*15 呟く
糸屋くんはお母さんを追い出すように襖を締めた後、ちょっと行儀悪く座布団の上に座った。
こんな良い部屋に対しては行儀が悪いはずなのに、なんだかとても糸屋くんらしい。
「……何?」
あたしの視線を感じたのか、頬杖をついたまま聞いてくる。
「なんでもないよ?」
「ふうん」
テーブルの上には麦茶の入った涼しげな切子のグラスに透明な氷が浮かぶ。
普段行くような店じゃただのお水なのが当たり前だから、『さすが、料亭』と妙な所で感心する。
レストランなんかで食前にレモンを落とした水が出ると、ちょっと得したような気分になるアレみたいな感じ。
「美和ちゃんは来たことあるの? なんか慣れてる感じ」
と、栂谷くんに話を振る。
「えぇ、まぁ。このあいだ、糸屋くんに連れてきて貰いました」
「あれはお前が、金なくて前の日の晩から食ってないって言ったからだろ」
──苦学生。
頭の中にぱっとその単語が浮かんだ。
話にはよく聞くが、実際にはあまり見たことはない。
あくまでもあたしの周りでは、だけど。
「この間、バイトをクビになっちゃって生活厳しくて。僕、どうも要領が良くないみたいなんで」
へらぁっと、見ているこちらが気抜けするような笑顔を浮かべて言う。
いや、それ結構問題だってば。
「それで、見るに見兼ねてメシ食わせたって訳」
照れたようにそっぽを向く糸屋くん。
一見、気が合わなさそうに見えて、なんだかんだいって仲が良いらしい。
実際のところ、面倒見の良い糸屋くんがどこか頼りない栂谷くんの世話を焼いているってところなんだろうけど。
「それで、バイトは?」
栂谷くんのこれからの生活が気になって聞いてみる。
聞いたからって何かしてやれるって訳じゃないかもだけど。
「とりあえず、家の近所のコンビニでバイト出来ることになったんで大丈夫です」
「そっか。とりあえず良かった。頑張ってね」
またクビにならなければいいな。
栂谷くん自体は、要領は良くなくても凄くいい子だからそんなふうに思う。
──あたしは恵まれてるんだなぁ。
つい忘れがちだが、間違いなくそうなのだ。
奨学金を借りることが出来て、アルバイトをしているとは言っても、両親はいくらかは仕送りをしてくれている。
現在の生活も、市田が一部分を担ってくれているからこそ。
だから、忘れがちになってしまうのだ。
あたしだって、誰からの援助を受けることなく、奨学金とバイトで賄うことになればかなり厳しいことになるだろう。
自分が生活費などに困ることなく、勉強に打ち込めるこの状態は、凄く幸せなことなのだ。
そんなことを実感する。
「また、何か考え込んでるし」
糸屋くんの声に驚いて顔を上げる。
真っ直ぐにあたしを見ていた。
「そんなとこで考え込まなくたっていーんだよ。考えたって仕方ねぇし」
まるで、あたしの心の内を見透かしたようなことを言う。
まぁ、ほとんど解っていそうだけど。
「しっかりしろよ、先輩」
──その一言が刺さる。
その屈託のない笑顔が刺さる。
そして、あたしは曖昧な笑みを浮かべて。
「……うん。そうだね。しっかりしなくちゃね」
そう、呟く。