第八話 苦渋
アダマスが目覚めたのは、ベッドの上だった。
そこから首だけを動かして辺りを確認するが、少し前まで暮らしていた自分の家でもなく、最近泊まっている宿屋でもないようで、白く簡易な丸い椅子と自分が寝ているベッドしか部屋で、アダマスは知らない天井を無言で見上げる。
起き上がりすらしない。
あの死人と戦ってからの記憶が彼にはなかった。
自分の足で帰ったような気もするが、全ては闇の中だ。
記憶が混乱していた。
自分を失いそうでもあった。
覚えていることとすれば、死人に地面に斃された時の苦い土と苦渋の涙の味。久しく感じていないものだけだ。
「っ!」
そんな時、アダマスは頭が傷んだ。
酷く、傷んだ。
そこへ手を当てると、白い包帯が巻かれてあった。
誰かが巻いてくれたのか、と思うが、これも同様に記憶が無かった。
「――入るぞい」
そんな時だった。
ロサが中に入ってきたのは。
起きているアダマスの瞳と、ロサの瞳が交わった。
「あ、ロサ……」
「目が覚めたのか!」
ロサはアダマスの様子に驚きながらもベッドの近くに用意された椅子に座った。
彼女は普段着なのだろう黒いローブを着ていた。
「……あ、ああ。何とかな」
アダマスはロサが来たことによって、重たい上半身を無理矢理上げた。
その際にもまた頭がずきりと傷んで、口元を醜く歪める。
アダマスは酷い汗を背中にかいた。
「気分はどうなのだ? 治療はしてもらったから大丈夫だと思うが、まだ完璧には治っておらん。安静にするのじゃよ」
ロサはそんな彼を労るような言葉をかけるが、アダマスはそれを振り払うかのように言った。
「で、ここはどこなんだ?」
アダマスは痛みのせいか、息が荒かった。
その様子に思わずロサは手を出しそうになるが、猛禽類のような鋭い瞳に一瞬だけ怯えて、手は元の膝の上へと戻った。
ロサにあった感情は戸惑いだった。
「……記憶がないのか?」
「どういうことだ?」
「お主はのう、自分の足でここまで来て、治療を受けて、そしてベッドで眠っておるのだ。あの時は一言も喋らずに素直に妾についてきたのだが、うむ、どうやらまともに思考すらしていなかったというのか。おそらくはその頭の傷だろうよ。治療の時に見たが、敵のツヴァイヘンダーを防いだ時かのう。おそらくはその時に頭に当たった衝撃で、一時的に記憶が飛んだのか」
ロサは納得するように頷いた。
「これかよ……」
アダマスは片手で今もずきずきと痛む頭頂部を押さえた。
「それに違いないのう。それにしても、記憶まで飛ぶとは……医者はすぐに動けるようになると言っていたが、当分の間は大人しくしといたほうがいいのかもしれんのう」
ロサは顎に手をやって、今後のパーティーに関することを悩んでいるようだった。
「で、そんな御託はいいから、ここはどこなんだ? 俺はどこにいる?」
「治療院じゃよ。お主は知らんと思うが、組合に入ることで冒険者はこのような医療施設を格安で利用できるようになるのじゃ」
「なるほどな……」
アダマスは納得したかのように頷いた。
自分が今いる状況を確認すると、アダマスは迷宮にいた時の最後の記憶が蘇った。
――負けたのだ。
あの死人に。
ロサに大口を叩いてまで勝手に戦って、モンスターなどに負けるはずないと思っていた自分が、呆気無くたった一体の死人の前に平伏せられた。自分の全ての攻撃は防がれて相手の剣を押すことすら出来ずに、また相手の攻撃は一度も完全に防げずに負けたのだ。ロサがいなかったら、自分は今ここに生きていないだろうと思っている。確かにあのモンスターは“はぐれ“という強いモンスターらしいが、そんなのはアダマスには関係がなかった。
負けた、という一点だけが、彼の心を蝕んだ。
自身の持っていた剣が、一つも通じずに負けたということが酷く心に伸し掛かる。
アダマスは、体が震えてきた。
大きく、大きく、震えてきた。
「……大丈夫か? 寒いのか? 妾が担当の者に言って、毛布を一枚もらってきてやろうか?」
優しいロサの言葉が胸に滲みた。
だが、違う。
寒くて震えているのではない。
「ロサ、これはな、あのモンスターを思い出して震えているんだ――」
これは――恐怖だ。
「怖くて、斬られるのが怖くて、這いつくばるのが怖くて、そして何よりも殺されるのが怖くて、ぶるりと震えてやがるんだ。笑っちまうだろう? あれだけ怖いもの知らずで、果敢にも敵に挑めていたというのにさ。少しはあった自信が、粉々に砕けてしまったぜ」
アダマスはゆっくりと語った。
目を大きく見開いて、体の震えを抑えるために両手で肩を抱きしめながら、ゆっくりと語った。
自分へと肉薄する凶刃。表面には見えないが内に秘めた強大な殺気。自分よりか上の腕前と筋力。自分はあの死人の持っていたそれら恐ろしさによって、今頃になって恐怖がぶり返してきたのだ。
それに、安心感もあるだろう。
生きているという心地が、今のアダマスにはとても温かいように感じた。
「……冒険者を続けていれば、そういうことあるじゃろう」
ロサはそんなアダマスを冷たく突き放した。
「だろうな――」
「お主もこれに懲りたのなら、田舎に帰るのも一つの手じゃぞ。冒険者を諦めて故郷に帰って家業を手伝う者も多いと聞くぞい。冒険者ほど大きく稼げる見込みがあるわけではないが、命の危険は少なくともないじゃろうな――」
少なくともロサは、そういう人間をかなり多く見てきたと思う。
アダマスのような者は少なくない。
モンスターは、酷く恐ろしい。
その恐怖をどこで感じるかは人それぞれだが、冒険者になったのなら必ず一度は感じることだ。
もしかしたらそれは殺されるという恐怖かもしれないし、モンスターが別の冒険者を捕食している場面を見た時かもしれないし、またはモンスターの恐ろしい形相に恐怖を感じるのかもしれない。
冒険者として上を目指すなら恐ろしい存在であるモンスターと戦う理由に自分なりの答えを出して、恐怖と向き合って、克服するしかないのだ。それができなければ冒険者を廃業するという手は割りとポピュラーだ。
一攫千金を目指した冒険者の内、少なく見積もっても三割は何らかの原因で半年以内に辞めているとロサは聞いたことがある。それは怪我や病気、または特別な事情でダンジョンのある地から離れなければならない理由は含んでいない。冒険者に嫌気がさした者は、そんなにも多いのだ。期間を一年や三年に増やしたら、冒険者を止めた人数はもっと増えるだろうとロサは考えている。
「田舎に帰りにくいのなら、この町で一から新たな職を見つけるのも一つの手じゃ。妾も“つて”があるから、紹介して欲しければ紹介してやるぞい」
ロサの知り合いにもそういう者は多い。
インフェルノに上京して、冒険者を辞めたのはいいが故郷には仕事がなくて帰れない者もこの町には数多くいる。彼らの一人一人の職までは知らないが、多い例だと冒険者のサポートになる職に就く者が多いようだ。鍛冶屋や薬屋に弟子入りしたり、もしくは組合の職人になったり、医者を志す者もいると聞く。
アダマス一人ぐらいであれば、彼の希望する職に紹介してもいいとさえロサは思っていた。アダマスとパーティーを組んだのは神の決定に従っただけだが、彼が冒険者を辞めるかどうかは彼の自由である。
「……他の道か」
アダマスは悩むように顎を擦った。
他の道など探したことがなかった。
アダマスにとって、迷宮に潜る冒険者になるのは大金を稼ぐことを夢見たわけでも、英雄になることを目指したわけでも、成り上がることを目的にしたわけでも、ましてや誰かの冒険者に憧れたわけでもない。
呪い、だとアダマスは思っている。
ずっと小さい頃から見てきた夢の跡。
あれによって、自分は冒険者になることを義務付けられたのだとも考えられた。
「……ただのう、これは妾の意見じゃが、お主に冒険者は天職だと思っているぞ」
ロサはアダマスにとって、無責任なことを言った。
「何故だ?」
「お主、まだ冒険者を初めてどれぐらい経った?」
「一週間も経ってねえよ」
「じゃろ? 普通の冒険者なら一週間という短い期間では、何も得られないのが普通じゃ。師匠か指導員のような人のもとで、浅い階層の低レベルのモンスターにもたついて、モンスターを倒すごとに一喜一憂するそんな時期じゃ」
「……指導員?」
アダマスの聞いたことのない言葉だった。
「お主が知らぬのも無理はないが、妾達の組合には初心者にダンジョンのイロハを格安で熟練の冒険者に教えてくれるという特権があってのう。大概の冒険者は利用すると聞く。今は新人が入る時期じゃないから、あまり活発ではないが、お主も頼んだら受けられると思うぞい」
「へえ」
「妾が言いたいのはそこではないのじゃよ」
ロサがアダマスの瞳を覗きこんだ。
彼女は前に聞いたアダマスの話を思い出す。
「じゃあ、どこだよ?」
「普通はのう、ダンジョンに潜るということがどういうことかを知らぬ者、例えばお主がそうじゃ」
「俺がどうしたんだよ?」
「そういう者は組合に属さずに迷宮に入ると、冒険に失敗するか、死ぬかの二択しかない。例え実家で戦闘訓練を積んでいてもじゃ。迷宮でしか感じられないことは数多くある。モンスターの適切な対処に、ダンジョンの歩き方に、休憩の仕方など覚えなければいけないことは沢山ある。それを完璧にこなすのは、初心者には絶対に難しい。だから、初心者は冒険に失敗する――」
ロサはこれを断言できた。
冒険者はモンスターを倒して、カルヴァオンをとって稼ぐという単純な職業ではない。
いつもリスクとマージンを頭の片隅に置いて、いつ戦って、いつ逃げるか、命を最も大事なものに置いて、様々な危険を総合して行動しなくてはならない。ベテランでも失敗することがあるのが、この危機管理だ。
「じゃが、お主は初めての冒険に成功を収めた。しかも“はぐれ”と会って。これは普通じゃない」
「かもな――」
「お主、自信を持っていいと思うぞい。お主には間違いなく冒険者の才能がある。今回の死人のはぐれは、こう言っても慰めにもならんかも知れんが、運が悪かった。おそらくはあれに会わなければ、今回の冒険は上手く行った。しかし、お主は逆に運がいいとも言えると妾は思う」
「俺の、運がいい?」
アダマスのロサの言葉が信じられず、思わずそのまま返してしまった。
「そうじゃ。お主は強敵と戦うという経験ができて、命まで拾えた。さらに冒険者に最も重要な“恐怖”を知って、反省できた。これを糧にできる。それもまだ、冒険者になってから早い時期に――」
ロサの言葉にアダマスは少しだけ心を打たれてしまった。
そんな風に考えたことはなかった。
アダマスは恐怖を知った自分を、酷く恥じていたのだ。
もしかしたら自分というものが、アダマスは酷く理想的な存在と思っているのかもしれない。だからモンスターに負けるという自分が想像できなくて、まさか恐怖を抱くなんて考えたこともなかった。
それはおそらく、初めての冒険で“はぐれ”を倒し、自信をつけたことが一番の原因だろうと思う。
「……そうだな。あれは苦い経験と置くのも、一つの手か」
アダマスは納得したように、天井を大きく見上げた。
「冒険者を続けるのじゃろうか?」
「多分な。乗り気じゃないが、他に道がないのも確かだ。次に躓いた時に辞めるのもいいかもしれない、と思っている――」
「それも一つの選択じゃな。そんなお主に一つ聞きたいんじゃが、何故、冒険者を続ける気になった? あさましい欲望があるのか? それとも憧れた人物がいるのか? ん? ん?」
話が一旦終わりを告げると、ロサはニヤニヤしながらアダマスへと尋ねた。
冒険者になった理由は人それぞれだが、男子は何かに憧れを抱いて冒険者になるものが多いとロサは経験則で思っていた。
誰かに聞いたわけでもないが、冒険者は酒が入ると、辛い迷宮内の生活を忘れるかのように夢を語りだす。それは昔の夢かもしれないし、今の夢かもしれない。だが、誰もが理想を抱いていた。目指している高さは人によって違うが、現状に満足している冒険者などロサはあまり見たことがなかった。
冒険者は皆が、命を賭けて挑んでいるのだ。
それに相応しい理想を抱いているのは、当然だといえる。
ロサだって、自分に不相応な理想を抱いている。
「――俺は小さい頃から声が聞こえていた」
だが、ロサに返って来たのは想像すらしていない答えだった。
「声……?」
「あれが神かどうかは分からない。別の存在かもしれないし、もしかしたら気のせいかもしれない。だが、あれは俺を闇へと導くように囁くんだ。迷宮に潜れ、敵を殺せ、と。まるで呪いのように――」




