side Daichi - 36
永野の表情を見ながら、オレはどうするべきか考えた。
正直に言って、永野と翔が2人で一緒にいるのを見たくねぇ。それに、そんな状態でオレは翔と何を話すっつんーんだ?
――バカバカしい。帰るか。
オレは立ち上がった。絨毯の床に椅子が上手く滑らなくて、ガタガタと曇った音がする。永野が顔を上げた。
「オレ、帰るわ」
「えっ、なんで……」
永野に告げると、永野は驚いたようにそう言った。何で驚くかな?
「アイツ、来るんだろ?」
オレは永野が胸元で握りしめる携帯電話を見た。届いたメールが翔からじゃなければいいと内心思っていたオレの願望は、永野の頬が薄く染まったことであっけなく砕かれた。
やっぱり、翔からのメールか。
「じゃあな、アイツによろしく」
オレはそう言って永野に背を向けようとした。
「待ってよ」
急に後ろから腕を引っ張られた。驚いて振り返ると、永野が椅子から身を乗り出すようにしてオレの腕を掴んでいる。永野の表情は、少し怒っているようにも見えた。
怒りたいのはこっちだっつーの。人のこと呼び出しといて何考えてんだよ、翔は。
でも、永野が悪いわけじゃねぇんだよな。オレはため息をついて、永野に言った。
「お前なぁ……アイツが来るんだろ? オレがいちゃまずいだろーが」
そうだよ、オレなんかいない方がいいだろ。せっかく、こんなレストランで食事するっつーのに。
永野が俯き、ぽつりと言った。
「来ない」
「はぁ?」
「来ないよ。今、そうメールがあったから」
翔のヤツ、ホント何考えてんだ? オレと永野を2人っきりにしといて、本人が来ねぇなんて。
「……全然意味わかんねーんだけど」
「とにかく、座ってよ。話くらい聞いて」
永野が真っ直ぐにオレを見上げて来た。その強い瞳にオレの身体が金縛りにあったみたいに動かなくなる。こんなときなのに、すごく、綺麗だと思った。
どれくらいそうしていたのか、オレははっとする。そして、誤魔化すようにため息をついた。
「わーったよ。手ぇ放せ。座れねー」
永野の手がゆっくりと離れる。
一瞬このまま帰ろうかという考えが頭を過ぎって――やっぱりやめた。諦めて席に座り直す。
「何か問題がございましたか?」
低い落ち着いた声が聞こえて来たのはその直後だった。驚いて心臓が大きく脈打った。
声のした方を見ると、オレをこの席に案内した店員が、にこやかにテーブルの脇に立っていた。
っていつの間に? 誰かいるような気配なんて全然なかったんだけど。
「あ、いえ……」
オレが曖昧に答えると、店員は軽く頷いた。そのとき初めて、店員の左手にトレイが乗っていることに気づく。店員はそのトレイに乗っていたグラスをオレと永野の前に1つずつ置いた。
「本日は、浅倉大地様、永野香蓮様の2名様でご予約を承っております」
は? 今、オレと永野の名前で予約されてるっつったか? 翔は?
オレの疑問なんて全くの余所に、店員は続けた。
「当レストランへおいでくださいましてありがとうございます。
今お持ちしましたのは、食前酒でございます。旬のサクランボを使ったノンアルコールのカクテルとなっております。お食事は頃合いを見てお持ちいたしますので、もうしばらくお待ちくださいませ」
そう一気に言い切ると、店員は礼をして下がって行く。オレはワケがわからないまま取り残された。
オレ、今日、翔に呼ばれて来たんだよな? 永野のことで話があるって言われたよな? なのに、翔じゃなくて永野がいたんだよな?
――全然、ワケわかんねーんだけど。
永野を見ると、別段驚いた風でもない。オレが来たときの方が驚いた表情してたし。
「今、あの店員、オレとお前との名前で予約が入ってるって言ったか?」
オレは永野に聞いてみた。永野がこくんと頷く。
だよな。やっぱりそう言ったよな、あの店員。ってことは……
「……翔、は?」
オレの質問に、永野は呆れたように言った。
「だから、来ないって言ってるじゃない。私の話聞いてた?」
「そうじゃねーよ。オレ、翔に呼ばれて来たんだけど」
「うん、知ってる」
「は?」
「さっき届いたメールに、そう書いてあった」
ちょっと待て、翔! お前、メールで永野に何言った? 内心すげー焦る。永野の表情は少し固い。変なことを吹き込まれてないことを祈りつつ、オレは相槌を打ってグラスを手に取った。仄かなピンクに色づく液体は、軽く細かい泡が後から後から湧き出ている。一口飲んでみた。
「美味い」
思わず声が出た。よく冷えていて、甘くもなく、酸っぱくもなく、スッキリとした味。
その声は永野にも聞こえたらしく、永野もグラスに口を付けた。その途端、永野の表情が少し和らいだように感じた。そしてグラスを置くと、背筋を伸ばして顔を上げる。当然、オレと目が合った。
「翔はね、多分、私のことを心配してくれたの」
永野が話し始める。
話を聞いてくれと言った永野が、何を言い出すのか予想すらできなかったが、オレは黙って聞かなきゃいけないような気がした。自分のグラスに視線を落とすと、その中のサクランボが炭酸の泡に押されて少しだけ動いた。
永野が続ける。
「翔って釣り目だし、初めて会った人には、怖いとか気難しそうとか思われることが多いらしいんだけどね。でも、実際はすごく優しいんだ。私の話も嫌がらずに聞いてくれるし、相談にも乗ってくれる。私よりも、私のことをよくわかってくれてるのかもって思うこともあるくらいだし」
惚気か? 好きな女からその彼氏の良さを語られるとか、すげぇ、キツイ。
「子供の頃は弱虫でよく泣いてて、私の方が強かったくらいなんだけど。いつの間にか、一人前の男になってたんだよね」
なんだよ、幼馴染かよ。つまり、オレの入る隙なんてねぇわけだな。
――そんな話なら、もうそろそろやめてくんねぇかな。心臓が痛ぇ。
オレはグラスをテーブルに置いた。
「ふぅん。仲、いいんだな」
「そうね。他の人たちと比べたことないけど、多分、普通よりも仲いいんじゃないかな」
「そっか」
やっぱりさっき、帰っときゃよかった。
グラスの外側に付いていた水滴が一滴、その曲線にそってテーブルクロスまで流れ落ちた。
「――今のが、さっき聞いて欲しいって言ってた話か?」
オレは聞いてみた。永野が首を横に振る。
なんだ、違うのかよ。これ以上、オレは何を聞かされりゃいいんだ? マジ、帰りてぇ。
ってか、翔はなんで来ねぇんだよ?
「翔は今、家にいるのか?」
オレが質問を重ねると、目の隅に、永野が唇に指を当てる仕草をしたのが映った。考えてるらしい。
「んー……多分、いないんじゃないかな。女の子といるはずだし」
は?
「ちょっと待て。お前それでいいのかよ?」
思わず顔を上げて永野に噛み付いた。永野が驚いたように目を開く。
「何が?」
「今、翔が、女と一緒にいるって……」
オレが繰り返すと、永野が苦笑した。
「オンナって彼女さんよ? 他の子だったら私も怒るけど」
は? 彼女ってお前のことだろ? 疑問符だらけのオレのことなんぞ構わず、永野が続けた。
「誕生日だもの、やっぱり私とよりも彼女と一緒に過ごしたいわよね。翔が私のことをよく知ってるように、私も翔のことわかるの。翔とはずっと一緒に過ごして来たもの。今日で、27年……あ、もっと前か。生まれる前から一緒にいるから」
永野の言葉を聞きながら、オレはテーブルに肘を付き頭を抱えた。




