後編
茂蔵は朝五時前に目が覚めた。
昨夜はなかなか寝つかれなかった。眠った覚えがないけれど、寝てはいたのだろう。とびきりのギャグを考えようと知恵をしぼり、けっきょくは思いつかなかった。
茂蔵は薄暗い室内を見まわした。窓ぎわには花瓶のぼんやりとした影がある。きのう、おせっかい介護士の園子が、またもや活けていったものだ。
『こんどは水をこぼしたり、しないでくださいね』と園子が念を押し、『心配ないですよ。寝るまえにトイレに行かせますから』寛太のやろう、そんなことを抜かしやがった。
はっ、と茂蔵はパジャマのズボンに手をやった。
――大丈夫。濡れていない。
茂蔵はトイレを済まし、六時までぼんやり過ごしてから、大食堂に降りた。
食堂はもとどおり、長テーブルが運び込まれ、後方に並べられていた椅子も戻されていた。天井にかかる折り紙の鎖や窓の飾りはまだそのままで、きょうのうちに片付けるのだろう。茂蔵は、長テーブルの一方のはしに、牧村咲が座っているのに目を止めた。もう一方のはしには、車椅子の入居者が介護士につきそわれて集まっていた。介助の不要な入居者たちも、ちらほらと入ってきている。
茂蔵は、咲のななめ向かいの席に、なにげない態度で座った。咲が気づいたらしく、互いに会釈を交わす。きのうのお笑い芸人だと、わかっているようだ。どうしてコントのとちゅうで退席したんです? 聞こうか聞くまいか、と迷った。
「牧村さん」
声がかかり、茂蔵が振り返ると、寛太が薄い白髪をなでながら入ってくるところだ。
「きのうはどうしました? ぼくらのコントつまらなかったですか」
寛太は屈託なくたずね、咲の真向かいに座った。
「とても面白かったですよ。笑いをこらえるのが大変だったくらい」
咲が、恥じらうように片手を頬にそえる。
「こらえなくてもよかったのに」
「最後まで聞いていたかったんですけど、入居したばかりで、荷物の整理など忙しく、なんだか疲れてしまって。本当にすみませんね」
「わたしはいいんですけどね。相方が気にしてしょうがないんですよ」
「牧村さん」茂蔵は大真面目に口を開いた。「なにか家庭の事情があって、この施設に来られたんじゃないですか」
「えっ」と咲が、驚いたような目を向ける。
「茂さん。やぶからぼうに、どうしたの。ぶしつけじゃないか」
茂蔵は、寛太の制止のそぶりも無視して、
「なにか深刻な悩みがあるんじゃないか」
「茂さん。よしなって」
「かまいませんよ」
咲がふたりのやりとりをさえぎってから、
「息子夫婦がマンションを買いましたの。それまでは同居していたんですけど、ひとりで住むには大きすぎる家なので、これを機会に売って、ここに移ることにしたんです。入居一時金は不動産を売却したことで充分まかなえ、息子のマンションの頭金にもなりました。あとは残りの蓄えと月々の年金でやっていけそうです。それだけなんですよ」
咲が寂しそうに笑った。
「息子夫婦に子供はいないんですか? つまり、あなたのお孫さんです」
茂蔵がたずねたとたん、咲の目が揺れた。そっとテーブルに視線を下げる。
茂蔵は、咲の憂いをふくんだ表情を凝視した。
「茂さん。身上調査はやめなよ」と寛太がたしなめる。
咲が顔を上げた。
「おります。勇介という五歳の男の子で、テレビのヒーローに夢中なんです。きのうのコントを見ていたら、大喜びしたと思いますよ」
茂蔵がさらなる尋問に身を乗り出そうと、
「こら。セクハラは禁止です」ふいに声があがった。
茂蔵が驚いて振り返ると、出入り口に、両手を腰にあてた園子が立っている。
「セクハラだと」
「さっきから様子をうかがっていたんですよ。ご婦人が答えにくいような質問ばかりしていたみたいじゃないですか。セクハラに決まっています」
「なにをバカなことを。おれは……」
茂蔵は椅子を引き、園子に体を向けた。
「セクハラ老人は強制撤去します」と園子が宣言した。
食堂に入って来るなり、園子が茂蔵の上半身に身体をぴったり密着させ、深く腰を落とす。茂蔵はとまどった。園子の両手が脇から腰にまわされ、茂蔵は抵抗する間もなく、ひょいと持ち上げられていた。
「ボディメカニクスです。重心を低くとり、歩幅を広く、相手にできるだけ近づき、コンパクトな動きで垂直に持ち上げます」
園子がそう解説しながら、チークダンスを踊るような恰好で、茂蔵を力まかせに引きずっていく。とちゅうから茂蔵はされるがままになっていた。セクハラと言われたことに対し、腕力と職権をかけた、ギャグを思いついたのだ。
「パワーハラスメント反対」
茂蔵は得意げに声をあげ、ちらりと咲の顔をうかがった。くすりとも笑っていない。
茂蔵と園子のやりとりに、食堂の視線が集まっていたが、誰ひとり笑っていなかった。寛太が、すべったあ、という顔で天をあおいでいる。
茂蔵はおとなしく強制撤去された。
新年を迎え、花園老人ホームは正月気分でいっぱいだった。
門口に松が飾られ、玄関ホールに謹賀新年のポスターが貼られ、天井にはとてつもなく大きな凧が飾られた。園子が弁天様のコスプレで施設内を歩きまわっている。午後からの新年会ではその恰好で司会を務めるに違いない。
茂蔵はひとり、玄関ホールのソファにふんぞり返り、謹賀新年のポスターをにらみつけていた。ザ・ジーサンズは、新年会でもコントを披露することになっていた。しかし茂蔵は、稽古にまったく身が入らない。どれだけ会場の爆笑がとれても、たったひとつの笑顔がとれなければ意味がなかった。
茂蔵は、強制撤去されてからの日々に思いをはせた。
咲さんが笑っているのを一度も見たことがない。いつもなにかに耐えるように、憂いをふくんだ表情をしている。彼女が笑いを失った原因が、なにかあるはずだ。それをとりのぞかないかぎり、根本的な解決にはならない。
「こんなとこにいたのかよ」寛太がホールに入ってきた。「新年会はきょうなんだ。コントのリハーサルぐらい、やっておいたほうがいいって」
ああ、と茂蔵は生返事をした。
玄関のほうから、騒がしい子供の声が聞こえてきた。五歳くらいの男の子が、両親に手をとられ、エントランスに入ってくるところだ。
「ヒーロー戦隊の録画予約しておいた? ぼく、将来あの仲間に入るんだからね」
「ヒーローはおねしょなんかしませんよ」
「やっぱり、おむつをはくんだな」
親子三人は、そんな会話を交わしながらホールを通り抜けていった。
「おねしょだって。茂さんといっしょだ」と寛太がひやかす。
「うるせえっ」
茂蔵はどなりつけながらも、廊下に消える家族の姿を凝視していた。
新年会は午後三時から始まる予定だ。催しには入居者の家族も参加でき、今年はそんな人々も多くなり、施設はいつもよりにぎわっていた。会場はクリスマス会のときと同じ大食堂で、昼食のあと、職員たちが新年会の準備を進めていた。そのあいだ家族たちは、それぞれの居室や談話室などでくつろいでいるようだ。
茂蔵が談話室をのぞくと、ホールで見かけた家族と咲が歓談していた。思ったとおり、彼女の息子夫婦と孫の勇介なのだろう。茂蔵はなにげなく室内に入り、咲たちが見える窓ぎわに腰を下ろした。
「おばあちゃんに会えてよかったね」
母親らしき女性が、息子に話しかけている。
「きょうはここにお泊りするの?」
勇介が両親に訊いた。
「しませんよ。これから面白いショーを見て、そうしたら、バイバイしましょうね」
母親が答えると、勇介の顔がゆがんだ。
「やだい。ぼく、おばあちゃんといっしょにお泊りするんだ」
「おねしょする子は、お泊りできないの」
そう言われ、勇介が唇を噛んだ。
茂蔵は、咲の様子をうかがっていた。さっきまで楽しそうに話していたのに、孫が泊まりたいと言い出したとたん、表情が曇った。言葉少なにうつむき、なんだか寂しそうだ。
そういうことか、と茂蔵は合点した。
咲さんは、本当は孫といっしょに暮らしたいんだ。
だが、家を売ってしまったいま、家族が再びいっしょに暮らすのは難しいだろう。それでも、咲さんの気持ちだけは家族に伝えよう、と茂蔵は決意した。
新年会がはじまり、司会の泉園子が舞台に飛び出した。
「身体は老いても心に花を。新年会のはじまり、はじまり」
茂蔵は、楽屋がわりの厨房で、園子の前口上を聞いていた。司会の言葉にちらほらと笑いがおこり、ザ・ジーサンズが呼ばれた。出番だ。茂蔵は腰を上げた。
「明けましておめでとうございます」
寛太が声をはりあげ、茂蔵はいっしょに舞台に出て行った。
会場には、例年よりもたくさんの人が入っていた。中高年の客が多く、入居者の家族なのだろう。うしろで立ち見している人たちもいた。園子はやはり弁天様のコスプレで、いつもどおり司会を務めている。咲は窓ぎわに孫と並んで座り、そのうしろに息子夫婦が立っていた。勇介がなにやら両親に話しかけている。
「ショートコント。かぐや姫」
寛太の合図で、ふたりは所定の位置についた。
「今宵、かぐやは月の世界に帰らなければなりません。おばあさん。きょうまで、かぐやを育ててくれてありがとうございます」
そう言って、寛太が妙なしなをつくり、客席から失笑がおこる。
「やっぱり、月の分譲マンションがいいんだね」
茂蔵が言ったとたん、寛太の顔つきが変わった。おい、なにを言い出すんだ、とその目がうったえている。茂蔵はかまわず、
「家を売り、マンションの頭金にしました。わたしは老人ホームに移りましょう」
会場は静まり返っていた。コントの続きだと思っている客のほうが多いが、うろたえている寛太の様子から、異変に気づいた客もいるようだ。
「おい、茂さん……」と寛太が小声でたしなめる。
「おばあちゃんは、本当はおまえといっしょに暮らしたいんだよ」
茂蔵は、咲たち家族に向かって訴えた。
咲はとまどいを隠せないようだ。そわそわと膝の上で指を動かしている。勇介がのんきな顔で座るうしろで、息子夫婦は居心地がわるそうだ。
「たまには戻ってきて、お泊りして行ってくださいね」
茂蔵はセリフを続けた。
「茂さん。いいかげんにしろ」
寛太がついに切れた。茂蔵の胸ぐらをつかむ。
「家を売っただ、分譲マンションだ、頭金だって、なんのことだよ。本当はいっしょに暮したいだの、お泊りだの、いったいなんの話だ。コントがめちゃくちゃじゃないか」
「それが、咲さんが笑わなくなった原因なんだ」
咲が、はっと視線を向け、口もとを手でおおった。
「まだそんなこと言ってんのか。咲さんが笑わないのは、あんたのギャグがつまらないからだよ。自分の芸のなさを棚に上げんな」
「なんだと。この、はげちょろけ」
寛太の薄い白髪を透かして、地肌が赤く染まった。
「はげちょろけはないだろ。いい歳して寝しょうべんなんかしやがって。花瓶の水でごまかそうなんて、子供かよ。しょんべん小僧。おむつでもしてろよ」
「言ったな」茂蔵は、恥ずかしさのあまり頭に血が昇った。「黙っている約束だったろ。もうおまえとのコンビは解消だ」
「こっちこそ願い下げだ。しょんべん小僧なんかと、いてて」
茂蔵が寛太の白髪をつかんだ。そのまま取っ組み合いとなり、会場は騒然となった。そんな喧噪をやぶり、笑い声があがった。茂蔵たちの動きが止まる。
客席では、咲がひとりで笑っていた。それは、こらえていたものを、全てはきだすような笑いだった。隣で勇介が、驚いた顔をしている。
「ごめんなさいね。茂蔵さんが、おねしょだなんて……」
咲が笑いをこらえ、目じりの涙をぬぐう。
茂蔵は、寝しょうべんのことを笑われたと知り、かーっと体が熱くなった。
「本当にごめんなさい。わたし、実はおむつをしているんです」
――えっ。茂蔵はあんぐり口を開けた。
「わたし、尿もれに悩んでいて、おむつをするようになったんです。以前、家族で暮らしていたとき、それを勇介に見られてしまいました。息子が、おばあちゃんだってはいているんだから、おまえも恥ずかしがらずはきなさい、なんて叱るもんだから、わたしもう恥ずかしくて恥ずかしくて、はくのをやめたんです」
茂蔵は拍子抜けした。自分の想像と大違いだ。
「きょう談話室で、勇介のおねしょが話題になり、おむつのことを思い出して、また決まりが悪くなってしまいました。あのとき茂蔵さんもいらしたでしょう」
「じゃあ、クリスマス会のとき、コントのとちゅうで出て行ったのは?」
茂蔵は一番気になっていたことをたずねた。
「違うんですよ。なにかのはずみで、その……もれてしまうことがあって、クリスマス会のときは笑いをこらえるのが大変でした。あのときはおむつをしていなかったんです。いったん居室に戻り、小用をたしたんですが、おむつをはいて戻るのもおっくうで、だから決してコントがつまらなかったわけじゃないんですよ」
そういうことだったのか。
「それで茂蔵さんのおねしょ……ごめんなさい、そのお話を聞いて、つい」
咲がまた身をよじって笑いをこらえる。
「いいかげん髪から手を離してくれよ。髪はおれの命なんだ」
寛太が涙目で訴える。茂蔵は、寛太の白髪をつかんだまま硬直していた。あわてて手を引き離したとたん、寛太の悲鳴があがる。
茂蔵の手に、十数本の白髪がある。
「――二十年ぶん、抜けた」
「うへっ。おれ、もう死んでるって」
司会の弁天様がふきだした。笑いが伝染し、会場は和やかな笑いに包まれた。咲も、涙を流して笑っている。茂蔵の胸に暖かいものが広がっていった。
「コンビ、解消しないでくださいね」
咲が涙をぬぐって立ち上がり、近づいてきた。
「茂蔵さんのおかげで、自分の悩みを笑いとばせるようになりました。これからも寛太さんといっしょに、お笑いを続けてくださいね。お願いします」
茂蔵は力強くうなずいた。
続けるとも。咲さん。あなたの笑顔があるかぎり。
了




