*11 忙殺
午前中はずっと保田先生に捕まっていた。
きっと午後からもそうなんだろう。
まとめていたデータをファイルに保存して、デスクを離れる。
軽く肩を回すとゴキゴキと嫌な音がした。
まったく、人使いの荒い。
この春から僕の指導教官が、蓮見准教授から保田助手へと変わった。
元々、どちらかというと僕の研究は保田先生の分野に近かったので、変更自体には異議はなかった。
が、人使いが荒すぎる。
『これからちょっと出なきゃならないから、このデータまとめておいて』
嘘つき。
もう3時間は戻って来ていない。
何がちょっと、だ。
ため息が口をついて出る。
コーヒーを片手に、気分転換に窓から大学構内を見下ろす。
恨めしい程の空の青。
元来、アウトドアなほうではないけれど、こんな日は部屋に篭っていることが馬鹿らしくなる。
……好きで教官室に篭ってるわけじゃないんだけどな。
研究棟の昇降口に見覚えのある黒いスポーツカーが横付けされる。
確か、糸屋くんの車だっただろうか。
「……佐伯?」
昇降口を出て足早に階段を駆け降りて行くのは彼女だろうか。
ベージュのスプリングコートにブルー系のストライプのトートバッグ。
細いヒールのサンダルが危なっかしい。
ほら、また転びそうになった。
相変わらずな彼女に、つい口元が緩む。
──今日は良いドライブ日和になるだろう。
そんなことを思いながら、糸屋くんの車の助手席に乗った彼女を見送る。
「さて、もうちょっと頑張るかな」
デスクの上のパソコンに目を遣る。
せめて、夕食くらいは彼女と一緒にとりたいから。
車は順調に街中を抜け、国道に乗る。
危なげなく運転をこなすのは糸屋くん。
あたしは助手席に座り、後部席では栂谷くんが紙袋を握り締めて座っている。
念のため、なんだそう。
一言断ってウィンドウを全開にする。
結っていない髪をなびかせる風が心地好い。
「佐伯さん」
「うん?」
「すみません。付き合ってもらって」
糸屋くんが言う。
こちらに目もくれずに、真っ直ぐに前方を見たままに。
「い~よ、たまには。することもなかったし」
──市田も忙しそうだし。
後半は口にせずに胸の内に閉まっておく。
このところ、彼は凄く忙しそうだ。
春に教官が変わって、保田先生に気に入られてから凄く忙しそう。
今日だって、ずっと保田先生の所に篭っている。
そのことは市田にとってはプラスになるだろうから。
「……忙しそうですもんね、市田さん」
「……まぁ、仕方ないさぁ」
黙っていた胸の内を指摘されると痛い。
『仕方ない』なんて言い聞かせて、取り繕う。
「仕方ない、かぁ……」
糸屋くんが呟く。
その鋭さがあたしには痛い。
「あ、後ろのノートパソコン借りて良い?」
「どうぞ。電源は繋がってるから」
幾分調子の悪そうな栂谷くんに、シガーソケットにコードが繋がったままのノートパソコンを取ってもらって持ってきたディスクを読み込ませる。
ノートパソコンのデスクトップに新しいフォルダを作って、ディスクの内容をそのままコピーする。
「何、したんすか?」
「あたしの論文。コピーしておいたから参考にでもして? 役に立つかはわからないけど」
ディスクトレイからディスクを取り出す。
「……ありがとうございます。助かります」
以前、前方を見据えたままだった横顔が、ふっと緩んだように見えた。