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ユグドラシル

夜を夢みた猫

作者: 樹杏サチ

連載小説『ユグドラシル』のスピンオフとして書きました。

本編を知らなくても読めるように書いたつもりです。


(参ったな……)

 額から滲み出る汗の存在を感じながら、リュートはため息をついた。

 自分の立っている場所から、ぐるりと辺りを見渡す。いつの間にか街から離れ、喧騒とは無縁そうな丘の上に立っていた。

 やはり迷った。と、もうひとつ息を吐く。

 地図など、元々持ち歩いていない。目的もない。

 見聞を広める旅とは名ばかりの、本質は世間体を気にした上辺だけの理由だ。事実、ただ当てもなくその時々の気分に任せ飄々と旅を続けているだけなのだから。

 雲ひとつない空を仰いで、故郷の村で見上げた空を思い出す。

 幼い頃から剣を握るのが好きで、家の商売を継ぐ気なんて、ほんの少しも持ち合わせていなかった。

 誰にも告げず村を出たことを悔いる気持ちはない。ただ時折、このように空を見上げては望郷の念に駆られるだけ。

 長旅の風塵にまみれた衣服の首元をゆるりと緩め、生温い夏の風を送り込む。お世辞にも心地よいとはいえない、倦怠感を誘う湿った風にリュートは嘆息を重ねた。

 何気なしに、自分が辿ってきた道を振り返る。

 丘の上から望める景色は、暑さを一瞬忘れさせてくれるほどの景観だった。

 煉瓦色の屋根が小さく連なり、つい先日通り過ぎた街を思い起こす。今にも賑やかな人々の声が届いてきそうだ。

 容赦なく照らし続ける日差しが、重い足を再び動かすリュートに憂鬱を背負わせる。

 ゆるやかな登りだというのに、暑さのせいで呼吸が荒くなり、自然と視線が落とされた。

 柔らかい土の上に生えた夏草や、白や黄色の明るい彩の小さな花を見ながら、ゆっくりとした足取りを進めていると、不意に影が差す。

 あまりに唐突のことに、リュートはその場で立ち尽くし顔を上げる。

「なん……だ、コレ」

 自分の顔に落とした影の正体を見上げながら、リュートは呆然と呟いた。

 煉瓦を積み上げて造られたような塔は、背の高さが取り得だというリュートの身長よりも遥かに高い。

 ぽかん、と開けた口を閉じることなく塔の一番天辺を探すように見上げた。だが、降り注ぐ陽光が眩しすぎて、思わず目を細める。狭まった視線の中に、塔の上のほうでなにか動く気配を感じ、細めたままの視線をそのまま注ぐ。

 強い陽の光にも暫くした後に慣れ、開ききった青玉(サファイア)のような瞳に今度こそはっきりと映った。

 姿形こそ明確には映らないが、人影だ。と判断できた。塔の天辺の窓からその気配は動くことなくリュートを見下ろしている。

「おーい!」

 大声を張り上げると同時に、両の腕をぶんぶんと塔の天辺に向けて振った。

 だが尚も動く気配すら見せない人影から、声が落とされることはない。が、視線は感じる。強い強い眼差しを向けられている、とリュートは沈黙の中から鮮烈に感じ取った。

 振り上げていた腕を下ろし、どうしたものか、と思案する。

 視線を空に近い塔の天辺から、丘から覗く景色に移した。煌く陽射しがほんのりと薄くなり始めてきた時刻。じきに煉瓦色の屋根も、全て橙色に染め上げられるだろう。肌を撫でる風も多くなってきた。だが相変わらずの生ぬるさ。

(今日は野宿を考えていたが――)

 瞳にかかる前髪の下で、何か閃いたのか一瞬輝いた。

 にやり、と口元に不敵な笑みが浮かぶ。

「おーい、聞こえてるんだろー? そこまで行っていいか?」

 口元を両手で覆い、声が最上部まで届くよう、ありったけの声を出して叫んだ。

 天辺から見下ろす人影が、否定することも、肯定することもしないうちに、リュートは歩き出していた。

 目の前に立ちはだかるようにして存在する塔を上から下まで見渡す。

 入り口はどこだろう。

 リュートは夏の日差しに晒され熱くなった煉瓦に手を触れた。想像していたよりもずっと熱い。ざらざらとした煉瓦の感触が指先から伝わる中、ゆったりと塔の周りを歩き入り口を探す。だが、いくら入り口が見当たらないといっても、海のように茫洋としたものではない。

 思ったとおり、それはすぐ姿を現した。

 数段の短い階段を上ると、古びた木造の玄関が蔦に覆われてそこにある。伸びた蔦が、まるで入り口を覆い隠しているかのようにも思えた。そして、取っ手口に積もった塵を見て、リュートは訝しげに顔を顰める。

 まるで、人の訪れが久しぶりだとでもいうような。

 取っ手を掴む手が一瞬だけ躊躇する。だが、行くと言ってしまった後だ。脳裏を過ぎった不安な気持ちを振り切り、取っ手を掴む右手に力を込めて回した。

 むっと湿った空気と、埃とカビの混ざったような複雑な臭いが唐突に襲ってくる。

 リュートはその頃になると、目前の光景と立ち向かうのに精一杯で、塔の上にいる人影のことなど、すっかり頭の隅から忘れ去っていた。

 キィ、と軋みの音を上げる入り口の扉を閉じる直前。

 もしかしたら、聞こえていたかもしれない声を聞き逃していた。


「……どう、接すればいいんだったかな」

 緩く吐き出したのは声か吐息か。それほど小さな呟きは、恐らくリュートが意識を研ぎ澄ましていたとしても、聞き取れないほど小さな声だった。



 * * * * * *



「うっわ――……」

 階段を見つけたリュートは、足をかける前に螺旋状になっている階段を見上げ、思わず当惑の声を上げた。

 上る前から気落ちしてしまうほど、階段は延々と続いている。リュートの立つ場所からは、終わりが一切見えないのだ。上にいくにつれて小さく見える螺旋階段が、今のリュートにはまるで地獄への階段にも見えた。

(宿代わりにしようとしたのが間違いだったか)

 早くも後悔という二文字がリュートの脳裏によぎる。

 成人した頃から十年以上旅を続け、体力には自信はある。だからこの長い階段を上りきる自信も、もちろんあった。だが、それとこれとは違う。

 たった一晩の宿に、と閃いた名案だったはずなのだが。

 もしも階段が延々と続くのみで、人が住める場所などないのだとしたら。それこそ時間と労力の無駄だ。だが、人影を確かに見た。

 視力は他人より良いほうだ。それなのに、どうしてこんなに不安になるのだろう。

 実は人影だと思ったものは幽霊かなにかで、実際のところ無人の塔だとしても。なんとしてでも今日はここに泊まってやる。

 そんなことを思いながら、重い足を一歩前に進める。白く積もった塵の上に、リュートの足跡を軌跡として残していく。

 陽が落ちかけたといえども、室内はまだ明かりなしでも問題ないくらいの時刻だ。だが、リュートの足元はもちろん、部屋全体はまるで夜の帳が落ちたかのように暗い。仄かな柔らかい光がうっすらと天井から延びてきてるのを見ると、恐らく窓があるのだろうと推測できた。

 不意に視線を下ろすと、眩暈を覚えるほどの高さ。いつの間にか随分高い場所まで上ってきたらしいリュートは、実は高所恐怖症なのだ。

 誰もが物怖じしてしまうような魔物を目の前にしても、恐怖心など一切抱かないというのに、高い場所に立つだけで慄然とする。

 だが、他人はそんなリュートの姿を知らない。

 常に泰然自若と云われ礼賛と驚嘆の混じった視線を受けてきたが、事実を知ったなら、どんな表情をするのだろう。

 見知った顔を思い出せば、戦きなど忘れて思わず笑みが零れた。

「――……え」

 足を止めることなく階段を上っていたが、リュートはある場所で足を止めた。

 少し前から何となく聴こえてきたのは、これか。と、少しだけ乱れた息を整えながら、部屋の中にある異観に見入る。

 カチカチ、と規則正しく音を響かせるのは、壁にかけられた幾つもの時計。

 振り子を揺らす一番大きいだろう時計を中心に、小さな時計大きな時計、はたまた文字盤の代わりに見たこともないような絵が埋め込まれた時計。実に様々な姿形の時計が、隙間なく壁にかけられていた。

 天桴が発する音が、いくつもの針が鳴らす音と重なり複雑な音色を奏でる。

 異様な空気だった。

 凍てついたような静寂に鳴り響かせる音は、鼓動のようにも聴こえ思わず自分の胸に手をあてる。

 厚い胸板を破って伝わるのは、同じく規則正しい呼吸音。だが違う。これではない。

 リュートは何故か焦燥感に襲われていた。胸がざわざわと騒ぎ立てるのだ。

 だが、足が床に張り付いたかのように動かない。

 今も動き続ける秒針が、不気味な音となりリュートを襲う。

 離れたい。ここから立ち去りたい、という強い思いとは裏腹に、リュートの足は見事に機能してくれないのだ。

 背中を伝う汗は暑さからではない。

「針には絶対触れないでね」

「――っは」

 突然飛び込んできた声に、リュートは思わず喉の奥で鳴ったような変な声を出した。

 自分でもなんて声なんだ、と思う。

 弾かれたように声のした方向へと視線を向けると、リュートの半分ほどの年齢だろうか――金の髪に金の瞳を持った、命を宿していないような眼差しでじっと見つめる少年がそこにいた。

 螺旋階段を下りた先の壁によりかかり、どっしりと体重を預けたまま腕組みをしている。

 真夏に見る真っ白な長袖のシャツは少し暑苦しく感じるが、少年は暑さなど微塵も感じていない、涼やかな表情だ。いや、涼やかというよりは――

 感情そのものをどこかに落としてしまったような。

 希薄な雰囲気を纏っていた。だが、彼が放つ存在感は異様なほど強い。

 現に、突如かけられた言葉は抑揚のないもので、他人を抑制させるような力強さなど一切感じさせなかったというのに、この威圧感。

 訊きたいことはたくさんあるのに、どれひとつとして言葉にならない。

 何かを訊ねなくては、と開いた口からは乾いた息が漏れるだけだった。

「何してるの」

「――……あ」

 背後で響く秒針と、少年にしては少し低めで落ち着いた声音が同時に聞こえる。さほど大きい声ではないのに、大きく鳴り響く時計の音にも消されぬ、耳の奥に直接囁きかけられているような錯覚を覚える声。だが実際彼の口は開いて、少し面倒臭そうな表情をした少年はリュートの反応を窺っているのだ。

「……え、っと、宿を……」

 極度の緊張からなのだろうか。頬の筋肉が強張り、思ったように言葉が出なかった。

 だが途切れ途切れにぽつん、と紡ぎだされた言葉を拾い、少年は「ああ」と言って窓のない瓦礫の壁を見つめる。

 まるでそこに窓でもあるかのように、少年は眩しそうに目を細めた。

 陽の光など、一切差し込んでいないというのに、虚ろげに揺れていた瞳の奥が一瞬だけ、夕日の色に染まったような錯覚。だがよく凝らして見れば、少年の瞳は最初見たときと変わらない金色のままだった。

「そうか、もう日が沈む頃なんだね」

 一日が終わってしまうことが遺憾だとでも言うように、残念そうに呟いた少年の瞳を見つめていると、真正面から目が合った。

 すると、唐突に感情の色が失せ、組んでいた腕を解くと、投げ捨てるように少年が言う。

「一番上。一応は住めるようになってるから好きに使っていいよ。泊まりたいんでしょ?」

それだけを告げると、降りてきた螺旋の階段に再び足をかけ、今にも背を向けだそうとする。

「待て!」

 今まで声が出なかったことが嘘のように大きな声で、リュートは少年を呼び止めた。

 すでに一歩踏み出した足が、ぴたりと止まる。

 胡乱げに歪められた眉の下にある金色の眼が、ゆっくりとリュートを見据えた。

 向けられた瞳は狭められ、長く伸びた睫毛は一切動かない。ふくらみの少ない赤みを帯びた唇が微かに開き、小さなため息が漏れるのをどこか他人事のようにリュートは呆然と見つめる。

「――何?」

 気だるさを含んだ少年の声にはっと、意識を呼び覚まされる。

 咄嗟に呼び止めてしまったが、訊きたいことがありすぎて、何ひとつ言葉をまとめられていない。

 だが、一番に気になっていたことを躊躇せず言葉に変える。

「ここは、なんだ?」

 当たり前と言ってしまえば当たり前の疑問を受け、少年はあからさまに面倒そうな面になる。

 だが、ゆっくりとした動作で身体ごとリュートに振り返ったのを見ると、等閑にされることはないのだ、と一抹の安堵を覚えた。

「ここは世界樹(ユグドラシル)の心臓と云われる場所だよ」

「心臓?」

「そ。僕はそれを監視する守人(もりびと)

 再び壁に背をもたれかけさせた少年が、視線だけを時計に向けはっきりと告げた。

 瑣事だ、と言わんばかりの気配にリュートは眉根を寄せる。

 世界樹(ユグドラシル)といえば、今世界を震撼させている世情にかかせないものの一つではないか。

 魔法の源がその世界樹だとか――魔法とはかけ離れたリュートにでも、それくらいは知っていた。

 その世界樹の力が衰え始めていることも、どこかで“魔女”が世界樹の生命(いのち)を救おうとしていることも。

 村に閉じこもっていた頃は、魔法の元となるものがなんなのかなど、考えたこともなかったが、こうして一人旅に出たことで、色々の知識が植えつけられているのだ。そう考えると、見聞を広めるためにと出てきた自分の上っ面の理由も、あながち嘘とは一概に言えないのかもしれない。

 そんなことを考えつつ、相変わらず規則正しく鳴り響く秒針の音を聴いていると、今度はなぜだか鼓動の音のように聴こえてきた。

 だが待てよ。とリュートは今まで得た知識を思い起こす。

(世界樹って、どこにあるかわからないって云われてるんじゃ)

そこである仮定にまで辿りつき、やや興奮気味に声を上げた。

「って、心臓ってことは本体の世界樹ってこの塔か!?」

「違う。世界樹がどこにあるのかはわからない。ただ心臓って云われてるだけで、実際は本当かどうかもわからないよ」

「じゃあ本体ってどこだ?」

「……だから知らないって。さっきから(きみ)、何を聞いてるの」

 珍獣を見るような目を寄越してきた少年が、小さくため息をついた。

「っていうか、守人ってなんだ?」

 絶えず質問を投げかけ続けるリュートに、少年は心底うんざりだといった様子で、視線を投げやった。

 そのまま階段の途中の一段に腰をかけると、頬杖をつき肩を竦めてみせる。

「守人っていうのは、世界の記録者だよ。いつか訪れると云われている“終焉(おわり)”のあと、僕ら守人は記憶を記録として残すのが役目なんだ。だから守人の僕らは死なない」

「え、ちょ、……っと、待て。言ってる意味がわからん」

「世界樹がいつか生命を失うと云われてるのは知ってる?」

 少年の問いに「ああ」と小さく頷くと、「それじゃあ」と更に言葉を続ける。

「世界樹がなくなれば、今のこの世界そのものが無くなるっていうのも知ってる?」

 そう言った彼の口元には、自嘲めいた笑みが湛えられていた。

 そんな彼の様子を見た後だからだろうか。リュートの口から漏れる「知らない」という言葉も、やけに掠れたものだった。再び喉の渇きを感じる。さきほど感じた焦燥感が不意によみがえり、忙しなく動く鼓動の音がなにかを告げようと訴えかけているかのようにも思えた。

 否定の言葉を告げたリュートを見つめる金の眼が、突如柔らかさを帯びる。

 太陽の光よりも明るい金色だというのに、全てに失望したような空虚な色を灯していた眼。それが突然、ふわりと漂う春の風を待ちわびている花のように。

 そんな唐突の変化に、リュートは猫のようだ。と思った。

 柔らかそうな繊く短い金の髪も、歳若い少年らしさを存分に表した金の瞳も。何よりも、一見は人懐っこそうにみえる容貌なのに、窺える警戒心は肌を刺すように伝わってきていた。

 リュートを見る眼差しは冬の空気より冷たい。

「知らないよね。そうだよね」

 そう呟く少年の柔らかな眼差しが、みるみるうちに変貌していった。

 穏やかとは決して言いがたい、まるで仇でも見るかのような荒んだ強い眼差し。だがそれも一瞬だった。次第に初めて見たときの、無感情を載せた金の眼がリュートを見つめ、

「だけどね、本当のところはわからないんだよ。そう云われているだけで、実際に経験していない。だから世界がなくなることも、滅びたあと守人が死ねないことも、この時計が世界樹の生命だってことも分からない。

 起こってからじゃないと、真実は明かされないんだよ」

 言い終るとゆっくりとした息を吐き出し腰を上げた。

 そのまま螺旋状にのびた階段に足をかけ、数段上った場所でぴたりと足を止めると「そうだ」と呟いて振り返った。

「……こんな容貌だけど、一応君よりは年上だと思うよ」

 本当に猫のようだ。

 リュートの返答を初めから期待していなかったのか、言い終らぬうちから階段を上り始めていたのを見て、改めて思った。




 * * * * * *



 高く昇っていた日はすっかり沈み、もともと静寂がまとわりついた塔の中は更に不気味な静けさを帯びた。

 夜にもなると、暑い熱を吸収した煉瓦も本来の冷たさを取り戻し、その上に敷かれた薄い布きれ一枚だけでは正直心地よいものとは言えない。背中にあたるごつごつとした感触に、リュートは何度も寝返りをうちながら、それでも野宿するよりはマシか、と瞳を閉じたまま思った。

 硝子窓をはめこまれていない吹き抜けの、煉瓦と煉瓦の間から生暖かい風がやってきてリュートの体を包む。

 今の季節はまだいい。だが真冬の凍えるような夜はどうするのか。そう訊いたら、少年はさらりと答えた。火精(サランド)に少しばかり暖を送ってもらうんだよ、と。

 剣のことならば顔を輝かせてその話題にくいつくものだが、魔法や精霊の話となると、リュートはさっぱりわからないので、まるで突然に御伽噺の中に放り込まれた気分になる。

 そもそも原理がわからないから、狐に化かされたような感覚だ。村を出て初めて魔法というものを目の当たりにしたとき、そんなことを口走ったら、冒険者組合の若い女性に笑い飛ばされたのを思い出す。どれだけ田舎者なのよ、と。

 それでも、魔法のことを聞いても動揺することはなくなったのだから、名前すら知らなかった自分にとってみれば、随分な進歩だ。

 夜も随分更けたというのに、やけに意識が冴えてしまって眠れない。

 重いため息をついて瞼を持ち上げると、硝子張りの天井が見えた。

 硝子を突き破って見えるのは、暗い天鵞絨に敷き詰められた細々とした星。手を伸ばせば今にも届きそうなほど、近くに広がる。(ほそ)い星を覆い隠す灰色の雲は一切見当たらなく、夜空だというのに見れば一気に目が覚めてしまうほど藍かった。

 ふと、隣で寝ていたはずの少年の気配が消えていることに気づく。

 視線を硝子張りの夜空からすぐ隣へと移動させると、リュートが敷いている薄い布切れと同じものが煉瓦の床にあった。だが、そこにいたはずの少年の姿はやはりなく、リュートは咄嗟に起き上がり部屋の隅々まで視線を巡らす。殺風景な一室は、人が住む場所というにはあまりにも蕭条としていた。

 リュートの隣に敷かれた布に手を触れると、まだほんのりと温かみが残っている。ほんのわずかな睡魔に呑み込まれた一瞬に、少年は姿を消したというのだろうか。

 姿が見えないからといって、何か問題が生じるわけではない。だがこの胸の奥にじんわりと広がる杞憂は――

 そこまで考えて、螺旋状の階段の手摺に手をかけた。上りと違い、下の景色が見えないことに恐怖を覚える。更に今は夜だ。足を踏み外して転がり落ちてしまうかも。しかも運悪く頭から落ちて意識を手放してしまうなんてことがあったら――

 頭の中で広げられる妄想に、リュートは大きく身震いをした。

 そこまで恐怖に思うのならば、たった一日顔を合わせただけの他人など放っておけば、とも思う。しかし――となぜか脳裏に少年の無表情が浮かぶのだ。そして少年に手を伸ばして安堵する自分の姿も見える。

 今まで出会って一日で別れる者など、数え切れないほどいた。愛着もなければ、このような物寂しさなど覚えた者など一人もいなかった。それなのに、あの少年に対してはどうだろう。今まで出会って別れてきた者たちと何が違うというのだろう。

 敢えて違うと断言できるのは、あの虚ろな金色の眼。

 あのように息吹を感じられない眼差しは、産まれてからこのかた見たことがない。

 ふぅ、と深呼吸を一度、二度と繰り返し手摺にかけた手に力をこめた。そのままゆっくりと確実に一段一段降りていく。まるで歩き方を覚えたばかりの幼い子供のように。

 ゆったりと、ゆっくりと。着実に階段を下りていくと、時計のあった場所が近くなったのだろうか。カチカチ、と暗闇に重なる針の音が響いた。

 その瞬間、どきりと胸の鼓動が大きく揺れ、時計を初めて見たときの焦燥が再び体中に駆け巡る。

 思わず階段の途中で足が止まり、少時耳を澄ませた。気配を感じたのだ。強い強い、何かを。

 訝しげにリュートの眉根が寄せられ、足音を立てないように静かに階段を下り始めた。

 やがて時計のあった部屋が覗ける場所まで下りると、壁に張り付くように背を添わせる。ちょうど夜の暗さと壁の影が重なり、部屋の中からは見えないであろう場所で、リュートはおそるおそる中を覗いた。

(――あいつ……)

 ある程度予想していたものが覗いた先の光景にあった。

 金の髪と金の眼をした少年が、部屋の中にある一番大きな時計を目の前にうつらうつらとしている。

 魂を抜かれた者かのように、薄く開かれた唇、しっかりと開かれているのに焦点の定まらぬ金の視線。瞬きさえしていない。

 一言軽く告げながら姿を出しにいこうと思えばいけた。だがしなかった――いや、できなかったのかもしれない。

 自分と一緒にいるときの無感情のそれとは違う。虚無の中に込められた寂しさが強く金色(こんじき)から溢れ出ているのだ。

 それでも少年の姿も確認できた。自分が彼になにかできるとは思えない。そろそろ気づかれないうちに戻ろうか、と考えていた矢先。

 うっすらと唇だけ笑んだ少年の細い手が伸び、道を反らすことない針を掴みあげた。途端、耳をつんざくような金切り声が薄ら寒い空間に満ち溢れる。

 反射的に耳を両の手で塞ぎこみ瞑った。

 続いて容赦なく耳に届く時計の針の音。――音、というには雑すぎるそれは、今まで聞こえていた規則正しい音とは違っていた。まるで悲鳴をあげているようだ、と塞いだ耳の隙間を縫って届く音を聞いてリュートは思う。

 針を掴まれたことによって音をなくすどころか、忙しなく速度を上げていく針の音は、少年が掴んでいる時計とは違うものから聞こえている。

 ゆっくりと瞼を開けると、飛び込んできた景色にハッと息を呑んだ。

 少年の掴んでいる針は、まるで少年から逃れようとするかのように小刻みに震えている。そしてそれを見つめる金の眼が――

 見てる側が胸を痛めてしまうほどの心痛な眼差しは、逸らすことなく掴み上げた針を捉えていた。

 今にも血が滲み出てきそうなほど歯を食いしばる姿は、リュートに見せた平然とした態度からは想像できなかった。

 仄かに少年の全身が燐光に包まれているような気がする。蒼く弱い寂光。

 思わず息をするのも忘れて少年の姿に見入っていると、時計の針を掴み上げてる手に力がこもった。

 再びあの悲鳴のような叫び声が痛々しく上がる。同時に少年の手の中で、身動き取れない針が逃げ惑うように激しく震えだした。

(…………)

 叫び声が唐突にやんだ。

 少年が手を離したのだ。ゆっくりと離した手に、少し血が滲んでいるのが遠目からも見える。

 徐々に底気味悪い空気が薄くなり、元の静寂が取り戻されつつあった。

 カチカチと針たちが鳴らす音も、規則的なものと変わっていく。

 完全に本来の静けさが戻った頃、リュートは呆然と佇んだまま一向に動く気配のない少年を窺い、瞠目する。

 雪の白さにも似た少年の頬を、一筋の涙が伝っていたから。

 依然として彼の表情は抜けた落ちたまま。それが逆に彼を包み込む重苦を強いものとしていた。

 今すぐ駆け寄って声をかけたほうがいいのだろうか。だが、すぐに無粋だ。と思い至ったリュートは、物陰から動けずにひたすら少年を見つめるのみだった。

 少年の鉄の仮面を崩すほどの苛みは一体なんなのだろう。

 ふと、少年の先の言葉がよみがえる。心臓だよ、と淡白に告げた言葉の意味。

(死にたい、のか)

 心臓をとめようとする行為は結果、世界をなくすということ。彼の言葉をそのまま信用したら、そういうことになる。

 そして死なない、と言った少年。

 自分よりも年上だと告げられたときは何も考えていなかったが、実は相当な年齢だとしたら。

 人間は死を恐れる。それはやがて必ず訪れると知りながらも、生涯のうちに得る悦びを知っているからこその執着だ。だが、それが永遠だと知ったらどうだろうか。

 雀躍とする者もいるだろう。

 実際、自分も恐らく一度は喜びの声を上げると思う。しかし、体感していないからこその悦び。

 事実死なないと言った少年は、あのように惨憺としたものを抱えているではないか。

 音もなく涙を流す少年から視線を逸らすと、リュートは静かに瞳を閉じる。

 再び視界が開けた頃、ゆっくりと上りの階段を進み始めていた。




 * * * * * *



 先日の暑い陽射しにも負けぬ強い光が、向かい合う二人の足元に濃い影を作っていた。

 塔の中に入れる唯一の扉の前、リュートは軽い荷物を抱えなおし、向日葵のような笑顔を少年に向ける。

 対して少年は、煩わしそうな面持ちを崩さぬままその笑顔を受け止めた。

「……暑いんだけど。わざわざ外に出なくてもいいじゃない。勝手に出てってくれて構わないのに」

「一晩泊めてくれたんだ。ちゃんと挨拶くらいしたいじゃないか」

「いや、だから何で外なの……」

 嘆息のような言葉を呟きながら、少年はリュートを見上げた。

「俺、貧乏だから金なくって……何かないかな」

「いらないよ。いいから早く行きなよ。暑い」

 肩に担いだ荷を下ろし、中をまさぐりだしたリュートを尻目に少年は早口で言った。

 それでも構わず荷の中身がひっくり返るのではないか、というほど勢いよく探す姿に心底うんざりした様子で、はぁ、とため息をつく。

 突然「あ!」と小さな叫び声を上げたかと思ったら、口元をにやりと持ち上げて荷の中からそれを拾い上げた。

 リュートの骨ばった指で摘み上げられているのは、その男らしい手つきには似つかわしくない少女趣味のもの。

 赤い生地の上を点々と走る水玉模様が描かれた、髪留め(リボン)だった。

 こともあろうか、リュートは一瞬の躊躇いもみせず髪留めを少年の目の前に突き出す。更に「ほれ」と少年が受け取るようにと促すのだ。

 流石の少年も、これに対して険を含んだ視線をリュートに向け、形の良い眉をひくりと引きつらせた。

「何のつもり?」

「持ってろ」

「いらないよ! お金ならいらないって言ってるでしょ」

 思ったとおりの反応に、リュートは声を出して笑った。

「誰がやるって言ったよ。貸しだよ、貸し」

「は?」

「だから金がないから、それまで貸しとくんだよ」

「いや、だから君、人の話を聞いて……」

「それ、俺の妹の形見だから大事にしろよ」

「…………」

 少年の言葉を遮って出てきた言葉に、続けようとした言葉を少年は呑み込んだ。

 ならば尚のこと受け取れない。錯雑とした表情がそう物語っているのを見て、リュートは苦笑いを浮かべる。

 意外と感情を隠すのが苦手なのかもしれない。だが新しい発見だ。昨日より今日、今日より明日。常に新しい何かを与えてくれそうだ。

 そこまで考えて、リュートは胸のうちで首を横に振る。

 自分はここで少年を観察するために旅を始めたのではない、と。

「お前を見てたらさ、何かひとつ頑張れること見つけるのも悪くないかなーなんて思ったんだ」

 少年が、リュートの言葉に顔を上げた。

 金の眼が、わずかに揺らぐ。

 そんな少年の様子を窺がいながら、リュートは微かな笑みを洩らして言葉を続けた。

「期待して待ってろよ! 今に超有名になって大金持ってきてやるから」

 大仰に拳を握り締めて、楽しそうにリュートが言う。

 期待に満ち溢れた、迷いない目だ。

「だからそれまで死ぬなよ」

 抑揚を抑えた声音は、やけにリュートを大人びて見せた。

 ほんの一瞬だけ見せた少年の驚きなど嘘のように、彼はいつもと変わらずの表情で、

「……守人は死なないって言ったでしょ」

 と、落ち着いた口調で言った。

 だがとげとげしさは一切ない。むしろ柔らかな雰囲気さえ感じる少年の姿に、リュートは満足そうに笑んだ。

「じゃあ、そろそろ行くわ。――……えっと」

 そこまで言い、初めて少年の名を訊いていないことに気づいた。

 今更のような気もする。訊いてもいいのだろうか、とリュートの逡巡に少年が先に気づき、

「リュヒト。僕の名前」

 リュートは一度胸中で少年の名を反芻する。リュヒト、と。

「俺はリュートだ」

「一応覚えておくよ。忘れるかもしれないけどね」

「ひでぇ!」

「っていうか、早く行きなよ。暑くて死にそう」

 死なないんじゃないのかよ、と軽い口調で言ったリュートにリュヒトは微かな笑みを浮かべた。

 だが冗談抜きで暑そうだ。額に浮かんだ汗がいくつも頬を伝って滑り落ちる様子を見て、リュートは荷を抱えなおす。そのまま、じゃあな、と手を何度か振ってリュヒトに背を向けた。

 あっけなさすぎるだろうか、と自分でも感じたがリュヒトにとってそれくらい淡白なほうがいいかもしれない。何せ街から逃げるようにして住むリュヒトは、感慨深い別れなど期待していないだろうから。

 次ここを訪れる頃、少しは自分のことを懐かしいと思っていてくれるだろうか。もし覚えていない、などといわれたら受けるショックは大きいだろうな、などと考えていたら。

 肝心なことをいい忘れた。

 と、少し離れた場所を振り返る。

 そこにはまだ少年が佇んでいて、突然振り返ったリュートに驚いたのか、人間らしい感情を隠すことも忘れてぽかんと口を開いた。

「たまには外に出ろよ! 人間陽に当たらないと腐るぞ」

 そう言い残して背を向けた。

 背をむ向けたままひらひらと振る大きな手を見つめながら、リュヒトはぽつりと呟いた。

「人間じゃないけどね」

 そうして塔の中へと戻っていったリュヒトの表情には、しっかりとした笑みが刻み込まれていた。




END



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