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ルカの唄  作者: 依近
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第4話・対等の誓い


 止まっていた工房を動かすのは、思った以上に骨が折れた。


 夜が明けてから掃き掃除を始め、床が見える状態にする。廃棄した残骸を一つずつ改めて、使えるものと廃棄するものとに分ける。廃棄を決めたものは庭で燃やし、せっかく起こした炎でついでに蓄えていた野菜の根や熟成肉を焼いて、食事にした。


「ルカ!」


 薄霧の中を声が抜ける。ぼんやりとした影が浮かび、重い瞼を擦りながらルカが姿を現した。


「寝れたか?」

「ん……埃臭かったけどまあ……路地裏より全然いいね」


 ルカは細い身体をグンと引き上げて背伸びをする。霧の向こうから照らす陽光は、ルカの繊細そうな肌を焼くには至らない。仕草を眺めている内に、彼の腹がグゥと鳴いて空腹を伝えた。


「なに焼いてるの?」


 パッと開いたブルーに揺れる期待の光。ヴァルトは微かに苦笑して、焼き上がった肉をルカの鼻先に差し出す。


「食うか?」

「食べる! 食べる!」


 溌溂とした声は、昨夜の美しい歌声の主と同じとは思えなかった。

 年相応の、無邪気な声。

 微笑ましく思う気持ちと同時に、職人としての懸念が過ぎる。


――作業を始めたら、この声を安定させなけばならない。


 熟成肉を頬張る唇。呑み込む喉が大きく上下する。ヴァルトはその様をじっと見つめて、無意識に息を詰めていた。


「美味しいよ。ヴァルトも食べた?」

「いや、まだだ」

「じゃあ食べなよ。ぼくはそんなにいらないから」

「……遠慮はするな」

「そんなんじゃないって。ぼく、あんまり食べなくても平気なんだ。それに急にたくさん食べたら、きっと体がびっくりしちゃうよ」

「ああ……そうかもな」


 背筋に走っていた緊張が、わずかにほどけた。

 あんな歌声に、もう一度巡り会えるとは思っていなかった。これまでと大きく環境を変えてしまうことで、簡単に失われてしまうかも知れない。

 過ぎった予感に、背筋が冷える。


「ルカ」

「ん?」

「喉の調子は、どうだ?」

「喉?」


 ルカは自身の細い喉に指で触れて、コテンと首を傾けた。澄んだブルーが瞬きをして、ああ、と小さく声を漏らす。


「ヴァルトが欲しいのは、ぼくの声だもんね。大丈夫、大事にするから」

「そういうわけじゃ」

「別に言い訳しなくていいよ。ぼくも弦に選ばれたいし、なにより、ヴァルトのヴォクス・カーヴァの音を聴いてみたい」


 返す言葉に詰まる。多くを要求せずとも、ルカはすべてを汲んでいく。甘えてしまいたい心がちらりと過ぎり、ヴァルトは頭を振ってため息を吐いた。

 それをルカがどんな顔で見ていたか。ヴァルトは気づかない。


「ねえ、歌う?」


 そっと差し出された声に顔を上げた。乞うような目をしてしまっていたのだろう。ルカは柔らかく微笑んで、薄い胸に指を添えた。

 霧が覆う崖の突端、静かな場所。近隣で暮らすものはいない。その方が楽器作りにちょうどいいと考えて、この場所を工房にした。

 大丈夫、誰にも聞かれない。

 この歌声は、俺だけの――


「光が注ぐ 白い昼 鳥は歌い 音が溢れる

霧を揺らせ 熱の息吹 透き通る糸 紡いで 昼に爪弾く 旋律を

声は消える 霧が呑み込む 細い糸は フツリと切れて

風に運ばれ 大地を鳴らす ひとつ残るは命の残響 あなたに 届け」


 思考を占める後ろ暗い独占欲を、照らして、溶かして。

 ルカはヴァルトの瞳から目を離さないまま歌い上げる。紡ぐ音のすべてを、ヴァルトに捧げるように。


「元気出た? ヴァルト」


 重たい霧の隙間を縫って、吹き抜ける風がルカの髪を揺らす。

 まっすぐにヴァルトを見つめるルカの瞳には、薄っすらと張った涙の膜が揺れていた。

 彼がこれまで、どういう環境で生きてきたのか、ヴァルトは知らない。

 ヴァルトは熾火になった火の傍から立ち上がり、ルカの傍に近づいた。ルカの眉尻がフッと下がり、無理に作ったような笑顔が浮かぶ。

 掌を差し出すと、一瞬身体が震えるのが分かる。


(そんなに、怯えるな)


 願いを込めて、ルカの髪に触れかける。けれども触れられずに手を止めた。

 ヴァルトはそのままルカの前で膝をついて、目線を合わせる。


「ルカ」


 呼びかけて、揺れるブルーを覗き込んだ。


「俺とお前は、対等だ」


 そう言い切った声が、思ったよりも強く響く。

 ルカの瞳が大きく見開いて、星のような光が揺れた。


「ヴァルト」


 呼び返すルカの声は底抜けに澄んでいて、胸が軋む。


「それ、今まで生きてきた中で、いちばんうれしいかも」

「……すぐ他のことで上書きされそうだな」

「そんなんじゃないってば! もう」


 目を見て応えられないことを歯がゆく思いながら、立ち上がる。

 腰にしがみついてくる痩せた小さな身体。鼻先を埋められたTシャツの生地が、じんわりと熱い。

 ヴァルトはルカの背中に手を置いて、工房に向かって歩き出す。

 少しの沈黙のあと、ヴァルトは目線を行く先に向けたままで言った。


「……弦に、お前の歌を聞かせてみるか」

「うん! やろう!」


 弾む声。霧を震わせ、やがて溶けていく笑みを含んだ吐息。

 掌に触れる温もりから、思わず意識を逸らした。

 作業を始めてしまったら、もう戻れない。

 一瞬だけの優しいひと時を、ヴァルトは記憶の隅へと追いやった。



 その夜、先に床に就いていたルカは、人の気配で目を覚ます。

 薄闇をぼんやりと照らす明かり。ひとつきりの天井の明かりには削った木皮で作ったカバーがつけられていた。

 制限された明かりの下に、ヴァルトがいる。

 手元には、朝からいろいろと種類を変えて試したヴォクス・カーヴァの弦が並んでいた。

 ヴァルトはそのひとつひとつを手に取り、目を細めて眺める。

 宙に浮かせて揺らすと、生きた糸は微かに音をたて、連なる音は音楽になった。


(あ……)


 ルカは、喉から漏れかけた声を、両手で口を塞いで堪える。

 心臓が鼓動を立てるが、さすがに内臓の音まで聞かれることはないだろう。

 ルカは音を立てないように慎重に唾を呑み込んで、再び目を上げた。

 見間違いではない。ヴァルトの瞳には確かに、生きた色が揺れていた。

 ルカが、ヴァルトの瞳を見上げるたびいつも探している色。ルカが歌う時にも、その色ははっきりと揺れている。

 ルカは薄い毛布を頭まで引き上げて、木屑を詰めた布団の上で身体を丸めた。


(ヴァルトはきっと、音楽が無いと生きられない人だ)


 分かっていても目を逸らしたままの街の人たちとは違う。殺しきれずに抱えていたものが、目を覚まそうとしている。


(ぼくの……歌のせい)


 鼓動は、鳴りやまない。握った指先は何度擦っても、冷えたままだった。

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