花と花の戯れ 11
瑞々しい葡萄が一粒、口元に運ばれる。イオは大人しく口に含み、ごくりと飲み込んだ。
これがこの店の作法なのだろうかと、各種食べ物片手に自分の周りを囲う女性たちを見た。心なしか、皆楽しそうにしている。
それとも、リリアーナから何か言付けられているのだろうか。
机に向かって自ら食事を取ることができない自分を、気遣うように。
(そうだったら、嬉しい)
イオが声を荒げた後も、何食わぬ顔でこの部屋から出て行った主人に思いを馳せる。気まずいと思うのに、寂しいとも思う。
この胸の切なさが、どういう意味を持つのか、イオにはよくわからなかった。
「イオくんは、リリちゃんのどんなところが好きなの?」
「えっ?!」
ユナと名乗った少女が、その大きな瞳をキラキラとさせながら聞いてくる。イオはその直球な質問にたじろいでしまった。
「……僕は、奴隷なので」
「え? それ何か関係あるの?」
「奴隷は、ご主人さまのことを、好きになったり嫌いになったりしては、駄目だからです」
「リリちゃんが駄目って言ったの?」
「…………」
イオはきゅっと口をつぐんだ。
「じゃあ問題ないよ! リリちゃん可愛いもんねぇ好きになっちゃうよねぇ侍りたくなっちゃうよねぇ」
「そうそう。ザ、美人! ってくらい綺麗な顔してるのに、笑うと可愛いものね。クールぶってるけど実は笑い上戸なところもいいわ」
「それにかっこいいわよね。昔、横暴だった支配人を追い出してくれたことがあるんだけどね」
「いくらでも代わりがいるのはお前の方だ、かぁっこよかったわよねー!」
「あれで私たちの心は鷲掴みされたわ。私、リリちゃんの奴隷になら、なってもいい」
「あははは! わかるぅ!」
盛り上がりをみせる女性たちの声に、イオは穏やかに耳を傾け続ける。自分が会話の中心に置かれるよりも、よっぽど心地よかった。
頭がぼんやりとして、体が少しだけ熱い。
イオは汗ばんできた首元を緩める。するとすぐに冷たい布が当てられた。ひんやりとして気持ちいい。
「でも僕、よく分からなくて」
優しい相槌が返ってきて、思いが勝手に吐露される。
「リリアーナさまを思うこの気持ちが、従う者としての、忠心からなのか。それとも、また別の何かなのか」
「そうだねぇ。好きにも色々あるもんねぇ。んー、ユナは好きを無理に区別する必要はないと思うんだけどね。でもその好きが、忠誠心か、そうじゃないかくらいの判別ならできるよ」
かすみがかった頭で、イオはおもむろに背筋を伸ばす。そんな方法があるのだとしたら、ぜひとも知りたいと思った。
その真剣な眼差しに、ユナは微笑む。
ゆっくりとイオの手を取って、自身の柔らかな膨らみに当てがった。
「……ユナさん?」
「ね、ドキドキする?」
薄い布一枚でしか覆われていないそこは、驚くくらい柔らかかった。ドキドキするかしないかでいえば、する。イオは素直に頷いた。
「あ、あの、これで、どう分かるのですか?」
「うん。じゃあ次、目、瞑ってみて」
イオは言われるまま従う。目を瞑ると、手のひらの感触がより鮮明になった気がして、そわそわしてしまった。
「ユナのここ、ちょうどリリちゃんと同じくらいの大きさなの」
心臓が変な動き方をした。
「想像してみて。今、イオくんの手の中にあるのは、リリちゃんのお胸」
ぎゅっとどこかが切なく疼く。
(これが、リリアーナさまの……?)
ドクン、ドクン。
体に血が巡っていく。
息苦しくなってきて、イオは吐息を漏らした。
「ドキドキが違うでしょう?」
「……はい」
「んふっ、イオくんは素直で可愛いね。最初のドキドキは異性の体に触れたときに感じる、人の本能的な欲のひとつだよ」
あの幼い顔から出てきたとは思えない言葉だった。
「でも、相手がリリちゃんになると、ドキドキの形が変わる。それは多分、忠誠心が高いから、じゃないと思う」
イオは目を開く。
この想いが、従者として然るべき感情ではないのなら。
その正体には、気づきたくはなかった。
「でもね。ユナはどっちでもいいと思うの。形は違っていても、同じ好きだよ」
そう、なのだろうか。
イオはなんだかよく分からなくなってくる。
「あとね? リリちゃんって押しに弱いよ。好きって気持ちをはっきり言葉にすれば、しっかりと伝わるからだね。だからぐいぐいいっちゃって、たじたじにしちゃって! きっと可愛いよ! 照れるリリちゃん絶対可愛い! ユナも見たい!」
「私も見たいわ」
私も、私も、と言葉が続く。
イオのふわふわとした頭によぎるのは、リリアーナが目を細めて笑う姿ばかり。
彼女の赤い瞳を恐ろしいと感じないのは、その眼差しに、温もりがあるから。
リリアーナはイオを奴隷としてではなく、一人の人間として扱ってくれる。
それだけでも、奇跡みたいなことなのに。
笑顔を向けられていたいと思ってしまう。
側にいたいと思ってしまう。
この感情の名前は、きっと。
「ちょ、誰、イオにお酒飲ませたの。顔が真っ赤だよ。ライラ、お水持ってきて」
「……リリアーナしゃま、僕は、んくっ!」
口をコップで塞がれる。そのまま少々乱暴に水を流し込まれ、咽せそうになった。イオはなんとか全て飲み干す。
人のお世話をするのが好き、なんて言っていたリリアーナの介抱は、なかなか豪快なのである。
「普段部屋から出ないのに、いっぱい歩かせてごめんね。疲れたでしょ」
階段を登るリリアーナが立ち止まって振り返る。金糸の髪が目の前で柔らかく広がって、ふわりと甘い香りがした。それは娼館の女性たちが纏っていた香りと似ていて、どきりとしてしまう。
「はい。……少しだけ」
どうせ嘘は通じない。イオは正直に答えた。
「邸に戻ったら足をよく揉むといいよ。疲労は、魔術で感じさせなくすることはできるけど、治すことはできないんだ」
遠くにある紅の雲と同じ色をした瞳が、優しく細まる。
差し出された手を取ることに、もう躊躇いはない。
「……あの、リリアーナさまは、どうして僕にこんなによくしてくださるのでしょう」
「うーん、イオに優しくすることで、今自分はいいことをしているんだって、思いたいだけなんだ。つまりは自己満足だね。偽善ともいう。だからそんなに気負わなくていいよ。鬱陶しかったらごめんね」
リリアーナはイオに嘘をつかない。これはイオの勝手な憶測だが、リリアーナは、向き合う相手に嘘をつかないことで、その相手と対等であろうとしている。
それが、ただの自己満足なのだとしても。
「鬱陶しくないです。偽善でもいいです。僕は、リリアーナさまに優しくされると、胸がこう、ほかほかして、きゅってなります。嬉しいです」
その感情を言葉で正しく伝えるのは、イオにはまだ難しい。
長い石畳の階段を登り終え、展望台に着く。領地内の各所に整備され、監視塔の役割を持つその場所は、殺風景で閑散としていた。
息切れひとつ見せないリリアーナに促されるまま、イオは町を見下ろした。そこからはエカルラート邸も見え、その小ささに随分遠くまで歩いてきたのだと驚く。
「悪党が治める土地でも、こんなに綺麗なんだよねぇ」
塀の上に頬杖をつき、遠くを見つめるその横顔が、黄金色の光に縁取られる。
あまりに美しかった。
イオは両手を握りしめる。
「ね、上を見て」
哀愁を帯びた表情を消して、リリアーナが天を仰ぐ。
イオも続いて空を見上げる。
「綺麗でしょう」
「はい……足がすくんでしまいそうです」
「あは! それは長い階段を登ったからでもあるね」
輝き出した宵の明星が、リリアーナの瞳に映り込む。
焦がれるように空を見上げ続けるその姿が、あまりに切なくて。
「僕、リリアーナさまが好きです」
ぽろりと溢れてしまった。
「ありがとう。嬉しい」
ふふ、と吐息で笑って答えてくれたリリアーナは、空を見上げたまま。
胸が震える。
こっちを向いて欲しい。
でも、こっちを見ないで欲しい。
「……僕のこの気持ちは、ご迷惑でしょうか」
「ううん。でも、照れるね」
そう言ってはにかむリリアーナは、本当に可愛らしかった。




