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パーティー

作者: NiKO
掲載日:2026/03/27






「自殺するのって勇気?」

「病気だろ」

 折り畳み式のナイフを意味もなく開いたり、閉じたりしながら、弟が兄に尋ねた。ナイフの持ち手は黒く、樹脂でできた表面はざらざらしている。それに反して、刃の部分は鋭利に研がれ、滑らかに光っていた。切っ先から刃元までを親指でつっとなぞる。血は出ない。どれほど力を込めれば、この皮膚は裂けるのだろう。したたるほど、血が流れてくれるのだろう。

 あれは、図工の時間だったか。隣の席に座っていたバカなやつが、使い方を誤ったのか彫刻刀で手の甲を切った。人差し指と親指の間、ちょうどペンを持つときに軸が当たる部分の皮膚を、ざっくりと。「あ、やばい」と、彼はそれだけしか言わなかった。次の瞬間には、血が大量に噴き出て、先生が顔面蒼白になって席にすっ飛んできた。彼の鼓動と共に、血がビュッ、ビュッと噴き出ていくのを間近で見た。ドクン、ドクンという皮膚に覆われた鼓動の音も一緒に聞こえたような気がした。心臓より高いところに手首を挙げられて、彼は保健室に向かった。机の上は、血の海になっていた。

 血の海を何人かで片づけていたとき、彼が扱っていた彫刻刀の小さい刃に、なぜか目が留まった。こんな小さな刃でも、あれだけの血を流せるのかと、不思議に思った。そばに置いてあった資料集は血まみれになっていたが、紙の上を流れる血は意に反してさらさらしていた。鼻血みたいにドロドロなんかじゃない。それまで血と言えば鼻血しか見たことがなかった。吸水性の悪い資料集の紙面で、血がトイレットペーパーにぎゅうっと吸い込まれていくのを、笑いながら見ていた。おかしかった。とても。おかしかったんだ。「ウケる」と、その場では、それだけ言った。周りのやつらも「ヤベぇ」とニヤニヤ笑っていた。まるで、こんな非日常性を自分たちは求めていたのだ、とでも言いたげに。

 そのまま早退した彼は、次の日何事もなかったかのように教室に現れた。四針縫った。ただそれだけ。手には包帯を巻いていたが、まったく痛そうには見えなかった。本人も痛くなかったと言っていた。四針縫う前に打たれた麻酔注射のほうがよっぽど痛かったと。なるほど。あれほど血が出るような傷は、逆に、痛くないのか。この一連の記憶が、脳にガリ、ガリと彫刻刀のようなもので刻みつけられていくのを感じた。

「あるいは狂気か」

 兄の祥一郎しょういちろうが机上から目を逸らさず、息を吐くように呟く。隆司りゅうじが彼に目を向けると、さっきから取り組んでいた課題が解き終わったのか、祥一郎が「んー」と、大きく一つ伸びをした。「なに解いたの?」と訊けば「電離度アルファ。ピーエイチ」とこちらを見ないまま返事が返ってきた。

「ピーエイチってなに?」

「potential of hydrogen」

「楽しいの? それ求めて」

「訊いてくるやつがいるんだからしょうがねえべ」

 到底、兄の発音には及ばない調子で「ポテんシャルおぶハイドらじぇん」と隆司が口の中で呟いていると、振り返った祥一郎と目が合った。手でいじっていたナイフに彼の視線が動くのを感じる。

「さっきからアブねえの持ってんな。どこで手に入れた」

「じいちゃんち。じいちゃんは鉛筆削んのに使ってたけど」

 「パクってきた」となぜか誇らしげにのたまう弟に、兄はただ、「悪いやつ」とだけ言って笑った。

「なに。お前、死にたいの」

「死んだほうが、人生楽じゃね、って話」

 ナイフを向こう側の壁に投げつけながら隆司が言った。初めて投げてみたわりに、それはサクッと、きれいに壁の白へと刺さってくれた。

「人生が楽と言うよりは、人生そのものが終わるんじゃないか」

 ナイフの投げつけられた壁を無表情で見つめている祥一郎が、淡々と、ただその場で思ったことを述べているだけのように言った。それまであぐらを搔いて座っていた兄のベッドの上で、ゴロンと横になる。世界が九十度傾いて見えるようになった。

 そうか。死ぬのは簡単だと思ったけれど、それは同時に人生が終了することを意味しているのだ。THE() END(エンド)。すべて終わりだ。楽とも、痛いとも思わなくなるのか。

 じゃあ、生きるのと、死ぬの、どっちが苦しいわけ。

 死ぬってなんなの。

 死んだらどうなんの。

「悲しいね。お前まだ十二なのに」

 ふうと溜め息をついて、祥一郎が肩を竦める。その言葉のわりには、あまり本気で弟を憂えているようにも見えなかった。彼の瞳に意志の光がないわけでもない。でも何だろう。六歳年上の彼には、いったい自分とは違う、何が見えているのだろう。何を、見ているのだろう。

 ねえ、兄ちゃん。

「十二歳のとき、死にたいって思ったことある?」

 至極純粋な疑問だった。死ぬのは自分が思っていた以上に簡単で、死のうと思えばいつだって死ねるわけで、でも死んで楽になるかと言われたら、その論理は破綻しているのだ、という結論を自分なりに得た。なぜなら、死は終わりだからだ。死んだら楽になる、というのは所詮生者の意見だ。死者の言葉ではない。よって、死は、極楽でも何でもない。かといって生が楽なわけでもない。それが、十二の少年が思考しうる限界であり、最終的に出した結論だった。

「ねーよ」

 ふっと鼻で笑って、祥一郎はそう言った。弟を見下すような嗤い方ではなく、そんなのあるわけねーだろ、とでも言いたげな、自負を含んだ笑みだった。弟の目には、何だか彼が眩しく、誇らしく映った。彼のようになりたい、と心の底から思った。



        *



 十八になる祥一郎の誕生日を祝う会が、明日の夜、海に面したホテルで当初の予定通り執り行われる。その前日、隆司は兄の部屋に無断で足を踏み入れた。そもそも兄弟の間に、部屋の主がいないときに入ってはいけないなどという取り決めもなかった。

 財閥? 旧華族? 伯爵家次男としての自覚?

 ナニソレ。意味わかんねーの。

 さっきまで下の応接間に来ていた親戚が、ごちゃごちゃと隆司の前で並べ連ねていた言葉を口の中で反芻した。誰も彼も、見ているのはすべて肩書きだけだ。隆司個人の意見など、本当はどうでもいいと思っていることに気づいたのは、つい最近かもしれない。

『人体で重要……リン酸』

『身体 pH=7.4』

『緩衝液 弱酸とその塩 弱塩基とその塩』

『血液 H2CO3 + NaHCO3』

『リン酸が緩衝液に作用してpHが保たれている』

『体内のpHが0.1も変化したら人間に限らず生き物は皆、死んでしまいます』

 最後の一文を読んだとき、隆司の背にゾクッと悪寒が走った。

 走り書き。走り書きなのに、きれいに整った字。どうしたって弟が近づけない字。

 学校の先生の、言ったことでも、メモしたのだろうか。

 祥一郎の机に置かれたノートを不意に手に取って眺めていた隆司は、急いで開いていたページを閉じた。表紙には「化学」とペンで書かれていた。背後に誰もいないことを確認する。見てはいけないモノを見てしまったような気がした。

「……兄ちゃん?」

 兄の考えていることがわからないのは、別に今始まったことじゃない。ただ、昔は。まだ兄が、小学生だった頃、自分がまだ小学生じゃなかった頃は。もっとこの世界は単純にできていると思っていた。自分が生きている意味だとか。なぜいつかは必ず死ななければならないのだとか。そんなの考えなくとも世界は回っていた。いや、世界は常に変わらず回っているはずなのに、勝手に人間が世界を複雑化して、親だとか、学校だとか、社会だとか、そんなものに絡めとられなければ生きられない世の中にしているのだ。

「何してるの、電気も点けないで」

 突然背後から声をかけられ、ビクッと身じろぎする。姉の由里子ゆりこが部屋にまでは入らないところで立ち止まり、「勝手に入って、兄さんに怒られるよ」と言って電気のスイッチを押した。そこまで暗くもなかったけれど、部屋が急に明るくなったことで、隆司は自分が今まで何を考えていたのかよくわからなくなった。目を何度かしばたかせる。勝手に部屋に入られて困るのは、兄ではなく姉のほうだった。もっとも、彼女の部屋に入ろうと思ったことは一度もない。

 姉がここにいるということは、兄はまだ下の階で、あの連中に捕まっているという意味だ。濃い薄いに関係なく一滴でも自分と同じ血が彼らに流れている、という事実をあまり考えたくなかった。

「そういや姉ちゃん、おれ今度、学校の作文で、家族のこと書かなきゃなんなくて」

 祥一郎の部屋を出るときに、自分の部屋に入ろうとしていた由里子を呼び止める。与えられた題材が『家族』でなければ、こんなふうに姉にも相談を持ちかけることはなかった。どんなふうに書き進めていけばいいのか、一人ではまったく思いつかないのだ。そもそも家族とは何なのかも隆司にはよくわからなかった。

「隆司。書いていいことと、いけないことの区別ぐらいはついてんでしょうね」

 きれいに整えられた眉を器用に上げて、由里子が目を眇める。母親によく似た彼女の目は、見る者を一瞬、萎縮させるような鋭さをもっていた。隆司は彼女の瞳に込められた言外の意味を読みとり、思わず目を逸らす。

「それは、わかってる、つもり」

「作文なんて、別に事実じゃなくてもいいんだよ。所詮、虚構フィクションじゃん。作文も。家族もね」

「ふぃくしょん?」

「作り物って意味よ」

 「あんたもそろそろ割り切りなさいよ」と言って、由里子が自室のドアノブに手を掛ける。隆司は姉の言葉を汲みとろうと、開いていた口を閉じて唾を飲み込んだ。なんと言葉を紡げばいいのか、わからない。祥一郎がこの場にいたら、なんと言うだろうか。何度も唇を開いたり閉じたりしている隆司を、由里子は色のない目で見ていた。

「……姉ちゃんが、おれの姉ちゃんなのも?」

 隆司が床に視線を落としながら呟いた瞬間、彼女の瞳が微かに揺れ動いた。ふっと、目尻を下げて由里子が静かに笑う。

「――それは、事実」

 顔を上げると、母親とは似ても似つかない笑い方をする姉がいた。この一年で、姉の肩までしかなかった隆司の背は、彼女の鼻先にちょうど目線が届くほどになっていた。

「私は、彼らの期待に沿う、いい娘、をこの家で演じてるだけ。あの人たちと血が繋がってるなんて思ったことないし。でも、私が隆司の姉っていう事実は変わらないよ。死ぬまで。死んでも、ね」

 それは、親も死ぬまで、死んだあとも自分の親である、ということと同じなのではないかと思った。が、隆司はそれ以上彼女に対して何も言えなかった。いい子、とでも言うように、ぽんぽんと隆司の頭に由里子が手を置く。見上げたとき視界に入った彼女の腕は、自分のそれよりも骨ばっていて細かった。





 僕の家族

      六年D組 佐野隆司


 僕の家族は、父、母、兄、姉、そして僕をいれての五人家族です。僕の父は医者です。心の病気を治すんだよ、と前に言っていました。母は結婚するまでは、僕の祖父の会社で働いていたそうです。今は料理教室に通うのが趣味です。手作りのパンはフワフワでとてもおいしいです。兄は高校三年生です。大学受験のために、一生けん命勉強しています。姉は高校一年生です。最近、国内のピアノコンクールでよい成績を収めたので、アメリカに留学することが決まっています。僕は、僕は――――――――





「あーもう続かねえ!」

 原稿用紙が半分ほど埋まったところで、隆司はシャーペンを机上に投げ出した。決してウソではないのに、書いていくうちに、だんだんこれが自分の家族と思えなくなってくるのが不思議で仕方なかった。それもそうだ。ここに書いているのは、姉の言う、書いていいこと、でしかないのだ。

「事実、か」

 事実って何なんだろう。真実とどう違うのだろう。本質? 表層? 認識の問題?

 信じるって何? 知らないほうがよかったって?

 あなた一人、産まなきゃよかったって、どういうこと?

「勉強も中途半端。ピアノも中途半端。バイオリンも水泳も合気道も。全部全部三位止まり。あなた、何もできないの? お兄ちゃんとお姉ちゃんを見てみなさい」

 頭の奥から響いてくる金切り声に、隆司は思わず耳を塞いだ。

 努力は実る? 努力に勝る天才はなし?

 そんなこと、いったい誰が最初に言ったのだろう。

 言った本人は、それが真であると実感できたのだろうか。

 ふと、「結果がすべてですよ。負けは負けです」と、テレビの中でオリンピック選手が悔しそうに語っていたのを思い出した。

 ふん。なるほど。それも一理、あるんじゃない?

 ポケットにいつも入れてあるナイフを取り出して、慣れた手つきで開く。刃を左手首に置くと、ひんやりと冷たかった。皮膚の下に見える青い血は、実際は赤いらしい。それは隣人の彫刻刀事件で既に立証済みだ。だが、自分の血も彼と同じく、あんなにも赤いのだろうか。

 確かめてみようか。

 ぐっと力を込める。おそらく、これを一気に引けば、その答えは得られるのだろう。でも、思い浮かんだ人物がいて、すぐにやめた。言っていたじゃないか。彼も。こんなのは勇気じゃない。病気だって。

 ナイフをさっと折り畳んでポケットに戻す。「あーあ」と息をついて天井を仰いだ。首の後ろで手を組み、椅子をゆらゆらと傾ける。

「恵まれてるのよ。あなたたちは。行きたい学校に行けて。毎日おいしいご飯が食べれて。きれいな家に住めて。こんなに習い事もすることができて」



 ね、幸せでしょう? 幸せになりましょうよ。()()で。ね?



「あ、そっか」

 なんで、こんなにも死んでみたいのか、理由がわかった。

 自分はあの両親に心から望まれて産まれてきたんだ、という実感を、持てないからか。

 そこを、割り切れ、と彼女は言ったのか。

 彼らはいつ、割り切ったんだろう。切り捨てたんだろう。だから、そんなにも強くいられるのだろうか。あの人が望む結果を、確実に残せるのだろうか。

 ――でもさ。あるんだよ? 一応。ちゃんと。捨てられないモノも。

 字を教えてくれたのはお母さん。行事のたびに作ってくれたお弁当は、いつも色とりどりで、おいしかった。キャッチボールをしてくれたのはお父さん。忙しいのに授業参観に来てくれたときは、本当に嬉しかった。賞をもらったとき、すごいな、って褒めてくれたよね。自転車の乗り方を教えてくれたのは兄ちゃん。ピアノを練習するときいつも隣にいてくれた姉ちゃん。

「……これが、僕の家族です」

 僕の家族、でした まる



        *



 台風の影響が心配されていたけれど、進路は大幅に西へ逸れてくれたらしい。「コリオリの力(さま)さまだな」と祥一郎がテレビの電源を消しながら言った。隆司がネクタイを結べなくて四苦八苦していると、「貸せ」と言って兄が弟の努力を一瞬でほどいてそれを結び直す。普段は下ろしている前髪を上げて固めている彼は、初め自分の兄には見えなかった。祥一郎は黒の蝶ネクタイをしていた。

「おれもそれがよかった」

「俺はそっちがよかったよ」

 「取り替えっこしようよ」と隆司が言うと「決まりなんだよ」と祥一郎が苦笑した。

 ホテルの窓からは、一面に海が見える。でも、あの海に入ったことは一度もない。そもそも日本で海に入ったという記憶も隆司にはなかった。沈みゆく太陽の赤と、グラデーションがかった空の色と、夕陽をきらきらと反射する海とのコントラストを、きれい、と思えず何だか不気味に感じるのも、自分の心が荒んでいるからなのだろう。「うつくしいものを美しいと思える あなたのこころがうつくしい」ってみつをも言ってたし。

 兄の後ろに付いて会場へ入ると、空気がはじけるような拍手の音で出迎えられた。

 人、人、人。笑顔、笑顔、笑顔。笑笑笑。わらわらわら。

 さっと視線を周囲に向けるとテレビの中で見慣れた人物も何人かいた。祥一郎の周りに、あっと言う間に人だかりができる。常日頃から薄々感じつつある彼と自分との隔たりを隆司は改めて実感した。せざるをえなかった。帰りてえ、と誰にも聞こえないような声音で呟く。

 それでも周りは本家の次男、というだけなのに放っておいてはくれない酔狂な輩もいる。なんで、おれにまで? 意味わかんねえんだけど。――そんな態度をおくびにも出さず、隆司は完璧な愛想笑いを振りまいて、兄の話し方や仕草を見様見真似で複製コピーした。そんな自分に、弟は一瞬だけ吐き気を覚えた。

 ちらほら同い歳に見えるような子どもも何人か視界の端に映る。だが、そんな者たちの横には必ず大人が一人はいて、一人で赤の他人と会話をしているような者は誰もいない。特に名も知らぬ男が、まだ三つにも満たないような子どもを抱きながら談笑している様子が目に入ってきたとき、隆司は不意に自分の眉根が寄ったのを感じた。

「姉ちゃん」

「何よ」

「大人って、子どもに対して、なんですぐ、将来の夢を訊くの?」

 コンクールで着るようなドレスよりは、やや控えめの衣装を上品に身に着けた由里子は、一瞬きょとんとしたあと、「なに言ってんの」とでも言うように、けらけらと笑った。

「子どもだから訊くんでしょ」

「なんで?」

「判断したいんじゃない? 今後の自分たちの態度を決めるために。それに、訊く方はあまり深くも考えてないよ」

「隆司くん、将来の夢は?」「何になりたいの?」「お父さんみたいなお医者さん?」「それとも社長さん?」「ゆくゆくはお祖父さまのような会長に?」「あらでもお兄さんがいるから」「そうそう。祥一郎くんがいるじゃない」「年々、凛々しくなっていくわよね」「お父さんには少しも似ていないけど」「ちょっと」

「――将来の夢は、医師です」

 にっこりと笑って隆司がそう答えると、決まって尋ねた方は安心したように、「そうよねえ」「それがいいわよねえ」と言って下卑た笑みを浮かべるのだった。

「じゃ、私はピアノ弾かなきゃいけないから」

 そう言って由里子は隆司に背を向けた。その背を見ながら、母が薦めた背中の開くようなデザインのドレスにせず正解だった、と弟はひとり思った。

 滑らかに鍵盤が躍る音を遠くに聴きながら、近づいてくる者の群れから必死に逃げ回る。だが、逃げていると安易に悟られないよう、隆司は慎重に人の輪の間をすり抜けていた。ふと、ずっと昔、兄と二人でテーブルの下をかくれんぼして回ったのを思い出し、出来心で白いテーブルクロスをめくって、円卓の下に潜り込む。布で遮っていても、たくさんの会話が隆司の耳に入ってきた。

「やはり消費税は上げなければ」

「そう言ってるのは大蔵省だけじゃないか。景気は下がる一方だ」

「だが、経団連われわれとしてもいずれは必要だと」

「聞いたか? 今回の人事異動は社長の肝いりらしい」

「ええ。開発部門もごっそり整理されていましたし」

「負け犬の末路さ。もともと誰かさんの我が儘で作られたような部署だ」

「でも、彼女、どう見ても」

「ねえ。細すぎるわよねえ」

「母親がドミナントマザーなんだもの」

「ほら、身内は治せないって言うじゃない?」

「父親のほうも、結局は鬱なのよ」

「医者の不養生ってやつ?」

「たいへんなところに婿入りしちゃったわね。今日来られてないのは?」

「ご存知でない? 実はね……」

「団塊の世代がようやっと片づいて」

「ほんと目の上のタンコブでしたな」

「君たち、本人を目の前にしてよく言えるなあ。年寄りは早く死ねとでも?」

「そーだよッ!」

 テーブルクロスをめくり、何だかよくわからないまま隆司は叫んだ。次の瞬間、めくったほうとは反対側から外へ這い出る。突然の子どもの声に驚いた大人がテーブルクロスをめくっても、そこには誰もいなかった。

(声でけえんだよババア!)

 ずんずん、ずんずん、どこを目指すわけでもなく、ただひたすら前に歩を進めていく。

 くすくす。くすくす。何が楽しくてそんなに笑うのか。他人の不幸は蜜の味でもするのだろうか。当人を差し置いて、噂は噂を呼び、肥大化して、もはや回収することもできなくなった時点で、やっとその登場人物たちの耳に届く。所々に事実を織り交ぜるのを忘れずに、丁寧に丁寧に幾人もの手で編まれた評価シート。ごらん。これがあなた方なのです。世間の眼を欺くことは決してできません。ゆめゆめ我々の存在をお忘れなきよう。

 なんてさ。

 大人はバカだ。

 バカばっかりだ。

 何でかわからないほどに、どうしようもなく泣きたくなったけれど、涙は一向に出てくれなかった。

 不意に、どん、と誰かにぶつかる。その瞬間、香水の臭いが鼻についた。隆司は「しまった」と思ったがもう遅かった。親戚の中でも特に苦手とするお局方から、次々と言葉が飛び出てくる。

「あら、隆司くんじゃない」

「お兄ちゃん、立派になったわねえ」

「隆司くんも背が伸びたんじゃない?」

「将来の夢は? 何を目指してるんだっけ」

 本日何度目になるかわからない問いを投げかけられて、隆司は腹立ちまぎれに満面の笑みを浮かべた。

「YouTuberです」

「ゆ、ゆーちゅーばー?」

 面の皮が厚い顔どうしを合わせながら重い瞼をパチクリさせている様子を見て、なんてマヌケな顔してんだろう、と隆司は心の中で嗤った。

「広告収入ですよ」

「は?」

「中でも稼いでる人の年収は、数億、数千万円とも言われます」

「へ、へえ」

「では、これで」

 「失礼します」と軽く頭を下げて、足早にその場を立ち去る。その後、彼女たちの間でどのような会話が展開されるのか、隆司は深く考えるまでもなく手に取るようにわかった。

 ふと、前方に歩く公害の姿を見つけた。息子から見ても、目の毒だと思わずにはいられない。赤を好んで着る者は自己主張が激しいらしい。顔は多少なりとも誤魔化せても、手や首筋を見ると人は躰の衰えを隠せないことがよくわかる。ましてや四十を過ぎた者の背中など、誰が見たいものか。

 お母さん、とその背に声をかけようとして、隆司は瞬時にやめた。人目も憚らず話す無神経なウグイスボイスが耳に入ってきたからだ。

「奨学金もらってるとかよく言えるわよね。私だったら恥ずかしすぎて言えない。夫の年収をバラしてるようなものじゃない。学費に困るぐらいなら公立に通えばいいのに」

 バカの筆頭がここにいた。と隆司は思わず眉を顰めた。他人のことなんて、どうでもいいじゃないか。なぜそこまで気にする? 目につく? 親の金を使ってなんの苦労もしてこなかった者が、いっぱしの口を叩ける?

「今は猫も杓子もみんな大学に行って」

「昔は高校を卒業したら働いていたのよ」

「あら、英文学を専攻されてたんですか? はい、私も学生時代は。ええ。卒論ではマンすひーるドについて書きました」

 英文学を専攻した、と言うわりにはお粗末な発音を聞きながら、隆司は踵を返して駆け出した。

 もうここには居たくなかった。誰とも話したくない。人と目を合わせるのも、笑いたくないのに笑うのも苦痛だった。広間へ続く重厚なドアを、ドアマンに快く開けてもらう。彼には「手洗いに行きたいんです」と言って、咄嗟にウソをついた。

 外に出ると、夜風が火照った隆司の躰を冷ますように撫で上げてくる。久しぶりに、息を肺いっぱいに取り込めた気がした。もう、すぐそこに秋が来ているよと告げている風。もう、楽しい時間は終わりだよと知らせてくれる風。

 大人になんか、なりたくなかった。でも、早く大人に、なりたかった。

 矛盾する想いを抱えながら、はあ、と息を吐き出す。不意に、背後から漏れ出る明かりに照らされた木々が、視界の先に飛び込んできた。海に面しているとはいえ、少し高台に位置するこのホテルは明治の時代から外交の第一線として活躍していたことでも有名らしい。

 木の下にまで来てみると、意外にもけっこう立派な木でびっくりした。なぜ、こんな木がここに植えてあるのだろう。いや、そもそもこのホテルが建つ前から、変わらずここにあったのだろうか。防風林ともまた少し違うような気がする。

 学校の裏庭で隆司が何人かの友だちと木登りをしていると、あとになって校長室にまで呼び出されて叱られた。落ちてケガをしたわけでもないのに、なぜここまで躍起になって責め立てられねばならないのか、まったく以て納得いかなかった。彼らは児童の安全よりも、己の監督不行き届きが問題になるのを避けたいがために、このようなパフォーマンスをしているのではないかと子どもの目には見えた。幸い、ここには彼らのようにとやかく口を挟む者もいない。

 服が汚れるのを少しも気にしないで、幹に、枝に手を掛け、一心に上へ上へと登っていく。今夜は月が出ていない。その代わりに、いつもは見えない星までもが、愚かな子どもの遊びを見守ってくれているように感じた。

「うわあ」

(船だ。船が見える!)

 己の身長の三倍ほどの高さを登り終えたところで、眼下に大きな港が広がった。船を一度も見たことがないというわけじゃないのに、なぜだかわからないほど見ていて心が躍る。それに、夜の海でこんなに煌々と光った豪華な客船を見るのは初めてだった。

 空と海との境界線は、黒く塗りつぶされていて、もう隆司の目には見えない。



 ねえ、知ってる?

 生き物は皆、海から来たんだって。

 なんで陸にまでやって来たんだろうね。

 そのまま、そこにいればよかったのに。

 そしたら、世界はずっと、きれいなままだったのに。



 どれくらいの時間が経ったのだろう。真上に広がる星の位置が登る前よりも少しだけ傾いているように思えた。

「隆司。何してんだそんなとこで」

 声のかけられたほうへ首を回し、ゆっくりと視線を下ろす。祥一郎が腰に手を当てて、こちらを見上げていた。「猫と煙は何とやらって言うけどな」と笑って、安心したように肩を竦める。

「バカと煙は、でしょ。どうせおれはバカだよ」

「自分のことをすぐバカって言うやつは気に入らねえな」

 兄の言葉に、隆司は思わずムッとなったが彼に対して結局何も言い返さなかった。本日の主役なのに、わざわざここまで探しに来てくれた。そのことが、とても嬉しくて仕方なかった。さっきまでがむしゃらに逃げ回っていたのも、ただ誰かに自分を探してほしかっただけなのかもしれない。隆司、という、ただひとりのことを。見てくれる誰かに。

「暗いしアブねえだろ。早く降りてこい」

「でも兄ちゃん、船が見えるんだよ! 超でっかいの!」

「昼にも泊まってただろそれ。世界一周するっつう船だろ?」

「すごいねえ。いいなあ。おれも乗りてえなあ」

(どっか、遠いとこに、おれも連れてってほしいなあ)

 そんな弟の呟きが樹下に立つ兄に聞こえたはずもなかった。「さっさと降りてこいよ」と息をついた兄に、弟が「うん」と素直に頷き返す。

「あれ?」

 地面まであと数メートルといったところで足を木のうろに伸ばそうとした隆司は、硬直した。

「兄ちゃん。降りれない」

「はあ? どうやって登ったんだよ」

「そこに、足引っかけて」

「また引っかけりゃいいじゃん」

「無理だよ。届かない」

「じゃあ、もうそっから飛び降りてこい」

 「ほら」と祥一郎が両手を広げてみせる。受け止める、とでも言うのだろうか。隆司は湧き上がってきた諸々の感情を払うように、首をブンブンと横に振った。

「……兄ちゃんが汚れるよ」

「構うかよ。どうせ今日ぐらいしか着ないんだ」

 「あまり人を待たせるな」と軽く付け加えて、木から手を離すよう祥一郎が促す。そのとき初めて、閉会の時間が迫っているのに、本来であれば会場を離れられない兄までもが弟を探す状況になっていたのだと隆司は気づいた。

 隆司は咄嗟に、「ごめんなさい」と言おうとした。が、言えなかった。代わりに「ありがとう」と口を開こうとしたが、これもまた声にはならなかった。

 意を決して、幹から躰を離す。

 その瞬間、思いのほか怖くなって隆司は目をぎゅっとつぶってしまった。

 祥一郎が「ぅお」と何歩か後ろによたつく。しかし飛び込んできた弟の躰は、しっかりと腕に抱え込んでいた。

「お前、重くなったなぁ」

「早く降ろしてよ!」

「そんなに恥ずかしがるなよ。すぐ降ろしてやるから」

 「ほらよ」と隆司が制する間もなく祥一郎が弟を芝生の上へ、ぽんと放り出す。ベチンとかドンとかいう音が聞こえてきそうなほど、隆司は無様に尻もちをついた。

「いってぇ! ひでえ!」

「お望み通りだろ」

 楽しそうにくつくつ笑いながら、祥一郎が隆司の腕を取って立たせる。彼がケガをしていないか確かめるように視線を巡らせたあと、「行くぞ」と言って祥一郎は弟に背を向けた。その背中を、「待ってよ」と脱げかけた靴を急いで履きながら隆司が追いかける。

 祥一郎が登場するのを待ちかねていたように、会場へ入った途端、壇上への道が開かれた。その中で、隆司はふと母親が自分のことを睨んでいるように感じた。いや、実際睨んでいるのだ。このあと何を言われるか考えて一瞬身が縮む。だが隆司は、兄の通った道筋をなぞるように、ただ前を向いて歩いた。

「――来年はよい結果を皆様にご報告できるよう、精進して参ります。本日は、ご参列いただきまして、誠にありがとうございました」

 締めの挨拶を、何の原稿も見たりせず、ただその場で思いついたことを話すようにスラスラと述べながら、ときに笑いをとったりするのも忘れない兄の器用さに、隆司は心からの拍手を贈った。

 壇上から軽やかに降りて、祥一郎が隆司のほうへ近づいてくる。

「かっこよかったよ。兄ちゃん」

「そうか?」

 弟からの惜しみない賛辞を受け止めて、兄は「ありがとな」と目を細めて笑った。

 何でもソツなくこなす兄ちゃん。一族の期待を一身に背負ってる兄ちゃん。妹にも弟にも優しい兄ちゃん。

 ねえすごいね、兄ちゃんは。

 おれは、全然ダメだね。

 兄ちゃんは、将来何になるのかなあ。



 僕の家族

     六年D組 佐野隆司


 僕の家族は、父、母、兄、姉、そして僕をいれての五人家族です。僕の父は浮気をしています。めったに家には帰ってきません。たぶん僕の誕生日も忘れています。母は父には見向きもされなくなったので、子どもの教育には人一倍熱心です。でも自分はエスカレーター式に大学まで通い、コネで就職して、二年と働かず退社しました。この前は小学六年の算数の問題も解けませんでした。なぜ自分のできないことをしろと言えるのか、僕にはよくわかりません。兄は、昔みたいに笑わなくなりました。姉は、どんどんヤセていきます。

 無関心な父親と、バカな母親と、優秀すぎる兄と、拒食症の姉と、死にたがりの僕。

 これが、僕の家族です。

 僕の、家族なんです まる



 司会者がつらつらと述べる閉会の辞を茫然と聞きながら、無意識にポケットの中に手を入れる。

 しかし、そこにあるはずのモノが、なかった。

 隣に立つ兄を、弟がゆっくりと見上げる。

「ん? どうした?」

 さっきと変わらない笑顔が、そこにあった。



 この、彼のほほえみを、僕は今でも思い出す。











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