side Daichi - 31
突如、ケータイが盛大な音を出した。マナーモードにして床に放ってあったせいで、バイブレータの震動が部屋中に響く。
遮光カーテンの向こうからは既に太陽の光が射している。つまりオレは、スーツを脱ぐことすらせず一晩中ボーっとしていたわけだ。
ケータイが鳴り続ける。
うるさい。
オレは電源を切ろうとケータイを手に取り、ディスプレイに表示された名前を見る。
『正紀』
そうだ、あれから無事永野を送り届けたっつー連絡すらしてねぇもんな。悪ぃことしたな。
誰とも話す気にはなれなかったが、オレは義務感だけで通話ボタンを押した。
「もしもし? 浅倉? 今、大丈夫?」
「おぉ。悪ぃな、連絡しそびれちまった」
できるだけ、普段通りを装う。
「永野さんは?」
「あぁ、ちゃんと家に送った」
「そうか、よかった。武田さんと心配してたんだ。――浅倉、今どこ?」
「ん? 家だけど?」
なんでそんなこと聞くんだ?
「自分の?」
「ああ」
「そう」
正紀はここでちょっと間を開けた。
「昨日のことだけど……2人が白状したよ。田中さん、浅倉と仲がいい永野さんのことが妬ましかったんだって。永野さんが他の男の人と浅倉の目の前でくっつけば自分に振り向いてくれるかもしれないって考えたんだろうね。それで、あの男の人に頼んだらしい。もともとあの男の人は、田中さんに言い寄ってたんだ」
「……」
「――ねぇ、浅倉、聞いてる?」
「あぁ、聞いてるよ」
もぉ、そんなこと、どーでもいいけどな。どーでもいいけど、永野を傷つけたのは許せそうにねぇよ。
「一応、念書書かせたよ。今回のことを口外しないこと。二度と永野さんに近付かないことって」
「そっか、さんきゅ」
さすが正紀だ。気が利く。念書を書かせておけば、少なくともあの2人が今後永野に近づくことはない。見てたのはオレたちだけだから、話題に出さなければ永野もいずれ忘れられるだろう。アイツが――翔が傍にいれば、永野の傷もじきに癒えるはずだ。
「それでね、あれから武田さんと話していたんだけど、ずいぶん前に蛍を見に行こうって話あっただろ? ちょっと蛍には遅くなっちゃったから、僕たち4人で山にでも行かない?」
「あぁ、いいね」
正紀はその後も話を続ける。適当に空返事してるオレ。その自覚は十分にある。
でも、全然話が頭に入ってこねーんだ。その癖、妙に意識がハッキリしてる。なんだか、自分そのものがいる世界と、目の前に広がる世界が遊離してる感覚。『虚ろ』って、こんな気分のことを言うのかもな。
「浅倉? どうしたの? なんかおかしいよ?」
――だよな。オレもそう思う。
でも、そう言う正紀の口調はいつもと変わらない。こんないい加減な会話しかできないオレに対して、怒るわけでもなく、窘めるわけでもなく。ただ、気遣ってくれてるのを感じる。
正紀はいつもみんなに対して気遣う。余裕のある顔で。そうだ、あのときだって――
「正紀、質問していいか?」
オレは正紀に問いかけた。
「いいよ、もちろん。急にどうしたの?」
「正直に答えてくれるか?」
「あぁ」
「こないだオレと、渋谷に行ったよな?」
「うん、そうだったね」
「専門書が欲しいって本屋に行く途中、お前、突然交差点のところでCD欲しいって言いだしただろ?」
「――うん」
「あの直前、お前、何見た?」
「浅倉、」
「何見た?」
「僕は、」
「――永野、か?」
「……」
「やっぱりな」
「そっか。浅倉も、見たんだ」
「あぁ、一瞬、誰なのかわからなかったけどな」
「そうだね。僕も驚いた。じゃあ、僕がCD欲しいって言った理由も……」
「わかってる。永野が他の男と一緒にいるのをオレに見せないように、正反対の方向に行こうとしたんだろ?」
「……ごめん。怒ってる?」
やっぱりか。正紀のヤツ、変な気をまわしやがって。
「いや。正紀なりの気遣いだろ?」
正紀がこういう行動で気を使うのは昔からだから、よく知ってる。それがあまりに自然すぎて、気を使われてることに気づけないヤツもいるくらいだ。オレだって、あのとき永野を見なかったら今も絶対に気づいてなかったはずだ。
「……ごめん。でも、どうして急に?」
「あのとき、永野と一緒にいた男、覚えてるか?」
「おぼろげに、だけどね」
「永野さ」
オレは一瞬怯んだ。口に出したら、自分の中で認めることになっちまうから。
でも、オレは先を続けようと口を開いた。覚悟を決めるために。
永野の幸せを願う覚悟。
「あいつと同棲してた」
正紀は何も言わない。聞き返しもしなかった。
重い沈黙。
「――それ、本当?」
ようやく、正紀がそれを破った。
「あぁ。永野の家にいたんだ。すげぇリラックスした格好だったし、永野のことも『香蓮』って呼んでたしな」
翔の顔がオレの頭をチラつく。オレから永野を抱き上げた翔の表情は、永野のことをとても大切に想っている男のものだった。
「それも、一緒に住み始めてもう結構長い感じだったしな。永野に浮いた噂が一切なかったのも当然ってわけだ。とっくに、決めた男がいたんだからな」
とんだ笑い話だ。自分が滑稽にさえ思えてくる。
「浅倉……」
再び、重い沈黙。
正紀も何も言えねーんだろうな。
今度はオレがその沈黙を破った。
「正紀、オレ、明日からしばらく昼休みに食堂行くのやめるわ。テニス・サークルも行かねぇ」
仕事で顔を合わせるのは仕方ねぇけど、それ以外の時間は、永野と離れていたい。
今は、時間が欲しい。
オレの気持ちが消えるまで。そうかせめて、オレが自分の気持ちをコントロールできるようになる日まで。
ちょうどいいことに、これからしばらく新製品の出荷の関連で忙しいはずだ。昼休みに食堂に行かない口実ができる。テニスの方も、平日に忙しいから休日に休みたいって言えば咎める人はいないはずだ。
「浅倉は、それでいいの?」
「――わりぃ正紀、もう切るわ」
「ちょっ、待てよ、浅倉! 浅く」
オレは通話終了のボタンを押し、それからすぐにケータイの電源を切った。
薄暗い部屋でオレは天井を仰いだ。右手を大きく開いて左右のこめかみを抑える。
いいわけねーだろ? 気持ちを伝えてすらいねーのに。でも、仕方ねーじゃん。永野が今幸せなんだったら、オレがわざわざそれを壊す必要もない。
でも、できることなら、オレの手で幸せにしてやりたかったけどな。
はぁ、オレ、失恋したってのに涙も出ねぇ。
それにしても、オレの気持ちは恋愛にすらなっていなかったんだな。情けねぇ。
今時、シェークスピアでもこんなつまんねーオチ用意しねぇよ。
「フフッ」
オレは薄く笑った。




