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兄弟桜と蕎麦屋の鼠〜遠山桜と鼠小僧異聞

作者: 三角ケイ
掲載日:2026/05/19

はじめまして、よろしくお願いいたします。

 江戸の門前仲町にある矢場ではここ連日、三人の男達が金を賭けて得点を競っていて、それを見守る矢場女達の黄色い歓声や競い合う男達の姿を肴に酒を呑む他の男達の笑い声で賑わっていた。


「キャー!また金さんの一人勝ちよ!」


 男達の勝負を見守っていた矢場で働く女が勝負が終わった後の矢を拾いに行くと、見物していた男の一人が勝負に負けた男達の肩に腕を回し、話しかけた。


「ワハハハ!ざまぁないな、熊さん、八っつぁん。これで金さんに連続11敗じゃねえか!」


「くっ!また負けちまった……」


「うう〜、これで俺はスッテンテンになっちまった〜!」


「金さん、すっご〜い!顔が良いだけでなく、運まで良いのね!」


「くっ!ちったぁ庶民に手加減しやがれ、この放蕩坊っちゃんめ!」


「そうだそうだ!女にモテモテで賭けまで強いなんてズルいぞ、ズル坊っちゃんめ!」


「フッ、わりぃな。俺を坊っちゃん呼ばわりするような野郎達に負けるわけにはいかないんだよ」


「何だとぉ!ちょっと俺達より顔が良いからって調子に乗りやがって!」


「そうだそうだ!今日という今日は一発ガツンとしてやるからな!」


「ちょっいと熊さんも八っつぁんも、つっかかるのは止めときな!金さんは顔も運だけでなく、腕っぷしも良いんだから、あんた達じゃ到底かなわないよ!」


「そうよそうよ!それにね、金さんはちょっとじゃなくて、うんと男前なんだからね!ほんっとに良い男よね。嫁にもらってほしいわ〜」


「ガーン!お清さんまで金さんの魅力にやられてしまっていたなんて……」


「熊さん、気の毒だけど諦めも肝心よ」


「そうね。お清さんに毎日求婚しては毎日断られていた理由が金さんじゃ、勝ってこないわ。相手が悪すぎるもの」


「そんな〜。なぁなぁ茂さん。女衆がよってたかって俺達を虐めるんだ、何とか言ってやってくれよ」


「ハハハ、そう、しょげるな、熊さん、八っつぁんよ。それにな最近あちこちで薬がないという話をよく聞くぞ。金さんは遊び人だが気の良い男だからお前さん達に酷いことはしないだろうが、これが他の野郎につっかかってみろ。あっというまにのされてしまうだろうし、万が一それで怪我でもしてしまったら厄介だ。本当に薬がないなら、お前さん達は取り返しがつかなくなるんだぞ」


「ハァ、そうだな……。つい、カッとなっちまったが勝負は勝負だもんな。金さん、すまねぇな。それとな、申し訳ねぇんだが今回の負けの分の支払いな、少々手持ちが足りないんで、ちょっくら待ってくれねぇか?」


「金さん、すまねぇ!実は俺ももうスッテンテンなのよ。ツケにしてくんねぇか?」


「仕方ないなぁ。他の奴なら待たないところだが熊さんも八っつぁんも俺の遊びの師匠だからなぁ。待ってやらぁ」


「まぁ!金さんに悪い遊びを教えて遊び人にしてしまったのはあんた達だったのね!」


「悪い師匠ね!今度からあんたらのことを悪師匠その一、その二と呼ぼうかしら?」


「悪師匠言うなし!」


「その一、その二って扱いが雑すぎる……」


 皆に金さんと呼ばれている男は、しょげる二人の男の傍にいたが自分の着物の襟がだらしなく広がっているのに気付いて、さり気なく皆から離れて無意識に襟元を正そうとして指を伸ばしかけたが、次の瞬間には正そうとした指で、更にグイッと襟元を広げてみせた。


(うん、これでいい。この方がより、遊び人らしく見えるだろう)


 誰が見ても遊び人だとわかるように振る舞う。それが金さんと呼ばれるようになった遠山景元の常になってから三年の月日が流れていた。


 安酒と煙管の匂いが染み付いた着物で景元が往来を歩けば、景元を知らぬ者達は顔を背けて避けるように歩き、景元の素性を知っている武士達は堂々と、またはこっそりと軽蔑の眼差しを向ける。その度に景元は心の内で快哉を叫び、更に人々に願った。


(もっとだ。もっと俺を蔑めてくれ。軽蔑してくれ。そして遠山家の面汚しだと声高に言いふらせてくれ。そうすれば養父上も景蔵も諦めてくれる)


 景元は遠山家の実子ではない。元々、景元は遠山家の遠縁の家の四男で、子のいない遠山家を継ぐために8つの頃に養子に入ったのだが、その翌年に景蔵が生まれた。


 この国の子どもは皆、弱く生まれ、幼い内に神の庭に旅立つ者が多い。だから子どもは7つになるまでは神の子と見なされるが、三年前、景蔵は無事に7つの歳を迎えられた。


 遠山家の血を引く男子が生まれた以上、血の繋がらぬ者が家の家督を継ぐなど、あってはならないことだ。景蔵は清らかで利発な子どもで、あれほど良い子は他にないと思えるほど優しく、景元の自慢の義弟であった。


 景蔵が神の手を離れて人間として根を下ろすまでは景元が遠山の家に要るのは当然のことだったが、もう大台を超えたのだからお役御免だと自分を遠山の家から出すよう訴えたのに、養父も景蔵も景元が長子として遠山を継ぐのが当然だと譲らなかった。


 それならばと彼らが罪悪感無く見限ってくれるようにと景元が放蕩するようになって、はや三年の月日が過ぎた。


 三年も経てば、根負けしてようやく養父は景元に家督を継がすのを諦めてくれたのだが、だけど景蔵だけは華奢な身なりからは想像もできないほどの頑固さを見せ、未だに景元を諦めようとはしてくれなかった。


『兄上、そんな不器用な嘘はもうお止めくださいませ。私を欺こうなんて百年早いのですよ。観念して大人しく家督を継いでくださいませ』


 景元を真っ直ぐ見つめる景蔵の瞳はいつも澄んでいて、その言葉に一片も嘘がないと如実に伝えてくる。その瞳が変わらぬことに景元はいつも少しの安堵と沢山の申し訳なさでいたたまれなくなり、胸がしめつけられるようだった。


 生家で要らないと養子に出された自分がまた要らない者となった喪失感を景蔵に見透かされるのを怖れ、自ら遠山の家を出ると訴え続けることで矜持を保とうとする己の心の弱さを兄として心から慕ってくれる弟にだけは知られたくなかった。


 だから景元は最後の手に出ることにした。肌を焼く針の痛み。両肩から背にかけて彫り込んだのは"桜吹雪”。これで、もう景元は……引き返したくとも引き返せなくなった。  


 入れ墨を背負った者が遠山家を……公儀の役職に就けるはずもない。養父は入れ墨姿で顔を見せた景元を見限り、制止しようとする景蔵を押し留め、景元を家から追い出した。


(やっとだ。これでいい。これでいいんだ。これで景蔵が遠山家を継げる。あいつなら奉行になるのも夢ではない)


 必ず金を払うし、払えぬ時は景元の頼みを何でも聞くからという熊五郎と八郎太の言葉を聞きながら、景元は独り、安堵の息を吐き、景蔵が成人して遠山家を継ぐ日を楽しみにしていた。……しかし。


 景元が身を捨ててまで守ろうとした景蔵が病で倒れたのは景元が入れ墨をして僅か半月も経たない頃だった。しかも最悪なことに、薬が足りないことで江戸中のあちらこちらで起きる騒ぎは日に日に頻度が増す一方であったため、武家の息子といえども薬は手に入らなかった。


 それを養父から聞かされた景元は居ても立っても居られず、家の力を使って探したが無駄足に終わっただけだったから探しに行くなと制止する声を振り払い、怪我や病で苦しむ家族を助けようと足掻く者達と同じように、来る日も来る日も町を駆けずり回った。


 血は繋がっていなくとも景蔵は景元の何よりも大切な弟なのだ。あんなに良い子を喪うわけにはいかない。景元は遊び人の顔をかなぐり捨て、なりふり構わず薬の行方を探した。



「どうしてだ。どこにも薬がない!?」


 診療所、養生所、薬種問屋……薬を取り扱う場所を毎日片っ端から巡ってみたが、どこもかしこも薬品が不足しているなんて面妖な話だった。


 聞けば、薬を積んだ船が嵐で沈んだと言われ薬が届かないと言われたと困り果てた様子の医者達がいう。船が駄目ならと陸路で薬が調達しようとしたが、山賊に襲われ薬を奪われたり、関所で必要以上の足止めを食らって薬草が傷んでしまったと聞かされたと弱りきった薬屋達がいう。何とか手元に残っている僅かな材料で薬を作ろうとしたところ、暴漢に遭って利き腕をやられてしまったのだと疲れ切った薬師達がいう。


 景元が回った行く先々の場所は怪我人や病人で溢れかえり、薬を得られず皆が困り、弱り、疲れ切っていた。


「こんなこと尋常じゃない。ここは公方様がおられる江戸だぞ。一体、何が起きているんだ?」


 逢魔が時。足が棒になりそうなほど駆けずり回り、疲れ果てた景元の目の前に屋台が見えた。


「見慣れない屋台だな。……蕎麦か」


 橙色の夕日が当たっている屋台からは鰹節の出汁の香りが漂ってくる。景元は空腹を覚えて屋台に近づいたが暖簾の向こう側から感じる気配にかすかな既視感を感じたため屋台に入らず、立ち止まった。


「そんなに殺気を飛ばさないでくださいよ。()()()()()()


 その瞬間、景元は即座に蕎麦屋の屋台から後ずさり、夕日の影となって顔が見えない蕎麦屋の店主から距離を取った。


「っ!?……お前は一体何者だ!」


「あっしですかい?あっしはしがない蕎麦屋ですよ」


「しがない蕎麦屋だと?お前がただの蕎麦屋なら、どうしてこの数日、俺を付け回しているんだ!」


「おや?気づいていらしたんで?」


「当たり前だ。あんなにまとわりつかれて気づかぬ訳が無い。今は一刻も猶予がないゆえ気づかぬふりをしておったのよ」


「……ふ〜ん。景元様に気取られるなんて、あっしもまだまだってことですね。勉強になりました。こりゃ景蔵様の言う通りだったということですかねぇ?ハァ、残念です。あっしはね、賭けで負けるのなんて初めてなんですよ」


「景蔵!?何でお前が景蔵を知っているんだ?」


「……まぁ、話せば長くなりますし、今は時間がありませんからねぇ。景元様を見くびっていたお詫びに一つ教えて差し上げましょう」


 顔の見えない店主はスッと腕を伸ばし、人差し指をある方向に突き出した。


「景元様。江戸の薬不足は偶然が重なった不幸ではなく、悪党どもの仕業なんですぜ。この先にある薬種問屋と、そこと懇意にしている旗本が薬不足から江戸を救う薬種問屋と旗本となって公方様の御用達になりたいがために仕組んだのが事の始まりなんでさぁ」


「何だって!?何でお前がそんなことを知っているんだ!」


「さぁてね?自分が落ちぶれて身を引けば、弟が喜ぶと本気で思っている甘っちゃんにはわかりますまい」


「っ!何を!」


 痛いところを突かれた景元はカッと頭に血が上り、その激情の勢いのまま屋台に駆け寄って、屋台の暖簾を捲り上げたが、そこには声の主はいなかった。


「どこだ!」


 景元は屋台から出て辺りを見回したが誰もいない。


「……ここでさ」


 ふいに頭上から声がし、見上げれば屋根の上に夕日を背にする男がいる。残念なことに夕日の影となっていて、男の容姿はわからない。


 ただ声はかすれもなく、張りがあったため、自分と同じくらいの歳ではなかろうかと景元は思った。


「貴方様は帰るべきだ。貴方様の帰りをずっと待っておられる景蔵様のためにも」


「お前は本当に何者なんだ!何故そんなにも景蔵のことを!?」


 屋根の上の男はスッと立ち上がった。


「貴方様は悪人ではなかった。……あっしは景蔵様に負けた。なので遠山家からは手を引きますが、あっしも盗人の端くれ。遠山家が駄目なら次を探すまで。あちらにある薬種問屋と旗本が使っているお屋敷には金となる薬がたんまりとありますからね」


「え?!」


 顔の見えない男の言葉に景元は目を見開き、固まった。景元が悪人ではないから遠山家からは金を盗まない。だから次は薬不足の元凶である薬種問屋と旗本の屋敷に盗みに入るという盗人を名乗る男の言葉に、ある義賊のことが頭をよぎったからだ。


「悪人だけを狙う盗人……まさかお前は鼠小僧か!?止めておけ!いくら鼠でもあの旗本は分が悪すぎるっ!大名家の遠縁の者なんだぞ!私が今から父上に話してくる!そして薬を!」


「フッ。これだから甘ちゃんは。……武家こそ身分に厳しい縦社会ではないですか。どれだけお父上が御立派でも大名家の遠縁である旗本への介入など簡単に出来ることではないはず。しかも今はとにかく時間がないこともご存知のはずでしょう?公儀のお勤めもしていない。旗本に対する力もない。何も出来ない役立たずの甘ったれの貴方様に出来るのは一刻も早く景蔵様の傍に行くことだけ……それではあっしはこれで」


「何だと!おい!待て!」


 景元は男を止めようと声をかけたが、男は夕闇とともに姿を消した。






 

 最近、門前仲町の外れによく現れるようになった屋台の蕎麦屋。父の跡を継いで蕎麦屋になったという店主はまだ若く、美味くもなければ不味くもない蕎麦を作っていたが、中々に聞き上手であったため、屋台にはそこそこ人が来ていた。


「もうちっと蕎麦汁に鰹節の風味が出れば、もっと美味しくなるんでないかい」


「へぇ、勉強になります。次からそうしてみます」


「蕎麦を湯がく時間をもっと短くしたらコシも出ると思うな」


「へえ、勉強になります。次からそうしてみます」


 客達が好き放題に言いながら蕎麦をすすっている中、店主は笑んだまま器を洗う。常に笑顔の店主が立ち昇る湯気の向こうで時折冷徹な目で辺りを見据えていることに客の誰もが気づかない。客達が知らない蕎麦屋台の店主の名前は次郎吉という。次郎吉は少々、人とは違う半生を歩んできた。


 と、いうのも貧しい農村で生まれて口減らしとして、まだ神の子である幼い時分に親に捨てられたのだ。それは田舎ではよくあることで特に珍しいことでもなかったのだが、他の者と違ったのは捨てられた後、生きるために盗人になった次郎吉を拾い上げた男がいたことと、そしてその男が蕎麦屋に身をやつした抜け忍であったことだった。


 男は忍びの里を抜け出した後、独りで全国津々浦々を放浪していたという。そして年老いた今、自分が生きた証が欲しいと考えるようになっていて、そこにたまたま居合わせたのが次郎吉だった。 


 男の懐を狙った次郎吉の身体能力の高さに目をつけた男は、次郎吉を気に入り、養父となって忍びの身のこなしと、闇に生きる術のすべてを叩き込んだのであった。


「おう、金さん。もう一軒行こうぜ!」


「酒も美味いが、そこのおかみは別嬪なんだぜ」


「おいおい、熊さん、八っつぁん。そんなに酔っ払って、二人ともおふくろさんにどやされるぞ」


「つれないこというなよ、金さん。後もう一軒だけ〜」


「お願いだよ、金さん。実は熊さんな、またお清さんにフラレたんだが、これで百回目なんだそうだ。慰めてやりてぇんだよ」


「うわぁ!八っつぁん、それは内緒だって言ったじゃないか!」


「あ、すまねぇ。ついうっかり」


「百回目の失恋か。それじゃぁ仕方ないなぁ、後一軒だけだぞ」


「ありがたい、金さん」


「恩に着るぜ!」


 屋台の前を三人連れの男達が通り過ぎていく。千鳥足の男を支えるようにして歩く男達の片方は下町で金四郎と名乗って遊び歩いている遠山家の嫡男、景元であった。


 巷では放蕩の限りを尽くしているともっぱらの噂で、下町の者達には養子に出される前の名前である金四郎と名乗り、彼らに金さんと愛称で呼ばれて慕われていたが、侍達の間では"遠山家の面汚し”、"恩知らず”と後ろ指をさされている男だった。


(ふ〜ん?)


 酒臭い三人の男達。二人の男は酔いで顔が赤く、足元はおぼつかないが景元だけは素面のようだ。


(酒に強いのか?いや、それにしては……)


 男を支えて歩く景元が一瞬見せた、その瞳の奥に宿る、鋭利な刃物のような視線は、酔っぱらい二人が暴漢に絡まれないよう警戒をしていたし、それを裏付けるように足取りは一流の武人のように揺らぎなく、しっかりしていた。


(……この御仁、本当にただの遊び人なのか?)


 養父亡き後に江戸に出てきた次郎吉は、養父に叩き込まれた己の腕を試したいという衝動から、夜な夜な家々に忍び込むようになっていた。


 その結果、次郎吉は忍び込んだ先で商人や武人の悪行を見てしまい、生きるために盗むのなら、金のない善人より、金のある悪人から盗めばいいという極論に達し、蕎麦屋台の店主を隠れ蓑にしながら、鼠小僧と名乗って盗賊業に勤しんでいた。


(でも、まぁ、義理の息子に放蕩を許すぐらいだ。そういう家は善とは言えんだろうし、きっと遠山家には金がたんまりあるのだろう)


 放蕩息子を野放しにする武家への反発もあって、次郎吉は次の夜の丑三つ時に、夜鳥のごとく遠山家の塀を越え……そこで月光を受けて淡く光る小桜と出会った。




 忍び込んだ遠山の屋敷。そこで次郎吉を待っていたのは金銀財宝ではなく、咳き込んで眠れない夜を過ごす一人の少年だった。


 少年は遠山家の実子で景元の義弟の景蔵であった。景蔵の痩せ細った肩が絶え間ない咳に揺れていたが家に忍び込んだ怪しげな男を見上げる、黒目がちのどんぐり眼は好奇心いっぱいにキラキラと輝いていた。


「生きて鼠小僧とお目にかかれるなんて思いませんでした。たまに夜ふかしするのもいいものですね。私は運が良い」


 不意を突かれた次郎吉は言葉に詰まった。確かに景蔵は遠山家の実子として生まれ、食うのも寝るのも困らない恵まれた環境に育ったのだから運が良いと言えるだろう。それに養子である義兄は家を出、家督も景蔵が継げるのだから、それだけを見れば文句無しに幸運な生まれだと言えるだろう。……だけど。


「その顔色……。盗みに入ったあっしが言うのも何だが、他の家人は何をしておられるので?貴方様には付き添いが必要だ。そして直ぐに医者を呼ぶべきだ」


「気遣いありがたいが、毎夜のことだから私は一人で構わないのです。皆、忙しいですし。母上は私の身を案じるあまりに倒れられました。父上は昼間にお勤めがあるので付き添いは私からお断りしました。それに今はどこも薬不足。医者を呼んでも何も出来ないと言われました」


 行灯の橙色の光に照らされていても、月光よりも青白い景蔵の顔色を見て、養父を看取った経験を持つ次郎吉は息を飲んだ。 


「そうはいっても、その顔色は……。貴方様には使用人か誰か四六時中付き添う方が必要だ。何たることだ。もしかして放蕩息子が金を盗んだから家に使用人を雇う金がないのか?」


 怒りを感じ、思わず握りこぶしを作る次郎吉に景蔵はどんぐり眼を更に丸くさせ、小さく笑った。


「フフッ、流石は兄上。天下の鼠小僧まで騙すなんて」


「え?」


「部屋に使用人を置かないのは私が人の気配に敏感で他人に付き添われると余計に眠れない質だからなんです。……それに誤解されているようですが、兄上はこれまでに放蕩で遠山家の金を持ち出したりなんて一度もしたことがありませんよ」


「えっ!?それは一体どういうことで?」


「ああ、実はですね……」


 首をかしげて不思議がる次郎吉に景蔵は何故、景元が放蕩をし、入れ墨を体に入れてまで遊び人を演じているのかを語った。 


「ゴホゴホ……と、いうわけで兄上は至極真面目な私の自慢なのですよ。それにゴホッ、性根がとてもお優しい上に聡明なので父上だって本当は戻ってきてほしいと思われてゴホッゴホッゴホッ……」


 咳混じりに語られた話が養子である景元が疎まれることで実子である景蔵に家督を譲るための方便なのだと知って次郎吉は呆気にとられた。


 (あまりにも不器用な自己犠牲だろ、それ)


 そんな話を信じろと言う方がどうかしていると、次郎吉は鼻で笑った。


「馬鹿な……そんな男が本当にいるわけがない」


「ゴホッ、信じられませんか?……そうだ、ここであったのも何かの縁。それでは一つ私と賭けをしませんか?」


「賭け?何を賭けるんで?」


「私の話が真実か否かをです。私は兄上を信じていますが、見極めはあなた自身にお任せします。家の金は私の物ではないから渡せませんが、あなたが勝ったら私の宝物を差し上げます」


 そう言って景蔵は枕元から一つの印籠を取り出した。


「ほう……。これは中々に良いものですね。ご両親からの贈り物で?」


「違います。これは兄上が遊戯場の用心棒で稼いだ最初の金で買ってくれたものです。兄上は用心棒を請け負うことで遊ぶ金を賄っているのですよ」


 次郎吉の目線に持ち上げらた木の印籠の本体には月光の下に咲く桜の蒔絵が描かれていて、小さな翡翠の玉がついた根付が揺れていた。


 養父から翡翠は異国では幸福や長寿を願う石だと言われていると教えられたことがあった次郎吉は、印籠に付けられた根付けから景元の教養の高さと弟への気遣いを感じとった。


「へぇ、用心棒ねぇ……。いいんですかい、そんな大事なものを賭けなんかに使って?あっしは賭け事に強くてこれまで負け知らずなんですよ。それに、もしかしたらあっしがズルをするかもしれませんよ?」


「心配していません。あなたの顔を見た私の命を奪わず、温かい言葉をかけてくれた。そんなあなたを私は信じることにしたのですから」


 普段、次郎吉が浮かべる作り物の笑顔ではなく、心からの笑顔を向けられた次郎吉はたじろぎ、面食らった。


「っ!?……そ、そりゃ、どうも」


「それに賭けは私の勝ちですからね」


 自信満々の景蔵に何と言っていいか、わからなくなった次郎吉は早々に退散することにした。


「え?えっと〜、それはどうかな〜?……それじゃ、あっしはそろそろ御暇しますんで、しっかり養生してくださいよ。見極め終わり次第伺いますから、それまでお大事に。……では失礼しやす」


 そう言い置いて次郎吉は景蔵の前から姿を消した。次郎吉が鼠小僧となって初めて何も盗まずに帰ってしまったことや、うっかり賭けに乗って再訪問を約束してしまったことや、次郎吉が賭けに負けた場合の話をすることをすっかり忘れていたことの諸々を思い出したのは隠れ家に帰った後のことだった。


「あんな子ども相手に何やってんだか、俺……」


 子ども相手に気圧された事実を前に次郎吉は一人赤面し、ぐったりとその場で崩折れたのだった。



 そんな事情があったため、仕方なく次郎吉は翌日から景元を尾行する日々を送るようになったのだが、最初の日、景元の姿を矢場で見つけたため、次郎吉は賭けの勝利を確信した。 


 だが数日も待たぬ内に次郎吉は景元が日中は診療所、養生所、薬種問屋、薬を運んでいた廻船問屋、飛脚屋……と言ったところを駆けずり回り、夕方から夜にかけては飲み屋や賭場や遊戯場といった場所に遊びに来る者達に手当たり次第に声を掛け、江戸から消えた薬の行方を多方面から探ろうとしているのを知り、勝利への確信が揺らいでしまった。


(……なるほど。弟のために薬を探しているのか)


 弟の命を救わんと日々奔走していると知った次郎吉は景元という男を見直した。しかし、それだけで景元が遊び人を騙っているだけの善人だと判断するのは早計だ。景蔵に負けを認めさせるためにも調査は公正に念入りにしなければならない。


 こういうときの情報収集に鼠小僧としての夜の顔と屋台の蕎麦屋という昼間の顔はおおいに役立つ。次郎吉は尾行と同時に景元の情報収集に動くことにしたのだが、それは景蔵が言っていたことが正しかったという証拠の裏付け調査のようなものであった。


 遊ぶ金は矢場の用心棒代から。呑むのも遊ぶのも、多くの人の目がある場所や公儀のお勤めをしている武士達がよく立ち寄る場所のみ。清廉な弟に軽蔑されたくないという気持ちがあるのか色恋遊びは全くせず、人目がない場所では剣の鍛錬を欠かさなかった。


 おまけに放蕩息子の遊び人を気取っているのに困っている人間をほうっておけない性分で、これまでに景元に何らかの形で助けられたという下町の者達は数しれず。どこをどう切り取っても景元が本物の放蕩息子だと示す証拠は微塵も出てこなかった。


(なんてこったい。このあっしが負けちまうなんて……)


 子どもに負ける悔しさと人となりを見抜けなかった羞恥を抱えつつ、それでも何か無いかと悪あがきにも尾行を続ける次郎吉は、やがて景元が朝早くから、札付きの悪だと評判のごろつき達がたむろする場所を選んで駆けずり回っているのに気付いた。


(どうやら今回の薬不足騒動が人の手による悪事だと気づいたようだな。蛇の道は蛇ともいうから、小悪党達から手がかりがないか探ることにしたんだな。目の付け所は良いが、これでは時間がかかりすぎて手遅れになるだろうよ)


 陽の光の下を駆けずり回ることしか出来ない景元と違い、次郎吉は闇夜に紛れて幾多の屋敷に忍び込める。先日、次郎吉は偶然忍び込んだ屋敷で、ある薬種問屋と旗本が結託し、将軍家の御用達を得るために四方八方に手を回して、薬を隠匿するという大悪事を企んでいることを知ったのだった。


(賭けはあっしの負けだった。あっしが負けた場合の賭け金は決めてなかったが、子どもとの約束を違えるのは性に合わねぇからな。景蔵様の大事な宝物に見合うくらいの宝物を渡さねばならねぇ)


 景元の傍から姿を消した次郎吉は闇に紛れて疾走する。


(あれだけお前は役立たずだと言っておいたんだ。景元様は大人しく景蔵様の元に行くだろう。あんな状態の子どもが一人、夜中に独りで咳き込んでいる姿なんて見たくはない。一刻も早く宝物を盗りに行かねばな)


 次の標的の悪人達が持つ宝は薬だ。それがあれば景蔵だけではなく、大勢の命が救われる。忍び込む手立てはある。鼠小僧として名を馳せた腕前もある。鼠小僧であることを誇りに思う次郎吉に迷いはなかった。……だけど。次郎吉は江戸中を巻き込んで悪事を働くような大悪党と対峙するのは、これが初めてだった。


 だから次郎吉は小銭を稼ぐ小悪党と大悪党の違いを……、自分の倍以上も生きている悪人の……、生きるためにする悪事ではなく己の欲望を叶えるためだけに悪事を働き、大悪事を働いている自覚がある悪党のずる賢さと目敏さと用心深さを本当の意味で理解していなかった。






 皆が寝静まるのを待って四刻が経った。時刻は草木も眠る丑三つ時。次郎吉はいつものように目当ての屋敷に着くと、塀をヒラリと乗り越えた。そして薬の隠し場所であった蔵までは難なく辿り着けたのだが、先に潜入したときよりもはるかに多い私兵達に取り囲まれて窮地に陥ってしまった。


「くっ!しまった!」


(前回忍び込んだときにいた見張りはせいぜい4、5人しかいなかったのに、なんで十数人増えているんだ?)


「そこまでだ鼠。ここを見たお前を生きては帰さない」


「盗みの下見に気がついて見張りを増やしたのは正解でしたね」


 慢心と薬を一刻も早くと焦る気持ちが判断力を鈍らせてしまったせいで、沢山の私兵に囲まれた次郎吉は動くに動けなくなった。


 狼狽える次郎吉の前にわざわざ出て来て、ふんぞり返るのは旗本と薬種問屋で、次郎吉はこんな夜更けまで起きて盗人を待ち構え、危険も考えずにわざわざ出てくるとはまるで三文芝居のようだなと他人事のように思った。


「今日、大奥の側室様が風邪にかかったようだと知らせがあった。城で確保されていた薬が尽きた今が公方様に気に入られる絶好の好機なのだ。鼠めに薬は盗ません。こやつを斬り捨てろ!」


 見張りの侍達が一斉に抜刀し、耳鳴りがしそうなほどの緊迫感が辺りを支配していく。次郎吉は侍達を窺い見る。逃げたくとも抜き放たれた白刃の数が多すぎる。幾度かは躱したが、やがて限界が来て、足がもつれてつまずき転び、次郎吉は地に尻が着き、もはやここまでとギュッと眼を閉じた。


 だがその時だった。夜の静寂を破る咆哮が響いた。


「大変だ〜!旗本様のお屋敷が火事だ!」


「大変だぞ〜!火事だぞ〜!」


「大変大変!蔵から煙が見えたぞ〜!」


「火消しを呼べ〜!」


「付け火だ! 延焼するぞ!」


「同心と岡っ引きも呼べぇ〜!」


 野太い男達の叫ぶ声が突如、辺りに響き渡った。近くで誰かが半鐘を激しく叩き、江戸の火消し達を呼び寄せている。放火は大罪であるから同心も岡っ引きも呼べと騒ぎ立てる声がひっきりなしだ。


「何だってっ!?」


 声が上がった次の瞬間、屋敷の門は木槌で打ち破られ、一斉に数十人もの男達がなだれ込んできた。屋敷にいた人間の何倍もの人数が一気に屋敷内に入ってきたせいで度肝を抜かれたのか、見張りの男達は勿論のこと、旗本や薬種問屋も予想外の事態に呆然としてしまい、直ぐに動けなかった。


「火事なんて起こっていない!出ていけ!」


「ここをどこだと思っている!屋敷に入ってくるな!」


 ハッと我に返った旗本や薬種問屋や私兵達が侵入者を追い出そうと声を張り上げるが、もう遅い。火の粉や煙から身を守るためか、ほっかむりして口と鼻も手ぬぐいで覆った用意周到な火消し達は口々に火事だと騒ぎ立て、屋敷中にどんどん踏み込んでいく。


「いえ!確かに焦げ臭い煙が上がったのを見たと言う者達が大勢いるのです!火の始末が遅れれば取り返しがつかぬことになる!江戸の町を火から守る者として、直に火元を確認するまでは引き下がれません!」


 私兵と火消し達がもみ合う中、火消し達とおなじようにほっかむりに手ぬぐいで顔を覆った姿の岡っ引きと同心らしき男達までもが後を続いてなだれ込んでくる。


「火付盗賊がいると聞いた!」


「付け火の犯人はどこだ!」


「そんな奴はいな「蔵です!蔵に逃げました!」」


 いくら私有地とはいえ、江戸に住む者達にとって火事はけして見逃せない凶事の一つだ。火は一瞬で燃え広がるのに直ぐに消すことが難しい。しかも付け火の疑いもある。付け火は大罪であるため、同心や岡っ引きも下手人探しをせねばならないと屋敷中に踏み込んでいく。


 数十人もの男達が大惨事を防ぐためには多少の無茶は致し方なしだと強気の姿勢を崩さず、ズカズカと屋敷内に入り込んでいったため、広かったはずの屋敷は大勢の侵入者達であっという間に手狭となっていった。


 侵入者達に薬を見られまいと侵入者達を阻止しようと見張りの男達も奮闘したが、火事から江戸の町を守るためという大義名分を背負って押しかけてきた男達の人数があまりにも多すぎたため、剣を使う間もなく、押し合いへし合いする内に何故か皆が気絶し、バタバタと倒れていった。


 首謀者の二人も何やら身分がどうとか責任者はどこだと喚いていたが、こちらも大人数と押し合いへし合いとなった後は見張り達と同じように気を失った。それを呆然と見ていた次郎吉は、大人数いる男達の中で二人の男が、ブスブスと煙を上げる焦げた秋刀魚の載った七輪をそれぞれ屋敷の中に置いて逃げていくのを目敏く見つけ、目を丸くさせた。


(っ!?あの二人、どこか見覚えが……。あっ!もしやあれは景元様と一緒にいた男達では?確か熊と八……)


 大混乱の中、目をこらせば、侵入してきた男達の背格好や歩き方の癖にどれも見覚えがある。いくら顔を隠していても、忍びだった養父が持つ技術を全てを叩き込まれた次郎吉には、見かけた者達の体つきや歩き方の癖を一度見たら忘れない特技があった。


 だけど一人二人なら、ともかく、数十人の男達の殆どに何かしらの見覚えがあるのは、どういうわけなのだろうか。不思議に思い、考えを巡らそうとした次郎吉の腕を誰かがしっかと掴む。


「何をグズグズしている!行くぞっ!」


 顔を上げた先にいた男は、ここにはいないはずの景元だった。


「っな!?何故!景蔵様はっ!あの方は貴方様を待ってらっしゃるのに!」


「あいつはお前も待っている!あいつと賭けをしたのはお前だろうが!参りましたと頭を下げにいけ!」


 景元が次郎吉の腕を引き、屋敷を出る姿勢を取れば、屋敷に入ってきた男達もそれに続いて一斉に屋敷から引き上げ、門から出た途端、男達は蜘蛛の子を散らすように四方八方にバラバラと駆け去っていく。


 それに驚きながら後ろを振り返れば、男達の内の数人が気絶したままの悪人達を猿轡して縄で手足を縛り上げ、もう数人が縛った悪人達の着物に酒瓶の中身を全てひっかけ、開け放たれた門前に捨て転がして去っていくのが見えた。


 こんな真夜中に大勢の男達が屋敷に乗り込んで大騒ぎしているのに野次馬の一人も駆けつけてこない。半鐘も鳴り響いていたはずなのに人っ子一人来やしない。まるで火事騒動なんて最初から起こっていないように屋敷の外は静かだった。


(まさか……)


 辺りを見ていた次郎吉は自分の腕を引き、走る景元に視線をやる。次郎吉の腕を掴む手の平は剣の鍛錬を怠らない真面目な武芸者のような剣ダコが出来て皮膚は厚く力強い。人を掴んで走っているとは思えないほどの健脚で体幹にも揺らぎはなく、前を見て走る眼差しには一片の迷いもない。


 唯一の乱れは着物ぐらいで、先程の押し合いへし合いのせいなのか、着物の右袖が肩からパックリと破れていて、そこから桜吹雪の入れ墨が見えている。それを見つけた次郎吉は景蔵が持っていた印籠を思い出し、景元の後をつけていた数日間の間に景元が立ち寄った幾つもの場所を思い出し、そこで景元が声をかけた様々な者達のことを思い出した。


(そんな、まさか……)


 連日、景元が駆けずり回っていたのは診療所、養生所、薬種問屋、矢場、居酒屋、遊戯場……。それ以外の様々な場所でも病や怪我を抱え苦しんでいる家族を持つ者達は大勢いて、皆が暗い顔つきをしていた。


 景元は駆けずり回った様々な場所にいた者達に誰彼構わず積極的に話しかけていた。連日、顔を合わせば否が応でも顔見知りとなる。お互い薬がなくて困っている身であると知れば身分の上下に関係なく親近感を持つ。見つかった際は必ず声を掛けると約束し合えば、親しみは増していく。話の最後には各々の大事な人を救うため、お互い力を合わせ、この苦難を乗り越えようと励まし合えば、更に仲間意識は強くなる。


(たった約四刻の時間で、あれほどの策を立て、あんなにも大勢を集めてくるなんて……)


 実に突飛だし、無謀過ぎる策だ。ぶっつけ本番の出たとこ勝負、一か八かの大博打にも程がある。相手は大名家を遠縁に持つ旗本。身分を理由に無礼討ちされたって文句は言えない相手で平時なら庶民が束になっても敵わない相手だ。


 平常時だったら誰も策には乗らなかっただろう。誰だって自分の命が一番大事だ。けれども今は非常の時。男達は自分の命よりも大事な人を守るために景元に手を貸した。


 そして景元は自分に協力してくれた仲間達を誰一人死なせることなく、それぞれの大事な人のところに帰したのだ。こんなことは闇に生きる者には逆立ちしたって出来ない所業だった。


(負けだ。俺の完敗だ……)


 次郎吉は引かれる腕をそのままにして、闇夜の中を走る力強い桜吹雪を見ながら駆けていった。





 次の日。早朝、とある屋敷前を()()通りかかった者の通報によって、身内に怪我人や病人を抱える火消しや同心や岡っ引き達が、黒い煙が上がっている屋敷内の人間が皆、地面に倒れているという異常事態を免罪符にして、堂々と正面から屋敷に入り、火元を見つけようと屋敷内をくまなく探し回ったらしい。そして彼らは()()開け放たれた蔵の中に大量の薬があるのを見つけたという。


 薬不足の中、突然こんなにも大量の薬が見つかったら、出どころを確かめたいと思うのは至極当然の成り行きだ。そのために岡っ引きや同心だけではなく、持病の癪を抱える妻を持つ奉行が直接調べに動いたようだし、江戸の一大事だからと、もっと上の立場にいる、怪我を負った息子がいる者や腰痛で苦しむ母を持つ者達も調べに鼻息荒く加わったらしい。


 屋敷にいた者達は火事を騙った大人数の男達が侵入してきたと訴えたという。自分達ではない男達が自分達を縛り上げ、蔵に薬を置いていったのだと主張したらしい。だが、早朝に発見された屋敷の者達は誰も縛られていなかったと、第一発見者の町人も後から屋敷に来た火消しや岡っ引きや同心達も口を揃えて証言したという。


 それに加え、屋敷の近くに住む者達は夜中に大人数が歩く足音など聞かなかったと誰もが口を揃えて証言し、地面で倒れていた者達が発見された当時、彼らの着物はどれも酒臭かったため、酔っ払って夢でも見たのだろうと彼らの主張はあっけなく一蹴された。


 焦った彼らは火事騒動は確かにあった。半鐘が鳴ったはずだと主張したが、朝に駆けつけた火消し達によって屋敷にあった七輪の上に焦げた秋刀魚が見つけ出され、どうやら脂が乗った魚を焼いた煙のせいで火事だと思い込み、夢の中で半鐘を聞いたのだろうと、頭痛持ちの火付盗賊改方の長官は判断し、男達の主張を退けたという。


 それでも彼らは往生際悪く、犯人は鼠小僧だと言ったらしい。だが鼠小僧が狙うのは悪人のみだと江戸中で認知されつつある中、それを言うのは悪手でしかなく……、その後、沢山の役人が屋敷内をくまなく捜査した結果、天井裏から薬を非合法な方法で購入した証拠となる裏帳簿が見つかったため、彼らは今回の薬不足の犯人として捕まった。


 そうして異例の速さで全ての罪が明るみに出て悪人達は白州で裁きを受け、彼らが隠し持っていた薬は公方様の名の下に必要とする者達に平等に分配され、ようやく江戸の町に平和が戻ったのだった。







 薬騒動から数カ月後。八丁堀近くに現れた蕎麦屋台では、店主が美味くも不味くもない蕎麦を三人の客に振る舞っていた。


「いや〜、あの時は本当に大変だったよなぁ。お前のとこのおかみさんも大変だったんだろ?」


「ああ、あの時は本当に辛かった。家内は日頃から喉が弱かったからな。どうなるかと夜も眠れない日が続いてしんどかった。でも公方様が薬を俺等にも分けてくれたから事なきを得たんだ。公方様様だな」


 大工姿の二人の客は黙って蕎麦をすする横の遊び人風の男に目もくれず、当時は大変だったと話に花を咲かせていた。


「そういや、あの事件は公方様の命を受けた公儀隠密が解決したってことだけど、実は公儀隠密ではなく、鼠小僧が江戸を救ったんじゃないかって噂だよな」


「それ、与太話ばかり書く下町のかわら版のせいだろ?昔いた陰陽師は狐から生まれたとか、京の都の帝が竹から生まれた姫君にご執心だとか、何十年かごとに空に箒のような星がやってくるとか、わけの分からぬことばかり書くと評判じゃないか」


「ちぇっ、バレてたか。でもさ、天下の大泥棒が江戸の危機を救ったって話の方が面白いじゃないか。なぁ、蕎麦屋?」


「さぁ、どうでしょうねぇ……」


「けっ!つれねぇなぁ。じゃ、アンタも公儀隠密がやったと思ってるんだな?」


「いや、あっしは……。あっしは兄弟桜のおかげかなと……」


 店主がボソリと言うと、黙って蕎麦をすすっていた男がジロリと店主を一睨みしたが、二人組の男達は気づかず、店主に呆れたようなため息をついた。


「ハァ、桜の兄弟?何だ、そりゃ?桜の妖とかでも言うつもりかい?」


「鼠小僧がやったと話すコイツも大概だが、アンタは与太話を言うのが下手だなぁ。まぁ、いいか。……それにしても、この蕎麦汁、もうちょっと何とかならねぇか?」


「それは同感だな。不味くはないが美味くもないからな。次は醤油を足してみたらどうだ?」


「へぇ、勉強になります。次はそうしてみます」


「おう。それじゃ、ご馳走さん、お代はここに置いてくな」


「俺もここに。次に期待してるぜ」


 二人の客達が出ていき、客は一人だけとなった。店主が二人が食べた器を下げて洗っていると、残された男が言った。


「あのときの蕎麦は美味かったが腕が落ちたのか?」


「……ありゃ、売り物ではなく、あっしの宝物ですから売らないんですよ、景元様」


「今日は息抜きで来たんだ。この格好のときにそう呼ぶのは止めてくれ」


「へいへい、わかりやしたよ……金さん」


「あの腕前なら、屋台でなく店を持つことだって出来るだろうに、何故そうしない?」


「そりゃ、本業が疎かになっちまいやすからねぇ」


「……まだ続ける気か」


「こればっかりはどうもねぇ」


「……」


 そう答えた後、客が何も喋らなくなったため、店主も黙ったまま洗い物を続けたが、二人の脳裏に、一人の少年の姿が美味しそうに蕎麦をすすっている姿が浮かび上がった。





 あの夜から数日後。公方様の名の下に薬は皆に行き届いたが景蔵には効かず、彼は眠るように息を引き取った。運命は非情だったが、それでもようやく手に入れた薬は景蔵の潰えようとしている命を労り、咳で眠れぬ夜の苦しみは取り除いてくれ、深く眠れた景蔵はその日、久方ぶりに床から出ることが出来た。


 景蔵は景元の手引で昼間の遠山家にやってきた次郎吉に賭けに負けたと頭を下げられ、これが己の宝物なのだと差し出された蕎麦を馳走になってご機嫌だった。


「なんて美味しいんだろう!蕎麦も汁も最高だ!鼠は日本一の蕎麦屋だったんだね!」


「へぇ、当然でさ。何せあっしに蕎麦を仕込んだ養父は信濃と出雲の両国で修行したそうで。だから、この蕎麦はそんじょそこらの蕎麦とはひと味もふた味も違いやすぜ」


「そうか。鼠の宝物はお父さんが教えてくれた蕎麦だったんだね。私にも食べさせてくれてありがとう」


「いえ、賭けに負けたのはあっしですからね」


「ウフフ……ね、言った通りだったでしょう?」


「はい、参りました。あっしの完敗です」


 畏まって負けを認める次郎吉を見て満足したのか、景蔵は景元に視線を移し、微笑んだ。


「フフッ……兄上。鼠にも本性を知られてしまったことですし、観念して遠山家を継いでくださいね」


「景蔵。しかし俺はもう……」


「兄上は私の自慢なんです。どうか私の分まで江戸を守ってください。約束ですよ。いつまでも空から見守っていますからね」


「そんな事言うな……」


 弟から顔をそらし、涙を堪える兄の姿に景蔵はまたクスリと小さく笑うと、景元の袖をまくって、肩の入れ墨にそっと触れた。


「綺麗な桜吹雪ですね。まるで兄上の心、そのものです。清い桜吹雪……」


 そう呟いた後、景蔵は満面の笑みを浮かべた。


「……ああ、私は幸せ者です。日本一の蕎麦を兄上と食べられた。……本当に幸せだ」


 それが次郎吉が見た、景蔵の最期の言葉だった。


 後日、白州で裁かれた悪人達の内、旗本だけが恩赦を受けて、密かに罰を逃れたという。何でも病にかかったと思われた公方様の側室が懐妊されていたことが判明し、罪を犯した旗本がその側室の遠縁だったのが理由であったらしい。


 その理不尽に景元は血が滲むほど拳を握りしめて怒りに震え、次郎吉は日本一の蕎麦を今後も屋台で作らぬ選択をした。




 蕎麦を食べ終えた景元は代金を払うと、こう言い置いて去っていった。


「鼠。俺は奉行になる。景蔵が望んだように、この江戸を悪人達の手から守ってみせる」


 それから更に数年後。北町奉行所の白洲にて、数年前に薬不足の一件で捕まった旗本が別件で捕まった際、若き奉行が相手に豪快に片肌を脱いで見せた。


「おうおう、この桜吹雪……見覚えがねぇとは言わせねぇぜ!」


 そこにあったのは鮮やかな入れ墨で、あの日、幼き少年が最期に綺麗で清いと褒めてくれた、気高き桜吹雪であった。


「これにてようやく一件落着しましたよ……景蔵様」


 白州の桜吹雪はけして悪人を見逃さない。その様子を屋根の上で見届けた鼠は満足気に一つ頷くと江戸の闇へと消えていった。

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