第3話・歌う弦
夜に、家の明かりを灯すのは、いつ以来だろう。
いつもは酒場で酔いつぶれ、帰宅するのは夜が明けてからというのがほとんどだったから。そうでない日は、明かりが必要になる前に寝てしまっている。
明かりと言っても、天井に吊るした裸電球がひとつきり。
家も、小屋というほうがしっくりくるくらい、簡素すぎる造りだった。
持ち主が消えたまま放置されていたガレージを、寝られるようにしただけの場所だ。
もっともこの場所の機能は、棲み処というよりも――
「何ここ……工房? ヴァルト、職人なの?」
「……まあな」
正確には「元職人」だったが、ルカに言ったところで違いを説明するのも面倒なので、ヴァルトはそっと口を噤む。
床を踏むたびに、細かい木屑がフワリと舞う。床に積もった埃と混じって悪臭が鼻を突いた。背後でルカが細い身体を折って盛大に咽込んでいる。
「掃除くらいしなよ……もう」
頬を膨らませて文句を言いながら、ルカは家中の窓を開けて回る。湿った夜風が吹き込んで、埃臭さは少しだけ緩和された。
ヴァルトは室内を興味深そうに見回すルカを視界の端に入れながら、自身は奥へと進む。
作業台の上に散らばった道具を手に取り、具合を確かめる。錆びついていないか、刃こぼれはないか。
「……あっ」
不意にルカが声を上げた。ヴァルトは肩越しに彼を振り返る。
ルカは、壁際に追いやるように積み重ねた屑山の傍に座り込んでいる。
細く小さな指が、形を探る。大きさもそれぞれ違う、薄さも、加工も。しかしそのどれもがニス塗りまで至らず、途中で放棄された残骸ばかり。
ヴァルトの喉が震えて、ゴクリと息を呑む音を立てた。
ルカは屑山から折れた翼のような形の残骸を拾い上げ、電球の明かりに照らしてポツリと呟く。
「……楽器?」
「ヴォクス・カーヴァ」
ルカの声に被せるように、久しぶりにその名を口にした。周囲で浮いていた木くずと埃の粒子が、パッと弾かれ方々に散る。
ルカは削りだされた木材の輪郭を撫でて、そっと唇を動かした。
「声を・削る……」
意味を理解している響き。息を詰めて表情を観察するも、感情は読めない。
ただ、室内全体を照らしきらないわずかな明かりが、彼を好むようにブルーの瞳に光を灯している。
不意にルカが振り返った。瞳に灯る光は、まだそこに留まっている。
「ヴァルトが作るの?」
「……ああ、そうだ」
「へぇ……」
静かに相槌をこぼして、ルカは再び木材に目を戻した。食い入るように、熱心に。光はずっと、ルカの瞳の中にある。
ヴァルトはひとつ息を吐いて、さらに奥へと足を向けた。
木材置き場の片隅。そこにひっそりと置かれたスチールラックの錆びた扉を開く。
一瞬、影になった内側で弾ける虹色の光。ヴァルトは息を止めて、ラックの奥へと手を伸ばした。
空気に触れた瞬間。細い弦が震えて音を鳴らした。
柔らかく響く一音の旋律に、ヴァルトは詰めていた息をホゥと解く。
「それが、ヴォクス・カーヴァ?」
ルカは立ち上がり、背伸びをして聞いてきた。ヴァルトは自身の手元に視線を落とし、顎を引いて頷く。
「俺が作った……完成はしてないがな」
「でも、鳴るでしょ?」
ルカの瞳のブルーが、疑いを含まない色で見つめた。
――ああ、彼には聞こえたのだ。
弦が空気に触れて鳴らした、たったの一音を。
ヴァルトはこぼれかけた嗚咽の欠片を、喉奥へそっと押し戻す。
わずかに目を伏せたまま、震えないよう慎重に声を出した。
「……触ってみるか?」
「うん」
躊躇いを挟むことなく頷くルカ。ヴァルトは作業台の間を抜けてルカの傍に戻る。
ヴァルトは作業台の縁に腰を預け、手にした楽器をルカとの間にぶら下げた。
ルカの指がそっと、透明な弦に触れた。皮膚が薄く、柔らかな指先で。
透明な弦はルカの指を気に入ったように、彼の指に添うようだった。ルカはそっと息を詰めて、柔らかく弦を弾く。
弦が鳴り、空気を揺らす。澄んだ水面にひとしずくだけ垂らした水滴のように、凛として広がり、深く沈む音。
ルカが漏らした吐息が、音の余韻をわずかに揺らした。
「……不思議な音だね」
「ああ」
「でも、すごく綺麗だ」
ルカの瞳が熱っぽく細められる。ヴァルトは彼の伏せられた睫毛をじっと見つめて小さく息を吐く。
音を、綺麗と呼ぶ感性。それを共有するのはいつぶりのことだろう。
「この楽器は、歌なんだ」
「……どういうこと?」
「ヴォクス・カーヴァの弦は歌声を閉じ込める」
ルカの瞳がヴァルトを見上げる。ヴァルトはその視線を受け止めて、唇を結んだ。
「僕の歌も、閉じ込めるの?」
ルカの声は怯えてはいない。ただ純粋な疑問を口にしただけという響き。ヴァルトはわずかに視線を逸らしてから、口を開く。
「ものの例えだ。だが、真に優れたヴォクス・カーヴァは、人の歌声を写しとる」
「……へえ」
視線をそらした先。木屑で覆われたコンクリートの灰色を見つめて、ヴァルトは遠い過去を思い出していた。
まだ、ルカが鳴らした音の余韻が耳底に残ったままでいる。その音が、記憶の中の女性の姿と重なり、胸を締め付ける。
「ヴァルトはこれを、完成させたいの?」
思考の隙間に入り込んでくるルカの声。ヴァルトは静かに首を振る。
「これはもう、いいんだ。これ以上はもう、なにもできない」
「ふぅん?」
ヴァルトはヴォクス・カーヴァを揺らして、作業台の上にそっと置いた。
「弦を張る間、この弦に誰かの歌を聴かせてなきゃならない。そうしないと安定しない、厄介な弦でな」
「……そうなんだ」
「しかも、弦には好みがある。俺よりよほど頑固でな。こいつが気に入る歌声でなきゃならないし、一度張った弦は、その歌でなきゃ機嫌を損ねる」
「すっごいワガママだね」
言いながら、ルカは愉快そうに笑った。呼応して微かに震える弦。その揺れ方はルカの声に興味を示す風でありながら、しばらくしてそっぽを向く。ヴァルトはそっと苦笑する。
「ぼくの声も、気に入ってくれる弦がどこかにあるかなあ」
「ある」
ヴァルトは思わず答えていた。ルカの瞳が丸く見開き、三日月型に細められた。
「会ってみたい」
この時、ルカがどんな想いでそう言ったのか、ヴァルトには知れない。
けれども、それでいいと、どこかで思ってしまった。
「歌ってあげる。だから、絶対完成させてよ。ヴァルトのヴォクス・カーヴァ」
「……ああ」
声が、鼓膜を震わせる。ヴァルトの鼓膜が弦ならば、すぐに取り出して張り始めたいところだった。
そんな幻想を苦笑で誤魔化して。
無邪気に差し出された小指に、そっと、小指を絡めて握った。




