第5話・最後の一弦
希望を失くした笑い声だけが響く酒場。
壁の絵画だけが、かつての栄華を覚えている。
その場所で、静かに囁かれ始めた噂があった。
「あの男が、楽器作りを再開したらしい」
「誰かあいつを訪ねたか?」
「いいや。あいつの小屋に夜通し明かりがついてるのを見たやつがいるって」
潜められた声は、喧騒に呑まれて響かない。
けれども囁き合う人は少しずつ増えて、聞き耳を立てる人も多くなっていく。
「楽器なんて作ってなんになる。どうせ腕だってとっくに鈍っちまってんだろ」
「だから言ったろ、あいつは音に取り憑かれてんだ」
一段トーンを落として言う男の声に、周囲はわざとらしい悲鳴を上げてみせる。
「あいつのことだと、取り憑かれてるっつーのもシャレにならねえ」
「確かにな……なあ、取り憑いてんのは《《どっち》》だろうな?」
潜めた声は興味を失くしたように徐々に小さくなっていく。
そして、四人掛けのテーブルに座った一人が、最後にそっと呟いた。
「あの……人殺しの男が」
◇
空気がざらつく。こめかみを流れ、ツゥと伝った雫が手元にポタリと落ちた。
同時に、咳き込む音が聞こえる。
「ルカ」
ヴァルトはハッとして顔を上げ、グラスに注いだ水をルカの手元に差し出した。
出始めた頃は湿っていた咳は、乾いて擦り切れるような音に変わっていた。
「ありがと……」
肩を大きく上下させ、息をついたルカはヴァルトの手からグラスを受け取る。
グラスに添う指は、わずかに震えていた。
「……少し、休むか?」
縁に唇をつけ、グラスを傾け中身を煽りながら。
ルカは澄んだブルーでヴァルトを見つめた。
「ぼくの声、使えない?」
淡々とした響き。ヴァルトは息を詰めて首を振った。
ルカはグラスを作業台の上に置き、短く息を吐く。
彼は作業台を椅子代わりにして腰かけ、床につかない足をフラフラと揺らしていた。
出会った頃に比べて、顔色はだいぶ良くなったように見える。痩せた身体は相変わらずで、体格に変化はなかった。
同時に、彼の声帯も変わらず美しいまま。
ルカは自身の喉に指を添える。細く、小さなその指は、愛おしそうに肌を撫でた。
「じゃあ、使ってよ。ぼくの歌は、その弦のものだよ」
まるで言葉を理解してるように、ヴァルトの指に掛かる弦が虹色に煌めく。
弦の素材はフィラメント・ボイスと呼ばれる特殊な繊維。金属でも腸でもない、虫が吐く透明な糸。かつてこの街でしか作られなかった繊維だ。
無数の候補の中から、ルカの声を選んだ糸。それは彼の歌を聴かせた瞬間に虹色の光沢を放ち、丈夫な繊維に変化した。
ヴァルトはその弦にルカの声を聞かせながら、弦を張る作業を進めている。
切り出した木材に弦を渡す。張る度に弾いて、安定を確かめた。調音は、歌を聞かせている間しかできない。だからルカはヴァルトが作業を終えるまで歌い続けなければならなかった。
当然、成熟していない声帯は長く歌い続けることができない。
これまでの生活での栄養不足も重なって、ルカの歌声は思っていたよりもずっと脆かった。
けれども、ヴァルトの指先に伝わる弦は今まで扱ったどの弦よりも力強く、扱いやすい。
だからこそ、長く仕事を休んでいたせいで思うように動かない指先が憎らしかった。
(もっと、もっと。本当なら、もっと上手く捕まえられるのに)
(動け、クソ……)
脳内で悪態をつくたびに、あざ笑うように指が滑った。完璧な強さで引けたと思っても、留め具に掛ける前に弾かれ指から離れて行く。
「……ヴァルト、少し休んだら?」
気遣う声に、目を上げた。ルカが腰かけた作業台の後ろにある入口から、陽光が差し込む。
光の柱の中を、細かい木屑と埃の粒子が雪のように舞う。
差し込む光を背後に抱くルカの姿は、まるで天からの使いのようだった。
彼の歌を独占しているという意識と、ここ何か月もずっと、彼を工房の中に閉じ込めたままでいる罪が、同時に襲う。
「あ、っ……ぅ、ぁ……」
「ヴァルト……!?」
作業台の縁に捕まり、不意に崩れ落ちるヴァルト。
ルカは作業台の上から飛び降りて、ヴァルトの背中に触れる。
「ねえ、休もう? ぼくも少し休むから。そうしたらきっとまた、完璧に歌える。弦が気に入る声で」
ルカはヴァルトの耳元でそう声をかけた。近づいた距離のせいで微かに感じる、血の匂い。
それは、彼の喉から届くものだった。
――もう、やめよう。
不意に、言葉が頭を掠める。ヴァルトは力なく目を上げた。
作業台の縁を掴んで、ゆっくりと立ち上がる。入口から差し込む陽の光が、未完成のヴォクス・カーヴァに降り注いでいた。
今まで目にしたこともないような、美しく張られた虹色に輝く弦。
ヴォクス・カーヴァの弦の本数に決まりはない。張り終えることのできた弦は、六本。
(あと、一本だ)
ヴァルトはそう確信していた。そしてその最後の一本が、どうしても上手く張れない。
原因は、ヴァルトの腕だけではない。
ルカの歌が、限界に近付いているという証明だった。
――もう、やめよう。
――今やめれば、まだ間に合う。
――ルカの声は、消えない。
無意識に浮かぶ言葉に背筋が冷える。
――ルカの声が、消える……?
ヴァルトは傍らに立つルカを見た。片手で握れそうなほどに細い喉。成長を止めた身体。
彼に残されたのは、その声だけなのに。
(俺の、せいで)
ルカは作業台に置かれたヴォクス・カーヴァを見つめて、小さく頷く。
「……ヴァルト、音楽堂に行こう」
「え……?」
脈絡のないルカの提案に、ヴァルトは思わず聞き返した。
音楽堂は、聖堂に次ぐこの街のシンボルだった。栄華の時代には毎日のように音楽会が開かれ、街の人も、よそからの商人も、観光客も皆声を揃えて歌い、楽器を奏でた場所。
――その場所の象徴だったひとりの歌姫が喪われた日から、固く閉ざされ忘れられた場所。
「……なぜ?」
ヴァルトは声の震えを押さえて、ルカに聞き返す。
ルカは、ヴォクス・カーヴァを見つめたまま答えた。
「弦が、そう言ってる。そこでぼくが歌えば、ヴァルトも上手く弦が張れるよ。そんな気がする」
ルカの声は、普段話す音もわずかに掠れ始めていた。
弦が、そう言うのなら。
ルカの歌を愛する弦の言うこと聞けば、ルカの声を守れるかもしれない。
入口から届く光が、二人を包むように差し込んだ。
それが救いの導きのように見えたのは、都合のいい幻想だったのかもしれない。
それでも、縋るしかなかった。
「……ああ、行こう」
ヴァルトは一度、ルカの喉に視線を落とし、引く手を握り返した。
そのとき目にしたルカの笑顔は、今まで見た中でいちばん美しかった。
だからきっと、選択は間違っていない。盲目なまでに、そう信じた。
信じたかった。




