side Daichi - 32
「おはようございます」
マーケティング企画部のフロアに入ろうとしたとき、ちょうど給湯室の方から歩いてきた白井がオレに挨拶してきた。コーヒーの入ったマグカップを持っている。
「おう、おはよ」
オレは笑顔でそれに答えた。
いつも通りの朝。
いつも通りの職場。
ブラインドの向こうから漏れる初夏の日差しが嫌に爽やかだ。
オレは席に着くとパソコンの電源を入れた。起動するまでしばらく時間がかかる。椅子の背もたれに身体を預けて待っていると、いつもの声が聞こえてきた。
「おはよー」
永野だ。フロア全体とすれ違う人に挨拶しながらオレの隣の席に座る。
これも、いつも通りの光景。
永野はパソコンの電源を入れながらオレの方を向き、おはようと言った後に続けた。
「浅倉、大丈夫? 眠そうだけど」
誰のせいだ。
「あぁ。昨日遅くまで起きちまったからな」
っつーか、あんまり寝てねーんだけど。
やっぱり気持ちを断ち切るってのは、並大抵のことじゃねぇんだなー。5年も想い続けたってのもあるしなー。男って女と違って気持ちを引き摺るって言うしなー……。
でも、そんなオレの気持ちなんか知りもしねー永野は、オレの方に勘違いしちまいそうな微笑みを向けてきた。
「あぁ、そうだ。土曜日は、ありがと」
「ん? あぁ。大丈夫だったか?」
オレが送って行ったことで、翔と永野が揉めてねぇといいんだけど。いや、揉めててくれてもいいっちゃいいんだが……。
ってオレは何を考えてんだ。はぁ、オレ、性格悪い。
「うん」
「そうか、よかった」
オレは微笑んだ。
「本当にありがと。それと――」永野が少しだけ間を開けた。「ごめんね」
その言葉が、なんか、すっげー重かった。
「いや、別に。なんてことねぇよ」
オレはそう答えてパソコンに向かった。
ごめんね、か。決定打だな。
なんか、オレの気持ちに応えてあげられなくてごめんね、って言われたような気がした。
ま、わかってたけどな。
翔を見たとき、永野と翔の間に、目には見えない強い絆を感じたし。
それに、今はそれよりもやらなきゃならねーことがある。
オレはパソコンに保存していた仕事の書類ファイルを開き、編集し始めた。
「浅倉、ちょっといいか?」
「あ、はい」
11時を過ぎた頃、鈴木さんに呼ばれてオレはその席に向かった。
鈴木さんは、結婚式を挙げたばかりだというのに、今日も変わらず出社している。
この前重役プレゼンを終えた新製品が軌道に乗るまでは、新婚旅行もオアズケなんだそうだ。その代わり、既に特別休暇を夏休みとくっつける予定でいることを公言している。その約2週間の休暇で、イタリア縦断の新婚旅行をするんだそうだ。
「今度のプレスリリースの件で進捗確認させてくれ」
鈴木さんはそう言いながらチェックシートを机の上に広げる。そこには、プレスリリースまでにやらなければいけないこと、用意しておくもの、それぞれの締め切りと担当者が書き込まれている。そして鈴木さんならではのメモがびっしりと書き込まれていた。
相変わらず、すげぇよなぁ。
新製品の重役プレゼンが終わってから約10日。あれからすぐ正式に書類での承認が下りて、それからは本当にあっという間に日が過ぎた。気がつけば、もうプレスリリースが目前に迫ってる。
その間にオレの仕事は少し変わってきていて、今は、永野から受けるOJTの量よりも、鈴木さんの新製品展開業務のサポートの量の方が多くなっている。鈴木さん一人で処理できる業務量を超えてるらしい。
サポート業務を始めてそれも頷けた。永野も永野だけど、鈴木さんも鈴木さんだ。今までどうやってこの業務量をこなしてたんだか。本当に頭が下がる。オレのサポートしてる分と同じくらいの業務量が、未だ鈴木さん分として残ってるあたりが特に。
鈴木さんにはそれ以外にもやらなきゃいけない仕事がたくさんあるってのに。
オレが処理してるのは、プレスリリースの会場手配やメディアに配布する資料、大型スクリーンに映すプレゼンテーション資料の作成、販促物の手配……。まったく、目の回りそうな忙しさだ。
まぁ、新製品が軌道に乗るまでだろうけど、今のオレにはちょうどいいかもしんねぇな。
鈴木さんのサポートやってる間は、永野と一緒に仕事しなくていいってコトだしな。
「浅倉、配布する資料はできてるか?」
「今日中にデータを完成させます。その後、鈴木さんにチェックをお願いしてもいいっすか?」
「わかった。販促物は?」
「先週の内に倉庫から出してもらえるように万里さんにお願いして手配してもらってます。早ければ今日中にでも届くはずです」
「そうか。あとは……」
二人で一通り執行状況と残業無を確認する。それだけでゆうに30分はかかった。
「十分間に合いそうだな。残りも頼むな」
鈴木さんはそう言って、書類をまとめると部長の席の方へ報告しに向かった。
オレも、自分の仕事に戻ことにする。今のペースなら時間的に間に合うはずだけど、予定は未定、これから何が起こるかわからない。
自分の席の、すっかり待機モードになっていたパソコンを再度起動させながら、オレは椅子に座った。
なんかいろいろあり過ぎて、すっかり忘れてたけど。
思えば、永野にプレゼン用の資料を作れって言われてから、未だ1ヶ月しか経ってねーんだよな。その割には、よくやってるよなー、オレ。
こんなにガンバってるんだからさ、神様だって、もうちょっと気を使ってくれてもいいんじゃねぇの?
そんなことを思っている内に、パソコンが待機モードから復旧する。オレはやりかけだった書類作成の続きを始めた。
それからしばらくして、昼休みの開始を告げるチャイムが鳴った。
隣で永野が椅子から立ち上がった。
「浅倉、お昼行かない?」
「ん? あぁ……悪ぃ。ちょっと無理だ」
「私、手伝おうか?」
「いや、いい」
「そう……」
永野の表情が曇った。
だから、そういう顔すんなっつーの。気持ちが掻き乱される。決心が鈍る。
今だって、ちょっと会話するのにも普通を装うのが大変なんだぞ。
「ほら、早く行かねぇと食券売り切れるんじゃねぇの?」
オレが苦笑交じりで言うと、永野は申し訳なさそうにオレの方を気遣いながらフロアを後にした。
永野がフロアから出て行ったのを確認してから、オレはそっと溜息をついた。
同期で仲良くランチか。やっぱり、そんな気分になれねぇよな。
オレたち同期は仲がいい。仲がいいだけに、余計な感情は持ち込めねーんだ。
「そんくらいわかれよ、鈍感」
オレは口の中で呟いた。




