い。
どうにも歯切れが悪いというか、なんだろう………やっぱりわからないな。
僕にも人に言えない事情の一つや二つくらいあるが、八頭木の場合は普段が普段だからなあ。
と、僕が頭のなかで考えている間に復活したらしい八頭木は、
「まあいいわ、また会いましょう、東頭開化」
と捨て台詞を残して去って行ってしまった。
まだ聞きたいことは山とあるのに……。
しかし、捨て台詞を吐いて言った相手を追いかけるのもどうかと思ったので、今日のところは僕も帰ることにしよう。