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ルカの唄  作者: 依近
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第6話・音楽堂の亡霊


 職のない住民はそうそうに明かりを落として寝静まり、明かりを灯しているのは街で唯一の酒場だけ。

 群青の闇に沈む通りに点々と灯る街灯が、まるで人魂のようにぼんやりと浮かび上がっていた。

 たどりついた音楽堂は、夜よりももっと暗い闇の中にあるように見える。

 人が寄り付かなくなってもう十年が経つ。石はひび割れ、腐った落ち葉が臭気を放っていた。

 木の扉が朽ちて、枠だけが残る入口をくぐる。

 円形の客席がずらりと並ぶメインホール。最下層に作られたステージ。そこから響く歌声を受け止める天井は遥か高く。今も吹き抜ける風の音を震わせている。

 ステージの奥には祭壇が設けられ、その後ろには割れたステンドグラスと、赤子を抱いた女神の像が物言わぬまま立っていた。


「うわあ、広い!」


 ルカは無邪気に声を上げて、階段を駆け下りていく。

 深い闇の中でもルカの白い髪や肌は映えて、ぼんやりと浮き立って見えた。

 ヴァルトは、ゆっくりと石段を踏みしめながら、一段、一段降りて行った。

 肌が、栄華の時代を覚えている。目を上げれば人で溢れる光景が重なって、吐く息が上ずった。

 ルカは、いつの間にかステージに立っていた。

 天井画が剥がれ、骨組みだけになった天井の隙間から、青い月が影を落とす。

 ルカは客席に背を向けて、女神の像をジッと見つめていた。

 まるで、祈るように。


「……救われたいか?」


 ぽつりとこぼしたはずの声は、思ったよりも大きく響く。

 ルカは静かに振り返り、そっと口角を上げる。


「ぼくはもう十分、幸せだよ」


 痛みも、含みもない声。ヴァルトはステージの下から、女神を見上げた。


「俺は……救われたかった」


 胸の内を呟く。

 音楽堂の中には、霧は入って来ない。澄んだ夜気の中で、自身の醜い声を戒めのように聞く。


「ルカ。俺は……人を殺した」


 ルカの微笑みが凍り付き、スゥと消えていく。

 ルカは微かに喉を震わせ、美しいブルーを真っすぐヴァルトに据えた。


「お前に出会うより前に、ヴォクス・カーヴァに声を閉じ込めたいと思った女がいたんだ。彼女はこの街の歌姫で、俺なんかが声をかけられるような存在じゃなかった。だから俺は、彼女が歌うと聞くたびに音楽堂にこっそり道具を持ち込んで、弦を張ったんだ」


 その時の空気が、手触りが、はっきりと肌に甦る。ヴァルトは胸の前で広げた掌を見つめ、弦の感触を思い出しながら独白を続けた。


「そのうち、彼女が気づいて声をかけてきた。俺は彼女にヴォクス・カーヴァについて教えて、完成したら、あなたの声にそっくりの音で鳴るんだって伝えた。彼女はとても喜んで、完成したら必ず聴かせるって、約束した」


 小指がじわりと熱くなる。彼女に触れたことはなかったから、これは、ルカと交わした約束の記憶だ。


「完成……しなかったんだね?」


 ルカの声が聞く。ルカは、胸の前で自身の小指を握りしめていた。

 ヴァルトは、顎を引いて頷く。


「完成する前に、彼女は死んだ」

「……ヴァルトが、殺したの?」


 ヴァルトは俯いた角度のままで首を振る。けれども、その動作を途中で止めた。


「違う……けど、俺が殺したようなもんだ」

「どうして……」

「観客の中に、暴漢が紛れ込んでた。そいつはステージで歌っていた彼女に襲いかかった。俺は彼女を守ろうとして飛び出した……けど、それが間違いだった」


 ヴァルトは一度、言葉を止める。息継ぎをする音は、頼りなく震えていた。


「彼女は、俺を庇った。その拍子に、そいつのナイフが、彼女の喉を刺したんだ」


 短い悲鳴に似た音が、空気を震わせる。それは、ルカが息を呑む音だった。

 ヴァルトの記憶の中で、彼女が上げた最後の音が聞こえる。

 美しい彼女の歌声とは似ても似つかない、醜い悲鳴の音。


「そのまま、彼女は死んだ。俺は自分でもわけがわからないまま暴れて、ナイフを奪って、そいつをめった刺しにしてた。もう動かなくなっても、何度も、何度も……」


 声をこぼしながら、ヴァルトは顔面を掌で覆った。荒い息が漏れて、声に嗚咽が混じっていく。

 ヒッと引きつる音を立てたのはルカの喉だった。ルカはヴァルトを見下ろして、静かに涙を流した。


「俺は、そのまま警察に捕まって、投獄された。……十年だ。その間に――音楽は、死んでいた」


 嗚咽に呑まれる声は、それでも音楽堂の空気を揺らして、一音残らず聴覚に刻まれる。

 押しつぶされそうな懺悔。物言わぬ石の瞳が、憐れな罪人を見下ろしていた。


「街の音楽も、俺が殺した。お前の価値も、喪わせたんだ……! 何が対等だ。本当に、すまない……俺はお前にも、彼女にも、音楽にも……謝らなきゃならない。だって俺は……彼女が死んだことよりも、彼女の声が永遠に喪われたことに、怒ったのだから」


 ヴァルトは顔面を覆ったまま、その場に膝を着く。深い闇は、底の見えない穴のように、ヴァルトを見つめていた。


「……ぼくは、ヴァルトに対等だと言ってもらえて、うれしかったよ」


 闇に向けていた目を上げる。月明りに照らされたルカの白い頬に、幾筋も涙の線が伝っていた。


「それがたとえ、ヴァルトの本心じゃなかったとしても。ぼくにとってあの言葉をもらった瞬間が、いちばん幸せだった」

「ルカ……」


 下手くそな息が、喉を塞ぐ。喘ぐような息しか漏らせないのが情けなくてならない。


「ねえ、身勝手でもいいから本音を教えてよ……ヴァルトは、どうしたいの?」


 ルカの背後に石の女神が見える。あの時どれだけ叫んでも、歌姫を救ってくれなかった女神だ。

 それでも、縋るしかなくて。ヴァルトはルカの姿を通り越して、石の女神に向かって吠えた。


「俺はまだ、音楽を美しいと思ってしまう。お前の歌が、本当に美しいと思って……、閉じ込めたかった……もう一度、俺の手で……あの時完成できなかった最高の楽器を……どうしても、生み出したい……!」

「……作ろうよ」


 ルカの声が、嗚咽を破り、鼓膜を揺らす。

 ヴァルトは唾を強く飲み下し、涙で濡れた顔を上げた。


「約束したでしょ? ぼくと、ヴァルトで」


 ルカは、優しく微笑んだ。月明りが照らす表情は底抜けに晴れやかで、心を奪われる。


「あげるよ、ぼくの歌。もらって……それで、絶対に聞かせてよ。ヴァルトの、ヴォルク・カーヴァ」


 ルカは奮い立つように首を振り、天を仰ぐ。パッと散る涙が月明りを反射して、宝石のように輝いた。

 スゥ、と。息を吸い込む音。音楽堂の中に満ちる空気が静止する。

 皆、息を潜めて。彼の音楽が始まるのを待っていた。ヴァルトの傍らに落ちた弦が触れて、か細い悲鳴のような音を立てる。

 まるで調音の合図。弦が、ルカの歌を呼んでいる。

 いつの間にか、ヴァルトの涙は止まっていた。か細く鳴く弦を迎えるように、ヴォクス・カーヴァに手を伸ばす。

 ルカは、最後にもう一度微笑んだ。

 夜を裂いた一音は、彼の喉から出たとは思えないほど大きく響いた。


「ア――ァァァ……!」


 短音のアリア。風が唸り、一斉に鳥が羽ばたいた。雲が裂け、一面の夜が頭上を彩る。

 ルカは、大きく口を開け、身体を揺らし、全身で歌う。


「星が降る 青い月夜 鳥は眠り 音はない

霧を揺らせ 氷の息吹 透き通る糸 紡いで 夜にだけ響く 歌を

声は消える 霧が呑み込む 細い糸は フツリと切れて

風に運ばれ 花弁を鳴らす ひとつ残るは魂の音 震えて 響け」


 風が鳴る。空気が共鳴する。霧を形作る粒子のひとつひとつが燃え立ち、霧が晴れていく。

 少年の細い喉が鳴らす魂の旋律。ヴァルトの指先の上で弦は機嫌よく震えて、伸びた。


「……っ」


 ヴァルトは息を呑んで、最後の一本を片側の突起に引っかける。ゆっくりと反対側へ渡しながら、弦を鳴らす。

 震えは音になり、ルカの声を奏でた。

 ヴァルトの耳にはもう、ヴォルク・カーヴァの鳴らす音しか聞こえていなかった。取り憑かれたように目を見開いて、弦だけを見つめている。


 ルカは同じフレーズを何度も繰り返しながら、ヴァルトを見ていた。

 彼の発した熱だろう。蹲ったヴァルトの周りだけ、空気が揺れて見える。そこに一瞬、かつての歌姫の姿が重なった気がして目を閉じた。


(ダメだよ、あげない)

(ヴァルトは、ぼくの歌を閉じ込めるんだ)


 届け、と願って。尚も声を張り上げる。

 喉の皮膚は破れ、口の中には血の味が滲んでいた。

 息継ぎのたびに激痛が襲う。それでも、構わない。全部を、彼に。


「光が注ぐ 白い昼 鳥は歌い 音が溢れる

霧を揺らせ 熱の息吹 透き通る糸 紡いで 昼に爪弾く 旋律を

声は消える 霧が呑み込む 細い糸は フツリと切れて

風に運ばれ 大地を鳴らす ひとつ残るは命の残響 あなたに 届け」


 血が溢れた。けれどもルカは、歌いながら自身の声を聞いていた。


――いつから、歌えていなかった?


 ヴァルトの指はもう、弦を持っていない。彼の手を離れた弦はヴォクス・カーヴァの上で、他の六本と同じく並んでいた。

 ルカはもう、歌っていない。

 もう、歌えない。

 けれども朽ちた音楽堂にはずっと、ルカの歌声が響いていた。

 ルカは、そっと自身の喉に触れた。声を出そうとしても、震えない。死んだ声帯が、ただそこにあった。


(ヴァルト)


 声を出す動きで口を開く。血の味と、引き裂くような激痛が襲う。音のない声は、ヴァルトには届かない。


(救われて)


 どうか、と。祈る。

 ルカはそっと目を伏せて、ステージを降りた。そのまま、枠だけが残る門から外に出た。

 音楽堂から出ると、周囲の霧はすっかり晴れていた。見上げた先。群青の空に散る満天の星と銀色の月が、声を失ったルカを迎える。

 ルカはひとつ息を吐いて、駆け出した。

 風はずっと、ルカの歌を奏でている。その音が聞こえない場所へ。できるだけ遠くへ。

 駆ける足音は、深い闇に呑み込まれて、消え失せる。


 ひとり、ステージの前に蹲ったままヴォクス・カーヴァを抱くヴァルト。

 彼が顔を上げた時、ステージの上は無人だった。ただ、飛び散った血痕だけが染みている。

 周囲に響く、ルカの声。完璧に写された魂の旋律。彼はもう、どこにもいないのに。


「う、ぁ……あ……うわあああああああああっ!」


 慟哭が、夜を裂く。

 ヴォルトの胸を裂いたのは、ルカを失ったことだけではない。

 ルカの声と引き換えに鳴る楽器の音色を、「美しい」と感じてしまう彼自身の心だった。

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