*10 悩む事悩まない事
大学院生になって、今までとどこが変わったのか、と聞かれることがある。
女だてらに大学院に残ったのだから、何か理由はあるのだろうと。
口さがない人にはそこまで言われることもある。
言われるのは仕方ない、と思う。
女としては何らかの目的がない限り、大学院に進学するのなんてデメリットでしかない。
まず婚期は遅くなる。
ストレートで進学出来たとしても、マスターで24歳、ドクターで27歳。
それでもまだ、就職先がすぐに決まれば良いが、そうでなければオーバードクター。
ますます、婚期は遅くなる。
もっとも、そんなことは関係ない人には関係ないのだけど。
結婚しようと思えば(相手さえいればの話)、学生結婚という手もあるのだから。
全然関係のないことだけど、この春から担当教官が変わった。
あたしは、保田先生から蓮見先生に。
市田は、蓮見先生から保田先生に。
丁度、真逆になった、という感じ。
特にするべきことがなくて、院生室でメールのチェックをしていると、あたしの担当教官である蓮見先生が顔を覗かせた。
「……あぁ、いいところにいた。佐伯くん、今ヒマ?」
「はい~?」
三つ揃いのベストに袖捲りという出で立ちの先生。
長く伸ばした髪を後ろでひとつに括っている。
先生の後ろには、今年ゼミに配属された糸屋 幸一くんと栂谷 美和くん―通称・美和ちゃん―がいる。
「いや、二人がね、O市の網元番屋見学に行くっていうから」
O市の網元番屋。
何年か前に研究論文を書いた記憶がある。
「論文ですか?」
「いや。一緒についていってやってくれないかな」
「へ?」
思ってもみない申し出に目が丸くなる。
そんなあたしの様子を見てか、先生があたしの耳元で囁くように言う。
勿論、糸屋くんと美和ちゃんに聞こえないように配慮してのことだ。
「この二人だと心許ないんだよ。本当なら僕がついて行きたいくらいなんだ」
生憎、手が離せる状況じゃないんだ、と言う。
……確かに。
先生の言い分も解る気がする。
夢中になると前が見えなくなる、ある意味一途な糸屋くんに、そんな糸屋くんに振り回されてばかりの気の強い方ではない美和ちゃん。
こんな凸凹な二人を野放しにするのは気が進まない。
「……りょーかいです」
……考えただけで頭が痛い。
とは言え、一人で大騒ぎする樋田さんに比べたら、この二人なんてまだ可愛いものだけど。
「じゃ、頼むな?」
「はぁい」
あたしの返事に安堵の表情をもらした先生は、そう言い残して1フロア下の教官室へと降りて行った。
先生が降りて行くのを見送った後で、
「……すみません」
「お願いします」
こちらの話の内容は大方想像はついているのだろう。
申し訳なさそうに二人が頭を下げる。
「いいよ、いいよ。暇だったし。正直、持て余してたから。それで? どうやっていく? あたし、車持ってないよ?」
O市まではここから車で1時間半程。
電車だともう少しかかる。
さすがに交通手段がないと厳しい場所だ。
「あ、オレ、車乗って来てるんでその辺りは大丈夫です」
あたしの問に対して、右手を挙げて答える糸屋くん。
「んじゃ、大丈夫だね。支度してくるからちょっと待ってて」
そう言い残して院生室に戻った。
今日は良い天気だ。
きっと良いドライブ日和になるだろう。