side Daichi - 30
エントランス入口に着くと、既にタクシーは横付けして待ってくれていた。
ドアを開けてくれたスタッフに礼を言い、タクシーの後部座席にそっと永野を乗せる。永野は薄く眉根を寄せていた。
オレは永野を乗せた反対の後部座席のドアから乗り込み、運転手にとりあえず永野の家の最寄りの駅の名前を告げた。
「ちょっと遠いけど、いいのかい?」
「構いません。また近づいたら説明しますので」
代金は高くなるかもしれねーけど、こんな状態の永野を電車に乗せられねーし。
車がゆっくりと動き出し、運転手が優しくオレに声をかけてきた。
「揺らさないように気をつけて運転するけど、君もお嬢さんを支えてあげてくれるかい? それと、袋はそこにあるからね」
「ありがとうございます」
オレはできるだけ永野の方に寄り、肩を組んでオレの方にしっかりと寄せた。オレの腕を枕に、永野が頭をオレの方に寄せる。まだ苦しそうな表情だ。
見ているオレの方が、なんだか痛ぇよ。
ごめんな、永野。
男みたいに仕事ができても、テニスが上手くても、精神的に強くても、お前、女だもんな。
怖かっただろうな。
やっぱりオレがドリンク取りに行ってやればよかった。
ホント、ごめんな。
タクシーが交差点を曲がる。
永野を支えるオレの腕に力が入る。身体は動かなかったものの、遠心力で永野の顔が少し傾いた。
永野の顔がオレの方を向く。伏せられた長い睫。美しい稜線を描く鼻。形の良い唇。
――それは本当にちょうどいい角度で。
ほとんど吸い寄せられるように、オレは永野の唇に自分のそれを、そっと合わせた。
それはオレの想像を遥かに超えるほど、柔らかくて、魅惑的で。
2度、3度と啄む程に、麻薬のような中毒性のある何かが、オレの身体を蝕んでいくような気がした。
もっと味わいたいという衝動を抑えるために、オレは全神経を集中させる。
自分の身体を無理矢理永野から引き剥がし、座席の背もたれに背中をつける。空いている方の手で前髪を掻き上げ、ため息をついた。
サイテーだ、オレ。永野が知らないのをいいコトに。
これじゃあ、さっきの男とかわんねー。
「もうすぐ駅に着くよ?」
運転手がオレに声をかけてくる。
今のを見られてたんじゃないかと焦ったが、ルームミラーの角度は反対の方を向いている。オレはなんでもない風に答えた。
「あ、じゃあ、次の交差点を左で」
こないだ、永野を家まで送ったのが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
その後運転手に道順を指示しながら、オレは申し訳ないと思いつつ永野のバッグを開けて家の鍵を取りだした。それをスーツのポケットに入れる。そして、ジャケットを永野の肩に掛けた。
タクシーが止まった。オレは代金を支払い、永野のドレスを整えバッグを腕に掛ける。家の鍵を左手に持ち、さっきと同じようにして再び永野を抱き上げた。
マンションを見上げる。
「確か、303号室って言ってたよな」
ひとりごちてマンションの中に入った。
共同玄関がオートロック式じゃなくて助かったが、エレベータは付いていなかった。階段を永野を抱き上げたまま上る。
さすがに抱いたまま階段を上るのはキツい。永野は細いし軽い方だとは思うが……。
それでもオレは永野を下ろしたくなかった。オレが守ってやりたかったんだ。その分いろいろと大変にはなるんだが。
ようやく303号室の前に着いた。
オレは用意していた鍵を鍵穴に差し込み回す。ガチャリと音がした。
ドアノブに手をかける。
――と。
突然、内側から玄関の扉が開き、オレは驚いて飛び退いた。
「香蓮? 帰ったのか? 早かったな」
中から出てきたのは、Tシャツにトランクス姿のオレたちと同年代くらいの男。
綺麗な顔立ちの男だった。
すぐに気付いた。
あの時渋谷で香蓮と一緒にいたヤツだ。『翔』だっけ?
コイツ今、永野のことを『香蓮』って呼んだ……?
翔はオレの姿に驚いた表情を見せ、オレに抱かれている香蓮を目に留めて目を鋭くする。
「あんたは?」
「あ……あ、オレ、永野さんの同僚です。永野さん、具合悪くなっちまったみたいんで、オレが送ることになって」
動揺を抑え、なんとか説明する。
翔はオレの話を信じたらしい。一気に表情を崩して苦い笑顔になった。
いや、オレも嘘は言ってねーからうろたえる必要はねーんだけど。
「そうだったんッスか。香蓮が迷惑かけてすみません。あとは俺が運びますんで」
翔はそう言って永野の靴を脱がせると、オレの腕の下に自分の腕を入れ、そのまま永野を持ち上げた。オレは腕を下ろす。少し痺れていた。
「ちょっと待ってていただけます?」
翔はオレにそう言い残して奥の部屋に消えて行った。
オレは仕方なく玄関を眺めた。
玄関には、多分翔のものだと思われる男性モノの靴が何足か置いてあった。造り付けの下駄箱まである。ここは一人暮らしをするためのマンションじゃなさそうだ。
名前で呼び合う仲。明らかに部屋着姿な翔。一人用じゃないマンション。
ここから導き出される答えは明白だ。
――オレは本当に、バカだな。
「もしかして、浅倉さん……ですか?」
戻ってきた翔にいきなり名前を呼ばれて驚いた。
「え? あ、はい……」
「やっぱり。香蓮からよく話を聞くんで、もしかしたら、と思ったんです。ここまで運んで来てくれてありがとうございました。香蓮って細っいくせに筋肉質だから重いんですよね。疲れてるんじゃないですか? ちょっと休んでいってください」
「あ、いえ、もう帰ります」
正直言って、もうこれ以上長くこの家にいたくねーんだよ。
永野と翔の、二人の私生活なんて見たくねー。
「――そう、ですか」
翔が不思議そうな表情をオレに向けた。
正紀が言った通りだったな。オレが意地張ってたから。……いや、違うか。とっくに間に合ってなかったってコトか。
なんか、悔しさが溢れてきた。唇を噛みたいのを必死で我慢する。
代わりに、逸らさずに、正面から翔の目を見た。
「永野さんに『お大事に』と伝えてください。オレだけじゃなくて、正紀も武田さんも心配しています」
オレは、それだけ言うと、翔に向って頭を下げ家の外へ出た。




