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前篇

 村田茂蔵は下半身の冷えに気づいて、がばりと飛び起きた。パジャマのズボンが湿っている。愕然となった。おねしょなど実に七十年ぶりだ。

 一生の不覚。やはり、寝るまえにトイレに行くべきだった。

 きのうは遅くまで、施設のクリスマス会で演じるコントのネタ合わせを、相方の寛太とやっていた。茂蔵は妻亡きあと、ここ花園老人ホームに入居してきた。そして寛太と出会い、双方がかつてお笑い芸人を目指していたと知り、意気投合してコンビを組んだ。コンビ名は『ザ・ジーサンズ』。施設の催しではいつもコントを披露していた。

 昨夜はなかなかネタがまとまらず、十時の消灯まで知恵をしぼり、ずいぶんお茶を飲んだ。疲れ果ててそのまま寝てしまったのだ。

 茂蔵はベッドに上半身を起こしまま、後悔の念にたえなかった。

 ふと、窓際に置いてある花瓶に目が止まった。

 先週、おせっかいな介護士の女が、花を活けていったものだ。「身体は枯れても、心に花を」などと、くだらないことをぬかしていたが――。

 これは使える。花瓶の水がこぼれたことにしよう。

 茂蔵は床に降り、窓際に向かった。花瓶をとってベッドに戻ったとたん、スライドドアが開けられた。

「いいネタ思いついたよ」

 相方の寛太が、いつものにやけた顔をのぞかせた。

 茂蔵は、両手で花瓶を構えたまま硬直した。

「花なんか、どうしたの」

 寛太が愛敬のある目を向けてたずねる。

「花瓶が落ちた」

「落ちてないじゃない」

 寛太の指摘にうろたえ、茂蔵の指から花瓶がすべり落ちる。フローリングの床に当たって、花が飛び出し、水があふれて広がった。

 茂蔵は固まったまま、「いま落ちた」とごまかす。

「なに寝ぼけたこと言ってんの」

 寛太は濡れた床をよけて入ってくると、茂蔵が止めるまもなくベッドに腰かける。

「新ネタなんだけど……ひゃっ」

 すっ頓狂な声をあげて立ち上がった。

「なんだよ、これ。濡れてるじゃない」

 寛太の視線が、びしょ濡れの床に立つ茂蔵と、湿ったシーツを往復する。

「――あっ。やった」

 寛太は思い当たり、顔をにやつかせ、指をつきつけた。

「うるせえっ」

 茂蔵が詰め寄る。寛太の胸ぐらをつかみ、勢いでふたりともベッドに倒れこんだ。

「おはようございます」

 ドアが開き、二十代半ばの介護士の泉園子が入ってきた。

 髪を男みたいに短く切り、ピンクの制服に黄色いエプロンをつけている。ベッドのそばに花瓶が倒れているのに気づき、くりっとした目を見開いた。

「ふたりで喧嘩なんかして」

 園子が、乱暴な足取りで床を進んでくる。

「せっかく活けた花が台無しじゃない。身体は枯れても心に花を持ってください。そうすれば喧嘩なんてしないはずですよ。ほんと年甲斐もなく」

「こいつなんか、年甲斐もなく、おね……あいたっ」

 茂蔵が、寛太の頭をはたいた。

「なんですか」園子が振り向く。

「へへ。年甲斐もなく、おねえちゃんに夢中なんです」

 寛太が、地肌が透けるほど薄い白髪をなでる。

「またネタの話ですか。こんどはキャバクラのコントじゃないでしょうね。いいからどいてください。寝具を取り替えますから」

 園子が、茂蔵たちのあいだにかがみ、

「シーツまで濡れてるじゃないですか。ベッドのそばで取っ組み合いなんかするから、水がかかったんですよ。ほんと子供みたいなんだから」

 両手でベッドの上をばんばんと叩き、茂蔵たちを追い払った。てきぱきとシーツをはぐと、手際よく折りたたみ、それを持って出入り口に向かう。

「身体は枯れても心に花を。いいですね」

 そう念を押して、園子は出て行った。

「勝手に解釈してくれたみたいで、よかったじゃない」

 寛太がにやけて言う。

「うるせえっ。それより新ネタができたんじゃないのか」

「こっちのほうがおもしれえ。いっそネタに……」

「いいか」茂蔵が、寛太の胸倉をつかんだ。「このことをばらしたら、おれたちのコンビはおしまいだからな。それを忘れるんじゃないぞ」

「わかったよ。おいしいのにな」

「おいしいもんか。着替えたらネタ合わせだ。クリスマス会まであと一週間だぞ」

 茂蔵は顔をそむけ、濡れたズボンを脱ぎはじめた。

「園子ちゃんに、また花を活けてもらったほうがいいんじゃない。明日もベッドにこぼす必要があるかも」

 寛太が軽口を叩く。

 茂蔵の着替えの手が止まった。じろりと見て、

「さっさとホールに行って、待ってろ」

 寛太が、へへ、と笑い、額をぴしゃりと叩いて出て行った。

 十二月二十四日はホワイトクリスマスになった。雪は昼ごろからちらつきだし、クリスマス会のはじまる午後七時にはやんで、うすく積もった。

 会場は大食堂にもうけられた。テーブルが片付けられ、厨房に近い側が舞台、反対側に観客の椅子が並べられている。あいだのスペースは車椅子用に空けてあった。

 茂蔵は、楽屋替わりの厨房で座り、出番を待っていた。釣竿を持ち、膝に重箱をのせている。その隣に、カメのお面を頭につけた寛太が座っている。そこから舞台の一部が見える。泉園子がサンタクロースに扮し、司会をしていた。

「身体は枯れても心に花をもちましょう」

 まだ言ってやがる――。

 茂蔵は苦虫を噛みつぶした。

「心に花を咲かせるにはうるおいが必要です。そのために、今晩はたくさんの楽しい催しを用意しました。あれ、拍手がないですね。生きてます?」

 会場から、ちらほらと笑いが起こる。

 縁起でもねえこと言いやがって――。

 茂蔵の額で血管がぴくつく。

「ここで新しい入居者をご紹介しましょう。牧村咲さんです」

 おや、と茂蔵は興味をもった。

 椅子をずらし、会場がよく見える位置まで移動する。

 前方に車椅子の入居者が並び、そのうしろに歩行介助を必要としない入居者が座っている。窓ぎわで、牧村咲と紹介された婦人が、緊張の面持ちで立ち上がった。

 白髪をきれいに結い上げ、端正な顔立ちの、上品そうな老婦人だ。よそゆきの黒い着物を着ている。とつぜん園子にあいさつを求められ、困ったような顔をしている。

 くそっ、おせっかい女め――。

 茂蔵は苛ついた。

「みなさん仲良くしてあげてくださいね。それではクリスマス会のはじまりはじまり」

 園子が人一倍大きく拍手し、会場から、ちらほらと拍手があがった。

「おい、出番だぞ」寛太が肩を叩いた。

「まずは、わが花園老人ホームの若きホープ。お笑い芸人のザ・ジーサンズ。若手といっても、老人ですけど。なんちゃって」

 園子がそんな紹介をする。

「茂さん、顔が怖い。笑って笑って」

 寛太が肩をこづく。険しい表情をしていたようだ。

「わかっている」

 茂蔵は釣竿と重箱を持って立ち上がり、舞台に出て行った。

 ザ・ジーサンズが登場すると、まばらな拍手があがった。車椅子の入居者の後方に、牧村咲の顔がのぞく。薄い唇を噛みしめ、表情が冴えなかった。

「ショートコント。うらしまたろう」

 寛太が言い、その場にうずくまって泣きだした。

「あーん。助けて。村の若者たちにいじめられているよう」

「待ていっ。カメに乱暴するんじゃない」

 茂蔵は威勢よく止めに入った。

「あっ。たくましいお兄さん。早く、ぼくを助けて」

「まかせておけ」

 茂蔵は釣竿と重箱を床に置き、ボディビルのポーズをとりはじめる。その姿に、会場から失笑がおこる。

 天井のスピーカーが入り、

「おまえは誰だ。たてつくとたたじゃおかないぞ」

 この声は、職員のひとりに頼んでおいたものだ。

「おれは、うらしまたろうだ。いたいけな亀をいじめるやつは、おれが許さない」

 茂蔵は、無理やり背筋を伸ばして相方に迫ろうとする。

「こら、近づくな」スピーカーの声がおよび腰になる。「それ以上、一歩でも近づいたら、このカメを踏みつぶすぞ」

「あーん。ぼく、踏みつぶされたくないよう」

 寛太の声が高まった。

「ひきょうなやつめ。超人ウラシマンに変身して、こてんぱんにしてやる」

 茂蔵は足もとの重箱を取り上げた。不敵な表情で客席を見渡し、おもむろに重箱のふたを開ける。

「へんしん。とうっ」

 ぼんっ、と効果音が響き、厨房のほうから白煙がふきだす。

「よぼよぼよぼよぼ」

 茂蔵は急速に腰をかがめ、釣竿を拾って、杖をつくまねをした。

「あっ。弱くなってるって」寛太の突っ込みが入る。

「げほっ。げほっ。超人ウラシマン」

「それじゃあ老人だって」

 コントをしながら、茂蔵は客席が気になっていた。職員のわざとらしい笑い声にまざって、ちらほらと笑いが起きている。咲はコントが始まってから一度も笑っていなかった。憂いをおびた表情で下を向いている。

「なんでもいいから助けてー」

 寛太にこづかれ、茂蔵はわれに返った。演技を続け、思い切り腰を伸ばすが、

「あいたたたっ。持病のリューマチが……」

「早く、助けて」寛太がすがるような目を向ける。

 いつもはにやついた目が、ちゃんとやってくれよ、と訴えかけているようだ。

「わしは帰る」茂蔵は、どうにかコントを続けた。

「なんで? なんで帰るの?」

 寛太の突っ込みが、茂蔵の耳を通り過ぎる。

 咲が立ち上がった。まわりの人に頭を下げ、会場を出て行こうとしている。まだ最初の演目が始まったばかりだというのに。いったい、どうした、なにがあったというのだ。茂蔵は演技に身が入らなくなった。

 そんな動揺をよそに、咲は後方のドアから出て行った。

 コントが終わり、会場から拍手があがった。大げさな笑い声をあげ、園子が舞台に出て来る。なにやらしゃべっていたが、茂蔵の頭には入ってこなかった。

 そのあとマジック、ダンスと続いたが、咲が会場に戻ることはついになかった。茂蔵の動揺は広がり、胸をきりきりと圧迫した。

 クリスマス会が終わり、茂蔵の居室で反省会が行なわれた。

「上々のできだったんじゃない。そこそこ笑いはとれたし」

 寛太が椅子にくつろぎ、つるりと額をなでた。

「笑わない客がひとりいた」

 茂蔵は不満足だ。テーブルを挟んで、両手をひざにつき、身をかがめている。

「ひとりしか笑わなかったんじゃないだろ。上できだよ」

「新しく入居した牧村咲という婦人だ。コントの最初から最後まで、くすりとも笑わなかった。オチの前に会場を出て、それっきり戻ってこなかった」

「そういうこともあるさ」

 寛太は屈託なく、薄い白髪を両手で丁寧になでつけている。

 茂蔵は、咲の様子を思い浮かべ、考え込んだ。

 あの憂いをふくんだ瞳。かたく閉じられた唇。なにかあるはずだ。この施設に来るにあたって、きっとなにかあったに違いない。咲さんの笑いを奪ってしまうような、なにかが――。

 咲さん。おれはあんたの笑顔を取り戻して見せる。

 茂蔵は決意した。



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